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敏達天皇

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敏達天皇

時代 飛鳥時代
先代 欽明天皇
次代 用明天皇

誕生 538年?
崩御 585年9月14日
陵所 河内磯長中尾陵
別称 渟中倉太珠敷尊
他田天皇
父親 欽明天皇
母親 皇后石姫皇女
皇后 広姫
額田部皇女
夫人 老女子
菟名子
子女 押坂彦人大兄皇子
竹田皇子
糠手姫皇女 ほか
皇居 百済大井宮
訳語田幸玉宮
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敏達天皇(びだつてんのう、宣化天皇3年(538年)? - 敏達天皇14年8月15日585年9月14日)は、第30代天皇。

在位期間は、敏達天皇元年4月3日572年4月30日)から同14年8月15日(585年9月14日)まで。和風諡号渟中倉太珠敷尊(ぬなくらのふとたましきのみこと[1]。『古事記』では沼名倉太珠敷命)。別名、他田天皇

系譜

天皇系図 26~37代

欽明天皇の第二皇子。母親は宣化天皇皇女皇后石姫皇女

  • 皇后(前):広姫(ひろひめ、息長真手王の女) 敏達4年(575年)薨去
    • 押坂彦人大兄皇子(おしさかのひこひとのおおえのみこ、麻呂子皇子)
    • 逆登皇女(さかのぼりのひめみこ、坂騰王)
    • 菟道皇女(うじのひめみこ、宇遅王) 伊勢斎宮
  • 皇后(後):額田部皇女(ぬかたべのひめみこ、後の推古天皇
    • 菟道貝鮹皇女(うじのかいたこのひめみこ、菟道磯津貝皇女・静貝王) 聖徳太子の妃
    • 竹田皇子(たけだのみこ)
    • 小墾田皇女(おはりたのひめみこ) 押坂彦人大兄皇子の妃
    • 鸕鶿守皇女(うもりのひめみこ、軽守皇女・宇毛理王)
    • 葛城王(かずらきのみこ、古事記のみ)
    • 尾張皇子(おわりのみこ)
    • 田眼皇女(ためのひめみこ、多米王) 舒明天皇の妃
    • 桜井弓張皇女(さくらいのゆみはりのひめみこ、桜井玄王・由波利王) 押坂彦人大兄皇子の妃・来目皇子の妃 
  • 夫人:老女子(おみなご、春日臣仲君の女)
  • 采女:菟名子(うなこ、伊勢大鹿首小熊の女)
    • 太姫皇女(ふとひめのみこ、桜井皇女・布斗比売命)
    • 糠手姫皇女(ぬかでひめのみこ、田村皇女・宝王・島皇祖母命) 押坂彦人大兄皇子の妃・舒明天皇の母

皇居

初め百済大井宮(くだらのおおいのみや、大阪府河内長野市太井・奈良県北葛城郡広陵町百済・大阪府富田林市甲田・奈良県桜井市など諸説あり)を皇居としたが、575年卜占の結果に従い、訳語田幸玉宮(おさたのさきたまのみや、現在の奈良県桜井市戒重。他田宮)へ遷った。

大臣・大連

物部守屋がそのまま大連を引き継ぎ、蘇我馬子大臣になった。

外交・経済

欽明天皇の遺言である任那復興を目して百済と協議していたが、ほとんど進展は見られなかった。同時に新羅とも通交し、任那の調を受け取っていたと記されている。また、世界最古の企業とされる金剛組が敏達天皇6年(578年)に宮大工の集団として発足したと伝わっている。

仏教政策

敏達天皇は廃仏派よりであり、廃仏派の物部守屋と中臣氏が勢いづき、それに崇仏派の蘇我馬子が対立すると言う構図になっていた。崇仏派の蘇我馬子が寺を建て、仏を祭るとちょうど疫病が発生したため、585年物部守屋天皇に働きかけ、仏教禁止令を出させ、仏像と仏殿を燃やさせた。その年の8月15日病が重くなり死去(なお、古事記では没年は584年とされている[2])。仏教を巡る争いは更に次の世代に持ち越された。

陵墓

河内磯長中尾陵(太子西山古墳、大阪府南河内郡太子町大字太子)が敏達天皇陵に比定されている。

在位年と西暦との対照表

脚注

  1. ^ 日本書紀』による
  2. ^
    御子、沼名倉太珠敷ぬなくらふとたましき命、他田をさだ宮に坐しまして、天の下治らしめすこと、十四歳とをまりよとせなりき。(この後は、六人の比売(ひめ)を娶(めと)り、二十四人の御子を儲(もう)け、この中御子の一人の御子が、つまり孫が即位したことを述べている。)(分注、甲辰の年の四月六日に崩りましき。)御陵は川内の科長しながにあり — 『古事記』敏達天皇段
    他田宮は、奈良県磯城郡。川内は、大阪府南河内郡

関連項目