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「シリウスシンボリ」の版間の差分

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== 競走馬時代 ==
== 競走馬時代 ==
=== デビュー前 ===
[[週刊ギャロップ]]初代編集長の[[芹澤邦雄]]は、[[シンボリルドルフ]]が2冠を達成したばかりの頃に、[[野平祐二|野平調教師]]と共に[[シンボリ牧場]]を訪ね、牧場の調教スタッフで元騎手である[[渡辺実]]に「来年のクラシックで期待する2歳馬がいますか」と尋ねたところ、即座に「いるよ。馬名はシリウスシンボリ。[[モガミ]]と[[スイートエプソム]]の子だよ。ルドルフまでとはいかんかもしれんが、それに近い動きをしているんだ」と応えたという<ref>井崎 脩五郎『60YEARS 名馬伝説〈下〉スーパーホースたちの栄光と遺産 1954‐1993』(トレンドシェア、2014年)</ref>。

=== 3歳 ===
=== 3歳 ===
[[1984年]][[9月16日]]、[[中山競馬場]]の[[新馬|新馬戦]]にて[[加藤和宏 (JRA)|加藤和宏]]騎乗でデビュー。出遅れながらも1着になり、デビュー勝ちを収めた。2走目の芙蓉特別は1位入線も[[斜行]]により失格、3走目の[[いちょうステークス|いちょう特別]]は第4コーナーで不利を受けたのが原因で2着と敗れるが、[[東京スポーツ杯2歳ステークス|府中3歳ステークス]]でクビ差で競り勝、この年を終えていた。
[[1984年]][[9月16日]]、[[中山競馬場]]の[[新馬|新馬戦]]にて[[加藤和宏 (JRA)|加藤和宏]]騎乗でデビュー。出遅れながらも1着になり、デビュー勝ちを収めた。2走目の芙蓉特別は1位入線も[[斜行]]により失格、3走目の[[いちょうステークス|いちょう特別]]は第4コーナーで不利を受けたのが原因で2着と敗れるが、[[東京スポーツ杯2歳ステークス|府中3歳ステークス]]でクビ差で競り勝った。[[朝日杯フューチュリティステークス|朝日杯3歳S]]に出走を予定していたが、脚部不安([[繋靭帯炎|左前繋靭帯]])で回避し、この年を終えた<ref>『優駿』1985年3月号P44</ref>


=== 4歳春 ===
=== 4歳春 ===
[[シリウスシンボリ#転厩騒動|後述する転厩騒動]]後の[[若葉ステークス|若葉賞]]は、[[岡部幸雄]]が騎乗し勝利したものの、[[皐月賞]]は移籍騒動の影響で出走できなかった。鞍上が加藤にった日本ダービーでは、皐月賞を5馬身差で優勝した[[ミホシンザン]]が骨折で回避した事もあり、[[投票券 (公営競技)#単勝式|単勝]]1番[[人気]]に推された。レースでは[[スダホーク]]を3[[着差 (競馬)|馬身差]]で下し優勝した。
[[シリウスシンボリ#転厩騒動|後述する転厩騒動]]後の[[若葉ステークス|若葉賞]]は、[[岡部幸雄]]が騎乗し勝利した[[皐月賞]]は出走登録をしたものの、脚部不安<ref> 『優駿』1987年7月号P58</ref>、あるいは移籍騒動の影響で出走できなかった{{efn|『優駿』1985年4月号には、「皐月賞出走馬特集」としてシリウスシンボリの記事掲載されている}}<ref>『優駿』1985年4月号</ref>。[[NHK杯]]からは再び加藤とのコンビで復活すること決まったが、脚部不安([[挫跖]])で回避し<ref> 『優駿』1987年7月号P58 </ref>、[[東京優駿|日本ダービー]]では、皐月賞を5馬身差で優勝した[[ミホシンザン]]が骨折で回避した事もあり、[[投票券 (公営競技)#単勝式|単勝]]1番[[人気]]に推された。レースでは[[スダホーク]]を3[[着差 (競馬)|馬身差]]で下し優勝した。この時、[[馬主]]の[[和田共弘]]は風邪気味であり、自身の代わりに妻の[[和田容子]]と[[桐沢正好]]牧場長を遣わしていた<ref>『優駿』1985年8月号135P</ref>


=== 欧州遠征(4歳秋 - 6歳春) ===
=== 欧州遠征(4歳秋 - 6歳春) ===
日本ダービーを優勝したシリウスシンボリは[[シンボリルドルフ]]に帯同して海外に遠征する予定であったが、シンボリルドルフが故障により遠征を中止したため、単独で渡欧した。
日本ダービーを優勝したシリウスシンボリは[[シンボリルドルフ]]に帯同して海外に遠征する予定であったが、シンボリルドルフが故障により遠征を中止したため、単独で渡欧した。
シリウスの遠征の際に[[イギリス]]で入厩したのはジョン・ウィンター厩舎である。和田とジョン・ウィンターには、[[スピードシンボリ]]がイギリスに遠征した時からの交友関係があった<ref>『優駿』1985年9月号P57.58</ref>。


イギリスに渡航してはじめてのレースである[[キングジョージ6世&クイーンエリザベスステークス]]は8着に終わった。鞍から下りた岡部に、イギリスの記者が敗因を聞きに来た際に、岡部は「He likes soft(彼は軟らかい馬場が好きなんだ)」と答えた<ref>『優駿』1985年9月号P7.8</ref>。また岡部は「芝が深いイギリスの馬場。その石灰岩質の土はゴツゴツして荒っぽく、デコボコだ。日本ダービーを制したシリウスにも、いきなりこの馬場はきつすぎた。日本の馬場は芝が短く、硬めの土で丹念に整地されている。とても記録の出やすい馬場だ。何もかも至れりつくせりの環境の中で走っている日本の馬の状況に、ボクは疑問を感じた」と述べている。さらに観戦に来ていた日本の記者に「もし[[シンボリルドルフ]]が出場できていたら何着に入れていただろうか」と尋ねられた際に、「わからない。しかし、シリウスには申しわけないが、ルドルフとシリウスでは格段の差がある。はっきり言ってものが違うという感がある。天と地ほどの差だ。タイプとしても違う。シリウスがプロレスラータイプなら、ルドルフはボクサータイプ。日本から英国へ渡れば急激な環境の変化がある。だから、ハンディはあるが、1着になったペトスキー、2着のオーソーシャープ、レインボークエストの1着争い。この一角には必ず食いこめたはずとボクは秘かに思っている」と答えた<ref> 岡部 幸雄『ルドルフの背』(池田書店、1986年)</ref>。芹沢は、当レースの解説をしていた[[野平裕二]]との対談の中で「出発前は、シンボリ牧場の関係者は一様に『シリウスは力強い走りっぷりをするので、ルドルフよりもヨーロッパの馬場が向いている』と言っていましたが、実際はその逆でした」と述べている<ref>『優駿』1985年9月号P103.104</ref>。野平は、同対談の中で、「日本人の記者が今回、シリウスを預かったウインター調教師に[[スピードシンボリ]]と比較してどうかという質問をしたら、『シリウスはまだ子供。スピードシンボリは完成していた。スピードシンボリの方が間違いなく上位だ』と断言した」と述べている<ref>『優駿』1985年9月号P103.104</ref>。
4歳時[[キングジョージ6世&クイーンエリザベスステークス]]8着、[[バーデン大賞]]4着、プランスドランジュ賞6着、[[ロワイヤルオーク賞]]3着に終わった。なお、キングジョージとバーデン大賞までは岡部が騎乗している。

その後は、[[バーデン大賞]]4着、プランスドランジュ賞6着、[[ロワイヤルオーク賞]]3着に終わった。なお、キングジョージとバーデン大賞までは岡部が騎乗している。
5歳時はエドゥヴィユ賞5着、シーシック賞では1番人気に推されたが3着、[[ミラノ大賞典]]5着、ゴントービロン賞4着、[[フォワ賞]]2着、コンセイユドパリ賞4着。[[凱旋門賞]]にも出走したが、[[ダンシングブレーヴ]]の14着に終わっている。
5歳時はエドゥヴィユ賞5着、シーシック賞では1番人気に推されたが3着、[[ミラノ大賞典]]5着、ゴントービロン賞4着、[[フォワ賞]]2着、コンセイユドパリ賞4着。[[凱旋門賞]]にも出走したが、[[ダンシングブレーヴ]]の14着に終わっている。
6歳時はエドモンブラン賞4着、アルクール賞8着、[[ガネー賞]]7着に終わり、このガネー賞を最後にシリウスシンボリは帰国した。
6歳時はエドモンブラン賞4着、アルクール賞8着、[[ガネー賞]]7着に終わり、このガネー賞を最後にシリウスシンボリは帰国した。
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帰国したシリウスシンボリは鞍上を加藤に戻して[[毎日王冠]]で復帰したが8着、[[天皇賞(秋)]]では勝った[[ニッポーテイオー]]から1.7秒も離された9着に終わった。
帰国したシリウスシンボリは鞍上を加藤に戻して[[毎日王冠]]で復帰したが8着、[[天皇賞(秋)]]では勝った[[ニッポーテイオー]]から1.7秒も離された9着に終わった。
翌年も現役を続行し、夏の[[函館競馬場|函館]]開催から復帰したが、オープン特別の[[青函トンネル]]開通記念2着を経て出走した[[函館記念]]ではレコード勝ちした[[サッカーボーイ]]から1.4秒離された4着に終わった。
翌年も現役を続行し、夏の[[函館競馬場|函館]]開催から復帰したが、オープン特別の[[青函トンネル]]開通記念2着を経て出走した[[函館記念]]ではレコード勝ちした[[サッカーボーイ]]から1.4秒離された4着に終わった。
続く毎日王冠では、ゲート入り前に[[レジェンドテイオー]]と[[ダイナアクトレス]]を蹴り、レジェンドテイオーを発走除外に追い込む事件を起こし、レース後に厩務員同士が喧嘩する事態にまで発展した。ただし、このレースでは[[オグリキャップ]]の2着と好走した。そして、天皇賞(秋)で7着に終わった後に骨折が判明し、現役を引退した。
続く毎日王冠では、ゲート入り前に[[レジェンドテイオー]]と[[ダイナアクトレス]]を蹴り、レジェンドテイオーを発走除外に追い込む事件を起こし、レース後に厩務員同士が喧嘩する事態にまで発展した。シリウス自身は、このレースでは[[オグリキャップ]]の2着と好走した。そして、天皇賞(秋)で7着に終わった後に骨折が判明し、現役を引退した。

== 競走成績 ==
== 競走成績 ==
以下の内容は、[[netkeiba.com]]<ref>{{Cite web|title=シリウスシンボリの競走成績 {{!}} 競走馬データ|url=https://db.netkeiba.com/horse/result/1982103448/|language=ja|accessdate=2021-12-10}}</ref>(国内競走)及び[[日本調教馬の日本国外への遠征]](国外競走)の情報に基づく。
以下の内容は、[[netkeiba.com]]<ref>{{Cite web|title=シリウスシンボリの競走成績 {{!}} 競走馬データ|url=https://db.netkeiba.com/horse/result/1982103448/|language=ja|accessdate=2021-12-10}}</ref>(国内競走)及び[[日本調教馬の日本国外への遠征]](国外競走)の情報に基づく。

2022年3月28日 (月) 14:20時点における版

シリウスシンボリ
欧字表記 Sirius Symboli[1]
品種 サラブレッド[1]
性別 [1][2]
毛色 鹿毛[1][2]
生誕 (1982-03-26) 1982年3月26日[1][2]
死没 2012年4月8日(30歳没)[3][4]
モガミ[1][2]
スイートエプソム[1][2]
母の父 パーソロン[1][2]
生国 日本の旗 日本北海道門別町[1][2]
生産者 シンボリ牧場[1][2]
馬主 和田共弘[1][2]
調教師 二本柳俊夫[1][2]
畠山重則[5]
→二本柳俊夫[6]
→J・ウィンター
→P.L.ビアンコーヌ
→F・パルメル
[要出典]→二本柳俊夫
競走成績
生涯成績 26戦4勝[1]
中央競馬)12戦4勝[1]
イギリス)1戦0勝[1]
イタリア)1戦0勝[1]
ドイツ)1戦0勝[1]
フランス)11戦0勝[1]
獲得賞金 1億4310万円[1]
+229,000フランス・フラン
+16,500マルク
[要出典]
勝ち鞍
GI 東京優駿 1985年
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シリウスシンボリ(欧字名:Sirius Symboli1982年3月26日 - 2012年4月8日)は日本競走馬種牡馬。主な勝ち鞍は、1985年東京優駿(日本ダービー)。1985年から1987年にかけて約2年間ヨーロッパの競走に出走した。

馬齢は旧表記。

競走馬時代

デビュー前

週刊ギャロップ初代編集長の芹澤邦雄は、シンボリルドルフが2冠を達成したばかりの頃に、野平調教師と共にシンボリ牧場を訪ね、牧場の調教スタッフで元騎手である渡辺実に「来年のクラシックで期待する2歳馬がいますか」と尋ねたところ、即座に「いるよ。馬名はシリウスシンボリ。モガミスイートエプソムの子だよ。ルドルフまでとはいかんかもしれんが、それに近い動きをしているんだ」と応えたという[7]

3歳

1984年9月16日中山競馬場新馬戦にて加藤和宏騎乗でデビュー。出遅れながらも1着になり、デビュー勝ちを収めた。2走目の芙蓉特別は1位入線も斜行により失格、3走目のいちょう特別は第4コーナーで不利を受けたのが原因で2着と敗れるが、府中3歳ステークスでクビ差で競り勝った。朝日杯3歳Sに出走を予定していたが、脚部不安(左前繋靭帯)で回避し、この年を終えた[8]

4歳春

後述する転厩騒動後の若葉賞は、岡部幸雄が騎乗し勝利した。皐月賞は出走登録をしたものの、脚部不安[9]、あるいは移籍騒動の影響で出走できなかった[注釈 1][10]NHK杯からは再び加藤とのコンビで復活することに決まったが、脚部不安(挫跖)で回避し[11]日本ダービーでは、皐月賞を5馬身差で優勝したミホシンザンが骨折で回避した事もあり、単勝1番人気に推された。レースではスダホークを3馬身差で下し優勝した。この時、馬主和田共弘は風邪気味であり、自身の代わりに妻の和田容子桐沢正好牧場長を遣わしていた[12]

欧州遠征(4歳秋 - 6歳春)

日本ダービーを優勝したシリウスシンボリはシンボリルドルフに帯同して海外に遠征する予定であったが、シンボリルドルフが故障により遠征を中止したため、単独で渡欧した。 シリウスの遠征の際にイギリスで入厩したのはジョン・ウィンター厩舎である。和田とジョン・ウィンターには、スピードシンボリがイギリスに遠征した時からの交友関係があった[13]

イギリスに渡航してはじめてのレースであるキングジョージ6世&クイーンエリザベスステークスは8着に終わった。鞍から下りた岡部に、イギリスの記者が敗因を聞きに来た際に、岡部は「He likes soft(彼は軟らかい馬場が好きなんだ)」と答えた[14]。また岡部は「芝が深いイギリスの馬場。その石灰岩質の土はゴツゴツして荒っぽく、デコボコだ。日本ダービーを制したシリウスにも、いきなりこの馬場はきつすぎた。日本の馬場は芝が短く、硬めの土で丹念に整地されている。とても記録の出やすい馬場だ。何もかも至れりつくせりの環境の中で走っている日本の馬の状況に、ボクは疑問を感じた」と述べている。さらに観戦に来ていた日本の記者に「もしシンボリルドルフが出場できていたら何着に入れていただろうか」と尋ねられた際に、「わからない。しかし、シリウスには申しわけないが、ルドルフとシリウスでは格段の差がある。はっきり言ってものが違うという感がある。天と地ほどの差だ。タイプとしても違う。シリウスがプロレスラータイプなら、ルドルフはボクサータイプ。日本から英国へ渡れば急激な環境の変化がある。だから、ハンディはあるが、1着になったペトスキー、2着のオーソーシャープ、レインボークエストの1着争い。この一角には必ず食いこめたはずとボクは秘かに思っている」と答えた[15]。芹沢は、当レースの解説をしていた野平裕二との対談の中で「出発前は、シンボリ牧場の関係者は一様に『シリウスは力強い走りっぷりをするので、ルドルフよりもヨーロッパの馬場が向いている』と言っていましたが、実際はその逆でした」と述べている[16]。野平は、同対談の中で、「日本人の記者が今回、シリウスを預かったウインター調教師にスピードシンボリと比較してどうかという質問をしたら、『シリウスはまだ子供。スピードシンボリは完成していた。スピードシンボリの方が間違いなく上位だ』と断言した」と述べている[17]

その後は、バーデン大賞4着、プランスドランジュ賞6着、ロワイヤルオーク賞3着に終わった。なお、キングジョージとバーデン大賞までは岡部が騎乗している。 5歳時はエドゥヴィユ賞5着、シーシック賞では1番人気に推されたが3着、ミラノ大賞典5着、ゴントービロン賞4着、フォワ賞2着、コンセイユドパリ賞4着。凱旋門賞にも出走したが、ダンシングブレーヴの14着に終わっている。 6歳時はエドモンブラン賞4着、アルクール賞8着、ガネー賞7着に終わり、このガネー賞を最後にシリウスシンボリは帰国した。

帰国後(6歳秋 - 7歳)

帰国したシリウスシンボリは鞍上を加藤に戻して毎日王冠で復帰したが8着、天皇賞(秋)では勝ったニッポーテイオーから1.7秒も離された9着に終わった。 翌年も現役を続行し、夏の函館開催から復帰したが、オープン特別の青函トンネル開通記念2着を経て出走した函館記念ではレコード勝ちしたサッカーボーイから1.4秒離された4着に終わった。 続く毎日王冠では、ゲート入り前にレジェンドテイオーダイナアクトレスを蹴り、レジェンドテイオーを発走除外に追い込む事件を起こし、レース後に厩務員同士が喧嘩する事態にまで発展した。シリウス自身は、このレースではオグリキャップの2着と好走した。そして、天皇賞(秋)で7着に終わった後に骨折が判明し、現役を引退した。

競走成績

以下の内容は、netkeiba.com[18](国内競走)及び日本調教馬の日本国外への遠征(国外競走)の情報に基づく。

競走日 競馬場 競走名 距離(馬場)


オッズ
(人気)
着順 タイム 着差 騎手 斤量
[kg]
1着馬(2着馬)
1984.09.16 中山 3歳新馬 芝1600m(稍) 9 8 8 007.4(2人) 1着 R1:37.1 -0.2 0加藤和宏 53 (タカノミノブ)
00.0009.29 中山 芙蓉特別 OP 芝1600m(良) 10 3 3 003.4(1人) 10着 0加藤和宏 52 ビンゴチムール
00.0010.27 東京 いちょう特別 OP 芝1600m(良) 9 6 6 002.1(2人) 2着 R1:34.8 -0.0 0加藤和宏 52 ロードキルター
00.0011.18 東京 府中3歳S OP 芝1800m(稍) 7 4 4 001.6(1人) 1着 R1:50.1 -0.1 0加藤和宏 53 (サクライチモンジ)
1985.03.30 中山 若葉賞 OP 芝2200m(重) 8 6 6 001.5(1人) 1着 R2:16.2 -0.3 0岡部幸雄 55 (マロンクシェット)
00.0005.26 東京 東京優駿 GI 芝2400m(重) 26 6 16 005.5(1人) 1着 R2:31.0 -0.5 0加藤和宏 57 (スダホーク)
00.0007.27 アスコット KGVI&QES GI 芝2400m(良) 12 8着 R2:27.6 0岡部幸雄 54.5 ペトスキー
00.0009.01 バーデンバーデン バーデン大賞典 GI 芝2400m(不) 7 4着 R2:37.8 0岡部幸雄 55 ゴールドアンドアイボリー
00.0009.15 ロンシャン プランスドランジュ賞 芝2000m(重) 6 6着 R2:12.0 A.レグリ 58 ロミルドカリエロ
00.0010.27 ロンシャン ロイヤルオーク賞 GI 芝3100m(良) 12 3着 R3:22.7 G.モス 56 メルセイ
1986.04.20 ロンシャン エドウビル賞 GIII 芝2400m(不) 6 1 5着 R2:57.6 G.モス 58 ベビーターク
00.0005.06 ロンシャン シーシック賞 芝2000m(稍) 5 1 3着 R2:17.1 G.モス 55 ティルト
00.0006.08 サンシーロ ミラノ大賞典 GI 芝2400m(稍) 9 1 5着 R2:29.3 G.モス 60 トミーウェイ
00.0008.16 ロンシャン ゴントー・ビロン賞 GIII 芝2000m(良) 10 1 4着 R2:06.5 A.レグリ 54.5 オーバーザオーシャン
00.0009.14 ロンシャン フォワ賞 GIII 芝2400m(稍) 6 1 2着 R2:38.7 M.フィリッペロン 56 メルセイ
00.0010.05 ロンシャン 凱旋門賞 GI 芝2400m(良) 15 1 14着 R2:27.7 M.フィリッペロン 59 ダンシングブレーヴ
00.0010.19 ロンシャン コンセイユ・ド・パリ賞 GII 芝2400m(稍) 10 1 4着 R2:35.1 M.フィリッペロン 57 アルタイアン
1987.03.28 サンクルー エドモンブラン賞 GIII 芝1600m(不) 11 1 4着 R1:53.7 M.フィリッペロン 56 ハイエストオーナー
00.0004.12 ロンシャン アークール賞 GII 芝2000m(稍) 13 1 8着 R2:08.1 M.フィリッペロン 56 グランパブラ
00.0005.02 ロンシャン ガネー賞 GI 芝2100m(良) 10 1 7着 R2:15.1 M.フィリッペロン 58 トリプティク
00.0010.11 東京 毎日王冠 GII 芝1800m(良) 12 1 1 006.0(3人) 8着 R1:47.0 00.9 0加藤和宏 59 ダイナアクトレス
00.0011.01 東京 天皇賞・秋 GI 芝2000m(重) 14 4 5 007.5(5人) 9着 R2:01.4 -1.7 0加藤和宏 58 ニッポーテイオー
1988.08.07 函館 青函トンネル開通記念 芝1800m(良) 8 3 3 004.9(3人) 2着 R1:46.3 -0.3 0加藤和宏 58 ボールドノースマン
00.0008.21 函館 函館記念 GIII 芝2000m(良) 14 3 4 004.6(2人) 4着 R1:59.0 -1.2 0加藤和宏 59 サッカーボーイ
00.0010.09 東京 毎日王冠 GII 芝1800m(稍) 11 5 7 0011.1(4人) 2着 R1:49.4 -0.2 0加藤和宏 59 オグリキャップ
00.0010.30 東京 天皇賞・秋 GI 芝2000m(良) 13 7 10 0014.2(5人) 7着 R2:00.3 -1.5 0加藤和宏 58 タマモクロス

種牡馬時代

現役引退後はブリーダーズ・スタリオン・ステーションにて種牡馬になり、京都4歳特別2着のオーシャンカレント等を送り出した[19]1996年を最後に種牡馬を引退し、当時のシンジケート会の会長であった沖田正憲氏に引き取られ、北海道日高町の沖田牧場に移り余生を過ごした[19]2012年4月8日午後10時、老衰のため30歳で死亡した[3][4][19]

エピソード

転厩騒動

加藤がシリウスシンボリと1985年のクラシック戦線に臨む際、同馬の馬主である和田共弘が二本柳に対し、騎手を岡部に替えるよう要求したことに端を発する騒動。シリウスシンボリは3歳時に4戦2勝の成績であったが、敗れた2戦は1位入線も斜行・進路妨害により失格、スタートの出遅れから追い込み届かず2着という内容だった。

和田は「加藤はシリウスに乗って一度ならず二度までもミスを犯している。降ろすのが当然だ。競馬というのは強い馬に最高のジョッキーを乗せるのが本来の姿だ。それがファンへの信頼にもつながる。いま日本で最高のジョッキーは岡部だ。だから私は岡部を乗せたい[6]」と二本柳に迫り、対する二本柳は「加藤が岡部に比べて一枚も二枚も見劣るということは断じてないのだから、加藤を乗せる。デビュー前からゲート難のあったシリウスを一生懸命に矯正して一人前にした加藤の苦労はどうなるんだ」と反発した[6]。和田はシリウスを畠山重則厩舎へ転厩させるが、これが同馬の日常の世話を続けた厩務員に対しても酷薄な仕打ちであるとして、厩務員組合が和田を糾弾する事態となった[5]。折衝の末にシリウスは二本柳厩舎に戻り、「4歳初戦の若葉賞は岡部、日本ダービー前哨戦のNHK杯から加藤」という妥協案で合意した[6]

岡部が騎乗したシリウスは若葉賞を快勝したが、加藤で臨むはずだったNHK杯は脚部不安で回避となり、日本ダービーへは直行となった[6]。加藤はこの日本ダービーで冷静な騎乗を見せ[20]、騒動を振り払っての優勝を果たした。競走後のインタビューでは自らの好む映画『ロッキー2』の主人公に倣い、観客の面前で妻の名を叫んだ[21]。和田は風邪を理由として競馬場に姿を見せず[5]、競走後には「加藤のスパートは早すぎた」「ゴール後にガッツポーズをしたのは安全面へのプロ意識に欠ける」といったコメントを出した[22]

血統表

シリウスシンボリ血統 (血統表の出典)[§ 1]
父系 リファール系
[§ 2]

*モガミ
Mogami
1976 青鹿毛
父の父
Lyphard
1969 鹿毛
Northern Dancer Nearctic
Natalma
Goofed Court Martial
Barra
父の母
*ノーラック
No Luck
1968 黒鹿毛
Lucky Debonair Vertex
Fresh as Fresh
No Teasing Palestinian
No Fidding

スイートエプソム
1976 鹿毛
*パーソロン
Partholon
1960 鹿毛
Milesian My Babu
Oatflake
Paleo Pharis
Calonice
母の母
*シレトコ
Shiretoko
1970 栗毛
*Takawalk Native Dancer
Ampola
Pochette Worden
Diplomatic Bag
母系(F-No.) (FN:13-e) [§ 3]
5代内の近親交配 Native Dancer 4×5 [§ 4]
出典
  1. ^ [23]
  2. ^ [24]
  3. ^ [23]
  4. ^ [23]


脚注

注釈

  1. ^ 『優駿』1985年4月号には、「皐月賞出走馬特集」としてシリウスシンボリの記事が掲載されている

出典

  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s シリウスシンボリ”. JBIS-Search. 公益社団法人日本軽種馬協会. 2021年9月24日閲覧。
  2. ^ a b c d e f g h i j シリウスシンボリ”. netkeiba.com. 株式会社ネットドリーマーズ. 2021年9月24日閲覧。
  3. ^ a b シリウスシンボリ、メジロパーマー死す”. 日刊スポーツ (2012年4月10日). 2021年9月24日閲覧。
  4. ^ a b 30歳眠るように…85年ダービー馬シリウスシンボリ死す”. スポニチ Sponichi Annex (2012年4月10日). 2021年9月24日閲覧。
  5. ^ a b c 市丸(1992)p.112
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参考文献

  • 野平祐二、芹沢邦雄『名騎手たちの秘密 - 野平祐二の実戦的騎乗論』中央競馬ピーアール・センター、1986年。ISBN 4924426172 
  • 市丸博司『サラブレッド怪物伝説』廣済堂出版、1994年。ISBN 4331652025 
  • 木村幸治『馬の王、騎手の詩』宝島社、1994年。ISBN 4796608729 

外部リンク