栃木山守也
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栃木山 守也(とちぎやま もりや、1892年2月5日 - 1959年10月3日)は、大正時代に無敵を誇った大相撲の第27代横綱。栃木県下都賀郡赤麻村(現在の藤岡町赤麻)出身。本名:横田(のち中田)守也。
体重103kgで「史上最軽量の横綱」と形容される。身長は172cm。現在でも春日野部屋の力士が「栃」のつく四股名を名乗るのは、部屋の開祖である栃木山にならってのもの。
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[編集] 生い立ち
農家の長男として生まれる。遅くにできた男子だったので、「家を守り立てて欲しい」の願いから、「守也」と名付けられたという。しかし、18歳で半ば家出の形で上京、出羽ノ海部屋に入門する。歴代横綱の中で、自ら望んで角界入りした者は実は珍しい。
直接の動機としては、鉱毒のためやせ衰える郷里に絶望したからとも、親の決めた許婚者と性格が合わなかったからとも言われるが、当人が語りたがらなかったこともあって、はっきりしない。後年、行司・木村宗四郎との養子縁組話が持ち上がった時には、周囲も驚くほどあっさりと合意したという。一世を風靡した横綱にしては郷里への寄贈品なども少なく、多くは春日野の名跡をついだ栃錦清隆がその死後に名代としておこなったものである。
幼少時代に海を見たことがなく上京のために乗った列車で初めて海を見て「でっかい川だなあ」と言ったと伝わりこの時一緒に乗っていた兄弟子の宇都宮は後々までこれを話の種にしていた。
[編集] 現役
明治44年(1911年)2月場所、初土俵。序ノ口以来負け知らずで番付を上げ、大正2年(1913年)5月場所の幕下のときまで21連勝を果たした。入幕までに喫した黒星がわずかに3(栃木山に初めて黒星をつけたのが、のちの大関千葉ヶ嵜)というスピード出世だったが、その軽量のために幕下にあがるころまで師匠の出羽ノ海(常陸山)からもほとんど省みられなかったという。
当時としては非常に珍しい左利きだったが、指導を担当した若者頭から左を効かせるためには右も強くしろと言われ、それを守って強くなったと伝わる。その怪力を伝える逸話として、秋の収穫時、巡業地の駅の端の方に米俵(60kg)が三角の山に積んであることがよくあった。ある雨の日、栃木山が左手で傘を持ち、高下駄をはいたまま右手で縄をつかんで真ん中の俵を引き抜き、そのまま肘も曲げずに差し上げ、また三角の山の真ん中に差し込んでおいたという。
新三役(小結)に昇進した大正5年(1916年)5月場所8日目に、当時無敵で56連勝中の横綱太刀山をもろ差しから一気に寄り立てる大殊勲の星をあげ、新聞は号外を出すなど大騒ぎとなった(このときのエピソードとして、勝って花道を引き揚げる途中で背中に百円札が2枚貼られ、一晩の祝儀が一万二千円に達したが、場所後仲間を引き連れて三日で使い果たしたという)。太刀山はこれ以前にも大関2代西ノ海に敗れる(明治45年(1912年)1月場所8日目)まで43連勝があり、これがなければ100連勝となっていた。当時の新聞には「明治45年(1912年)春の西ノ海戦は八百長、太刀山明治42年(1907年)夏の碇潟戦以来8年ぶりの土」と報じたものもあった。
大正6年(1917年)5月場所、大関昇進。以降大正8年(1919年)1月場所まで5場所連続優勝。この間、1918年5月場所で横綱昇進を果たす。栃木山の本当の強さは大関昇進以後にあったといえる。大関2場所は9勝1預、10戦全勝で負け無し(大関時代無敗での横綱昇進はその後双葉山のみ)。この大関昇進の場所が初優勝で、それから5場所連続優勝を入れて合計9回の優勝を成し遂げている。しかも栃木山の凄さは、大関昇進後ほぼ全ての場所に優勝争いに加わっていることにある。風邪で途中休場した1場所を除き、9場所で優勝、6場所で半星差の準優勝、残る1場所は優勝力士との間に半星差の準優勝力士を挟んで1勝差の3位だった。大正9年(1920年)5月場所などは8勝無敗1分1預ながら、優勝者は1勝多い9勝(1敗)の大錦、翌年1月場所も無敗だが預り一つの差で大錦が優勝している。幕内通算成績は166勝23敗7分4預24休・勝率8割7分8厘だが、横綱在位中の成績は116勝8敗3預9休・勝率9割3分5厘である。栃木山以降、在位中の勝率が9割を超えた横綱は出ていない。この安定感をもって、近代最強力士に推す意見も多い。
大正13年(1924年)1月場所から翌年1月場所までを3場所連続優勝の後、翌5月場所直前で突然の引退表明(この間、大正13年5月場所から翌年5月場所まで3場所番付上では張出横綱であったが、栃木山の場合は当時の正横綱・3代西ノ海、常ノ花より上位という意味での特別な張出横綱であった)。このエピソードは現在まで横綱の引退の理想像として伝説的に語り継がれている。しかし、当時においては、関東大震災による国技館の損失など、相撲界が苦難の時期、第一人者の突然の引退には批判も強かった。当時他にも2横綱(3代西ノ海、常ノ花)がいたが彼らよりまだずっと強かったので、周囲は誰しもその引退には反対し、まだ5年は勤まるとの声まであった。
これについては3連覇しながら張出のままとされた番付面での不満などの諸説があるが、当人は「衰えてから引退するより、力のあるうちにやめたい」とだけ語った。まことしやかに語られる別の説として「観衆からハゲだハゲだといわれるのがしゃくだった」という話もある。「巡業などでハゲと野次が飛ぶと、見るからに不機嫌になった。その鬱憤を稽古でぶつけられるので、こちらはたまったものではなかった」と弟弟子の常ノ花は証言している。
後年、弟子の栃錦が横綱に昇進した時には、「これからは毎日やめる時のことを考えて過ごせ」と諭した。
太刀山の突っ張りに対抗して磨いた出足鋭い押し相撲。出羽海部屋の弟弟子・天龍三郎によれば、立合い自分が用心していないと、その出足で自分の首に電気が走り痛めるほどであった。先に述べたような怪力の右手でおっつけられた相手は腕がねじきられるのではないかと思ったという。利き手の左ハズ押しは十八番で、右おっつけ左ハズ押しの型になれば盤石であった。右で相手の左肘下をつかんでねじり上げ、左を浅くのぞかせて返すと、腰を割ったまますり足のすごい出足で押す一点張り。そのすり足によって土俵に土煙が舞い、勝負の決まった後にはレールのような二本の線がくっきりと残っていたという。まわしを取らないかわりに相手にも取らせない。もし取られれば必ず切ってから攻めに入った。ハズ押しの完成者といわれ「相撲の型を完全に身につけた力士は栃木山が最後だろう」と天龍も認めていた。近代相撲の開祖とも評される。
幕内で対戦した力士で負け越したのは太刀山(1勝2敗)と大関2代朝潮(1勝3敗)だけ。朝潮には5連覇中唯一の黒星[1]を与えており、これがなければ54連勝を達成しているところだった。他には関脇清瀬川を苦手にし、大関昇進後唯一2敗(6勝)している他、2分1預がある。鳳谷五郎は初顔合わせから2場所連続で金星を奪うなど4勝1敗とカモにし、3代西ノ海とは2勝1分。同部屋の大錦や常ノ花とは、当然本場所での対戦はないが、稽古場では問題にならない力量差だったという。大錦とは大坂相撲との合同による「出身地別対抗戦」の千秋楽結びの一番に全勝同士で対戦、開催地が大阪ということもあって、同地出身の大錦に花を持たせるのでは、との周囲の予想を裏切ってあっさり押し出しに破ってしまった。
数え19歳のとき19貫(71kg)、20歳のとき20貫(75kg)、21歳のとき21貫(79kg)と数え年齢と貫目が同じ数字で増えていき、27歳で27貫(101kg)になったあとは、巡業から帰り、稽古過多で27貫になると稽古量を減らして場所初日には27貫500(103kg)にもっていく。場所後ホッとして28貫(105kg)になると「体に汗が貯まった」と猛稽古で汗をしぼり出し、下回れば稽古量を減らすなど、本場所中は必ずベストの27貫500で相撲を取った。栃錦がのちに相撲協会理事長の地位にあった時、「身体が小さくても本当に強かった横綱は(自分の見て来た中では)3人、師匠栃木山と、若乃花、千代の富士だけだ」と語っている。
103キロは歴代横綱中最軽量で、上記の逸話などから小兵力士のイメージが強いが、当時の幕内力士の中では中量級といえる体躯だった。例えば5連覇中に対戦のあった19人のうち、約半分の9人が90キロ台の力士だった。
当時の出羽ノ海部屋には玉錦のように他の部屋から預けられた力士も大勢いたが、栃木山はそういった力士にも区別なく稽古をつけていた。玉錦はそのときの恩義から、生涯栃木山には頭が上がらなかったとされる。また巨人力士出羽ヶ嶽のように、他の力士が稽古を嫌う力士との稽古も積極的に行なった。このあたり、師匠の出羽ノ海(常陸山)とよく似ている。
押しの速攻は土俵入りにも現れ、非常に速いものであった。この速さは彼の弟子で後にこの型を受け継いだ栃錦に受け継がれた。
- ^ 他に1預1休。1休は相手力士休場によるもので、現在なら不戦勝。なお、この時の休場力士も朝潮。
[編集] 年寄・春日野
引退後は養父である行司・木村宗四郎の持ち株であった年寄・春日野(8代目)を襲名。当時「分家を許さず」の不文律があった出羽ノ海部屋から例外的に独立を許され、春日野部屋を創立した。不文律の作者常陸山がただ1人認めた例外であった。これは、養父の名跡を受け継ぐものであるし、人物的にも評価されてのことだった。引退後の1926年3月から約1年間欧米巡遊の旅に出た。
常陸山の死後後継問題をめぐって紛糾した折、出羽海後継の有力候補と見なされたが、すでに独立を許されているからと一番に身を退いた。
1931年(昭和6年)には第1回の全日本力士選士権に参加。現役の玉錦、天龍らを破って優勝を飾った。これについて、玉錦らには日頃から稽古をつけており手のうちを知っていたのではないか、現役の側に遠慮があったのではないか、などの意見もあるが、ともかくその引退が衰えによるものではなかったことを証明してみせた形だった。また現役時代に13尺土俵で一時代を築いた栃木山が、現在と同じ15尺土俵でも無敵を発揮したという意味で、この逸話は特筆される。史上最強の力士は誰か、といった論議の際に江戸~明治期の伝説の名力士たちが、15尺土俵でもあのような高勝率を残せたかどうかが、重要な論点の一つになるからである。事実、13尺土俵時代に突っ張りや押しを武器として活躍した力士の多くが15尺土俵になってから苦闘を強いられている。
後日談として、周囲から「年寄が勝ってどうするんだ」「相撲をつぶす気か」と、あるいはひやかされ、あるいは本気で叱責された。22代木村庄之助は「春日野さんがあまりにも強すぎた」と述べているが、当時相撲関係者の間では実際には現役力士は非常に弱いのではないかとの疑惑が巻き起こった。なお、翌年の同大会では選手権保持者として出場し、トーナメントで勝ち残った玉錦と三番勝負による挑戦を受け、ストレートで敗れたが、その辺の配慮があったのかもしれない。以降、第3回大会からは現役力士のみが出場することになった。
1932年(昭和7年)1月の春秋園事件で取締陣総辞職の後を受けて協会取締に就任、兄弟弟子である出羽海理事長(常ノ花)を補佐した。
部屋を開いた当初は弟子が育たず困難続きだったが、戦後は横綱栃錦らを育成するなど晩年は賑やかな様相を呈した。横綱栃ノ海、大関栃光らも栃木山存命時の入門である。
年寄としては「この人が本当にそんなに強かったのか」といわれるほど、春風駘蕩という性格で知られた。「力士は寡黙であれ」が美徳とされた時代から、「記者のむこうに数百人の読者がいるのだから」と弟子たちにマスコミ対応を徹底した。言葉遣いなどにも厳しく、鳴門海が徴兵されて出征する際、「行ってきます」と言ったのを聞きとがめられ、「行ってまいります、だろ?」と叱咤されたことを回想している。
一方その怪力ぶりは衰えを知らず、昭和30年代のある日には弟子の栃光とその付き人達が動かそうとして動かなかった大火鉢を1人で軽々持ち上げ動かしてしまった。引退後に渡米したおり、ある酒場で飲んでいると腕力に自信のある者(プロボクシング世界ヘビー級王者ジーン・タニーという説あり)が彼の前で鉄棒をへし曲げてみせたが、落ち着き払って同じ鉄棒を元のようにまっすぐにもどし、「こうしておいた方が便利なのに」と言ってのけたともいう。若い時から酒豪として知られたが、酒量は老いてなお晩酌に一升を超えていたという。
1952年(昭和27年)5月31日には当時の蔵前仮設国技館で赤い綱を締め露払い藤島(元安藝ノ海)、太刀持ち羽黒山を従えて還暦土俵入りを披露した。
[編集] 主な成績
[編集] 関連項目
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