笑福亭仁鶴 (3代目)

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3代目 笑福亭 仁鶴

五枚笹は、笑福亭一門の定紋である。
本名 岡本 武士
ニックネーム にかっさん
仁鶴兄さん
仁鶴師匠
生年月日 (1937-01-28) 1937年1月28日(87歳)
出身地 日本の旗 日本 大阪府大阪市生野区
血液型 O型
身長 165cm
言語 日本語
方言 大阪弁
最終学歴 大阪市立生野工業高等学校
師匠 6代目笑福亭松鶴
出身 素人演芸番組
芸風 上方落語
事務所 よしもとクリエイティブ・エージェンシー
活動時期 1962年 -
現在の代表番組 バラエティー生活笑百科
大阪ほんわかテレビ
過去の代表番組 ヤングおー!おー!
こんばんは仁鶴です ほか
他の活動 俳優
司会者
配偶者 永隆子
弟子 弟子の項目参照。
受賞歴
受賞歴の項目参照。
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3代目笑福亭 仁鶴(しょうふくてい にかく、1937年昭和12年〉1月28日 - )は、大阪府大阪市生野区出身[1]落語家である。

本名、岡本 武士(おかもと たけし)。血液型はO型。所属事務所よしもとクリエイティブ・エージェンシー吉本興業)。上方落語協会会員、吉本興業特別顧問、身長165cm、体重58kg大阪府豊中市在住。

出囃子は「猩々くずし」または「だんじり」。妻は吉本新喜劇に在籍した永隆子。当たりギャグは「どんなんかな〜」。

来歴

大阪市立生野工業高等学校時代に友人らと訪れた古道具屋のワゴンセールで、浪曲安来節SPレコードに混じって売られていた初代桂春団治のSPレコードを購入。自宅にあった父の蓄音器で落語を聴いたのがきっかけで、前田達(のちの2代目桂枝雀)ら演芸好きの仲間と天狗連を結成する。

朝日放送ABCラジオ)の素人参加番組に出演して才能が認められ、前田が3代目桂米朝に弟子入りした翌年の1961年3月中旬、素人参加番組の審査員だった6代目笑福亭松鶴に入門を懇願、4月1日に正式に弟子入りした(笑福亭鶴光笑福亭鶴瓶などは弟弟子、明石家さんまは従弟弟子にあたる)。

その後、新世界新花月で初舞台の予定だった周囲から「笑福亭花丸と組んで(ステレオ落語のようなことを)やれ」と言われるも、師匠の松鶴が反対。そこに3代目林家染丸の勧めで吉本興業入りし(詳細は後述)、京都花月で初舞台を踏む。初舞台のネタは「くしゃみ講釈」であった[2]1967年4月、吉本新喜劇女優永隆子と結婚する。

1960年代から1970年代にかけては、月亭可朝桂三枝(現:6代桂文枝)と共に、吉本興業の顔としてテレビ、ラジオ、映画、レコードに多数出演したほか、花月劇場チェーンへの出演と大活躍し、『ヤングおー!おー!』(MBSテレビ)を通じて全国区のタレントとなった。1972年には『NHK紅白歌合戦』にも応援ゲストとして出演している。1973年に放映された「ボンカレー」(大塚食品)のCM時代劇子連れ狼』のパロディとして拝一刀に扮したことでも一世を風靡した。

人物

生家は、生野区で鉄工所を経営していた。

「仁鶴」という芸名は、師匠の6代目笑福亭松鶴が車で角を2回曲がった際、「2つの角→二角→仁鶴」から思い付いたものとされる。売り出した当時は、初代桂春團治ばりのあくの強いスピーディーな語り口であったが、1970年代後半に喉を痛めてからは芸風を変更し、的確な描写力を持ってじっくりと聴かせる正統派の落語家となった。

吉本興業の三巨頭と称される桂三枝(現:6代桂文枝)西川きよしとともに、吉本のみならず上方落語界の重鎮として、独演会や一門会などの落語会で活躍する一方、吉本の本拠地・なんばグランド花月(NGK)にも月1回のペースで出演している。また、「四角い仁鶴がまぁーるくおさめまっせぇ」のフレーズで有名な法律バラエティ番組の元祖『バラエティー生活笑百科』(NHK大阪)や、『大阪ほんわかテレビ』(ytv)などのレギュラー番組を受け持ち、文枝・きよしらと並んで吉本興業、さらには上方お笑い界の大御所とされている。

持ちネタ

代表的な持ちネタには、「壺算」「不動坊」「崇徳院」「くしゃみ講釈」「池田の猪買い」「延陽伯」「黄金の大黒」「道具屋」「青菜」「万国島巡り」「七度狐」「夏の医者」「次の御用日」「貧乏花見」「牛の丸薬」「へっつい盗人」「兵庫船」「口入屋」「向こう付け」などがある。他に「三人旅」「辛子医者」「人形買い」「百年目」などを演じることもある。

ただし「くしゃみ講釈」に関しては初高座でウケず失敗するという苦いエピソードがある。また、1971年11月11日公演の朝日放送1080分落語会』で「くしゃみ講釈」を演じた際は、サゲへの伏線(「くしゃみ講釈」の頁を参照)であるにもかかわらず「胡椒を買うてきた」と間違って言ってしまったため、買ってきた胡椒を返しに行き改めて唐辛子をもらってくるという不可解な展開を語ってしまった。

仁鶴と吉本

師匠である6代目松鶴やその弟子の大部分が松竹芸能に所属しているのに対し、仁鶴はデビュー当初から吉本興業に所属している。これは、3代目林家染丸が「吉本でやってみぃひんか」と仁鶴を誘い、6代目松鶴も賛成したためである。仁鶴に吉本を薦めた理由は、染丸、松鶴共に「吉本向きだから」だったという[3]

そのため、吉本興業所属のタレントとして仁鶴は活躍することとなり、戦後の吉本に対する功績から「今日の吉本の基は仁鶴が作った」「吉本中興の祖[4]」とまで評された。吉本の総帥と呼ばれた林正之助でさえ、仁鶴には頭が上がらなかったという(初代桂春團治などの大物芸人ですら呼び捨てにしていた正之助が、仁鶴だけは「さん」付けで呼んでいたと後輩の前田五郎は著書に記している)。正之助は生前、「仁鶴の面倒は一生吉本で見るようにせい」と言い残している。

2005年2月1日には吉本興業特別顧問に就任。タレント活動を続けながらご意見番を担うことになった。これは仁鶴の常日頃の人柄、吉本興業に対する過去からの貢献によるものである。

エピソード

  • 尊敬する人物として、映画やドラマで何度か共演した森繁久彌の名を度々挙げており、自宅には森繁から直接貰った書が飾られている。ちなみに仁鶴が売れっ子だった頃の吉本の社長八田竹男は森繁とは旧制北野中学校時代からの同級生。
  • 仁鶴が人気者になった頃、めくりが変えるだけで笑いと拍手が起こり、登場すると同時に歓声が沸き落語を始めるのに10分近くかかった。そのため、当時漫談滝あきらからは「笑いの爆弾男」とのあだ名を付けられる。
  • 1994年1月3日には、豊中市にある自宅が半焼した。その際、長年かけて収集してきた落語関連の資料も被災している。
  • 上方落語界の重鎮でありながらもあまり独演会を開催していなかったが、2009年11月3日には5度目の独演会をなんばグランド花月で開催している。
  • 若手時代にラジオの深夜番組でパーソナリティを任された際は、通常の静かな語り口ではなく、冒頭から「ごきげんよう! ごきげんよう!」とがなり立てた。
  • 人気者となってからは「視聴率を5%上げる男」との異名を取り、当時のテレビ関係者は仁鶴をキャスティングするため奔走したという。
  • 通常、ネタは師匠(または先輩)から弟子に伝えられるものであるが、「黄金の大黒」は仁鶴から師匠松鶴へ伝わっている[5]
  • バリトンボイスの正調大阪弁」が持ち味となっている。テンションは年齢とともに落ち着いたものになってきているが、特徴的な口調は、シンデレラエキスプレス松井成行やモンスターエンジン大林健二など、多くの後輩芸人にものまねされている。

出演作品

バラエティ番組

現在

過去

テレビドラマ

映画

劇場アニメ

ラジオ番組

※20年続いた長寿番組として2006年3月に一旦放送を終了したが、2014年4月に再開された。

イメージポスター

CM

受賞歴

レコード・CD・DVD

シングルレコード

  • どんなんかなァ/おばちゃんのブルース(1969年12月)
  • 大発見やァ!/仔犬のラメント(1970年3月)
  • 大阪は第二の故郷/へちゃむくれ讃歌(1970年11月)
  • 男・赤壁周庵先生/夜店のオペレッタ(1971年11月)
  • 花の定期便/どうせ人生まっ裸(1972年4月)
  • 仁鶴の娘江州音頭/仁鶴の河内アホダラ音頭(1973年7月)

LPレコード

  • 仁鶴古典独演会(1979年、LPレコード)
  • 続・仁鶴古典独演会(LPレコード)

CD

書籍

弟子

いずれも吉本興業所属。兄弟弟子、孫弟子などについては「松鶴一門」のページを参照のこと。

廃業した元弟子
  • 笑福亭仁燕
  • 笑福亭仁雀(1972年7月入門、1988年廃業)
  • 笑福亭仁碌
  • 笑福亭仁助

笑福亭仁鶴を演じた俳優

参考文献

脚注

  1. ^ 後に同府交野市へ転居した。
  2. ^ ただし、京都花月での「くしゃみ講釈」は吉本における初舞台で演じたもの。正式な初舞台は、1962年4月の高島屋で行われた若手の落語会である
  3. ^ 笑福亭仁鶴著 『仁鶴湯』(主婦と生活社)
  4. ^ 漫才作家足立克己の証言。
  5. ^ 弟弟子の笑福亭鶴瓶との対談で仁鶴本人が証言した。

関連項目

外部リンク