白木屋 (デパート)

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歌川広重「名所江戸百景」に描かれた幕末期の白木屋

白木屋(しろきや)とは東京都中央区日本橋一丁目に存在した、かつて日本を代表した百貨店の一つである。法人自体は現在の株式会社東急百貨店として存続しており、1967年(昭和42年)に商号・店名ともに「東急百貨店日本橋店」へと改称した。その後、売れ行き不振のため1999年(平成11年)1月31日に閉店し、白木屋以来336年の永い歴史に幕を閉じた。跡地にはコレド日本橋が建設されている。

概要

大村彦太郎によって創業された白木屋は、京都の小間物・呉服問屋として名が知られていた。1662年寛文2年)に江戸の日本橋通三丁目に江戸支店として進出、以降「京都の白木屋呉服店」というブランドイメージをうまく使って、町人から大名大奥までをも顧客とし、越後屋(現:三越)、大丸屋(現:大丸)とならび、江戸三大呉服店の一つであった。

店内にあった白木観音や白木名水、日本橋店舗の一角にてソニーが創業したことなどでも知られる。

百貨店としての白木屋の商標はもはや国内では見ることができないが、ハワイ・ホノルルにあるショッピングセンターアラモアナセンター」では、現地法人によって今も Shirokiya が営業を続けており(#沿革を参照)、広重の絵にも描かれた、手斧を斜めに交差させた図案のロゴシンボルも、いまだ健在である。

沿革

  • 1662年寛文2年)8月 - 近江長浜の材木商大村彦太郎が日本橋通二丁目に間口一間半の小間物店「白木屋」を創業。
  • 1665年(寛文5年) - 伴伝兵衛の店を借りて日本橋通一丁目に移転。次第に呉服へと手をひろげ、「越後屋(現:三越)、大丸屋(現:大丸)」とならび、江戸三大呉服店の一つになる。
  • 1866年慶応2年) - 大火で全焼。その後約10年間仮普請のバラック建築で営業。
  • 1878年(明治11年) - 白木屋本館新装開店。
  • 1886年(明治19年)
    • 洋服部を創設し、「白木屋仕込み」として当時流行の最先端を行っていた。
    • 洋服部が東コート(婦人用の和服コート)を創案・販売。
  • 1903年(明治36年)
    • 地上3階建ての新館落成。日本最初の和洋折衷建築のデパートとなる。
    • 座売りを廃し陳列式とし、ショウウィンドウ、女子店員を採用。
    • 日本国内の百貨店では初の「食堂」の設置。ただし、近隣のすし屋、しるこ屋、そば屋が出店、子ども遊戯室での営業。
  • 1904年(明治37年) - 独立した「食堂」としての営業開始。
  • 1905年(明治38年)1月6日 - 日本初の百貨店の「福引き」を開催。
  • 1911年(明治44年)
    • 10月1日 - 一部を5階建てに増築、日本国内の百貨店では初の「客用エレベーター」および「回転ドア」を設置。
    • 本居長世を中心とする、日本初の少女歌劇「白木屋少女音楽隊」を創設。
  • 1917年(大正6年)8月18日 - 営業組織を呉服と雑貨に分ける。
  • 1919年(大正8年)
  • 1920年(大正9年)11月1日 - 阪神急行電鉄(現:阪急電鉄梅田駅構内の旧:阪急ビルディング(5階建)の1階に出張売店として出店。本邦初のターミナルデパートとなる。以降、天満橋駅にも順次出店。
  • 1921年(大正10年)10月1日 - 大阪堺筋に地上9階建ての大阪店が完成。
  • 1923年(大正12年)
    • 5月15日 - 神戸初の百貨店として、新開地に神戸店開店、床をタイル張りにし日本国内の百貨店で初めて土足入店を認める。
    • 9月1日 - 関東大震災により日本橋本店は全壊。以降しばらく仮普請のバラック建築にて営業。
  • 1925年(大正14年)8月 - 大阪店が日本初のネオンサインを点灯。
  • 1928年(昭和3年)
  • 1929年(昭和4年) - 阪神急行電鉄との契約満了に伴い梅田出張売店を閉店。(後に改築され阪神急行電鉄直営の阪急百貨店となる)
  • 1931年(昭和6年) - 日本橋本店(西館)に隣接して東館が完成し全館(地上8階地下2階)開店。
  • 1932年(昭和7年)
  • 1933年(昭和8年)
    • 6月 - 京浜電気鉄道と共同で、京浜百貨店を設立。「京浜デパート」の名で品川駅、鶴見駅等に出店。
    • 6月9日 - 日本橋本店が改装開店。
  • 1935年(昭和10年)11月3日 - 京濱デパート池袋分店として、菊屋デパートの名で池袋駅東口(現・西武百貨店本店)に出店。以降、高田馬場等に順次出店。
  • 1940年(昭和15年)3月14日 - 菊屋デパート池袋店を武蔵野鉄道(現西武鉄道)に売却。
  • 1945年(昭和20年) - 京阪デパートの経営から撤退。
  • 1946年(昭和21年) - 子会社として白木金属工業(現:シロキ工業)を設立。
  • 1948年(昭和23年) - 京浜百貨店への出資分を京浜急行電鉄に譲渡。
  • 1949年(昭和24年) - 東京証券取引所に上場。
  • 1956年(昭和31年) - 東京急行電鉄の傘下に入り、五反田店、大森店、高円寺店の小型店舗は白木興業として分社される。
  • 1957年(昭和32年)
    • 日本橋本店の大規模な改装を実施。
    • 4月 - 東横興業(現:東急ストア)が白木興業を合併。
  • 1958年(昭和33年)8月1日 - 東急傍系の株式会社東横百貨店を合併。社名を「株式会社東横」へ変更。店名は従来通り日本橋店を「白木屋」、渋谷店・池袋店を「東横百貨店」とした。
  • 1959年(昭和34年)
  • 1964年(昭和39年)12月15日 - 白木金属工業が東京急行電鉄の傘下に入る。
  • 1967年(昭和42年)9月 - 東急百貨店に商号・店名ともに改称し、白木屋は「東急百貨店日本橋店」となる。
  • 1973年(昭和48年) - ハワイ州マウイ島のショッピングセンター「カアフマヌ・センター」内にマウイ店開店(シロキヤ・インコーポレイテッド)。
  • 1981年(昭和56年) - ハワイ州ホノルル市のショッピングセンター「パールリッジセンター」内にパールリッジ店開店(シロキヤ・インコーポレイテッド)。
  • 1999年(平成11年)1月31日 - 「東急百貨店日本橋店」閉店。同地における店舗は、白木屋以来336年の歴史に幕を閉じた。
  • 2001年(平成13年) - 大幅な赤字に苦しむ東急百貨店は、海外事業からの完全撤退を決定。3月にマウイ店、5月にはパールリッジ店を閉店したが、3万人の嘆願書を受け、アラモアナ店の閉店計画を中止し、3月30日に同店およびその経営権を現地経営陣(シロキヤ・ホールディング・LLC)に売却した。売価は1ドルであった[3]

※ 京阪デパートの店舗は京阪電気鉄道新京阪線(現在の阪急千里線天神橋駅にもあった。 東京では、池上電気鉄道(現在の東急池上線五反田駅、城東電気軌道(のちの東京都電路線)錦糸町駅等に出店。

白木観音・白木名水

初代彦太郎が開いた時代は、江戸が大きな都市として膨らみ、水の悩みは絶えなかったらしく、それから50年後の正徳元年(1711年)に、二代目安全は日本橋一帯の良水の乏しさを救うため、白木屋の店内に井戸を掘ることを思いついた。しかしこれはなかなかの難工事で、途中で挫折しそうであったが、ある日、井戸掘りの鍬の先に何か手応えがあって、一体の観音様が出現し、これを機に良水がこんこんと湧き出してきたと伝えられていた。 そこで白木屋は店内に祠を建て、観音様をまつったところ、人々の参詣はひきもきらず四万六千日ご開帳当日の賑わいは「東都歳時記」にも出てくるくらいの江戸名物となった。 この霊水は良水の不足に悩む付近の人々を潤したばかりでなく、この水のおかげで、長年の病気が癒えたという人も出たと伝えられてきた。

閉店に当たり観音様は、浅草の浅草寺 淡島堂(せんそうじ あわしまどう)に遷座することとなり、白木名水は湧き出してから数百年の時を経て白木屋と共に建物の取り壊しで消失した。 江戸城下の歴史を理解する上で重要な遺跡として東京都指定旧跡に指定されており、日本橋一丁目交差点角にあった「名水白木屋の井戸」の石碑を2004年(平成16年)にCOREDO日本橋アネックス広場内に移設再現されている。

白木屋大火

白木屋大火

日本の都市災害史に残る大火災の一つ。1932年(昭和7年)12月16日午前9時15分頃、4階の玩具売り場で火災が発生。地下2階、地上8階の建物の4階から8階までを全焼して午後12時過ぎに鎮火した。この火災で逃げ遅れた客や店員ら14人が死亡し500人余りが重軽傷を負うなどして、日本初の高層建築物火災となった。

当時、白木屋は歳末大売出しとクリスマスセールが重なり、店内は華やかな飾りつけがなされていた。開店前の点検でクリスマスツリー豆電球の故障を発見し、開店直後に男性社員が修理しようとした時、誤って電線がソケットに触れたためスパークによる火花が飛び散り、クリスマスツリーに着火。火は山積にされたセルロイド人形やおもちゃに燃え移り瞬く間に猛烈な火炎をあげた。この社員は消火活動をしているうちに煙に巻き込まれて死亡した。4階にいた客や店員は驚いて避難を開始したが、火の勢いは益々大きくなり、エレベーターや階段が煙突の役割をして4階から最上階の8階までが猛煙に包まれた。警視庁消防部(当時)は通報を受けてポンプ車29台、ハシゴ車3台などを出動させて消火活動にあたったが、ハシゴ車は4階までしか届かず、ポンプも送水圧力が上がらないため4階以上への放水は出来なかった。 日本橋消防署に在籍していた器械体操の経験者が、消防車積載の梯子を外壁に垂直にかけてよじ登り、ロープで固定して避難ルートを作った上で被災者を誘導したが、一部の客や店員らはパニックに陥り、売り場にある布やカーテンを結んでロープ代わりにしたり、女性店員の帯を結んで脱出を試み、途中で切れて転落死した。 また、消防部が地上で張った救助ネットをめがけて7階から飛び降りて助かった客や店員が80人前後いたが、目測を誤って地面に激突して死亡した人もいた。

白木屋店長は、客や従業員を誘導して屋上に避難し(階下に降りられなかったため)、客の生命を守った。

白木屋大火と女性下着

この火災に関しては、長らく以下の内容の話が言い伝えられてきた。

ロープを伝って脱出している真下には大勢の野次馬がいた。当時の女性は和服で長襦袢のためにズロース(パンツ)は穿いていない。一般的に女性がズロースを着けるようになったのは終戦後のことであり、当時は和装の女性が下着を着用することはなかった。命が掛かっていても、女性の恥じらいを重んじた女性店員達はロープから手を離してまでも裾を押さえた。この火災の報道は写真も含めて世界中に配信され、特に欧米諸国では女性の恥じらいを重んじて死んでいった女性店員への同情と涙を誘った。その後、白木屋は女性店員にはズロースを穿くことを義務付け、翌年には和服から洋装を奨励した

しかし、この「白木屋火災が女性の洋風下着が普及するきっかけとなった」とする説に対して、井上章一は朝日新聞社より出版した『パンツが見える。――羞恥心の現代史』で考察を加え、事実無根であるとして強い疑問を唱えている。「記録によると、1人を除いて犠牲者は全て飛び降りや帯・避雷針などで降りようとして失敗したことによる転落死だったことに加え、多くの従業員が消防士の救助で助かっている」「羞恥心のありようが現在とは異なっており、現代視点・西洋風視点から解釈を加えるのは誤りにつながる」などと指摘している。しかしながら、井上の著作発表以後もその指摘を踏まえないままに「白木屋火災が女性の洋風下着が普及するきっかけとなった」という説が、テレビ番組などで「事実」として放送されることは少なくない。

『関係者以外立ち読み禁止』(鹿島茂)の『白木屋ズロース伝説について』というエッセイにはこの話が信じられるようになった経緯が書かれている。これによると、都新聞の捏造記事によって広まった都市伝説であるとのこと。

また、この問題に対しては東京消防庁の消防雑学辞典でも触れられているが、こちらでは「日常生活での女性の下着着用の必要性等が、叫ばれることともなりました。それは、上層階から綱にすがって脱出しようとしていた女性の何人かが、裾がめくれるのを押さえようとして綱から片手を離したため、体重を支えきれなくなって墜落死したことが契機となって、それまで日本の婦人が着けていなかった下ばきを、着用するようになったからです」「これ以前にも、関東大地震のときに、池や川にうちあげられたおびただしい女性の死体の姿などから、女性の下ばきの必要性が叫ばれましたが、実現しませんでした。それが白木屋の火災を教訓として、東京朝日新聞が1933年(昭和8年)5月7日の社説で「日本婦人はズロースなく門戸開放にすぎる」と論断したことなどもあって、洋装化がすすんできたのです。」との言及があり[4]、東京朝日新聞が白木屋火災に触れた社説において「ズロース」という言葉を用いて、当時の和装婦人は腰巻は着用していても下ばき(下着)を着けない(腰巻は下ばきの代わりにならない)という慣習を問題視したことが、当時の風潮とも相まってズロースの着用を含む婦人の洋装化の大きな一因となったというのが真相のようである[5]

白木屋乗っ取り騒動

日本の経営史上に残る経営紛争の一つ。

1949年(昭和24年)、日本橋交差点の好立地にありながら業績が伸び悩んでいた白木屋に対し、当時繊維関係の商社を経営していた横井英樹が株の買い増しを開始。経営権の獲得を目指し買い占めを行っていたが、1953年(昭和28年)に日活社長の堀久作の持株と合わせると同社の過半数の株式を掌握することが判明したため、両者は共謀。白木屋に対し両者の役員就任等を迫った。間もなく堀は白木屋株を山一証券へ売却してこの一件から手を引いたが、1954年(昭和29年)遂に白木屋経営陣と横井は全面対決をすることとなり、両者がそれぞれ株主総会を実施して役員を選出するといった異常事態になった。

当時横井を金融面で支援していたのは堀とも繋がりを持つ千葉銀行であったが、1955年(昭和30年)千葉銀行は横井が金策で行き詰まってきたため、東急グループ総帥の五島慶太に支援を要請。五島は熟考の末事態の収拾に当たることとし、横井および元々堀が保有していた株式を買収して経営権を掌握。結局横井は白木屋から手を引き、東急が業績不振の白木屋を再建する目的で買収する形を取ることとなり、乗っ取り騒動は一件落着した。

横井はこの一件で当時「希代の仕手屋」(グリーンメーラー)としてその名を轟かせることとなる。

閉店セール

閉店直前の東急百貨店日本橋店(1999年1月28日)

1999年(平成11年)1月31日、白木屋以来336年の歴史を誇ってきた東急百貨店日本橋店が売れ行き不振で閉店。 正月2日から始まった閉店セールは新聞・テレビなどで大きく報道されたこともあり初日から押すな押すなの大盛況。店として過去最高で前年の5倍以上の10万7000人が訪れ7億円強を売り上げた。社会現象とも言われ、店じまいした1月末(1月31日)までの来店客は204万人。年商の約半分の165億円を売り上げるほどの大盛況に終わった。

大正時代に開催した角力(すもう)展覧会がきっかけで、相撲界との密接な関係が生まれ、「白木屋という店名が白星につながる」ということで、大相撲の力士の化粧回しの注文を一手に引き受けてきた。営業最終日の閉店セレモニーでは大相撲、第27代木村庄之助が特設舞台で「本日をもって千秋楽でございます」と結びの触れを行い、旭鷲山昇らの三本締めで336年の歴史を閉じた。

関連項目

脚注

  1. ^ 現在の京阪百貨店京阪ザ・ストアとはいずれも関係がない。店舗はのち阪急百貨店天満橋店になり、閉店。
  2. ^ アラモアナ・センター 『リゾートR01 ワイキキ&オアフ島』 ダイヤモンド・ビッグ社 2010年12月発行改訂第11版 p50
  3. ^ 英語版より
  4. ^ デパート火災余話
  5. ^ 怪しい話-「デパート伝説」

文献

  • 油井宏子『江戸奉公人の心得帖 呉服商白木屋の日常』(新潮新書)、新潮社、2007年12月、ISBN 4106102420
  • 白木屋(編)『白木屋の大火』白木屋、1933年、[1]

参照

外部リンク