九つの世界

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九つの世界(ここのつのせかい、古ノルド語: níu heimar, 英語: nine worlds)とは、ふつう北欧神話に登場する世界の総称とされる表現。九つの内訳ははっきりしていない。

用例[編集]

北欧神話(エッダ神話)の原典において、「九つの世界」(níu heimar) という表現が見えるのは『詩のエッダ』に2例と『散文のエッダ』に1例であるが、このうちいわゆる全世界・全宇宙を指して使われている可能性があるのは『詩のエッダ』中「巫女の予言」にある1ヶ所のみである:

九つの世界、九つの根を地の下に張りめぐらした名高い、かの世界樹を、わたしはおぼえている。(「巫女の予言」2節)

残る2例は全世界ではなく、地下にある冥界の数としてあげられている:

人間が死に冥府からくだる/ニヴルヘルの下にある世界の/九つを私はおとずれた。(「ヴァフスルーズニルの歌」43節[1]

オーディンはヘルをニヴルヘイムに投げ込み、九つの世界を支配する力を彼女に与えて、彼女のところに送られるすべての者たちに住居を割り当てることができるようにした。(「ギュルヴィたぶらかし」34章)

以上のように、「九つの世界」がアースガルズをはじめとした天上および地上の世界を含めた全宇宙の総称であると解する根拠は意外にもわずかしかない。加えて、唯一の根拠たりうる最初の1例についても残り2例と同様に、地下世界を意味する文脈にあるとも読めるのである。上に引用した「巫女の予言」2節後半部について、ヘルマン・パウルソンは「『土のなかに』という言い回しは、従来より解されてきたように、『名高い測り樹〔=世界樹〕』ではなくむしろ『九つの世界』を形容していることは、ほとんど疑いがない」とする[2]。これが正しいとすれば、両エッダにおいて「九つの世界」という語句はつねに地下世界の拡大図として使われていることになる。

一覧[編集]

前節で確認したように、北欧神話における「九つの世界」という表現が全世界を意味すると考えるのは本来の用法ではない疑いが強いのだが、それにもかかわらず現代の理解ではそのようなイメージが一般的であるから[3]、その理解に沿って含まれるとされる世界の一覧を与える。

ただし、両エッダのみならず古ノルド語の資料すべてを通覧しても、そのなかに「九つの世界」の名前を具体的にリストアップした箇所は存在せず、いずれの世界が含まれるのかはかならずしも定まっていない。また、以下ではおおよそ上方にあるとされるものから下方へという順に並べてあるが、後述するとおり位置関係についても不明な部分が多い。

以上のうち、スヴァルトアールヴァヘイムとニザヴェッリルは同一視されることもある[4]。またヘルはニヴルヘルとも言われ[5]、ニヴルヘイムとの区別が曖昧な場合がある[6]

スヴァルトアールヴは、ドウェルグを指すとされ、小人も同じくドウェルグを指すとされるためニザヴェッリルと、スヴァルトアールヴヘイムは、同一視されることがある。

なお、ときに九つの世界を三層に分ける整理が行われることがあるが[7]、このような分けかたは原典にはない近年のものである。

位置関係[編集]

世界どうしのつながり・位置関係にはよくわからない部分が多く、神話中に現れる場所はいずれも断片的であるがゆえに「エッダ神話世界の地図を作ることができない」と言われている[8]

確実に定まるのはミズガルズを大地の中心としたとき[9]、そのまた中心もしくは上方にアースガルズ、またミズガルズの外側の海沿いにヨトゥンヘイムがあることだが[10]、これらに対してヴァナヘイム・アールヴヘイム・スヴァルトアールヴァヘイムについては「それぞれの場所が前に述べた三領域といかなる位置的関連をもつのか、あるいはこの大地の内にあるのか外にあるのかも不明である」[11]

ニヴルヘイムとムスペルヘイムは世界が始まるまえの原初に、ギンヌンガガプをはさんで北と南にあったとされるが[12]、世界が成ったあとどこに位置するかは定かでない。ただしラグナロクのさいムスペルの軍勢はロキが舵をとる船に乗って襲来し、天上と地上とを結ぶ虹の橋ビヴロストを渡ってくるとされるので[13]、アースガルズよりは下方でべつの陸地にあるらしい。ヘルへの道は人間の世界との境であるギョッル川にかかる橋(ギャッラルブルー)を渡ったあと「下りで北に向かっている」と言われている[14]

ユッグドラシル[編集]

ユッグドラシルユグドラシル、世界樹は北欧神話の世界・宇宙を象徴するものであり、九つの世界を貫いて存在し、その三本の根はそれぞれ以下の世界に通じておりそれぞれのそばに泉がある。「グリームニルの歌」31節と「ギュルヴィたぶらかし」15章に記述が見えるが、いくらか不整合がある[15]

また、ラグナロクの際にスルトの炎により焼け落ちる。

  • ウルズの泉(ウルザルブルン)- アースガルズもしくは人間の国にある。
  • ミーミルの泉(ミーミスブルン)- かつてギンヌンガガプのあった、霜の巨人の国にある。
  • フヴェルゲルミル - ニヴルヘイムもしくはヘルの住むところにある。

脚注[編集]

  1. ^ ここでは菅原『北欧神話』42頁にある訳を引用した。谷口訳『エッダ』における次の訳は全世界のように読める:「それは、わしがあらゆる世界をへめぐって歩いたからだ。わしは九つの世界をめぐり、人が死んでくだるニヴルヘルまで降りたものだ」。しかし次に引く「ギュルヴィたぶらかし」の記述と考えあわせると菅原訳のほうが適切と思われる。Doddsによる英訳 ‘the nine worlds below Niflhel’, Crawford訳の ‘nine realms beneath Hel’ も参照。Dronkeの注解もまたこの箇所の ‘nine realms’ は死者の領域であるとするが、内部の位置関係についてはやや異なって、九つの冥界のうちの最下層をニヴルヘルとみなすほうがよいとする (Dronke, p. 109)。
  2. ^ ヘルマン・パウルソン、129頁。この翌年に公刊された英語版の校訂・注解書も参照すると、彼はここで2節6–7行めはダッシュに括り入れて、5行めの「九つの世界を私は覚えている」と8行め「土のなかにある」とを結びつけているのである (Hermann Pálsson, pp. 47, 59)。Dronke, p. 110 もまた同様の読みかたを考慮に入れている。
  3. ^ たとえば谷口訳『エッダ』は上掲「巫女の予言」2節の注において、「九つの世界——1アース神の国、アースガルズ 2ニョルズとその一族の国、ヴァナヘイム 3フレイ神により支配される妖精の国、アールヴヘイム」云々と、天上から地下界まで九つの名を挙げている(谷口訳、16頁)。山室、32–33頁およびゲイマン、36頁も同様。
  4. ^ たとえばゲイマン、36頁および188–189頁が同じものの別名としている。
  5. ^ 山室、33頁が第八の世界として「ヘルあるいはニブルヘル」という言いかたをしている。もしくはヘルをさらに九層に分けたうちの最下層がニヴルヘルとも考えうることは、前節の「ヴァフスルーズニルの歌」の引用文とその注を参照。「ギュルヴィたぶらかし」3章にもこう言われている:「だが悪い人間はヘルに行き、さらにそこからニヴルヘルに行く。それは、下の第九界にあるのだ」。
  6. ^ さきにも引いた「ギュルヴィたぶらかし」34章で、ふつう同名の死者の国ヘルを支配するとされるロキの娘ヘルは「ニヴルヘイム」に投げこまれたとされている。また、マッケンジー、36頁には「ニヴル・ヘイムの北の底には冥府ニヴル・ヘルがあって」と言い、ニヴルヘルを含む場所がヘルではなくニヴルヘイムと呼ばれている。
  7. ^ たとえば金井・小林編、3頁には「天上界(神々の世界),地上界(人間の世界),地下世界(冥府)の三層」という説明が見られる。またマッケンジー、32頁にある「世界を構成する九つの国の位置関係」の図も九つないし十の世界を三段に分けて配置している(これは原著にはなく訳者が独自に付したものである)。
  8. ^ ステブリン゠カーメンスキイ、47頁。
  9. ^ 大地は円形をなしているとされ、その内側に巨人族からの攻撃に備えた砦を作って安全地帯として人類が住むために与えられた。ミズガルズとは「内側の囲い地」という意味のとおり、この内側の土地のこと、もしくは囲いである砦そのものを指す(「ギュルヴィたぶらかし」8–9章)。ただしミズガルズオルムの描写からは、大地の全体を指してミズガルズとも言うと考えられる(菅原、30頁)。
  10. ^ 「ギュルヴィたぶらかし」8–9章。
  11. ^ 菅原、33–34頁。
  12. ^ 「ギュルヴィたぶらかし」4–5章。
  13. ^ 「巫女の予言」51節、および「ギュルヴィたぶらかし」13章、51章。
  14. ^ 「ギュルヴィたぶらかし」49章。
  15. ^ ただし、スノッリはヘル女神をニヴルヘイムに住んでいると考えていることと、アースガルズがミズガルズの内側にあるものとみなすとすれば、かならずしも矛盾ではないとされる(菅原、37頁)。

参考文献[編集]

  • 金井英一・小林俊明編『ゲルマン神話への招待』白水社、1995年。
  • 菅原邦城『北欧神話』東京書籍、1984年。
  • 山室静『北欧の神話』ちくま学芸文庫、2017年(原著1982年)。
  • ニール・ゲイマン金原瑞人・野沢佳織訳『物語 北欧神話(上)』原書房、2019年。
  • М. И. ステブリン゠カーメンスキイ、菅原邦城・坂内徳明訳『神話学入門』東海大学出版会、1980年。
  • G. ネッケル、H. クーン、A. ホルツマルク、J. ヘルガソン編、谷口幸男訳『エッダ—古代北欧歌謡集』新潮社、1973年。
  • ヘルマン・パウルソン、大塚光子・西田郁子・水野知昭・菅原邦城訳『オージンのいる風景—オージン教とエッダ』東海大学出版会、1995年。
  • ドナルド・A・マッケンジー東浦義雄・竹村恵都子訳『北欧のロマン ゲルマン神話』大修館書店、1997年。
  • Crawford, Jackson (trans.), The Poetic Edda: Stories of the Norse Gods and Heroes. Hackett Publishing Company, 2015.
  • Dodds, Jeramy (trans.), The Poetic Edda. Coach House Books, 2014.
  • Dronke, Ursula, The Poetic Edda. Volume II: Mythological Poems. Oxford: Clarendon Press, 1997.
  • Hermann Pálsson, Vǫluspá: The Sibyl’s Prophecy. Edinburgh: Lockharton Press, 1996.