尾上松緑 (2代目)
にだいめ おのえ しょうろく 二代目 尾上 松緑 | |
![]() 二代目尾上松緑(1951年撮影) | |
屋号 | 音羽屋 |
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定紋 | 四ツ輪に抱き柏 ![]() |
生年月日 | 1913年3月28日 |
没年月日 | 1989年6月25日(76歳没) |
本名 | 藤間豊 |
襲名歴 | 1. 松本豊 2. 二代目尾上松緑 |
別名 | 四代目藤間勘右衛門→藤間勘斎(舞踊) |
出身地 | 東京 |
父 | 七代目松本幸四郎 |
兄弟 | 十一代目市川團十郎 八代目松本幸四郎(白鸚) 青木晃子(四代目中村雀右衛門夫人) |
妻 | 藤間愛子 |
子 | 初代尾上辰之助 藤間勘左 |
当たり役 | |
歌舞伎: 『勧進帳』の弁慶 『義経千本桜』の知盛・権太・狐忠信 『毛抜』の粂寺弾正 『魚屋宗五郎』の宗五郎 テレビ: 『花の生涯』の井伊直弼 『勝海舟』の勝小吉 『草燃える』の後白河法皇 | |
二代目 尾上松緑(にだいめ おのえ しょうろく、1913年(大正2年)3月28日 - 1989年(平成元年)6月25日)は昭和の歌舞伎役者。屋号は音羽屋。定紋は四つ輪に抱き柏。六代目尾上菊五郎の薫陶を受け、恰幅のいい体つきで時代・世話を問わず立役として活躍した。
踊りの名手としても知られ、日本舞踊藤間流の四世家元藤間勘右衛門の家元もつとめた。藤間流宗家の定紋は藤輪に花菱。
本名は藤間 豊(ふじま ゆたか)。
来歴・人物
七代目松本幸四郎の三男として東京に生れる。長兄が十一代目市川團十郎、次兄が八代目松本幸四郎。四代目中村雀右衛門は義弟にあたる。
1918年(大正7年)、帝国劇場において松本豊で初舞台。1927年(昭和2年)、父の意向により六代目菊五郎のもとへ修行に出され、以後立役としての厳しい稽古をつけられる。1935年(昭和10年)、歌舞伎座『伽羅先代萩』の荒獅子男之助ほかで二代目尾上松緑を襲名する。
1937年(昭和12年)には父から舞踊藤間流宗家を譲られ、四世家元藤間勘右衛門を襲名する。
太平洋戦争が始まると中国戦線に出征するが、終戦とともに無事復員。翌1946年(昭和21年)、長男の亨(後の初代尾上辰之助)が生まれるが、まもなく父と師の相次ぐ死に見舞われる。六代目菊五郎の死後、菊五郎劇団を率いるようになり、この頃から活発な舞台活動を見せはじめる。
1975年(昭和50年)、二世藤間勘斎を名のって勘右衛門を長男・辰之助に譲ったが、1987年(昭和62年)、その辰之助に先立たれるという悲運に見舞われる。美声だった辰之助のことを「あいつの笛は俺より上等だ」と言って悔しがったほど期待をかけていた後継者だっただけに、端で見ていても気の毒になるような落胆ぶりだった。その後自身も身体の不調をうったえるようになるが、辰之助の忘れ形見となった孫の二代目尾上左近の成長を気にかけていた。辰之助の死から2年経った1989年(平成元年)6月25日、辰之助の後を追うかのように急性肺炎のため没した。76歳だった。
東京・千代田区のホテルニューオータニの近くに自宅を構え、住所からは「紀尾井町の松緑さん」と呼ばれて親しまれた。大向うの掛け声も「音羽屋っ!」ではなく「紀尾井町っ!」とかかるのが常だった。
芸風
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/3/3e/Sh%C5%8Droku_Onoe_II_as_Sagisaka_Bannai.jpg/200px-Sh%C5%8Droku_Onoe_II_as_Sagisaka_Bannai.jpg)
立役の後継者に恵まれなかった師・六代目菊五郎の芸風の良き継承者だった。また七代目尾上梅幸、三代目市川左團次、十七代目市村羽左衛門らとともに菊五郎劇団を支えて、大正から昭和初期の歌舞伎を戦後に伝えることに大きな功績があった。
恰幅のいい体つきと、明るく豪放磊落な仁で、『勧進帳』の弁慶、『暫』の鎌倉権五郎、『毛抜』の粂寺弾正のような荒事や、『義経千本桜』のいがみの権太、『髪結新三』の新三、『御所五郎蔵』の御所五郎蔵、『加賀鳶』の梅吉・竹垣道玄、『魚屋宗五郎』の宗五郎といった世話物、そして『仮名手本忠臣蔵』の大星由良助・寺岡平右衛門、『熊谷陣屋』の熊谷直実、『義経千本桜』の平知盛・狐忠信などの時代物も得意で、幅広い役に取り組んでいる。
舞踊では同世代の中で抜きんでた名手で『土蜘』『茨木』『関の扉』『六歌色容彩』『船弁慶』など代表作は数多い。
テレビや映画の出演も多く、NHK大河ドラマでは『花の生涯』で井伊直弼、『勝海舟』で勝小吉、『草燃える』で後白河法皇を演じた。
実兄・十一代目市川團十郎が「團十郎」襲名の3年後に急死すると、市川宗家の名代としての自覚も芽生え、歌舞伎十八番の『象引』『七つ面』『解脱』『関羽』『不動』などの埋もれた古典の復活を次々に行った。また、『宿無團七』などの上方狂言に挑戦したり、東大寺二月堂お水取りに取材した新作舞踊『達陀(だったん)』の初演や、『オセロ』『シラノ・ド・ベルジュラック』などの西欧演劇で新劇俳優と共演するといった芸域の広さも見せていた。
若手の役者を育てることにも熱心であった。喜劇役者の伊東四朗が無名時代に松緑に芝居の台本を持ち込んで教えを乞おうと歌舞伎座へ押し掛けた時に、松緑自ら伊東を楽屋に通し、伊東が書いた芝居の台本を読んでアドバイスしてくれたことを語っている[1]。
各賞・栄典
受賞・受章
- 1952年(昭和27年)、毎日演劇賞劇団賞。第7回文部省芸術祭奨励賞(『若き日の信長』の平手中務で)。
- 1955年(昭和30年)、第1回テアトロン賞。
- 1964年(昭和39年)、第9回テアトロン賞。
- 1965年(昭和40年)、日本芸術院賞。
- 1967年(昭和42年)、NHK放送文化賞。
- 1984年(昭和59年)、文化功労者。
- 1987年(昭和62年)、文化勲章。
- 1989年(平成元年)、従三位勲一等瑞宝章追贈。
その他
著書
- 松緑芸話(講談社、1989年/講談社文庫、1992年) - 急逝直後に出版された回顧録。
- 役者の子は役者 (日本経済新聞出版社、1976年) - 私の履歴書がもと。
- 踊りの心(毎日新聞社、1971年)
脚註
- ^ 『我が道』 伊東四朗 スポーツニッポン 2011年8月9日付参照