東京オリンピック (1940年)
| 東京オリンピック | |
|---|---|
| 第12回オリンピック競技大会 Games of the XII Olympiad |
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| 250px | |
| 開催都市 | |
| 参加国・地域数 | 開催権返上により未開催 |
| 主競技場 | 駒沢競技場(予定) |
東京オリンピック(とうきょうオリンピック)は、1940年(昭和15年)に東京で開催されることが予定されていた夏季オリンピックである。
史上初めて欧米以外の有色人種国家、そしてアジアで行われるオリンピック大会として準備が進められていたものの、日中戦争の影響等から日本政府が開催権を返上、実現には至らなかった。
目次 |
概要 [編集]
当時の「五大国」の1つである日本の首都の東京での開催は1936年(昭和11年)の国際オリンピック委員会(IOC)で決定し、それ以降には開催の準備が進められていたものの、日中戦争等の影響から日本政府は1938年(昭和13年)7月にその実施の中止を決定した。1940年(昭和15年)大会の代替地として、オリンピックの招致合戦で東京の次点であったヘルシンキが予定されたが、第二次世界大戦の勃発によりこちらも中止となった。
日本は第二次世界大戦での敗戦後、1960年の夏季大会に東京を開催地として再びオリンピック開催地として立候補、東京での開催は「東京オリンピック」として1964年(昭和39年)に実現した。なおアジアで初であると同時に、有色人種国家初のオリンピック開催となった。
経緯 [編集]
意思表示 [編集]
1929年(昭和4年)に、日本学生競技連盟会長の山本忠興は来日した国際陸上競技連盟会長ジークフリード・エドストレーム(後のIOC会長)と会談し、日本でのオリンピック開催は可能か否か、という話題に花をさかせた。このエピソードが東京市当局や永田秀次郎東京市長にも伝わり、にわかにオリンピック誘致の機運が高まってきた。翌1930年(昭和5年)にドイツで開催された世界学生陸上競技選手権から帰国した山本は、「オリンピック東京開催は俄然実現可能である」との調査報告書を市長あてに提出した。
1931年(昭和6年)10月28日、東京市議会で「国際オリンピック競技大会開催に関する建議」が満場一致で採択された。主会場には、東京府荏原郡駒沢町(現:東京都世田谷区)の駒沢ゴルフ場の跡地に計画の競技場群、および神宮外苑を充てるとした。
永田市長は欧州駐在特命全権大使や公使、さらにはジュネーヴの国際連盟事務局次長だった杉村陽太郎に宛てて招致運動への依頼状を送り、国内においては体育関係者、東京商工会議所に協力を依頼した。またアメリカ留学経験を持つ市会議員を派遣し、ロサンゼルスで開催されるIOC総会出席者への運動を行わせた。
立候補 [編集]
1932年(昭和7年)に行われた当該総会の席上、日本代表はIOC会長に対し正式招待状を提出。こうして東京は、ローマ(イタリア)、バルセロナ(スペイン)、ヘルシンキ(フィンランド)、ブダペスト(ハンガリー)、アレキサンドリア(エジプト)、ブエノスアイレス(アルゼンチン)、リオデジャネイロ(ブラジル)、ダブリン(アイルランド)、トロント(カナダ)とともに、第12回国際オリンピック競技大会開催候補地として正式立候補したのであった。
1940年(昭和15年)大会の開催地を決定する1935年(昭和10年)に行われたIOCオスロ総会では、東京、ローマおよびヘルシンキの3市の争いとなった(開催都市は、その5年前の総会で決定するとするのが当時のルールであった)。東京開催の障害要因としては「夏季の高温多雨」、「欧米から遠く離れていることによる旅費・時間の問題(当時欧米以外において国内オリンピック委員会を持つ独立国は、アジアでは日本と中華民国、アフガニスタン程度で、植民地ながら独自の国内オリンピック委員会を持っていたイギリス領インド・アメリカ領フィリピンを加えても10にも満たず[1]、他にも南アメリカ諸国やオセアニアなどごく少数であった)」が挙げられた。
東京市は前者に関しては、例えばフランスのマルセイユに比べてもはるかに涼しいこと、後者に関しては参加希望国当たり100万円の補助を行うことを述べて反論したが、それを受けて他の2市も同様の旅費、宿泊費補助プランを公表するなど、招致合戦は白熱した。
招致成功 [編集]
日本は友好国であったイタリアのベニート・ムッソリーニ首相に直接交渉を行い、ローマの辞退を勝ち取ったが、総会は会期切れとなり、開催地決定投票を翌年のベルリンに延期するという異例の展開となった。オスロ総会後、東京市はさらなる招致活動費用として、85,926円を計上した。翌1936年(昭和11年)3月、IOC委員長アンリ・ド・バイエ=ラトゥールの来日を迎え、好感触を得た。
ベルリンのホテル・アドロンで同年7月29日より行われたIOC総会における7月31日の投票の際には、日本の招致委員会を代表して柔道創設者の嘉納治五郎が演説した。結果として東京36票、ヘルシンキ27票で東京開催が決定した[2]。
| 都市 | 国 | 1回目 |
|---|---|---|
| 東京 | 36 | |
| ヘルシンキ | 27 |
開催準備 [編集]
日本のみならずアジアで初、有色人種国家としても初のオリンピック招致成功をうけて、1936年(昭和11年)12月に文部省の斡旋で東京市、大日本体育会などを中心として「第十二回オリンピック東京大会組織委員会」が成立し、元貴族院議長でIOC委員の徳川家達公爵が委員長に就任するなど本格的な準備に着手した。
その後は東京開催準備が進行した(国際博覧会も同年開催が予定された)。東京を中心とした都市美観工事やホテル建築、国際的土産品の新製、職員への英語教育などが計画、実行され、政府からは延べ55万円に及ぶ補助金が出された。主会場には、神宮外苑に10万人規模のスタジアムを建設することを計画したものの、明治神宮外苑を管轄する内務省神社局がこれに強硬に反対したため、東京市荏原郡駒沢町の駒沢ゴルフ場の跡地にメインスタジアムを建設することとなった。
また、ベルリンオリンピックで試験的に実現したテレビ中継の本格的実施をもくろみ、日本ラジオ協会と電気通信学会が、東京の各競技会場と大阪、名古屋を結ぶ中継を行うべく開発を進めることとなった。
さらに日本政府は、冬季オリンピックを北海道札幌市に招致することを目指して招致活動を継続した結果、1940年(昭和15年)に第5回冬季オリンピックとして札幌オリンピックが開催されることに決定した。
実施予定競技 [編集]
1937年(昭和12年)6月に行われたIOCワルシャワ総会では、下記の競技の実施が決定した。
東京オリンピックの開催期間は、1940年(昭和15年)9月21日から10月6日までの日程が予定されていた[要出典]。
開催権返上へ [編集]
国内からの反対意見 [編集]
この様に開催に向けた準備が進む一方で、1937年(昭和12年)3月に衆議院予算総会で河野一郎(政友会、後に日本陸上競技連盟会長)が「今日のような一触即発の国際情勢において、オリンピックを開催するのはいかがと思う」と発言。実際にその4ヵ月後に盧溝橋事件が起こり、その後日本軍と中華民国軍の戦闘区域が拡大し「支那事変」(日中戦争)と呼ばれるようになると、陸軍が軍内部からの選手選出に異論を唱えた。また各種団体からの満州国選手団の参加を求める抗議行動が続いていた。
1938年(昭和13年)に入ると日中戦争の長期化が予想されるようになったために、鉄鋼を中心とした戦略資材の逼迫を理由に、軍部が「木材か石材を使え」などと無理な注文を出した上に、杉山元陸軍大臣が議会においてオリンピック中止を進言するなど、反対の態度を鮮明にした。さらに河野が再び開催中止を求める質問を行うなど、開催に否定的な空気が国内で広まった。それまでオリンピック開催を盛り上げる一翼を担ってきた読売新聞や東京朝日新聞などでは、オリンピック関係の記事がこの年から打って変わって縮小している。
さらに、軍部からの圧力を受けた近衛文麿首相は、6月23日に行われた閣議で戦争遂行以外の資材の使用を制限する需要計画を決定し、この中にオリンピックの中止が明記されていたことから、事実上オリンピックの開催中止が内定した。
国外からの反対意見 [編集]
1938年(昭和13年)3月にカイロ(エジプト)で開催されたIOC総会では、ベルリン大会組織委員会事務総長のカール・ディームが聖火リレーの実施をぶちあげ、各国から実施の要望がなされるなど、開催へ向けて準備が進んだ上に、聖火リレーのルートに満州国を入れることで、満州国選手団の参加に弾みを付けた。
しかしカイロ総会前には、中国大陸における利権をめぐって日本と対立していたイギリスやイギリス連邦でイギリスの事実上の属国のオーストラリアだけでなく、大会開催権を争っていたフィンランドからも中止(とヘルシンキでの代替開催)を求める声が上がっており、さらに日中戦争の一方の当事国である中華民国は開催都市変更を要望してきた。この様な状況下にあるにもかかわらず、「中国大陸での動乱が収まらなかった時は中華民国の選手の出場はどうするのか」という質問に対し、カイロ総会に至っても軍部のプレッシャーを受けて足並みが揃わなかった日本側委員は満足な回答をすることができず、外国委員を失望させた。
また、イギリス以上に中国大陸に大きな利権を持つために、日中戦争に政府が否定的な態度を取り続けていたアメリカ人のIOC委員は、東京大会のボイコットを示唆して委員を辞任してしまった。さらにド・バイエ=ラトゥール伯爵の元には東京開催反対の電報が150通も寄せられており、ついにド・バイエ=ラトゥール伯爵から日本に対し、開催辞退の話が持ちかけられてきた。
返上決定とその後 [編集]
さらに、東京での開催に大きな役割を果たした嘉納治五郎がカイロからの帰途で病死するに至り、日本政府は1938年(昭和13年)7月15日の閣議で開催権を正式に返上した。東京市が1930年から返上までの間、拠出した五輪関係費用は90万円以上にのぼる。代わってヘルシンキでの開催が決定したが、1939年(昭和14年)9月にヨーロッパで第二次世界大戦が勃発したため、こちらも結局開催できなかった(なお、夏季大会は開催返上・取りやめの場合でも第1回からの通し回次番号がそのまま残るため、公式記録上では東京・ヘルシンキそれぞれ1回は「みなし開催」となったことになる)。
こうしてオリンピックの準備はひとまず中止され、組織委も大幅に縮小された。しかし、すでに工事をはじめ、竣工寸前であった東京市芝浦埋立地の自転車競技場(現存せず)と、埼玉県戸田のボートコース(戸田漕艇場)は1939年(昭和14年)までにできあがり、使用された。自転車競技場の建設にあたっては、市内主要大学の学生3407名を中心とする帝都青年労働奉仕団が作業を担当した。また、駒沢(今日の駒沢オリンピック公園敷地)に主会場をおく案はそのまま1964年大会に生かされた。
なお、中止運動の急先鋒に立っていた河野一郎は、1964年(昭和39年)大会開催に当たって池田内閣で建設大臣(オリンピック関連施設や道路の建設の指揮監督を担当)およびオリンピック担当国務大臣を務めた。
その他 [編集]
- 本大会開催が決定した1936年(昭和11年)7月31日のIOC総会についての報道で、読売新聞が見出しの文字数制限からオリンピックを略そうと考えたのが「五輪」言い換えの始まりである[3]。発案者は当時運動部の記者であった川本信正。川本によると、五輪旗の五つの輪と宮本武蔵の『五輪書』からこの略称を思いついたという。
- 1940年(昭和15年)のオリンピックを争った3都市は、第二次世界大戦後にヘルシンキ→ローマ→東京の順で開催を実現している。
- オリンピック村は大日本体育協会専務理事で大日本蹴球協会の幹部だった野津謙と、東京市役所の谷川昇、東急の五島慶太、黒川渉三を中心に大日本体育協会、東京都、厚生省等が打ち合わせて、神奈川県川崎市の津田山に建設が予定されていた[4]。
参考文献 [編集]
- 池井優『オリンピックの政治学』(丸善ライブラリー、1992年) ISBN 4-621-05053-2
- 橋本一夫『幻の東京オリンピック』(日本放送出版協会、1994年) ISBN 4-14-001709-0
- 鈴木明『1936年ベルリン至急電 東京、遂に勝てり!』(小学館、1994年) ISBN 4-09-387112-4
- 古川隆久『皇紀・万博・オリンピック 皇室ブランドと経済発展』(中公新書、1998年) ISBN 4-12-101406-5
- 波多野勝『東京オリンピックへの遥かな道 招致活動の軌跡1930-1964』(草思社、2004年) ISBN 4-7942-1335-2
脚注 [編集]
- ^ 東京開催決定後の1937年にイギリス領セイロン(現・スリランカ)の国内オリンピック委員会が発足している。なお、アジアの数少ない独立国であったタイに国内オリンピック委員会が発足したのは第二次世界大戦後の1948年である。また、満州国は満州国体育協会を国内オリンピック委員会としてIOCに加盟申請をおこなったが、中華民国とイギリス、アメリカの反対により承認を得られていなかった
- ^ 『幻の東京オリンピック』P.96 橋本一夫著
- ^ 『読売新聞』朝刊東京本社13版13頁コラム「新日本語の現場」2005年5月18日
- ^ 野津謙『野津謙の世界』国際企画、1979年、170-171頁
外部リンク [編集]
- JOCオリンピックの歴史
- 東京オリンピック組織委員会公式レポート
- オリムピック事務局長 久保田敬一博士 『土木建築工事画報』 第13巻 第6号 工事画報社 昭和12年6月発行
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