勧進相撲

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勧進相撲(かんじんすもう)とは、相撲の形態の一つ。現在の大相撲の源流となる。

概要

戦国時代日本において、貴族の都落ちに従って京都の文化が全国に広がった。その中に土地相撲があり、やがて、相撲を本職として巡業などで生計を立てる相撲人が現れるようになった[1]。一方で、神社仏閣の建築修復の資金調達のための興行を勧進といったが、神社の祭礼に相撲が行われることが多かった(神事相撲)ことにあやかり、営利目的であるにもかかわらず「勧進相撲」と称して興行をすることが常態化した[2]。主な相撲集団としては秋田南部津軽仙台江戸尾張紀伊大坂讃岐播磨因幡長崎肥後薩摩などがあり、特に江戸、京都、大坂の三都相撲が盛んであった。

その起源は定かでないが、文禄・慶長の頃(1600年前後)には上方では盛んに巡業が行われていた[2]。しかし慶安年間には浪人侠客が出入りして始終喧嘩が絶えない事態になり、各地で勧進相撲は禁止された[3]。江戸幕府は慶安元年(1648年)に「風紀を乱す」という理由で勧進相撲禁止令を出している。その後数十年を経て徐々に解禁されるようになったが、例えば京都相撲は暫くの間は文字通りの「勧進」相撲として興行し、江戸相撲は街中での興行(辻相撲)を禁じられて寺社の境内などで興行を行うようになった(同時に、興行の届け出先が町奉行から寺社奉行に移動した)。

やがて、寛保2年(1742年)に江戸で勧進興行のすべてにわたって解禁され、春は江戸、夏は京、秋は大坂、冬は江戸で「四季勧進相撲」を実施するという体制が確立していく。「勧進相撲」の名称はのこったが、それは管轄が寺社奉行であったためである。

その後、相撲集団は江戸と大坂に収斂してゆき、大正14年(1925年)、東京相撲が大阪相撲を吸収合併することにより勧進相撲の組織は日本相撲協会に一元化され、現在の大相撲が誕生した。形式的にではあるが、「勧進元」という呼称は1944年昭和19年)まで残り、その名残として地方巡業の主催者のことを勧進元とよぶことが多い。

特徴

勧進相撲の諸制度は大相撲に直接受け継がれており、特に江戸相撲のそれは後継組織である大相撲に多大に影響を与えている。しかし特にその初期においては、現在の大相撲にはない慣習があった。例えば、

  • 実力がない力士を看板大関としていきなり最高位に附け出すなど、前場所の地位と成績から概ね機械的に番付編成が行われる現在とは違い、興行性が多分に重視されていた。
  • 大名による抱え制度があり、番付や勝敗は外部からの圧力にさらされており、星取にも預りが存在した。
  • 勧進元と力士との雇用関係も永続的に強固なものがあるわけではなく、勧進元が各地の力士集団を場所単位で招聘するという形式をとっていたため、労使関係は勧進元が圧倒的に優位であり、力士の福利厚生は不安定であった。明治初期に高砂浦五郎が待遇改善を要求したのを皮切りに、昭和初期まで労働争議による場所の延期、力士集団の分派が散発した。

脚注

注釈

出典

  1. ^ 酒井, p. 71.
  2. ^ a b 酒井, p. 73.
  3. ^ 酒井, p. 74.

参考文献

  • 酒井忠正『日本相撲史 上巻』ベースボール・マガジン社、1956年6月1日。