オアシス (バンド)

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オアシス
Oasis
オアシス(左がリアム・ギャラガー、右がノエル・ギャラガー、後ろのキーボードはジェイ・ダーリントン2005年撮影)
基本情報
出身地 イングランドの旗 イングランドマンチェスター
ジャンル ロック
ブリットポップ
オルタナティヴ・ロック
活動期間 1991年 - 2009年
レーベル クリエイションエピックコロムビアソニーBMGビッグ・ブラザー
共同作業者 ザ・レインビーディ・アイライドヘヴィー・ステレオハリケーン#1
公式サイト www.oasisinet.com
メンバー リアム・ギャラガー
ノエル・ギャラガー
ゲム・アーチャー
アンディ・ベル
クリス・シャーロック
旧メンバー ザック・スターキー
アラン・ホワイト
ポール・ "ボーンヘッド" ・アーサーズ
ポール・ "ギグジー" ・マッギーガン
トニー・マッキャロル
ビートルズ

オアシス(Oasis)は、イギリスロックバンド1991年結成。2009年解散。

概要

ビートルズローリング・ストーンズなどから続く正統派ブリティッシュ・ロックを踏襲した、ブリットポップ・ムーブメントの代表格であり、近年のイギリスの国民的ロックバンド。世界的にも人気があり、全世界でのCDトータルセールスは7000万枚を超える(2009年時点)[1]

バンドの核となるギタリストのノエルとボーカルのリアムからなるギャラガー兄弟は、同じくアイルランド系・労働者階級出身であるビートルズを大変敬愛している。「アイ・アム・ザ・ウォルラス」や「ヘルター・スケルター」などを時折演奏する他、ファッションや自身の曲に於いてもその影響を見ることができる。また、そのスキャンダラスな言動は常に人々の注目を集めた。

ファッションにおいても多くの若者の注目を集めた。それまでエルヴィス・プレスリーがリーゼントで固めた頭に革ジャンを、パンク・ロックが切り裂かれたTシャツとロックバンドは得てして「反社会的」「非日常的」とされる出で立ちで身を固めていたが、オアシスはウインドブレーカーやジャージといった労働者階級の普段着を着てライブやインタビューに臨んでいたことは新鮮であった。

2009年8月にノエルが脱退を表明したことで事実上解散。2010年、残されたメンバーは新バンド「ビーディ・アイ」を結成した。

メンバー

最終メンバー

旧メンバー

スティーヴ・ホワイト(元ザ・スタイル・カウンシル、現ポール・ウェラーバックバンドのドラマー)の実弟。イエスの同名ドラマーとは別人。2004年脱退。
オアシスの初期メンバーの1人。1999年脱退[2]
オアシスの初期メンバーの1人。1999年脱退[3]
オアシスの初期メンバーの1人。1995年脱退(事実上解雇)。

サポートメンバー

アランの脱退後、7thアルバムの収録まで参加。リンゴ・スターの息子。
元クーラー・シェイカーのオルガン担当。2010年のノエルのソロライブにゲムと共に参加。

来歴

  • ポール・ "ボーンヘッド" ・アーサーズ、ポール・ "ギグジー" ・マッギーガン、クリス・ハットン(ヴォーカル)が前身バンド「ザ・レイン」を結成。ザ・レインの初演は、地元マンチェスターのバーネイジにあるカードゲームクラブで、ドラムマシンを使って行われた。後に、ドラマーとしてトニー・マッキャロルが加わる。
1991年
  • 音楽関係の仕事をしていたノエル・ギャラガーのコネを狙って、ボーンヘッドがクリスをクビにし代わりにリアム・ギャラガーを加入させ、リアムはバンド名をオアシスと改名(ギャラガー兄弟の寝室に貼ってあったオールダムのインディー・ロックバンド、インスパイラル・カーペッツのツアーポスターに由来している。ポスターには、開催地の1つとしてスウィンドンのオアシス・レジャー・センターが記載されていた)。
  • 8月、マンチェスターのボードウォーククラブにて、オアシス初のステージに立つ。リアムの実兄であり、インスパイラル・カーペッツのローディーであったノエルがライヴを観に来る。その後、すべてのリーダーシップを自分に委ねることを条件にバンドに加入。
1993年
1994年
1995年
1996年
  • 『モーニング・グローリー』からの3作目のシングル「ワンダーウォール」がアメリカでもじわじわとチャートを上昇。オアシスは、初秋のアメリカMTVアウォードでベストグループを受賞。
  • 4月、「マンチェスターメイン・ロード 2days」を行い、8万人を動員。
  • 5月、海外向けにシングル「シャンペン・スーパーノヴァ」をリリース。
  • 8月、ロンドン郊外のネブワースにて2日間で25万人を集める(250万件の予約が殺到した)。『MTVアンプラグド』に出演した際、収録直前にリアムが喉の不調を訴えキャンセル。代わりにノエルが全曲で歌を披露した。4日後、リアムがアメリカツアーに行くことを拒否したため、ノエルをボーカルに据えてツアーに出発する。その後、リアムがバンドに合流するが、数週間後に今度はノエルがバンドを残して飛行機で帰宅してしまう。メディアにはバンド解散かと騒がれたが、兄弟はすぐに和解し残りのツアーを終えた。
1997年
  • 8月、3rdアルバム『ビィ・ヒア・ナウ』発売。UKチャート1位、USチャート2位、オリコンチャート3位。UK最速セールス記録を更新。
1998年
1999年
  • 8月、ボーンヘッドが脱退[5]。2週間後、後を追うようにギグジーが脱退。ノエルはボーンヘッドのギターとギグジーベースのパートを録り直す。
  • 12月、元ヘヴィ・ステレオのゲム・アーチャーが加入。元ライド、ハリケーン#1のギタリスト、アンディ・ベルがギグジーの後任として加入する。デビュー以来所属していたクリエイション・レコーズが倒産。
2000年
  • 2月、4thアルバム『スタンディング・オン・ザ・ショルダー・オブ・ジャイアンツ』を発売。UKチャート初登場1位。前年のクリエイション・レコーズ倒産に伴い、この年から自ら立ち上げたレーベル・ビッグ・ブラザーからのリリース。CDリリースと同時にワールドツアーを横浜アリーナよりスタートさせる。マリンメッセ福岡公演ではリアムが、体調不良を訴えて途中で退場している。
  • 5月、ワールドツアー中、アランが腕を痛めバルセロナでの公演をキャンセルする。バンドメンバーは代わりに飲み明かすが、リアムが当時のノエルの妻メグ・マシューズを侮辱し始め、「アナイスの父親は本当にノエルなのか」とノエルに疑問を投げかけ、殴り合いに発展する。ノエルはバンドを一時離脱、過去最大の解散危機を迎える[6]。急遽、代役のギタリストとしてマット・デイトンを起用。バンド史上初めてノエル抜きでライヴが行われる。このときの「アクイース」はノエルパートを丸々観客に歌わせていた。
  • 11月、ノエル復帰後、ロンドン(ウェンブリー・スタジアム)での公演を収録したライヴアルバムとライヴDVD『ファミリアー・トゥ・ミリオンズ』を発売。CD2枚組と1枚組が存在する。ウェンブリー・スタジアムでは7月に2日間コンサートが行われ、リアムの調子が良かった1日目がライヴアルバム、DVDとしてリリースされた。2日目は二日酔いのリアムがフラフラでステージに立つシーンが見られる。このときの模様は有料放送でヨーロッパ中に放映され、日本でもWOWOWが放映した。リアムは「2日公演なのを知らなかった」と弁明。
2001年
  • 初頭、南米ツアーをスタート。
  • 5月、ブラック・クロウズ、スペイスホッグと北米ジョイントツアー「Brotherly Love ツアー」を敢行[7]。このツアーのみアラン・ホワイトが怪我の為出演できず、アランの実兄のスティーブ・ホワイトが代役を務めた。
  • 7月、フジロック・フェスティバルで初日のヘッドライナーを務める。また、秋から冬にかけてバンド結成10周年小規模クラスのツアー「10 Years of Noise and Confusion Tour」が行われた。
2002年
  • 5月、『MTV THE SUPER DRY LIVE』、『MTV Video Music Awards Japan 2002』出演を含めたプロモーションで来日。
  • 7月、5thアルバム『ヒーザン・ケミストリー』発売。UKチャートで1位を獲得。
  • 8月、ノエルとアンディ、ジェイ・ダーリントンを乗せたタクシーが衝突事故を起こす[8]
  • 9月 - 10月、東京(代々木第一体育館)、福岡、大阪、仙台、広島で来日ツアーを敢行。福岡公演(福岡国際センター)では前回のライヴに続いて(そのときとは事情が違うものの)、リアムが途中退場するハプニングもあった[9]
  • 12月、ミュンヘンのナイトクラブでリアムとアラン、バンド関係者3人が乱闘を起こし逮捕される[10][11]。リアムは前歯を2本失い、警察官の胸部を蹴りつけた。アランは灰皿で頭を殴られ軽症を負った。バンドメンバーは大量にアルコールを摂取しており、リアムはコカインを使用していた[12]。2年後、リアムは3万5000ポンド(約700万円)の罰金を支払った[13]
2004年
  • 1月、アラン・ホワイトが脱退。元ビートルズのリンゴ・スターの息子ザック・スターキーが、サポート・ドラマーとして参加。
  • 6月、9年ぶりにグラストンベリー・フェスティバルに出演するが、評判はあまり良くなかった[14]
  • 10月 - 12月、デイヴ・サーディとスタジオ入りする。
2005年
2006年
2007年
2008年
  • 5月、ザック・スターキーが、ザ・フー専念ため離脱。代わりにクリス・シャーロックが加入。
  • 9月、シングル「ザ・ショック・オブ・ザ・ ライトニング」リリース。
  • 10月、アルバム『ディグ・アウト・ユア・ソウル』をリリース。イギリスではスタジオアルバムがデビュー作から7作連続で1位、アメリカでは『ビィ・ヒア・ナウ』以来11年ぶりのトップ10入りとなる5位を獲得。
2009年
  • 3月、3年半ぶりとなる来日公演を敢行。それに伴い、「ミュージック・ステーション」に出演。
  • 6月、リアムがファッション・ブランド「Pretty Green」を設立。
  • 7月、フジロック・フェスティバルのヘッドライナーを務める。
  • 8月、ノエル・ギャラガーが公式ウェブサイト上で脱退を表明した[16]。オアシスが解散状態となる。
  • 11月、リアムは残されたメンバー(リアム、ゲム、アンディ、クリス)と共に、新たに次のアルバムのレコーディングを行うことを発表。
2010年
  • 1月、リアムは、次のアルバムに向けての新曲を数曲書き上げ、アルバムは2010年内にリリースすることを発表。また、当初はオアシスとして活動を継続する予定であったが、結局新たなバンド名で活動することを明らかにした(事実上、これがオアシスの解散宣言となった)。
  • 2月、ブリット・アワードにて、アルバム『モーニング・グローリー』で「過去30年間でのベスト・アルバム」を受賞。
  • 5月、リアムは公式サイトなどにて新バンド名「ビーディ・アイ」を発表。
  • 6月、初のシングル・コレクション『タイム・フライズ…1994-2009』を発表。これまで全てのアルバムに収録されていなかった「ホワットエヴァー」「ロード・ドント・スロー・ミー・ダウン」を含む全26曲(日本盤は全27曲、隠しトラックも含めると全28曲)が収録されている。UKチャート1位、日本ではオリコン初登場2位を記録。
2014年
  • デビュー20周年を記念し、1994年~1997年の活動を振り返る「チェイシング・ザ・サン」プロジェクトが始動[17]。オアシス初期のアルバム『オアシス』『モーニング・グローリー』『ビィ・ヒア・ナウ』の3作のリマスター盤が連続リリースされる。

ディスコグラフィー

スタジオ・アルバム

ライブ・アルバム

コンピレーション・アルバム

その他

  • ノエルギャラガーはデビュー当時からU2を目標としており、オアシスの将来について「アメリカでもイギリスと同じように成功し、U2になるのが俺のデカイ夢」と話していた
  • デビュー後オアシスのロゴは3度にわたり変更されており、現在のロゴは4代目。
  • ノエルの前妻メグ・マシューズとジョニー・デップの元恋人であったケイト・モスは友人であることから、ジョニー・デップとノエルは親交があり、その縁もあって、デップはオアシスの3rdアルバム『ビィ・ヒア・ナウ』収録の「フェイド・イン・アウト」にスライドギターで参加している。その礼としてデップは「P」という文字の入った白いギターをノエルに贈っている。
  • 1995年にBBCのテレビ番組『トップ・オブ・ザ・ポップス』に出演して「ロール・ウィズ・イット」を演奏した際、口パクであることをネタにして、兄弟の役割を入れ替え、リアムがギターを弾くふりをし、ノエルがリードヴォーカルとして歌った(歌うふりをした)ことがある。これはブリットポップ期に、ブラーの「カントリー・ハウス」とシングル順位を争った際に負けたためである。
  • オアシスから影響、インスピレーションを受けていると公言しているアーティストに、アークティック・モンキーズ[18]キラーズ[19]ザ・コーラル[20]カサビアンザ・ビュー[21]などが挙げられる。グラスゴー出身であるオアシスのトリビュート・バンドNo Way Sisは、EP『アイド・ライク・トゥ・ティーチ・ザ・ワールド・トゥ・シング』をリリースしUKチャート40位を記録した。この曲はザ・ニュー・シーカーズの曲(邦題「愛するハーモニー」)をオアシス風にカヴァーしたものである。日本のバンドlittle by littleは、オアシスの曲「リトル・バイ・リトル」からバンド名を得ている[22]
  • 意外な所では、メタリカラーズ・ウルリッヒサッカーアルゼンチン代表リオネル・メッシ、サッカーポルトガル代表のクリスティアーノ・ロナウド、元サッカーイタリア代表のアレッサンドロ・デル・ピエロ、元サッカー日本代表の松田直樹お笑い芸人東野幸治らもオアシスのファンとして有名である。マリリン・マンソンとも交遊があり、ライブにノエルとリアムが招待された。
  • カート・コバーンの一人娘も好きなミュージシャンの一人にオアシスを挙げている[23]

脚注

  1. ^ Some might say Oasis are still world beaters after Slane gig”. The Belfast Telegraph (2009年6月22日). 2010年5月4日閲覧。
  2. ^ 公式サイトでは『家族とのもっと多くの時間を過ごしたいため』と説明されている。以降は地道に音楽活動をつづけながら、故郷・マンチェスターで暮らしている。地元のバンドにも参加していたが、2010年頃を持って離脱した。
  3. ^ ノエルによると、バンドを抜けたいという内容のファックスを突然もらって以来、すっかり連絡がつかなくなったらしい。以降は特に目立った活動は見られなかったが、近年ではロンドンのクラブでDJ活動をしているとのことである。
  4. ^ Oasis/アーティスト ニュース情報/HMV
  5. ^ Oasis ボーンヘッド脱退の真相」 VIBE-NET.COM ニュース、2000年8月18日。
  6. ^ オアシスのNoel Gallagher、Liamは“バカ”発言」 BARKS、2000年6月14日。
  7. ^ Oasis 『兄弟愛ツアー』いよいよ幕開け」 VIBE-NET.COM ニュース、2001年5月14日。
  8. ^ オアシスのメンバーが交通事故でケガ」 BARKS、2002年08月8日。
  9. ^ Oasis リアムとノエル6週間も口きかず!」 VIBE-NET.COM ニュース、2002年11月21日。
  10. ^ オアシスのリアム、乱闘で歯を折りショウをキャンセル」 BARKS、2002年12月3日。
  11. ^ オアシス、ドイツ公演の日程をさらに延期。リアムが警官を蹴ったとドイツ警察が発言」 BARKS、2002年12月5日。
  12. ^ オアシスのリアム、暴行事件時に薬物を使用していた」 BARKS、2004年5月6日。
  13. ^ オアシスのリアム、暴行事件で700万円の罰金」 BARKS、2004年11月24日。
  14. ^ グラストン主催者、オアシスのステージに失望」 BARKS、2004年7月2日。
  15. ^ Oasis 過去10年のチャートで最も成功したバンドに認定!」VIBE-NET.COM ニュース、2005年5月24日。
  16. ^ A STATEMENT FROM NOEL” (2009年8月28日). 2009年8月29日閲覧。
  17. ^ 公式ではこの4年間を「オアシスがデビューしてから世界的な現象になるまでの最重要期間」としている。
  18. ^ 「Arctic Monkeys - Norway Interview with VGTV」
  19. ^ IN DEPTH: killers rising, Mike Kalil, Review Journal」 2005年9月18日。
  20. ^ The Coral's official Myspace
  21. ^ The View、「すべてはオアシスのおかげ」」 BARKS、2007年3月28日。
  22. ^ little by little - goo 音
  23. ^ http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20150409-00010010-jisin-ent」

外部リンク