ヤクザ映画

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ヤクザ映画(ヤクザえいが)とは、ヤクザを主役とする映画。もしくは日本におけるヤクザ暴力団の対立抗争や任侠などをモチーフとする映画カテゴリーである。仁侠映画(にんきょうえいが。同じ読みで“任侠映画”と表記する場合もあり)とも称される。

本項では、東映を筆頭に各社がこのジャンルの映画を量産した、1960年代から70年代を中心に、その後の状況までを記述する。

歴史

やくざ自体を主題とする映画は、股旅物といわれる長谷川伸の『瞼の母』や侠客・飛車角の生き様を描いた尾崎士郎の『人生劇場 残侠篇』など、戦前からあった。また第二次世界大戦後も『清水の次郎長伝』『次郎長意外伝』『次郎長富士』『国定忠治』など、盛んに制作された。『国定忠治』に至っては1946年、58年、60年と同じ題名で何回も制作されている。ヤクザ映画はこうした日本人の心情になじんだ主題を現代に置き換えたもので、制作が本格化するのは日本経済が高度成長に向けて走り始めた1960年代に入ってからである。

ヤクザ映画という呼称

東映は1963年に鶴田浩二主演人生劇場 飛車角』を封切り、成功[1]。翌1964年、初の本格的ヤクザ映画『博徒』(鶴田主演)や高倉健主演『日本侠客伝』もヒットしたため、これらをシリーズ化する。東映自ら「やくざ路線」と言い[1]、他社にも波及すると、映画ジャーナリズムは一括して「ヤクザ映画」と呼びはじめたのである[1]

それまで、この呼称は戦前派侠客の映画を指しており、明治から昭和初期までの時代の侠客を主人公として映画も既に存在していたが、かくも大量に作られはじめたのは日本映画史上、はじめてである[1]。この名称が定着すると、それはヤクザ者を主人公とするあらゆる映画への適用範囲を広げ、以前は「股旅映画」と呼ばれていた類の時代劇から、戦後を背景としたギャング映画や不良少年映画までも、ヤクザ映画と呼ばれるようになったのが、1970年以降[1]。東映を中心とした1960年代の「やくざ映画」は「任侠映画」と呼ばれるが、「任侠映画」という呼称は1970年前後の文献に見られる[2][3]

1973年に『仁義なき戦い』が封切られると、義理人情に厚いヤクザではなく、利害得失で動く現実的なヤクザ社会を描く映画を「実録シリーズ、または実録ヤクザ映画」と呼び、それまでのヤクザ映画を“任侠映画”と区別されるようになった。これらの映画は東映作品を指すケースが多く[4]、1960年代に始まって同年代後半にはプログラムピクチャーの過半を占めるまでに繁栄し、1970年代になると衰退していった特殊な映画ジャンルと評されている[4]

東映任侠路線

1963年の東映東京撮影所による『人生劇場 飛車角』を皮切りに、義理人情に厚くヤクザの人間模様を描く作品が続々と製作されていった。同撮影所では『網走番外地シリーズ』、『昭和残侠伝シリーズ』、『子守唄シリーズ』、『現代やくざシリーズ』、『関東テキヤ一家シリーズ』を、高倉健・千葉真一菅原文太の主演で、石井輝男佐伯清鷹森立一降旗康男鈴木則文が監督として参画している。

一方の東映京都撮影所1950年代時代劇ブームで絶好調だったものの、1961年1962年に、無精髭を生やした三船敏郎主演の本格時代劇『用心棒』、『椿三十郎』がヒットすると、東映京都で製作された時代劇では浪人も貧しい町人もヤクザもきれいな厚化粧をしており、で斬ってもも出ない旧来の歌舞伎なため、客足はみるみる減っていった。「時代劇の東映」と言われ、観客動員No.1だった東映は、他社のように現代劇でカバーできず、深刻な影響を受けた。 京都撮影所では、客が入らなくなっていた時代劇を止め、ヤクザ映画に切り替え、量産し始める[1][5]。『博徒シリーズ』、『日本侠客伝シリーズ』、『極道シリーズ』、『緋牡丹博徒シリーズ』を鶴田浩二・高倉・若山富三郎藤純子の主演で、メガホン小沢茂弘マキノ雅弘山下耕作・鈴木・加藤泰が執った。

両撮影所の上記作品には、助演として嵐寛寿郎丹波哲郎池部良安部徹田中邦衛待田京介山城新伍梅宮辰夫三田佳子松方弘樹大原麗子渡瀬恒彦らが出演していた。映画プロデューサーには岡田茂俊藤浩滋がおり[5][6][7]、特に俊藤は任侠路線を定着させ、次々とヒット作を世に送り出し、その功績は大きい[8]。1970年代前半までサラリーマン・自営業・職人から本業のヤクザ学生運動の闘士たちにまで人気があり、「一日の運動が終わると映画館に直行し、映画に喝采を送った」という学生もいた[9]。1968年の東京大学駒場際のポスターでは『昭和残侠伝 唐獅子牡丹』の主題歌の歌詞を捩った「とめてくれるなおっかさん/背中のいちょうが泣いている/男東大どこへ行く」というキャッチコピーが掲げられるなど[10]、東映任侠映画は時代の空気をいっぱいに孕んだサブカル的アイコンでさえあった。

松竹・東宝

ホームドラマ・文芸作品が得意の松竹はジリ貧だったが、1960年代中盤に安藤昇主演の『血と掟』など、僅かながらヤクザ映画が制作される。渥美清がTVで演じたテキヤが主人公の『男はつらいよ』を1969年に映画化し、成功。ヤクザ臭をなくし松竹得意のほのぼのとした人情喜劇とし、1990年代まで続くロングシリーズとなった。

東宝は、1960年代には鶴田浩二主演の『暗黒街』シリーズを制作。1971年には傍系会社の東京映画が東映の倍以上の予算をかけ、仲代達矢主演(脇には他社では主演級の安藤・丹波・江波杏子らを揃えた)の『出所祝い』を制作した。しかし、同時期に東映が制作した高倉の『昭和残侠伝 吼えろ唐獅子』の前に惨敗。その後はヤクザ路線から撤退し、東宝が得意とする特撮映画『ゴジラ』シリーズや『日本沈没』『ノストラダムスの大予言』といったパニック映画を制作した。

日活・大映

深刻な客離れにあった日活は、石原裕次郎小林旭高橋英樹渡哲也野川由美子らを主演にしたヤクザ映画を量産したが、いずれも東映ヤクザ映画の人気には遠く及ばなかった[11]。ただし、渡哲也の『無頼』シリーズはB級映画を称揚する1970年代ならではの天の邪鬼な気分の中でカルト的な支持を集め[12]、東映が同じ藤田五郎原作の『仁義の墓場』を制作する下地となった。

大映は、江波杏子の『女賭博師』シリーズや勝新太郎の『座頭市シリーズ』『悪名シリーズ』がヒットしたが、『悪名』に出演していた田宮二郎が1968年に大映を離れ、翌年に『若親分シリーズ』の市川雷蔵が病死した頃には苦境に陥っていた。ヤクザ映画ブームの流れに乗り、延命のため「ダイニチ映配」を設立してヤクザ映画を市場へ供給した両社だったが、1971年に大映は倒産。日活も同年からロマンポルノ路線に転進し、石原裕次郎ら主力俳優は日活を離れた。

その後

1980年代からレンタルビデオによる映画供給が可能となった。これを受けて東映は、映画館での上映を考慮せず、ビデオカセットのみで発売される作品として、東映の子会社「東映ビデオ」から「Vシネマ」と呼ばれる多数のヤクザ映画を発売し、成功をおさめた。それに追従してGPミュージアムソフトなど、独立系のビデオ映画の制作会社が多数設立された。哀川翔竹内力・松方弘樹・小沢仁志清水健太郎中条きよし白竜清水宏次朗的場浩司ら主演の、低予算ヤクザ映画が量産され、『難波金融伝・ミナミの帝王』など「金融ヤクザ映画」とも呼ぶべき新ジャンルも存在する。

日本のヤクザ映画は海外でも注目を集め、その影響を強く受けた映画も登場した。ハリウッドではロバート・ミッチャムが、高倉健主演の『ザ・ヤクザ』や『ブラック・レイン』(1989年)を制作。米国以外ではフランスイタリア香港台湾韓国でヤクザ映画を意識した作品が製作されている。代表的な監督にはクエンティン・タランティーノがいる(キル・ビルなど多数)。

現在はレンタルビデオ・DVDでの鑑賞が中心だが、かつては「ヤクザ映画」の上映に特化した映画館もあった。東京では新宿昭和館2002年閉館)・浅草名画座[1]2012年10月閉館)、大阪の新世界東映日劇会館(2012年8月にゲイ映画館に転換)、神戸の福原国際東映(現在は成人映画を上映)などが有名であった。

2006年4月より経済産業省の指導でCESAコンピュータソフトウェア倫理機構日本アミューズメントマシン工業協会映倫管理委員会日本ビデオ倫理協会映像コンテンツ倫理連絡会議(仮称)において審査基準・表示の一本化を協議することが決定している。それに伴い、年齢指定が変わる可能性がある。

沖縄県では1990年代前半に県内で起きた暴力団抗争以後、テレビ放送並びに上映を自粛している。東京キー局でテレビ放送される場合は、沖縄のみ差し替えられることも少なくない(特に他系列ネットの場合)。一例を挙げると日本テレビ系「金曜ロードショー」でネットされた『極道の妻たち』を琉球放送TBS系)が別の番組に差し替えている。

暴力団対策法施行以後は全国の地上波テレビにおいてヤクザ映画(特に実録もの)に関しては、再放映でも放映することが極めて困難であるとされ、菅原文太が死去した際にも『仁義なき戦い』等数多くのヤクザ映画の出演映像は放送されなかった。高倉健松方弘樹の死去の際も同様にヤクザ映画の出演映像は一切放送されなかった[13]。現在では、F2層を中心とした視聴者の反発、スポンサーやコンプライアンスの問題からテレビにおいてヤクザそのものを取り上げることがタブーとなっているという。

ただし、女性層の視聴が見込める作品は放映されることがあり、最近では2020年11月13日にBS日テレで『鬼龍院花子の生涯』が、2021年1月30日にBS-TBSで『極道の妻たち 最後の戦い』がそれぞれ放映された。

脚注

  1. ^ a b c d e f #キネ旬1971810、116-126頁
  2. ^ 楠本憲吉編『任侠映画の世界』荒地出版社、1969年。
  3. ^ 『キネマ旬報増刊』1971年3月20日号「任侠映画大全集」など。
  4. ^ a b #女優富司、83頁
  5. ^ a b 歴史|東映株式会社〔任侠・実録〕[リンク切れ]
  6. ^ NBonlineプレミアム : 【岡田茂・東映相談役】[リンク切れ]
  7. ^ 東映任俠映画を生み出した名監督・名プロデューサーたち - 隔週刊 東映任侠映画傑作DVDコレクション - DeAGOSTINI
  8. ^ 伊藤博敏 (2014年12月4日). “高倉健、菅原文太の相次ぐ死で甦る東映『やくざ映画』名プロデューサー俊藤浩滋の功績”. 現代ビジネス. 講談社. 2020年8月10日閲覧。
  9. ^ 東映京都のあゆみ - 東映京都ナビ[リンク切れ]
  10. ^ 第19回駒場祭(1968年:昭和43年)”. 駒場際情報館. 2020年11月16日閲覧。
  11. ^ トークセッション「撮影所の流儀・日活篇」【4】 - 日本映画監督協会 - Directors Guild of Japan[リンク切れ]
  12. ^ 西脇英夫は1976年に上梓した『アウトローの挽歌』(白川書院)において「延々とくりひろげられる追っかけ、泥まみれ、血まみれになり、斬られても斬られても立ち上がり、短い、あまりにも短いドスをふりかざしていどんでくる醜悪さ。目を真っ赤に充血させ、鼻の穴をふくらまし、青筋を立てて飛びかかって来る渡の顔には、鶴田浩二の冷ややかさも、高倉健の豪放さもなく、狂気としか言いようのない孤独な寂しさがある」といかにも1970年代的な分析を披露している。
  13. ^ “松方弘樹の追悼番組でも出せない……「ヤクザ映画」をめぐるテレビの厳しい現状とは”. 日刊サイゾー (株式会社サイゾー). (2017年2月1日). https://www.cyzo.com/2017/02/post_31320_entry.html 2020年8月10日閲覧。 

参考文献

  • 渡辺武信「任侠藤純子 おんなの詩」『キネマ旬報』1971年8月10日増刊号。 
  • 『女優 富司純子』キネマ旬報社、2013年。ISBN 978-4873764191 
  • 『やくざ映画完全ガイド』コスミック出版 ISBN 978-4774750934
  • 福間健二・山崎幹夫『大ヤクザ映画読本』
  • 斯波司・青山栄『やくざ映画とその時代』 (ちくま新書)
  • 高橋賢『東映実録やくざ映画』
  • 大高宏雄『仁義なき映画列伝』2002年、鹿砦社
  • 山平重樹『任侠映画が青春だった』2004年、徳間書店
  • 山田宏一『日本侠客伝:マキノ雅弘の世界』2007年、ワイズ出版
  • 別冊宝島 (922)『ヤクザが認めた任侠映画』
  • 「ロマンポルノと実録やくざ映画 禁じられた70年代日本映画」樋口尚文 ・著/平凡社新書・刊
  • 山本哲士『高倉健・藤純子の任侠映画と日本情念:憤怒と情愛の美学』2015年、文化科学高等研究院出版局

外部リンク