チャイナドレス

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20世紀以降のチャイナドレスの女性像。
広告絵に描かれたチャイナドレス。

チャイナドレスは、一般的に詰襟で横に深いスリットが入った、女性が着るボディコンシャスワンピース、またはその意匠を反映した衣服を指す。

言葉

日本語のチャイナドレスというのは和製英語であり、英語では mandarin gown 、もしくは cheongsam [ˈʧɔːŋˌsɑːm] という。後者は、男性用女性用問わず丈の長い上着を表す上海語長衫(zǎnze, zansae 、字義は「長い衫」)が香港に伝わり、主に女性用の身体への密着度の比較的高い衣服の意味になり、その広東語発音(イェール式: chèuhngsàam, 長襯衫)と共に英語に採り入れられたものである。なお、中国標準語では長衫拼音: chángshān)は礼服晴れ着として着用される膝丈の男性用上着を指すが、こちらは英語に changshan [ˈʧɑːŋˌsɑːn] として取り入れられている。

中国語では一般的にチャイナドレスに該当する衣服を「旗袍」と表記する。代、支配者であった満州民族八旗という軍事民政一体の組織に編成され、旗人と呼ばれていた。防風防寒を意識した詰め襟の衣服は元々彼らが身につける服であった為、「旗人の着る長い上着」から旗袍と呼ばれるようになった。詰め襟で横裾に切り込みが入った意匠は満州民族民族服のシジギャン(sijigiyan、袍)に由来する。このように旗袍という語は、語源に忠実であれば満州族の伝統的な衣服の内の上着を指すことになるが、現在はこれを旧式旗袍と呼称する。本稿で述べる日本語のチャイナドレスとほぼ同等の衣服を新式旗袍または単に旗袍と呼ぶ。

英語においては、マンダリンドレス(Mandarin dress)やマンダリンガウン(Mandarin gown)とも呼ばれる。

なお、中国や世界各地の華人社会や台湾において、男女を問わず詰め襟、飾りボタンのジャケットを礼装として着用することがある。これは一般に唐装とよばれており、本稿で述べる旗袍すなわち日本語のチャイナドレスの範疇には入らない。

また、マオカラーのジャケットなどは直接唐装の影響を受けて発展したわけではないので、別稿において論ずることとする。合わせ襟を用いた清代以前の伝統的な漢民族服装漢服と呼ばれており、その項目を参照していただきたい。

歴史の写真

定義

生地は羊毛化学繊維等、洋服に採用され得る材質と同等である。

肩のパイピングは袖の布地を分けた洋服風と、一体の布地を断裁した旧式の二種類がある。

襟はおおむね詰め襟だが、旧式旗袍・新式旗袍ともに折り襟も存在する。

左右どちらかに合わせ、脇の高い位置にボタンを配置して止めている大襟、左右の肩と腹部からの3つの布地に分けて胸部をアーチ上に止める枇杷襟、一般的な洋服のように、垂直に襟を付き合わせボタンで止める物など、胸部のデザインは幾種類もある。なお、タイトなチャイナドレスの場合、飾りボタンでは着用が困難で、胸がはだけるおそれもある。そのため前の合わせは単なる装飾に退行し、背中のファスナーを開閉するようにしているものが主流となっている。また、涙滴形のカットを首下にあしらうなどして、合わせを完全に廃止したものもある。

首周りの襟の高さは一様ではない。洋服の襟のような折り襟、襟を廃止した丸首も存在する。チャイナドレスの特徴である詰襟は一般的に女性らしいなで肩のラインを強調するため、高めに設定すると優雅に見られる。そのようなことから1960年代の香港では首を緊縛した高い襟が流行したこともある。

チャイナドレスの意匠にはスリットが重要だが、有閑階層の普段着乃至は外出着として用いられていた例においては、裾はくるぶし、スリットは膝丈が普通であった。現代の芸能界やパーティドレスに着用される物はこの限りではなく、深いスリットを強調したものがむしろ有名となっている。また、マーメードラインにデザインされている場合、デザインの都合上スリットを廃止しているものも多く見られる。

図柄は派手な吉祥図案(縁起の良い動物や文字などを図案化したもの)を採用されていると、日本で一般的にイメージされている。中国および、華僑・華人の間では、むしろ地味な図柄が一般的だが、吉祥を意識した赤系統の生地もしくは、優雅さを意識した薄い色の生地が好まれていた。現在のチャイナドレスはより自由なパターンを取り入れている。

歴史

清代

代に旗人(満州人貴族)の女性の正装は、頭は両把頭または大拉翅にし(旗頭)、服は旗袍、靴は旗鞋である。旗頭は地毛を頭部の両側に張り出させて結う両把頭だったが、清末になるとしだいに大型化し、かつらや布製の疑似頭髪(假頭)を用いるようになった。特に大きなものを大拉翅といい、頭頂部でかぶるようになっており、高さがあり左右に張り出されていてそこに花や房飾りで装飾する。旗鞋は10センチ程のヒールのついた高底の靴である。スリットは騎乗の際に脚を横に出し、前からの風を防ぐ目的があった。

光緒年間、満州族支配への不満を募らせていた漢人社会を慰撫するために、旗袍の一般の着用を許可した。一般庶民には結婚用の衣装として流行した。

中華民国期(1912年 - 1949年)

辛亥革命による1912年中華民国成立後、民族意識(ナショナリズム)の高まりの中、洋装自由さと伝統の折衷を意識して、洋服を旗袍風に改良したデザインが1920年代半ばに登場する。当初のデザインは背心(ベスト)をゆったりと身幅をとり身丈に伸ばしたものであった。発明者が女学生という説、花柳界という説がある。この衣服がチャイナドレスの直接の源流と考えられる。また、スラックスの替わりに西洋風のスカートをあしらった物も女学生のファッションとして流行した。

1920年代に上海租界から流入した西洋文化の影響を受けて発達した新型旗袍は「摩登」(「モダン」)な服装として、中国の女性が従うべき伝統的な「三従四徳」の規範から西洋的な男女平等を表現するための服装として当時の中華民国の人々からは受け止められ、男性からは批判を受けた[1]

1930年代上海にて活躍し、「何日君再来」(1937年)を歌った女性歌手、周璇のチャイナドレス姿。

1930年代に入り、上海にモダンブームが起きる。伝統社会では忌避されてきた腕や脚部を露出する行為が旧社会からの解放として提唱された。日本語のチャイナドレスに該当する衣服はこの時期に登場した新式旗袍を指す物と考えてよい。新式旗袍では、スカートやスラックスを廃止しワンピースに仕立て、スリットから脚部を露出するように改められた。また、胸や腰の曲線を強調するためにタイトなデザインが採用された。チャイナドレスは有閑階級の若い女性や花柳界、芸能界のファッションとして流行した。新式旗袍は上海で流行し始めたので当時は海派旗袍と呼ばれることが多かった。流行は各国の華僑社会、そして戦前の日本のモガにも及んだ。

日中戦争下では戦時中ということもあり、食糧問題や医療問題が衣料供給に優先されたために華美ではない旗袍が流行り[2]、対日戦争末期から終結直後の民国期には男性の「青年装」と並んで、女性には「短旗袍」と呼ばれる非常時向けの活動性を重視した旗袍が推奨され[3]1947年頃の旗袍はファッション性よりも「国民服」的な位置付けが重視される衣装となっていた[4]

中華人民共和国成立以後(1949年 - )

大陸中国においては、1949年10月1日中華人民共和国成立後、1956年百花斉放百家争鳴の時期までは、知識人女性のファッションとして認められていた。しかし、百花斉放百家争鳴による中国共産党批判に衝撃を受けた毛沢東主席が翌1957年反右派闘争を開始すると、旧時代において労働しないことを衒った衣服として、女性の旗袍は男性の長袍とともに否定されるに至った。1958年ルーマニア人民共和国の首都ブカレストで開かれた博覧会場で数十着のチャイナドレスが展示されたのを最後に、公の場で肯定的に扱われることはなくなった。その環境下でも、国家主席となった劉少奇が1963年に東南アジアを歴訪した際に、同行した夫人の王光美は礼装としてチャイナドレスを着用している。これは彼女が「チャイナドレスこそ中国の女性にもっともふさわしい民族服」と考えてのことだった[5]

しかし、1966年より始まった文化大革命では、劉少奇とともに攻撃対象となった王光美に対して、前記のチャイナドレスが「外国に媚びた服装」として批判や揶揄の材料にされた[6]。また、文化大革命期には人民服軍服などの視覚的に男女差社会階級を感じさせない衣服が主流となった[7]。これらの事情のため、文革期には紅衛兵の追求を避けるために、一般家庭では発見される前に所有者自ら古着のチャイナドレスを秘かに廃棄した[8]

1976年の毛沢東主席の死後、鄧小平が実権を掌握し、1978年より改革開放路線が開始されると、1980年代、公式イベントでコンパニオンが深いスリットのチャイナドレスを着用して登場したことが契機となり、チャイナドレスへの偏見は下火となった。

1978年改革開放以後、香港から文物が流入するに伴い、チャイナドレスの第二の興隆期を迎えている。なかでも1997年香港返還が大きな契機となり、2000年公開の香港映画花様年華』の影響もあって女性の間でブームが起きた[9]2001年上海で開催された第13回APEC首脳会議にて中国の「伝統服」として唐装が採用された後、旗袍(チャイナドレス)は中国のマスメディアから「伝統服」の扱いを受けてる[10]

現在では、芸能界やパーティドレスとして着用されることが珍しくなくなっている。生地の柄や刺繍に凝った物が多く、有名デザイナーにより斬新なデザインが次々と発表される中国製チャイナ、花柄飾りボタンが多く民国時代の伝統を残すクラシックな香港製チャイナ、スパンコールを多用する台湾製チャイナなどそれぞれに特徴と風格を有している。

大陸中国以外に於けるチャイナドレス

チャイナドレスは大陸中国に於ける1949年10月1日中華人民共和国成立後、1950年代後半の大躍進政策1966年から始まったプロレタリア文化大革命でのブルジョワ文化迫害に遭い消滅、チャイナドレスの伝統は香港台湾で伝統が引き継がれた。1978年より始まった改革開放路線以後、大陸中国でも復活した。今では大陸中国・香港・台湾それぞれに独特の派生的な発展が見られる。

香港

1960年代から1970年代の何れかの時期に香港で発展を遂げたチャイナドレス。
香港映画の女優、林黛zh:林黛)が着用していたチャイナドレス。

香港や各国華僑社会では、中国共産党支配から逃れてきた知識人有閑階級の女性たちが好んで着用したため、1960年代までは女性の外出着として定着していた。洋装が定着した現在、普段着として着用される様子はほとんど見られないが、礼装としてあるいは各種職業の制服として、独自の発展を遂げたチャイナドレスを見ることはできる。

現在日本に最も影響を与えたチャイナドレスは香港で発展したものである。

台湾

台湾では、戦後中華民国政府による台湾接収に伴い、中国人外省人)が支配階層となった関係で中国文化の影響が強まった。その後、国共内戦に敗北した中国国民党の亡命及び台湾国民政府樹立と共に多くの支配階層知識人階層が渡った。これら当時の上層の女性が好んで着用していた事もあり、台湾にチャイナドレスが外出着として1950年代に普及した。台湾には亡命する支配階層に随行した仕立て職人が多く、生地や縫製の質が高いことでも評価されていた。しかし、日本統治時代から洋装が定着していたため、台湾人本省人)にはあまり普及していない。

さらに1960年代をピークに徐々に流行は下火になり女性の普段着として用いられることはほとんど見られなくなった。しかし、芸能界や飲食業などでは今でも着用した女性を見ることは多い。また、一般の女性の間でも、婚礼などでの礼装のバリエーションとして着用されることはある。日本人の土産物としても人気がある。

華僑

海外の中華街などの土産物店で見かけるチャイナドレスなどは外国向けに量産した輸出用の既製品が多い、現地では本格的なオーダー物を生地から選んで仕立てるのが一般的。

日本

日本では、大正期から昭和戦前期のモガブームの頃からパーティドレスの一種として好まれてきた。

ゲームの影響からチャイナドレスへの興味が高まり、また中国への留学生が増えたこともあり、1990年代後半に一時的にチャイナドレスの意匠をあしらったTシャツやジャケットが流行したことがある。中国・華人社会ほどではないにしても、パーティドレスとして定着している。

その他

  • 日本手話の「中国」はチャイナドレスのデザインを体に描くことから生じている。この民族衣装がいかに印象的であるかを示すひとつの証拠とも言える。
  • ベトナムアオザイ18世紀にベトナムにチャイナドレスが移植され独自の発達を遂げたもの。[要出典]
  • チャイナエアライン客室乗務員の制服は、チャイナドレスをベースにデザインされていた。旅行雑誌等のランキングで常に上位になるほど人気があった。その為、2007年に制服が変更されたがチャイナドレスベースなのは変わっていない。

脚註

  1. ^ 謝黎「第3章 「華」と「洋」のはざまの摩登女子」『チャイナドレスの文化史』青弓社、東京、2011年9月17日第1刷、40-51頁。
  2. ^ 謝黎「第2章 民国中・後期における旗袍の流行」『チャイナドレスをまとう女性たち――旗袍にみる中国の近・現代』青弓社、東京、2004年9月18日第1刷、143-144頁。
  3. ^ 謝黎「第2章 民国中・後期における旗袍の流行」『チャイナドレスをまとう女性たち――旗袍にみる中国の近・現代』青弓社、東京、2004年9月18日第1刷、144-145頁。
  4. ^ 謝黎「第2章 民国中・後期における旗袍の流行」『チャイナドレスをまとう女性たち――旗袍にみる中国の近・現代』青弓社、東京、2004年9月18日第1刷、144-147頁。
  5. ^ 譚璐美『江青に妬まれた女 ファーストレディ王光美の人生』日本放送出版協会、2006年、154頁
  6. ^ 王光美は清華大学での批判大会に連行された際、紅衛兵から侮辱として、服の上から外遊時に着用したチャイナドレスを無理矢理着せられた。
  7. ^ 謝黎「第9章 作られた「民族衣装」と多様な旗袍」『チャイナドレスの文化史』青弓社、東京、2011年9月17日第1刷、118-119頁。
  8. ^ 謝黎「第9章 作られた「民族衣装」と多様な旗袍」『チャイナドレスの文化史』青弓社、東京、2011年9月17日第1刷、119-120頁。
  9. ^ 謝黎「第9章 作られた「民族衣装」と多様な旗袍」『チャイナドレスの文化史』青弓社、東京、2011年9月17日第1刷、122頁。
  10. ^ 謝黎「第9章 作られた「民族衣装」と多様な旗袍」『チャイナドレスの文化史』青弓社、東京、2011年9月17日第1刷、123-125頁。

参考文献

  • 『チャイナ・ガールの1世紀—女性たちの写真が語るもうひとつの中国史』 (ISBN 4883032450)
  • 謝黎『チャイナドレスをまとう女性たち――旗袍にみる中国の近・現代』(第1刷)青弓社東京、2004年9月18日。ISBN 4-7872-3237-1 
  • 謝黎『チャイナドレスの文化史』(第1刷)青弓社東京、2011年9月17日。ISBN 4-7872-3330-1{{ISBN2}}のパラメータエラー: 無効なISBNです。 

関連項目