高嶺秀夫

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: 案内検索
高嶺 秀夫
肖像
人物情報
生誕 1854年10月5日
日本の旗 日本陸奥国
死没 1910年2月22日(満55歳没)
日本の旗 日本東京都
国籍 日本の旗 日本
出身校 慶應義塾
(現・慶應義塾大学
学問
研究分野 生物学
動物学
教育学
英学
研究機関 東京師範学校
東京帝室博物館
主な業績 学校管理法
ペスタロッチ教育学
主な受賞歴 従三位
勲二等瑞宝章
テンプレートを表示

高嶺 秀夫(たかみね ひでお、嘉永7年8月14日1854年10月5日) - 明治43年(1910年2月22日)は、日本幕末から明治武士会津藩士)、生物学者教育学者。開発教育の導入と師範教育の近代化を推進した教育家で、ペスタロッチ教育運動の指導者。位階勲等従三位勲二等瑞宝章

人物[編集]

陸奥国若松出身。

会津藩主・松平容保小姓となり、会津戦争では主君とともに籠城の末、降伏している。その後、慶應義塾(現在の慶應義塾大学)に8年間学び、次いで文部省から師範学校調査のため米国へ派遣された。帰国後は高等官となり、東京師範学校教員、同校長、東京高等師範学校長を歴任した。晩年は東京女子高等師範学校長を務め、東京美術学校長、東京音楽学校長も兼任している。死没に際して内閣総理大臣・桂太郎、文部大臣・小松原英太郎の下で従三位に叙せられ、勲二等瑞宝章を授かる。

生涯[編集]

嘉永7年(1854年)、陸奥国若松城下の旧本四ノ丁(現在の福島県会津若松市西栄町)で、藩士・高嶺忠亮(ただすけ)の長男に生まれた。藩校日新館漢学を学び頭角をあらわし、南摩綱紀と共に、9代藩主・松平容保側近の小姓となった。明治元年(1868年)6月から11月の会津戦争では藩主とともに籠城し、降伏した。

東京でしばらく監禁を宣告され謹慎して、丹波亀山藩松平家の保護下に置かれた。赦免後、沼間守一の私塾に通い、英語を学び始めた。斗南藩(旧会津藩)の命により、明治4年(1871年)7月、福澤諭吉が開設した慶應義塾(後の慶應義塾大学)に入学し、洋学漢学を学んだのちに、5年間にわたり教員も務めた。同窓に鎌田榮吉釈宗演後藤牧太がいる。

アメリカ留学[編集]

明治8年(1875年)から同11年(1878年)まで、文部省の派遣留学生として、アメリカ合衆国ニューヨーク州のオスウィーゴー州立師範学校(現在のSUNYOswego)に留学した[1]

当時、オスウィーゴー師範学校は教師養成のための、進歩的で革新的な学校としてその名声は絶頂期で、オスウィーゴー校への留学は幸運であった。高嶺秀夫はエドワード・シェルドン(Edward Austin Sheldon)[2]校長を通して、有名な教育者H.クリュージイ.Jr[3](1817~1903年)家に寄宿した。オスウィーゴー校は、ペスタロッチの教育思想に基づく、生徒の自発性を重視する開発教育・教授法を、校長のシェルドンを中心に「オスウィーゴー運動」として全米に広めた。

高嶺は、ここで真摯に学び優秀な成績を修めた(当時の学籍簿が、1968~69年にかけて米国留学中の村山英雄により、ニューヨーク州立オスウィーゴー大学にて発見され、学業成績が明らかにされた)。明治9年(1877年)7月3日、オスウィーゴー校を卒業した高嶺は、翌年3月16日にオスウィーゴーを去るまで、博物、心理学、さらに生物学の学習に全力を傾注した。1877年夏にペニキーズ島 (Penikese_Islandで自然史のアンダーソン学校に通って、バートワイルダー(コーネル大学の有名な動物学者)の下で一学期間勉強した。当時社会的に反響を呼んだダーウィンの進化論を知り、動物学を学んだ。彼は、同校最初の日本人履修生となった。また、セイラムに於ける夏季動物学校に入学し、海産動物の構造や、組織を研究し、次いで同年冬季休業中は、ニューヨーク州イサカ大学校に於いて、ドクトル・ワイデルに就き動物学を修めている[4]。このように、寝食を惜しんで新知識の吸収に努めたといわれる。

帰国後[編集]

帰国後は教員となって、アメリカ留学で学んだ理論的な開発主義の教育学を、東京師範学校(現筑波大学)に取り入れ、近代教育の基礎づくりに貢献した。明治10年代、ペスタロッチの教育思想に基づく、生徒の自発性を重視する開発教育は、師範学校を中心に全国に広まりブームとなった。こうして、古い体質の東京師範学校の改革に着手、開発教育の紹介と普及に努め、東京師範学校校長 / 東京高等師範学校校長(後に改称)、東京美術学校校長、東京音楽学校校長、また女子教育にも熱心で、東京女子高等師範学校校長などを歴任した。更に、『教育新論』などの出版も手掛けた。このように、ペスタロッチ主義の教育法と原理を我が国の教員養成機関に伝え、広めた功績によって、高嶺秀夫は「師範学校の父」と呼ばれた。

また、東京師範学校で動物学を開講、東京大学でも生物学教授モースの助手を兼任し、動物の科学的な解剖実験を行っている。日本の伝統美術に造詣が深く、浮世絵の収集は、3千点以上に及び、浮世絵の研究をとおして、伝統美術の保護を進めたフェノロサとも交遊していた。帝国博物館(現東京国立博物館)が設置されると、その委員を務め、さらに明治32年(1899年)には、東京美術学校(現東京芸術大学)の校長も兼務した。明治40年の第一回文展(現在の日展)では審査員も務め、近代日本の美術の保護・奨励にも大きな足跡を残した。彼がなした他の業績は、シカゴ万国博覧会(1893年)への日本の展示、日英博覧会(1910年)への尽力がある。

明治43年(1910年)、57歳で亡くなり、葬儀には各界から千人以上の人が参列し別れを惜しんだ[5]。墓所は染井霊園

息子・高嶺俊夫(1885年 - 1959年)は、分光学の分野で有名な物理学者で日本学士院会員(1947年 - 1959年)[6]である。外孫に警視庁・警視総監を勤めた土田國保がいる。

エピソード[編集]

日本における修学旅行は、森有礼の師範教育改革に、軍隊的な要素が導入されてくることに抵抗した高嶺秀夫が、行軍旅行に学術研究の要素を取り入れて修学旅行と称するようになったのが始まりとされている[7]

著作[編集]

  • 田中不二麻呂訳述『米国学校法』文部省、1878年10月 - 彼がこのマニュアルのために200ページ以上翻訳したことが、母への手紙に記されている。この本には高嶺の名は記載されていない。
  • リアム・ジョルジ・スペンセル著、高嶺秀夫訳『工夫幾何学』普及舎、1885年2月巻之上・巻之下
  • 高嶺秀夫、岩川友太郎編『動物比較解剖図解説』普及舎、1885年7月甲号・乙号・丙号/1886年6月丁号
  • ゼームス・ジョホノット著、高嶺秀夫訳『教育新論』東京茗渓会、1885年2月巻之一/1885年6月巻之二/1886年9月巻之三/1886年11月巻之四 - James Johonnot. Principles and Practice of Teaching. 1878.の翻訳。
    • ジョホノット著、高嶺秀夫訳『教育新論』国書刊行会〈明治教育古典叢書〉、1980年11月第一-第四
    • 仲新ほか編『近代日本教科書教授法資料集成 第2巻』東京書籍、1982年9月

なお高嶺の著書ではないが、若林虎三郎、白井毅編纂『改正教授術』(普及舎、1883年6月巻一-巻三)および、若林虎三郎、白井毅編纂『改正教授術続編』(普及舎、1884年5月巻一・巻二)は、高嶺秀夫と伊沢修二から開発教授法の指導を受けた二人の訓導の共著である。

脚注[編集]

[ヘルプ]
  1. ^ この時、明治政府より師範学科取調べの命を受けて渡米留学したのは、高嶺と共に、伊沢修二神津専三郎の3名であった。伊沢がマサチューセッツ州のブリッジウォーター州立師範学校に、神津がニューヨーク州のオルバニー州立師範学校に留学した。
  2. ^ full name:Edward Austin Sheldon(1823-1897)
  3. ^ full name:Johann Heinrich Hermann Krüsi(1817-1903)
  4. ^ 『高嶺秀夫先生伝』55頁。
  5. ^ 明治43年2月24日付の『東京朝日新聞』に「我国師範教育の鼻祖高嶺秀夫逝く」の記事がある。
  6. ^ 物故会員一覧(日本学士院)。
  7. ^ 『近代日本教員養成史研究』。

参考文献[編集]

関連文献[編集]

  • 石川半山「女子高等師範学校長 高嶺秀夫君」(『教育界』第1巻第11号、金港堂書籍、1902年9月)
  • 武田清子ペスタロッチ受容の方法と問題 : 高嶺秀夫と石井十次・留岡幸助の人間把握の対比」(『教育研究』第9号、国際基督教大学、1962年12月)
    • 武田清子著『土着と背教 : 伝統的エトスとプロテスタント』新教出版社、1967年2月)
  • 中川隆「高嶺秀夫と学事諮問会 : 改正教育令期の近代化」(『亜細亜大学教養部紀要』第21号、1980年6月)
  • 中川隆「高嶺秀夫とオスウィーゴ師範学校」(『亜細亜大学教養部紀要』第27号、1983年6月)
  • 小野次男「伊沢修二・高嶺秀夫のアメリカ留学」(『教育学雑誌』第17号、日本大学教育学会、1983年3月
  • 長嶋優子「高嶺秀夫と開発教授」(『人間研究』第20号、日本女子大学教育学会、1984年3月)
  • 麻生千明、唐沢富太郎「高嶺秀夫 : 明治初期教育方法・師範教育建設の功労者」(唐沢富太郎編著『図説 教育人物事典 : 日本教育史のなかの教育者群像 上巻』ぎょうせい、1984年4月)
  • 阿波根直誠「わが国の明治初期におけるペスタロッチ主義教育受容に関する一考察 : 高嶺秀夫の実物教育論の一背景を中心として」(『琉球大学法文学部紀要』社会学篇第31号、1989年3月)
  • 平田宗史「欧米派遣小学師範学科取調員の研究(三)」(『福岡教育大学紀要』第41号第4分冊、1992年3月)
    • 「高嶺秀夫の留学生活」「高嶺秀夫の活動と業績」「高嶺秀夫の年譜」(平田宗史著『欧米派遣小学師範学科取調員の研究』風間書房、1999年3月、ISBN 4759911413
  • 山田岩男「師範学校教育 : 師範教育の基礎を確立した高嶺秀夫」(日本放送出版協会編『日本の『創造力』 : 近代・現代を開花させた四七〇人 6 産業基盤づくり』日本放送出版協会、1992年10月、ISBN 4140092106
  • 阿波根直誠「A study of the influence of the Oswego Movement upon Japanese education, relating to Hideo Takamine in early Meiji Japan, 1860's - 1880's outline.」(島袋哲教授退官記念論文集刊行会編著『新しい教育行政学の創造 生涯教育行政学とは何か』三菱印刷えにし出版、1995年3月)
  • 阿波根直誠「高嶺秀夫の実物教授論の一背景に関する考察 : オスウィーゴー師範学校留学中における彼の課外活動を中心に」(『琉球大学教育学部紀要』第52集、1998年3月)
  • 阿波根直誠「高嶺秀夫の科学的側面に関連した実物教授論の一背景についての研究 : バッファロー、イサカ、東京における彼の課外活動を中心に」(『琉球大学教育学部紀要』第56集、2000年3月および琉球大学教育学部教育学教室編『新しい人間教育の探究 : 阿波根直誠教授退官記念論文集』琉球大学教育学部教育学教室、2000年3月)
  • 多田洋子「高嶺秀夫と開発教授法」(『英学史研究』第37号、日本英学史学会 英学史研究 Vol.2005 (2004) No.37 P 21-31)
  • 寺岡聖豪「高嶺秀夫とペスタロッチ」(『福岡教育大学紀要』第4分冊第57号、2008年2月)

関連項目[編集]

外部リンク[編集]