太田昭宏
太田昭宏 おおた あきひろ | |
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生年月日 | 1945年10月6日(78歳) |
出生地 | 愛知県豊橋市 |
出身校 | 京都大学 |
前職 | 公明新聞記者 |
現職 | 公明党全国代表者会議議長 |
所属政党 |
(公明党→) (公明新党→) (新進党→) (新党平和→) 公明党 |
称号 | 工学修士 |
公式サイト | 太田あきひろ |
選挙区 |
(旧東京9区→) (比例東京ブロック→) 東京12区 |
当選回数 | 5回 |
在任期間 | 1993年7月19日 - 2009年7月21日 |
在任期間 | 2006年9月30日 - 2009年8月30日 |
太田 昭宏(おおた あきひろ、1945年10月6日 ‐ )は、日本の政治家。公明党所属の前衆議院議員(通算5期)。前公明党中央幹事会代表(第2代)。
経歴
愛知県新城市に生まれ、生後間もなく豊橋市へ転居した。愛知県立時習館高等学校、京都大学工学部土木工学科卒業。京大在学中は相撲部に所属した。京都大学大学院工学研究科修士課程を修了した後、1971年4月に公明党機関紙局に就職し、公明新聞で国会担当記者を務める。1982年、創価学会青年部長に就任した[1][2]。
1990年、第39回衆議院議員総選挙に公明党公認で旧東京都第8区から出馬するが、落選。1993年の第40回衆議院議員総選挙では旧東京都第9区に国替えして出馬し、初当選を果たした。同年8月、石田幸四郎公明党委員長の下で党副書記長、政策審議副会長に就任。
1994年、公明党解党により公明新党を経て新進党結党に参加する。新進党では副幹事長に就任した。小選挙区比例代表並立制導入後初めて実施された第41回衆議院議員総選挙では比例東京ブロック単独で出馬し、再選。1998年、新進党解党により、旧公明党系議員が結成した新党平和に参加した後、新党平和・黎明クラブ・公明の合併による公明党再結成に伴い、党幹事長代行に就任。2000年の第42回衆議院議員総選挙では比例東京ブロック単独で出馬し、3選。
2003年の第43回衆議院議員総選挙では、比例単独から東京都第12区に国替えし、初めて小選挙区で当選を果たす。この選挙では自由民主党、保守新党の推薦を受けた(保守新党は選挙後自民党へ合流)。2005年の第44回衆議院議員総選挙では、郵政民営化法案の採決で反対票を投じた八代英太(自民党の公認が得られず無所属で出馬)らを破り、5選。翌2006年、神崎武法の退任に伴う公明党代表選挙に立候補し、太田以外に立候補者がなかったため無投票で党代表に選出された。
2009年の第45回衆議院議員総選挙では、重複立候補を辞退し東京都第12区のみで立候補したが、民主党の青木愛に敗れ、現職の政党党首でありながら落選した[3]。公明党の党首が落選するのは公明党立党以来初めて。総選挙後、9月3日の党常任役員会で党代表辞任を表明し、了承された[4]。なお、同じく落選した北側一雄公明党幹事長もあわせて辞任した(後任はそれぞれ山口那津男、井上義久)。
9月8日の公明党全国代表者会議で太田の辞任と山口の新代表就任が正式に決まった。これにあわせて党規約が改正され太田は新設ポストである党全国代表者会議議長に就任、執行部に残留した。2009年12月6日、公明党は2010年7月の第22回参議院議員通常選挙で、太田を比例区で公認した。しかし、2010年2月2日には一転、公明党は太田の公認を取り消し公明党ホームページの参院選立候補予定者の欄から太田の名前は削除された[5]。支持母体内で太田の出馬に否定的な意見が多かったことが遠因といわれる。[6]。
この公認取り消しの混乱で政治生命の衰えも一部で指摘されたが、その後も党議長として党内序列2位を維持し参院選や地方選挙の候補者応援等の政治活動を継続している。2011年11月17日、公明党中央幹事会は太田を次期衆議院選挙の東京12区の候補予定者に決定した。これにより次期総選挙では太田が雪辱を期して東京12区に再び立候補することが確実となった。なお、太田の出馬は議員在任中に66歳を超えないとする党の内規に抵触するが党は太田を例外扱いとすることを認めた。
人物
年金記録問題に関する発言
2007年6月16日、千葉県鎌ヶ谷市での街頭演説にて年金記録問題に触れ、歴代厚生大臣である菅直人、小泉純一郎、坂口力を名指しして「みんな悪い」[7]と明言した。さらに「(基礎年金番号の)制度を設計したのは菅氏、施工したのは小泉氏、内装・電気工事をしたのが坂口氏、菅氏の全てが悪いのは当然だ」[7]と発言、基礎年金番号の制度自体に問題があるとの認識を示した。
第21回参議院選挙における釈明会見
2007年7月29日、第21回参議院議員通常選挙が行われ、公明党は神奈川県、愛知県、埼玉県の選挙区で議席を失う(神奈川県は松あきらが繰り上げ当選)など歴史に残る大敗を喫す。同日夜の党代表太田の会見では敗北に対する責任を取り代表を辞任するという憶測が流れていたが、「支援者の皆様方、創価学会の皆様ありがとうございました」と支援者へのお礼は話したものの、首相安倍晋三ともども辞任を否定。後日、支持母体である創価学会の婦人部、女子部を中心に党執行部への責任追及や太田の代表責任を問う声が高まり、議席を失った神奈川県、愛知県、埼玉県などでは幹部会が紛糾する事態となるが、太田は参議院選挙の惨敗の責任を「自らの不徳の致すところ」として一人で責任を被った。 それとは別に2005年の第44回衆議院議員総選挙では自民党が歴史的大勝したにもかかわらず同じ連立与党を組む公明党は議席を増やせなかったこと(当時は神崎氏が代表)、自公政権へ逆風が吹いた参議院選挙の結果を受け、公明党幹部の間には自公選挙協力の見直しを求める声が出始めた。
矢野恂也氏の提訴問題について
元公明党委員長矢野恂也氏が創価学会幹部を提訴した問題については「私なら絶対考えられない」とコメントしたが同氏が参考人招致や証人喚問に応じる考えを示したことについては何も語っていない。
不祥事
選挙時の燃料費過大請求
2005年の第44回衆議院議員総選挙にて、太田が選挙カーの給油量を実際より多く申請し、東京都選挙管理委員会から燃料代を過大に受け取っていたことが発覚した[8]。
太田は、2005年8月30日-9月10日の間に「毎日同量の61.25リットルを足立区内の給油所で給油した」[8]と申請していた。選挙カーの燃料代は1台に限り8万8200円まで公費負担となるため、東京都選挙管理委員会は太田に対し燃料費の代金を支給した。しかし、2007年10月に調査したところ過大請求だったことが判明し、11月に東京都選挙管理委員会に全額返金した。
その後、東京都選挙管理委員会に対し朝日新聞社が情報公開請求を行ったためこの事実が明るみに出て、2008年1月13日の『朝日新聞』に掲載された[8]。翌日には『読売新聞』など主要各紙もこの過大請求を報じるなど批判が相次ぎ、太田は2008年1月14日付で謝罪した[9]。しかし、党代表の辞任や議員辞職する意向はないとしている。なお、過大請求の理由については「伴走車両の分も合わせて請求していた」[8]と太田事務所は説明している。
著書
- 『わが栄光の青春1』 第三文明社、1982年。ISBN 4-476-06017-X
- 『わが栄光の青春2』 第三文明社、1984年。ISBN 4-476-06024-2
- 『わが栄光の青春3』 第三文明社、1985年。ISBN 4-476-06032-3
- 『わが栄光の青春4』 第三文明社、1986年。ISBN 4-476-06038-2
- 『真っ向勝負-行動する政治家の素顔』 鳳書院、2003年。ISBN 4-87122-131-8
脚注
- ^ 2005総選挙選挙区当選者東京12区(asahi.com)
- ^ 2009総選挙《党首がゆく:公明党・太田昭宏代表》重ねた辛抱 問い直す原点(asahi.com)
- ^ 実績や政策、浸透せず」落選の太田昭宏公明代表産経ニュース2009年8月31日
- ^ 太田公明代表が辞任表明、後任8日に選出 北側幹事長も辞任NIKKEI NET(日経ネット)2009年9月3日
- ^ http://www.komei.or.jp/news/2009/1206/16120.html
- ^ 産経新聞2010年2月2日付 公明、太田前代表衆院選へhttp://sankei.jp.msn.com/politics/situation/100202/stt1002021354006-n1.htm 2010年3月2日閲覧。
- ^ a b 「asahi.com:太田・公明代表「菅氏、小泉氏、坂口氏、みんな悪い」 - 政治」朝日新聞社、2007年6月16日。
- ^ a b c d 北林慎也・野村雅俊「公明・太田氏が不適正請求――05年総選挙ガソリン代――伊藤元金融相らも」『朝日新聞』43730号、朝日新聞東京本社、2008年1月13日、31面。
- ^ 公明党 衆議院議員 太田あきひろ Web Site『衆院選における選挙用燃料費について』2008年1月14日。
関連項目
外部リンク
- 公明党 衆議院議員 太田あきひろ Web Site(公式サイト)
党職 | ||
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先代 神崎武法 |
公明党代表 第2代 : 2006年 - 2009年 |
次代 山口那津男 |