嘉納治五郎
嘉納 治五郎 | |
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生年月日 | 1860年12月10日(万延元年10月28日) |
出生地 | 摂津国菟原郡御影村 |
没年月日 | 1938年(昭和13年)5月4日 |
出身校 | 東京大学文学部 |
称号 |
勲一等旭日大綬章 文学士 柔道範士 |
親族 |
嘉納履正(次男) 嘉納行光(孫) 柳宗悦(甥) 南郷茂光(義兄) |
講道館館長 | |
在任期間 | 1882年 - 1938年 |
第一高等中学校校長 | |
在任期間 | 1893年6月19日 - 同9月20日 |
東京高等師範学校校長 | |
在任期間 | 1893年9月20日 - 1897年8月20日 |
在任期間 | 1897年11月19日 - 1898年6月20日 |
在任期間 | 1901年5月9日 - 1920年1月16日 |
その他の職歴 | |
国際オリンピック委員会委員 (1909年 - 1938年) | |
大日本体育協会会長 (1911年 - 1921年) | |
貴族院議員 (1922年 - 1938年) |
嘉納 治五郎(かのう じごろう、1860年12月10日(万延元年10月28日) - 1938年(昭和13年)5月4日)は、日本の柔道家、教育者である。兵庫県平民[1]。
講道館柔道の創始者であり柔道・スポーツ・教育分野の発展や日本のオリンピック初参加に尽力するなど、明治から昭和にかけて日本に於けるスポーツの道を開いた。「柔道の父」と呼ばれ、また「日本の体育の父」とも呼ばれる。
生涯
生い立ち
1860年12月10日(万延元年10月28日)、摂津国御影村(現・兵庫県神戸市東灘区御影町)で父・嘉納治朗作(希芝)と母・定子の三男として生まれる。
嘉納家は御影に於いて屈指の名家であり、祖父の治作は酒造・廻船にて甚だ高名があった。その長女・定子に婿入りしたのが治五郎の父・治朗作である。初め治作は治朗作に家を継がせようとしていたが治朗作はこれを治作の実子である義弟に譲り、自らは廻船業を行って幕府の廻船方御用達を務め和田岬砲台の建造を請け負い勝海舟のパトロンともなった。柳宗悦の母は治五郎の姉である。ちなみに同じ嘉納家ではあるが嘉納三家と呼ばれる現在の菊正宗酒造・白鶴酒造とは区別される。
1870年(明治3年)、明治政府に招聘された父に付いて上京し、東京にて書道・英語などを学んだ。
柔道創始
1874年(明治7年)、育英義塾(のちの育英高校)に入塾。その後、官立東京開成学校(のちの東京大学)に進学。1877年(明治10年)に東京大学に入学した。しかし育英義塾・開成学校時代から自身の虚弱な体質から強力の者に負けていたことを悔しく思い非力な者でも強力なものに勝てるという柔術を学びたいと考えていたが、親の反対により許されなかった。当時は文明開化の時であり柔術は全く省みられなくなり、師匠を探すのにも苦労し柳生心眼流の大島一学に短期間入門したりした後、天神真楊流柔術の福田八之助に念願の柔術入門を果たす。この時期の話として、「先生(福田)から投げられた際に、『これはどうやって投げるのですか』と聞いたところ、先生は『数さえこなせば解るようになる』と答えられた」という話がある。窮理の徒である治五郎らしい話である。
1879年(明治12年)7月、渋沢栄一の依頼で渋沢の飛鳥山別荘にて7月3日から来日中のユリシーズ・グラント前アメリカ合衆国大統領に柔術を演武した。8月、福田が52歳で死んだ後は天神真楊流の家元である磯正智に学ぶ。
1881年(明治14年)、東京大学文学部哲学政治学理財学科卒業。磯の死後、起倒流の飯久保恒年に学ぶようになる。柔術二流派の技術を取捨選択し、崩しの理論などを確立して独自の「柔道」を作る。
1882年(明治15年)、下谷北稲荷町16(現・台東区東上野5丁目)にある永昌寺の12畳の居間と7畳の書院を道場とし囲碁・将棋から段位制を取り入れ講道館を設立した。
1883年(明治16年)10月、起倒流皆伝。治五郎は柔術のみならず剣術や棒術、薙刀術などの他の古武道についても自らの柔道と同じように理論化することを企図し香取神道流(玉井済道、飯篠長盛、椎名市蔵、玉井滲道)や鹿島新当流の師範を招いて講道館の有段者を対象に「古武道研究会」を開き、剣術や棒術を学ばせた。また望月稔、村重有利、杉野嘉男などの弟子を選抜し大東流合気柔術(後に合気道を開く)の植芝盛平[2]や神道夢想流杖術の清水隆次、香取神道流の椎名市蔵などに入門させた。薙刀術は各流派を学んだ(雑誌『新武道』によるとこの薙刀術が1941年(昭和16年) - 1942年(昭和17年)頃の国民学校の標準となったと記されているが国民学校令施行より以前に既に大日本武徳会式の薙刀術が学校教育に採用されているため、この記述の正確性には疑問が残る)。
1905年(明治38年)、大日本武徳会から柔道範士号を授与される[3]。
教育者として
嘉納は教育者としても尽力し、1882年(明治15年)1月から学習院教頭、1893年(明治26年)より通算25年間ほど東京高等師範学校(東京教育大学を経た現在の筑波大学なお、筑波大学キャンパス内にも立像が建っている。)校長ならびに東京高等師範学校附属中学校(現・筑波大学附属中学校・高等学校)校長を務めた[4]ほか、旧制第五高等中学校(現・熊本大学)校長などを務め(部下の教授に、小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)等がいた)、さらには、嘉納自身が柔道の精神として唱えた「精力善用」「自他共栄」を校是とした旧制灘中学校(現・灘中学校・高等学校)の設立にも関わるなど教育者としても尽力する。また、日本女子大学の創立委員にも加わる。文部省参事官、普通学務局長、宮内省御用掛なども兼務した。
1882年には英語学校「弘文館」を南神保町に創立し[5]、また1896年には清国からの中国人留学生の受け入れにも努め、留学生のために1899年に牛込に弘文学院(校長・松本亀次郎)を開いた。のちに文学革命の旗手となる魯迅もここで学び、治五郎に師事した。魯迅の留学については2007年(平成19年)、中華人民共和国国務院総理・温家宝が来日した際、温の国会演説でもとり挙げられた。また旧制第五高等学校の校長だった頃、旧熊本藩の体術師範だった星野九門(四天流柔術)と交流している。
1887年(明治20年)、井上円了が開設した哲学館(東洋大学の前身)で講師となる。棚橋一郎とともに倫理学科目を担当し、同科の『哲学館講義録』を共著で執筆。1898年(明治31年)、全国の旧制中学の必修科目として柔道が採用される。
スポーツ
日本のスポーツの道を開き、1909年(明治42年)には日本人初のIOC(国際オリンピック委員会)委員となる。
1911年(明治44年)に大日本体育協会(現・日本体育協会)を設立してその会長となる。1912年(大正元年)、日本が初参加したストックホルムオリンピックでは団長として参加した。
1936年(昭和11年)のIOC総会で、1940年(昭和15年)の東京オリンピック(後に戦争の激化により返上)招致に成功した。
死去
1938年(昭和13年)のカイロ(エジプト)でのIOC総会からの帰国途上の5月4日(横浜到着の2日前)、氷川丸の船内で肺炎により死去(遺体は氷詰にして持ち帰られた)。77歳没。生前の功績に対し勲一等旭日大綬章を賜る。墓所は千葉県松戸市の東京都立八柱霊園に在る。
家族
- 父母:次郎作、定子
- 長兄:寅太郎(久三郎)。内務省山林局役人として北海道開拓に携わったのち、豊富町にて嘉納農場経営[6][7][8]。
- 次兄:亀松(謙作)
- 長姉:柳子。南郷茂光に嫁ぐ。その子に南郷次郎、九里四郎。
- 次姉:勝子。柳楢悦に嫁ぐ。その子に柳宗悦。
- 妻:須磨子。外交官・漢学者の竹添進一郎の娘[9][10]
- 長男:竹添履信。画家 [11]
- 次男:嘉納履正。子に嘉納行光
栄典
- 1885年(明治18年)6月5日 - 正七位[12]
- 1886年(明治19年)11月27日 - 従六位[13]
- 1891年(明治24年)12月21日 - 正六位[14]
- 1896年(明治29年)12月25日 - 勲六等瑞宝章[15]
- 1898年(明治31年)3月30日 - 正五位[16]
- 1902年(明治35年)12月27日 - 勲四等瑞宝章[17]
- 1906年(明治39年)12月27日 - 勲三等瑞宝章[18]
- 1916年(大正5年)7月31日 - 従三位[19]
- 外国勲章佩用允許
エピソード
- 1978年(昭和53年)より「嘉納治五郎杯国際柔道選手権大会」(2007年からは「嘉納治五郎杯東京国際柔道大会」)が開かれ、13回(うち「嘉納治五郎杯国際柔道選手権大会」が12回)行われている。
- オリンピック柔道競技、世界柔道選手権大会に出場する柔道日本代表選手団が大会前に必勝祈願として、嘉納治五郎の墓参りをすることが恒例となっている。
弟子
四天王
その他の主な弟子
他にもたくさんの弟子が居る。
モデルとしたフィクション
- 小説
- 映画
- 柔道一代 - 嘉納をモデルにした香野が登場する
参考・関連書籍
- 参考資料
- 藤堂良明 :「嘉納治五郎の柔道論に関する研究 : 柔術の集大成との関係について」、博士論文書誌データベースより[21]
- その他
- 『知ってるつもり?! 10 心やさしき勝利者たち』 日本テレビ、1993年4月 ISBN 978-4820393016
脚注
- ^ 『人事興信録. 7版』(大正14年)か三四
- ^ 嘉納は自ら皇武館を訪れ、盛平の技を見て思わず「私の求めていた物はこれだ!!」と叫んだという。
- ^ 『武道範士教士錬士名鑑』163頁、大日本武徳会本部雑誌部
- ^ 治五郎が東京高等師範学校附属中学校(現・筑波大学附属中学校・高等学校)の校長を務めたのは、1893年(明治27年) - 1897年(明治30年)の4年間、1898年(明治31年)に半年間、1901年(明治34年) - 1920年(大正9年)の20年間と通算では25年間近い。 同校の歴代校長の在任期間としては最長。
- ^ 嘉納治五郎略歴公益財団法人日本オリンピック委員会
- ^ 嘉納久三郎さんとよとみ広報、豊富町、2002年
- ^ 豊富・サロベツ原野文学散歩 1宗谷紀行
- ^ 豊富八幡神社(豊富町)北海道神社庁
- ^ 竹添進一郎美術人名辞典
- ^ 嘉納治五郎系図近現代・系図ワールド
- ^ 竹添履信 たけぞえ-りしん日本人名大辞典
- ^ 『官報』第578号、明治18年6月6日。
- ^ 『官報』第1029号「叙任及辞令」1886年12月3日
- ^ 『官報』第2545号「叙任及辞令」1891年12月22日。
- ^ 『官報』第4051号「叙任及辞令」1896年12月28日。
- ^ 『官報』第4421号「叙任及辞令」1898年3月31日。
- ^ 『官報』第5848号「叙任及辞令」1902年12月29日
- ^ 『官報』第7051号「叙任及辞令」1906年12月28日。
- ^ 『官報』第1201号「叙任及辞令」1916年8月1日
- ^ 『官報』第996号「叙任及辞令」1915年11月26日。
- ^ 博士論文書誌データベース
関連項目
外部リンク
- 嘉納治五郎 武道宝鑑抜粋
- 嘉納治五郎『私の生涯と柔道』抜粋1
- 嘉納治五郎『私の生涯と柔道』抜粋2
- 嘉納治五郎『私の生涯と柔道』抜粋3
- 嘉納治五郎『私の生涯と柔道』抜粋4
- 嘉納治五郎『私の生涯と柔道』抜粋5
- 「嘉納治五郎の近代認識と柔道」
- 嘉納治五郎
- 講道館
- 嘉納治五郎 | 近代日本人の肖像(国立国会図書館)
- 嘉納治五郎 - JudoInside.com のプロフィール(英語)
- 非営利団体 柔道畳復元プロジェクト
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