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「椿説弓張月」の版間の差分

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『'''椿説弓張月'''』(ちんせつ ゆみはりづき)は、[[曲亭馬琴]]作・[[葛飾北斎]]画の[[読本]]。[[文化 (元号)|文化]]4年([[1807年]])から同8年([[1811年]])にかけて刊行。全5編29冊<ref>{{Cite|和書|author=[[後藤丹治]]校注|title=椿説弓張月 上|date=1958-08|publisher=岩波書店|pages=3-54|ref=harv}}</ref>。版元は平林庄五郎と文刻堂西村源六<ref name=":0">{{Cite|和書|author=[[岡本勝]]・[[雲英末雄]]編|title=新版 近世文学研究事典|date=2006-02|publisher=おうふう|pages=115|ref=harv}}</ref>


『[[保元物語]]』に登場する強弓の武将[[源為朝|鎮西八郎為朝]]{{Smaller|(ちんぜい はちろう ためとも)}}と[[琉球王朝]]開闢の秘史を描く、勧善懲悪の[[伝奇小説|伝奇物語]]であり、『[[南総里見八犬伝]]』とならぶ馬琴の代表作である。
『[[保元物語]]』に登場する強弓の武将[[源為朝|鎮西八郎為朝]]{{Smaller|(ちんぜい はちろう ためとも)}}と[[琉球王朝]]開闢の秘史を描く、勧善懲悪の[[伝奇小説|伝奇物語]]であり、『[[南総里見八犬伝]]』とならぶ馬琴の代表作である。


== 概要 ==
== 概要 ==
は、鎮西八郎を称した源為朝の活躍を『[[保元物語]]』にほぼ忠実に描いた前篇・後篇と、[[琉球]]に渡った為朝が[[琉球王国]]を再建(為朝が琉球へ逃れ、その子が初代琉球王[[舜天]]になったという伝説がある<ref>[[琉球王国]]の[[正史]]『[[中山世鑑]]』、『[[おもろさうし]]』、『[[鎮西琉球記]]』などには、為朝は現在の[[沖縄県]]の地に逃れ、その子が琉球王家の始祖[[舜天]]になったと書かれている。<!--[[日琉同祖論]]と関連づけて語られる事が多く、この話に基づき、[[大正]]11年([[1922年]])には為朝上陸の碑が建てられた。表側に「上陸の碑」と刻まれて、その左斜め下にはこの碑を建てることに尽力した[[東郷平八郎]]の名が刻まれている。なお、『中山世鑑』を編纂した[[羽地朝秀]]は、摂政就任後の[[延宝]]元年([[1673年]])3月の仕置書(令達及び意見を記し置きした書)で、琉球の人々の祖先は、かつて日本から渡来してきたのであり、また有形無形の名詞はよく通じるが、話し言葉が日本と相違しているのは、遠国のため交通が長い間途絶えていたからであると語り、源為朝が王家の祖先だというだけでなく琉球の人々の祖先が日本からの渡来人であると述べている(真境名安興『真境名安興全集』第一巻19頁参照。元の文は「「此国人生初は、日本より為<sub>レ</sub>渡儀疑無<sub>二</sub>御座<sub>一</sub>候。然れば末世の今に、天地山川五形五倫鳥獣草木の名に至る迄皆通達せり。雖<sub>レ</sub>然言葉の余相違は遠国の上久敷融通為<sub>レ</sub>絶故也」)。なお、最近の[[遺伝子]]の研究で沖縄県民と九州以北の本土住民とは、同じ祖先を持つことが明らかになっている。[[高宮広士]][[札幌大学]]教授が、沖縄の島々に人間が適応できたのは縄文中期後半から後期以降である為、[[10世紀]]から[[12世紀]]頃に農耕をする人々が九州から沖縄に移住したと指摘([[朝日新聞]] [[平成]]22年([[2010年]])[[4月16日]])するように、近年の[[考古学]]などの研究も含めて[[南西諸島]]の住民の先祖は、九州南部から比較的新しい時期(10世紀前後)に南下して定住したものが主体であると推測されている。--><!-- ← これはむしろ「琉球王国」の記事内容--></ref>)するくだりを創作した続篇・拾遺・残篇からなる。日本史のなかでも悲劇の英雄の一人に数えられる[[源為朝]]に脚光をあて、その英雄流転譚を琉球王国建国にまつわる伝承にからめた後編は、そのスケールの大きさと展開力で好評を博した
馬琴の史伝読本の初作<ref name=":0" />。物語日本の物語と琉球の物語に区分でき<ref name=":2">{{Cite|和書|author=[[後藤丹治]]校注|title=椿説弓張月 上|date=1958-08|publisher=岩波書店|pages=3-54|ref=harv}}</ref>、鎮西八郎を称した源為朝の活躍を『[[保元物語]]』にほぼ忠実に描いた前篇・後篇と、[[琉球]]に渡った為朝が[[琉球王国]]を再建(為朝が琉球へ逃れ、その子が初代琉球王[[舜天]]になったという伝説がある<ref>[[琉球王国]]の[[正史]]『[[中山世鑑]]』、『[[おもろさうし]]』、『[[鎮西琉球記]]』などには、為朝は現在の[[沖縄県]]の地に逃れ、その子が琉球王家の始祖[[舜天]]になったと書かれている。<!--[[日琉同祖論]]と関連づけて語られる事が多く、この話に基づき、[[大正]]11年([[1922年]])には為朝上陸の碑が建てられた。表側に「上陸の碑」と刻まれて、その左斜め下にはこの碑を建てることに尽力した[[東郷平八郎]]の名が刻まれている。なお、『中山世鑑』を編纂した[[羽地朝秀]]は、摂政就任後の[[延宝]]元年([[1673年]])3月の仕置書(令達及び意見を記し置きした書)で、琉球の人々の祖先は、かつて日本から渡来してきたのであり、また有形無形の名詞はよく通じるが、話し言葉が日本と相違しているのは、遠国のため交通が長い間途絶えていたからであると語り、源為朝が王家の祖先だというだけでなく琉球の人々の祖先が日本からの渡来人であると述べている(真境名安興『真境名安興全集』第一巻19頁参照。元の文は「「此国人生初は、日本より為<sub>レ</sub>渡儀疑無<sub>二</sub>御座<sub>一</sub>候。然れば末世の今に、天地山川五形五倫鳥獣草木の名に至る迄皆通達せり。雖<sub>レ</sub>然言葉の余相違は遠国の上久敷融通為<sub>レ</sub>絶故也」)。なお、最近の[[遺伝子]]の研究で沖縄県民と九州以北の本土住民とは、同じ祖先を持つことが明らかになっている。[[高宮広士]][[札幌大学]]教授が、沖縄の島々に人間が適応できたのは縄文中期後半から後期以降である為、[[10世紀]]から[[12世紀]]頃に農耕をする人々が九州から沖縄に移住したと指摘([[朝日新聞]] [[平成]]22年([[2010年]])[[4月16日]])するように、近年の[[考古学]]などの研究も含めて[[南西諸島]]の住民の先祖は、九州南部から比較的新しい時期(10世紀前後)に南下して定住したものが主体であると推測されている。--><!-- ← これはむしろ「琉球王国」の記事内容--></ref>)するくだりを創作した続篇・拾遺・残篇からなる。

そのあらすじは、九州に下った弓の名人源為朝は八町礫紀平治を家来とし、阿曾忠国の娘白縫の婿となるが、保元の乱に破れて大島に流される<ref name=":0" />。大島を抜け出した為朝は兵を挙げるが、海上で暴風雨に遭い、琉球に漂着する<ref name=":0" />。琉球では尚寧王の姫忠婦君が利勇や曚雲と図って、王女寧王女を陥れようとしていた<ref name=":0" />。為朝は寧王女を助け、琉球を平定するというものである<ref name=":0" />。

日本史のなかでも悲劇の英雄の一人に数えられる[[源為朝]]に脚光をあて、その英雄流転譚を琉球王国建国にまつわる伝承にからめた後編は、そのスケールの大きさと展開力で好評を博した。

=== 小史 ===
=== 小史 ===
[[文化 (元号)|文化]]4年(1807年)にまず『前篇』が出版され、以後足掛け4年をかけて『後篇』、『続篇』、『拾遺』、『残篇』が出版されて、全5篇・29冊で完結。当初は前篇と後篇で完結予定だったが、反響が予想以上に大きかったことで馬琴の筆が伸び、完結も延期を繰り返した。
[[文化 (元号)|文化]]4年(1807年)にまず『前篇』が出版され、以後足掛け4年をかけて『後篇』、『続篇』、『拾遺』、『残篇』が出版されて、全5篇・29冊で完結。当初は前篇と後篇の全12巻で完結予定だったが<ref name=":1">{{Cite|和書|author=国文学研究資料館・八戸市立図書館編|title=読本事典|date=2008-02|publisher=笠間書院|pages=64-66|ref=harv}}</ref><ref>{{Cite|和書|author=[[後藤丹治]]校注|title=椿説弓張月 上|date=1958-08|publisher=岩波書店|pages=3-54|ref=harv}}</ref>、反響が予想以上に大きかったことで馬琴の筆が伸び、完結も延期を繰り返した。


=== 題名 ===
=== 題名 ===
正式には「鎮西八郎為朝外伝」の角書きが付いて『'''鎮西八郎為朝外伝 椿説弓張月'''』。
正式には「鎮西八郎為朝外伝」の角書きが付いて『'''鎮西八郎為朝外伝 椿説弓張月'''』。


『椿説弓張月』の「椿説」は「ちんせつ」と読む。意味としては「珍説」と同じで、今でう「異古い表現になる。このという字、「遊説」を「ゆうぜい」と読むように、「ぜい」と読むこともる。したがって椿説」は、「ちんぜい」という読みが可能で、こ「ちんぜい」、読みが同じ「ちんぜ」の「鎮西」こと鎮西八郎為朝に掛かっている。
『椿説弓張月』の「椿説」は「ちんせつ」と読む。意味としては「珍説」と同じで、珍しい説の意味であ<ref name=":2" />。「弓張月」は主人公が弓の名手から名付けられた<ref name=":2" />。「為朝外伝」は正史以外の伝記を意味し本作内容史実離れしてことを標榜している<ref name=":2" />


これは[[歌舞伎]]の[[外題]]で多用される、題名の中に主人公の名を暗示する文字や音を[[掛詞]]として織り込む手法と同じで、このため古くから『椿説弓張月』は歌舞伎の外題風に「ちんぜい ゆみはりづき」と読まれることも多かった。
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== 主要登場人物 ==
== 主要登場人物 ==
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『弓張月』の典拠は多岐多様にわたるが、ここでは代表的なものをいくつか挙げるにとどめる。
『弓張月』の典拠は多岐多様にわたるが、ここでは代表的なものをいくつか挙げるにとどめる。


;謡曲「海人」
;『[[保元物語]]』
:『椿説弓張月』の初期段階の構想に用いられ、作品の枠組みに貢献した<ref>{{Cite journal|author=大高洋司|date=2004|title=『椿説弓張月』の構想と謡曲「海人」|journal=近世文藝|volume=79|pages=17-28|publisher=日本近世文学会|doi=10.20815/kinseibungei.79.0_17}}</ref>。
:前半の種本。なお、馬琴が採用したのは、元禄時代に水戸の彰考館で編纂刊行された『参考保元物語』。
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:前半の種本。なお、馬琴が採用したのは、元禄時代に水戸の[[彰考館]]で編纂刊行された『参考保元物語』であり<ref name=":2" />、上方読本『保元平治闘図会』も部分的に用いている<ref>{{Cite journal|author=三宅宏幸|date=2011-03|title=『椿説弓張月』典拠小考|journal=同志社国文学|volume=74|pages=45-56|publisher=同志社大学国文学会|doi=10.14988/pa.2017.0000012691}}</ref>。
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;佐藤行信『伊豆国海嶋風土記』<ref name=":2" />
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:後半のネタ元。『[[水滸伝]]』の後日談で、[[李俊]]が[[タイ王国|シャム]]王になるという筋にとどまらず、人物や部分的趣向も借りている。
:後半のネタ元。『[[水滸伝]]』の後日談で、[[李俊]]が[[タイ王国|シャム]]王になるという筋にとどまらず、人物や部分的趣向も借りている。
;徐葆光『[[中山伝信録]]』
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:6巻。琉球関係の人名・地名・事件などについて活用。
:6巻。琉球関係の人名・地名・事件などについて活用。


== 当時の評価 ==
== 当時の評価 ==
本作はその生涯で300作近くの作品を書いた馬琴が最初に取り組んだ歴史小説である。発表当時、庶民から絶大な支持を得て、連載が延々と続いたり、武者絵描かれたりしてこれが馬琴の出世作とった。本作の次に書いたのが『[[南総里見八犬伝]]』で、今日ではこちらの方が有名になっているが、当時は逆だった。
本作は庶民から絶大な支持を得て、商業的大成功を収め、馬琴の読本しての地位を確たるものとした<ref name=":1" />。『為朝一代記』『源氏雲弦月』『弓張月春宵栄』といった[[合巻]]をはじめ<ref name=":2" />、錦絵や双六の題材となるなど、幅広い人気を集めた<ref name=":0" />。本作の次に書いたのが『[[南総里見八犬伝]]』で、今日ではこちらの方が有名になっているが、当時は逆だった。


== 文献 ==
== 文献 ==
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== 参考文献 ==
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2020年12月17日 (木) 14:51時点における版

『椿説弓張月』
大弓を引く源為朝。読本『鎮西八郎為朝外伝 椿説弓張月』より。葛飾北斎 挿画。

椿説弓張月』(ちんせつ ゆみはりづき)は、曲亭馬琴作・葛飾北斎画の読本文化4年(1807年)から同8年(1811年)にかけて刊行。全5編29冊[1]。版元は平林庄五郎と文刻堂西村源六[2]

保元物語』に登場する強弓の武将鎮西八郎為朝(ちんぜい はちろう ためとも)琉球王朝開闢の秘史を描く、勧善懲悪の伝奇物語であり、『南総里見八犬伝』とならぶ馬琴の代表作である。

概要

馬琴の史伝物読本の初作[2]。物語は日本の物語と琉球の物語に区分でき[3]、鎮西八郎を称した源為朝の活躍を『保元物語』にほぼ忠実に描いた前篇・後篇と、琉球に渡った為朝が琉球王国を再建(為朝が琉球へ逃れ、その子が初代琉球王舜天になったという伝説がある[4])するくだりを創作した続篇・拾遺・残篇からなる。

そのあらすじは、九州に下った弓の名人源為朝は八町礫紀平治を家来とし、阿曾忠国の娘白縫の婿となるが、保元の乱に破れて大島に流される[2]。大島を抜け出した為朝は兵を挙げるが、海上で暴風雨に遭い、琉球に漂着する[2]。琉球では尚寧王の姫忠婦君が利勇や曚雲と図って、王女寧王女を陥れようとしていた[2]。為朝は寧王女を助け、琉球を平定するというものである[2]

日本史のなかでも悲劇の英雄の一人に数えられる源為朝に脚光をあて、その英雄流転譚を琉球王国建国にまつわる伝承にからめた後編は、そのスケールの大きさと展開力で好評を博した。

小史

文化4年(1807年)にまず『前篇』が出版され、以後足掛け4年をかけて『後篇』、『続篇』、『拾遺』、『残篇』が出版されて、全5篇・29冊で完結。当初は前篇と後篇の全12巻で完結予定だったが[5][6]、反響が予想以上に大きかったことで馬琴の筆が伸び、完結も延期を繰り返した。

題名

正式には「鎮西八郎為朝外伝」の角書きが付いて『鎮西八郎為朝外伝 椿説弓張月』。

『椿説弓張月』の「椿説」は「ちんせつ」と読む。意味としては「珍説」と同じで、珍しい説の意味である[3]。「弓張月」は主人公が弓の名手であるから名付けられた[3]。「為朝外伝」は正史以外の伝記を意味し、本作の内容が史実離れしていることを標榜している[3]

「説」という字は、「遊説」を「ゆうぜい」と読むように、「ぜい」と読むこともできる。したがって「椿説」は、「ちんぜい」という読みが可能で、この「ちんぜい」が、読みが同じ「ちんぜい」の「鎮西」こと鎮西八郎為朝に掛かっている。これは歌舞伎外題で多用される、題名の中に主人公の名を暗示する文字や音を掛詞として織り込む手法と同じで、このため古くから『椿説弓張月』は歌舞伎の外題風に「ちんぜい ゆみはりづき」と読まれることも多かった[要出典]

主要登場人物

  • 源為朝(みなもとの ためとも)源為義の八男で弓の名手。
  • 白縫姫(しらぬい ひめ):為朝の正室。舜天丸を儲ける。
  • 尚寧王(しょうねい おう):琉球王。
  • 寧王女(ねい わんにょ):尚寧王の第一王女。
  • 白縫王女(しらぬい わんにょ):寧王女の肉体に白縫姫の魂が宿ったもの。
  • 八町礫紀平治(はっちょう つぶての きへいじ):為朝の忠臣で礫印地打ちの名手。舜天丸を養育する。
  • 舜天丸(すてまる):為朝と白縫姫の嫡子。曚雲を討ち、琉球国王舜天となる。
  • 鶴・亀(つる・かめ):琉球王国の忠臣・毛国鼎(もう こくてい)の二人の息子。
  • 阿公(くまきみ):琉球王国の高名な巫女利勇の陰謀に加担。
  • 曚雲(もう うん):尚寧王が暴いた蛟塚から現れた妖僧。妖力を使い妖獣・を操る。
  • 崇徳院(しゅとく いん):かつて為朝が主として仕えた上皇。怨霊となって、為朝が危機に陥ると救いに現れる。

典拠

『弓張月』の典拠は多岐多様にわたるが、ここでは代表的なものをいくつか挙げるにとどめる。

謡曲「海人」
『椿説弓張月』の初期段階の構想に用いられ、作品の枠組みに貢献した[7]
保元物語[3]
前半の種本。なお、馬琴が採用したのは、元禄時代に水戸の彰考館で編纂刊行された『参考保元物語』であり[3]、上方読本『保元平治闘図会』も部分的に用いている[8]
佐藤行信『伊豆国海嶋風土記』[3]
天明2年(1782年)著、伊豆諸島の地誌。馬琴の蔵書印が押された写本が残る[3]
古宋遺民『水滸後伝[3]
後半のネタ元。『水滸伝』の後日談で、李俊シャム王になるという筋にとどまらず、人物や部分的趣向も借りている。
徐葆光『中山伝信録[3]
6巻。琉球関係の人名・地名・事件などについて活用。

当時の評価

本作は庶民から絶大な支持を得て、商業的に大成功を収め、馬琴の読本作者としての地位を確たるものとした[5]。『為朝一代記』『源氏雲弦月』『弓張月春宵栄』といった合巻をはじめ[3]、錦絵や双六の題材となるなど、幅広い人気を集めた[2]。本作の次に書いたのが『南総里見八犬伝』で、今日ではこちらの方が有名になっているが、当時は逆だった。

文献

活字本

現代語訳

  • 三田村信行訳 『新編弓張月』(上巻「伝説の勇者」・下巻「妖魔王の魔手」)、ポプラ社平成18年(2006年)。※児童書。
  • 平岩弓枝訳 『椿説弓張月』 学研パブリッシング〈学研M文庫〉、平成14年(2002年)。※編訳版、初刊・学研、1981年。
  • 山田野理夫訳 『椿説弓張月』 教育社歴史新書(上・下) 原本現代訳、昭和61年(1986年)。※訳文のみ。序跋系図の類は省略。
  • 高藤武馬訳 『椿説弓張月 古典日本文学全集27』 筑摩書房、昭和35年(1960年)。訳文のみ、新装版「古典日本文学」。※序跋「備考」や本筋に無関係な考証的な箇所(系図など)に省略がある。
  • 丸屋おけ八訳 『全訳 椿説弓張月』、言海書房、2012年。訳文のみ、序跋の類や考証的な箇所は省略。

派生作品

錦絵

北斎の他に、歌川国芳月岡芳年らが本作から着想した作品を残している。

歌舞伎

椿説弓張月
A Wonder Tale:The Moonbow
作者 三島由紀夫
日本の旗 日本
言語 日本語
ジャンル 歌舞伎
幕数 3幕8場
初出情報
初出1969年11月号
刊本情報
刊行 限定版-中央公論社 1969年11月25日
題字:竹柴蟹助
通常版-中央公論社 1970年1月30日
初演情報
公演名 国立劇場昭和44年11月歌舞伎公演(第28回歌舞伎公演)
国立劇場大劇場 1969年11月5日
ポータル 文学 ポータル 舞台芸術
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馬琴の『椿説弓張月』刊行中の文化5年10月に、まず浄瑠璃『鎮西八郎誉弓勢』として、同年11月には近松徳三作の歌舞伎『島巡弓張月』として演じられたほか[9]、明治14年に河竹新七 (3代目)により『弓張月源家鏑箭』が初演されるなどしたが[10]、一篇のまとまったストーリーとして劇化されたのは戦後昭和の1969年(昭和44年)11月5日に東京国立劇場で初演の三島由紀夫作『椿説弓張月』全3幕8場である[11]

三島台本の活字発表は雑誌『』同年11月号でなされ、11月25日には中央公論社より限定版で、歌舞伎戯曲『椿説弓張月』が出版された。この作品は三島の書いた最後の歌舞伎であり、最後の舞台作品となった[12]。脚本のほか、演技、美術、音楽などの演出も自ら手掛けた[13][14]

似非近代化した当時の歌舞伎に失望していた三島が、古典的・伝統的な義太夫狂言の様式に構成したルネサンス的な創作歌舞伎である[11]。初演時・配役も、源為朝に八代目松本幸四郎、阿公・崇徳院に二代目中村雁治郎、紀平治に八代目市川中車、高間太郎に三代目市川猿之助と一流の役者を配し、白縫姫には三島の肝煎で当時まだ無名に近かった19歳の五代目坂東玉三郎が抜擢された。玉三郎はこの舞台が絶賛され、以後の盛名に至る出世作となった。なお、為朝の役について三島は、市川染五郎(6代目)を強く希望していたが、染五郎のスケジュールが空かなかったため、父・松本幸四郎になった[15]

のち文楽で上演する話が進められたが、三島の死で脚本が未完成となったのを、演出を担当していた山田庄一らにより補筆され1971年(昭和46年)11月に初演された[16]

当時演出助手を務めた織田紘二が三島の言葉をメモした制作ノートによると、テーマは「太い男の流れる姿」であるとし、挫折と行動を繰り返し続けた「未完の英雄」為朝を自らの理想の英雄像として仮託し、「為朝の孤忠」を主題とした[11][14][17]。三島は、「日本のオデッセイを作りたい。日本のオデッセイは為朝だ」と腹案を織田に伝えたとされる[15]。為朝の騎乗する白馬が海の中から出現して飛翔する演出に、三島は最後までこだわり続けたという[11]

歌舞伎は過去に遡るほどよいとする三島は古典様式を重んじ、擬古文で書いた擬古典歌舞伎にこだわり、(河竹黙阿弥が活躍し歌舞伎の様式を確立した)「明治初年の作者に戻り、歌舞伎の様式の中で新しい形式を作りたい」とスタッフ会議で並々ならぬ意欲を述べたという[14]。音楽には、当時としては異例だった文楽義太夫を入れることにし、鶴澤燕三に作曲を依頼、文楽座を初めて歌舞伎に出演させた[14][13]。また、狂言作者は本読みを自分で行ない皆に聞かせるという習慣に倣って、三島も本読みを行なったところ、すべての役を巧みに演じ分ける三島のうまさに驚いたスタッフの勧めで録音することになり、杉並公会堂で8月26日と27日の2日間かけて録音しレコードを制作、役者顔寄せの日にそれを聞かせた[14][18]。ポスターを手掛けた横尾忠則のジャケット装で日本コロムビアから『椿説弓張月』(上の巻)として発売もされた[14][19]

公演

おもな刊行本

  • 限定版『椿説弓張月』(中央公論社、1969年11月25日) 限定1000部(記番入) NCID BN06674487
    • 題字:竹柴蟹助、B5横判、和装袋綴。紙装。夫婦函。段ボール外函。88頁
    • 収録内容:「椿説弓張月」「『弓張月』の劇化と演出」
    • 「上の巻」「中の巻」「下の巻」の題扉の次にカラー図版16頁(裏白)8葉、衣裳絵:高根宏浩、舞台装置図:国立劇場舞台美術研究会(村山和之)。本扉裏に「昭和己酉刊」とあり。巻末に初演データ。
  • 『椿説弓張月』(中央公論社、1970年1月30日) NCID BN05623593
    • 題字:竹柴蟹助。B5横判。紙装。
    • 収録内容:「椿説弓張月」「『弓張月』の劇化と演出」
    • 1969年11月刊行の限定版と同じ内容の普及版
  • 文庫版『椿説弓張月』(中公文庫、1975年11月10日)
    • 題字:竹柴蟹助。装幀:白井晟一、紙装。解説:磯田光一
    • 収録:「椿説弓張月」「『弓張月』の劇化と演出」「『椿説弓張月』の演出」「歌舞伎の脚本と現代語」
  • 『My Friend Hitler and Other Plays』(Columbia University Press、2002年11月15日)

全集収録

  • 『三島由紀夫全集24(戯曲V)』(新潮社、1975年4月25日)
  • 『三島由紀夫戯曲全集 下巻』(新潮社、1990年9月10日)
    • 四六判。2段組。布装。セット機械函。
    • 収録作品:「熊野」「女は占領されない」「熱帯樹」「プロゼルピーナ」「弱法師」「十日の菊」「黒蜥蜴」「源氏供養」「喜びの琴」「美濃子」「恋の帆影」「聖セバスチャンの殉教」「サド侯爵夫人」「憂国」「アラビアン・ナイト」「朱雀家の滅亡」「ミランダ」「わが友ヒットラー」「癩王のテラス」「椿説弓張月」「文楽 椿説弓張月」「附子」「LONG AFTER LOVE」〔初演一覧〕
    • ※ 上・下巻 2冊組での刊行。
  • 『決定版 三島由紀夫全集25巻 戯曲5』(新潮社、2002年12月10日)
    • 装幀:新潮社装幀室。装画:柄澤齊。四六判。貼函。布クロス装。丸背。箔押し2色。
    • 月報:織田明「三島さんと『わが毒』」、山中剛史「資料探索の密かな愉しみ」、〔天球儀としての劇場5〕田中美代子「受肉・または俳優の恍惚」
    • 収録作品:「癩王のテラス」「椿説弓張月」「文楽 椿説弓張月」「オルフェ」「ブリタニキュス」「プロゼルピーナ」「トスカ」「聖セバスチャンの殉教」
      • 〔参考作品〕「老人の星」「長唄 螺鈿」「頼政(「あやめ」異稿)」「無題(「黒川伯爵家の……」)「鯉になつた和尚さん」「ちびくろさんぼのぼうけん」「舌切雀」「附子」「LONG AFTER LOVE」「歌劇台本 潮騒」「無題(「あるさびれた海岸の……」)」「清水一角(シノプシス)」「無題(「大東塾……」)」
      • 「『癩王のテラス』創作ノート」「『椿説弓張月』創作ノート」

音声資料

  • LPレコード『椿説弓張月“上の巻”』(日本コロムビア、1969年11月10日)
    • 台詞朗読:三島由紀夫。義太夫:鶴澤燕三野沢勝平。長唄:杵屋栄左衛門。囃子:田中佐十次郎
    • ジャケット装幀:横尾忠則。帯、ブックレット付。
    • ジャケット掲載文章:寺中作雄「耳で聴く三島文学」、三島由紀夫「レコード化に当って」
    • 収録内容:「椿説弓張月“上の巻・伊豆国大嶋の場”」
    • 国立劇場と日本コロムビア提携作品。“下の巻”は未刊。
    • ※1987年(昭和62年)10月21日にカセットテープ・CD化され発売[19][18]。こちらのジャケットはLPの装幀とは異なり、掲載文章は三島の「『レコード化に当って』序文より」のみ[19]
    • ※2004年9月に刊行された『決定版 三島由紀夫全集41巻 音声(CD)』のディスク3として所収。

映画

1914年大正3年)と1955年(昭和30年)の2度、映画化されている。

  • 『弓張月』〈あるいは『源為朝』〉(日活、1914年5月)
  • 『椿説 弓張月』(東映、1955年)
    • 9月20日に「第一篇 筑紫の若武者」、10月9日に「第二篇 運命の白縫姫」、10月17日に「完結篇 南海の覇者」とのサブタイトルで三部作として公開された。
    • 監督:丸根賛太郎。主演は東千代之介

テレビ

  • 連続人形劇『新八犬伝』(1973年 - 1975年)
    • 八犬士の一人(犬塚信乃)が琉球へ渡り、その琉球では『弓張月』の登場人物である阿公、朦雲、中婦君などがそのままの名で登場する。その自由な創作ぶりを巡っては賛否両論で、『椿説里見八犬伝』と論評に書かれたこともあった。

脚注

  1. ^ 後藤丹治校注『椿説弓張月 上』岩波書店、1958年8月、3-54頁。 
  2. ^ a b c d e f g 岡本勝雲英末雄編『新版 近世文学研究事典』おうふう、2006年2月、115頁。 
  3. ^ a b c d e f g h i j k 後藤丹治校注『椿説弓張月 上』岩波書店、1958年8月、3-54頁。 
  4. ^ 琉球王国正史中山世鑑』、『おもろさうし』、『鎮西琉球記』などには、為朝は現在の沖縄県の地に逃れ、その子が琉球王家の始祖舜天になったと書かれている。
  5. ^ a b 国文学研究資料館・八戸市立図書館編『読本事典』笠間書院、2008年2月、64-66頁。 
  6. ^ 後藤丹治校注『椿説弓張月 上』岩波書店、1958年8月、3-54頁。 
  7. ^ 大高洋司 (2004). “『椿説弓張月』の構想と謡曲「海人」”. 近世文藝 (日本近世文学会) 79: 17-28. doi:10.20815/kinseibungei.79.0_17. 
  8. ^ 三宅宏幸 (2011-03). “『椿説弓張月』典拠小考”. 同志社国文学 (同志社大学国文学会) 74: 45-56. doi:10.14988/pa.2017.0000012691. 
  9. ^ 江戸歌舞伎の残照吉田弥生、文芸社, 2004
  10. ^ 弓張月源家鏑箭歌舞伎・浄瑠璃外題辞典
  11. ^ a b c d 織田紘二「椿説弓張月」(事典 2000, pp. 234–236)
  12. ^ 千谷道雄「椿説弓張月」(旧事典 1976, pp. 260–261)
  13. ^ a b 「『椿説弓張月』の演出」(毎日新聞 1969年11月7日号)。35巻 2003, pp. 732–735
  14. ^ a b c d e f ETV2000 「シリーズ 巨匠 その知られざる素顔 第1回三島由紀夫 最後の歌舞伎」NHK、2000年6月12日放送
  15. ^ a b 「第四章 憂国の黙契」(生涯 1998, pp. 233–331)
  16. ^ 織田紘二「文楽椿説弓張月」(事典 2000, pp. 330–331)
  17. ^ 「『弓張月』の劇化と演出」(国立劇場プログラム 1969年11月)。35巻 2003, pp. 728–731
  18. ^ a b 「解題の冊子」「disc3」(41巻 2004
  19. ^ a b c 山中剛史「音声・映像資料――肉声資料」(42巻 2005, pp. 891–899)
  20. ^ 新橋演舞場五月花形歌舞伎平成24年5月1日(火)~25日(金)歌舞伎美人

参考文献

外部リンク