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本項ではハルビン市の歴史について示す。

古代

ハルビン市人民政府によると、最低でも約22000年前、旧石器時代後期には人間の活動が見られている[1]。ハルビンの最古の遺跡として、ハルビン西部の郊外で発見された閻家崗遺跡が挙げられる。閻家崗遺跡では1982年から1985年にかけて発掘作業が行われ、人間の頭蓋骨の化石を発見された。この人間の頭蓋骨の化石は「ハルビン人」とされ、「ハルビン人」の他にも同遺跡では31種類の脊椎動物の化石、9つの石器、いくつかの骨器、焼けた骨と破片が発見された[2]

その後約5000年前になると、新石器時代にハルビン市も突入する。そして、約3000年前、王朝末期にはハルビン市は青銅器を使用するようになる[1]

そして、殷末期から西周中期にかけて、黒竜江省に属する地域としては最古となる文明、白金宝文化中国語版に属した[1][3]。西周の資料によるとハルビンの民は、独自の矢や石器を朝貢し西周に服従を示したとされている[2]。またこのころにはを起源とし、夏、殷、周(紀元前23世紀から紀元前5世紀)と粛慎一族の故郷として著名であった[4]

漢代には夫余の一部に、南北朝時代には、北支族の居住地として、代は靺鞨の一部に属した[2]。その後、渤海国の一部となる[4]

中近世

金上京歴史博物館中国語版内の完顔阿骨打

契丹)代の926年耶律阿保機により渤海は滅ぼされ、女真族は、生女真熟女真の二つに分かれる。 生女真は長白山と松花江流域に位置し、ハルピンで女真の領土が誕生し東京道完顔部と改名する[2][4]

しかし天慶5年(1115年)、生女真首長完顔阿骨打は金軍に敗北[4]。遼を滅ぼした女真による国家上京会寧府の名でハルビンに首都を置く[1][5]。その後、金では路(行政の監察を行う役所名)が整備され、満州は7路1府に区分された。ハルビンは開元路の管轄下となる[4]。現在、このころの遺跡や物は金上京歴史博物館中国語版内で展示されている[6]。しかし、モンゴル・金戦争でモンゴル帝国側が勝利すると金は会寧府を放棄した[7]

元代のものとして、阿城区金上京城で「管水达达民戸达魯花赤之印」が発見されている。「至元15年(1278年)12月、書道儀礼部作成」と同印には刻まれている。またほかにも[8]

になると至元24年(1287年)に元による正式な統治が開始され遼阳行省开元路に改名される[2][8]

元が滅亡し明代は東北地方に衛兵管理制度を導入した。 東北地方には、遼東都護府(1371年設置)と魯安都護府(1409年設置)が設置された。ハルビンは奴儿干都司と命名された[4][2][8]

清代に突入すると清は中原に地方制度を採用した。中国東北部は満州族の故郷であり、この地域は特別であり、軍政制度も本土とは異なっていた。 清は明時代の東北部の都司衛所を廃止し、盛京(現在の瀋陽)に防内大臣を置いた。 順治3年(1646年)5月、奉天・昂邦章京(盛京将軍中国語版)を将軍とし、ハルビンは八旗による防衛が行われた[4]

順治10年(1653年)5月、寧古塔に、アムール川(黒竜江)・ウスリー川沿岸一帯を抑える軍事組織である昂邦章京(アムバン・ジャンギン)、梅勒章京(メイレニ・ジャンギン)が設置され、寧古塔によるハルビン統治が強化されていく。その後昂邦章京は寧古塔将軍に、梅勒章京は副都統に改められる。ハルビンは寧古塔副都統の管轄下であった[4]

康熙15年(1676年)、寧古塔将軍は吉林へ移駐(吉林将軍中国語版)。当時、将軍の下には副都統、副都統の下には協領というようなヒエラルキーであった。雍正2年(1724年)、阿勒楚喀(阿城区)に協領を設置。乾隆9年(1744年)には、拉林(ハルビンも含まれる)に副都統を設置。ハルビン・松花江南岸地区は拉林副都統の阿勒楚喀協領が管轄するようになる[4]

乾隆21年(1756年)、阿勒楚喀協領は副都統に昇級、阿勒楚喀副都統中国語版が設置され、ハルビンも阿勒楚喀副都統の管轄下となる。乾隆34年(1769年)、拉林副都統が廃止、拉林副都統の管轄は阿勒楚喀副都統に委ねられ、阿勒楚喀副都統の下に阿勒楚喀協領と拉林協領の2つの協領が設置される。これにより、ハルビン・松花江南岸地区は阿勒楚喀副都統の阿勒楚喀協領と拉林協領が管轄するようになる[4]

康熙23年(1683年)、清朝は満州に黒竜江将軍中国語版を増設し、松花江中流から黒竜江境界までを管轄した。康熙37年(1698年)、チチハル副都統中国語版が設置された。ハルビン・松花江北岸地区は、黒竜江将軍の下でチチハル副都統が境界を統轄している。同治元年(1862年)に旗民分治によって呼蘭庁中国語版が設置され、ハルビン・松花江北岸地区はチチハル副都統傘下の呼蘭庁が管轄した。光緒5年(1879年)、呼蘭副都統が増設されたが、ハルビン・松花江北岸地区は呼蘭副都統の傘下、呼蘭庁の管轄で、特に変わりはなかった[4]

清の初めに旗人入関後、康熙16年(1677年)から、清は満州を皇室の「発祥の聖地」とし、「悉行封禁」を発布、一般人が入ることを禁止した。この禁止令の下で、かなり長い期間、満州中・北部地域では、八旗兵が駐屯する聚居地が徐々に拡大していったほか、基本的に土地は閉鎖されたため、荒れ果てていた。その後流民はいつも封禁を突破して侵入しようとし、八旗兵であっても一般人の労働力を必要としていた。流民や八旗兵は清朝の禁令を顧みず、満州で荒地を開いたり、耕作しようとした。乾隆時代、吉林将軍の管轄はすでに「八旗兵による共有地」状態になりつつあった。嘉慶8年(1803年)、清は「訂定臨時移民章程」を公布し、満州を出入りする制限を緩和した。禁止が緩和されると、満州への移民者数は年々増加し、道光には、「八旗兵の聚居地より、民家の方が多い」と言われるようになっていった[4]

近代

清末期~第二次世界大戦終結まで

大清帝国末期になるとハルビンの名は「民官」となった[2]

19世紀末にはハルビンには僅か数十の村でできており、僅か100の世帯、3万人ほどが在住していた[1]。そのほとんどが漁と狩猟で生計を立てていた旗人であったという。しかし、1881年に黒龍江省牡丹江市穆棱市で金鉱が発見され、ハルビンにも移住者が増加した。そして、これ以降、東清鉄道が起点となり、大きく人口を増やしていくのである[9]。また、ハルビンは松嫩平原の南に位置し、豊かな農牧漁業地帯である。それに加え闖関東政策を大清帝国がとったことから、清代末期には、山東省河北省などの省からの移民がやってきて、続々とハルビンを開墾し、漁業・牧畜業及び手工業生産に従事し、村の数は次第に増加し、一部は徐々に郷鎮の規模を形成してきた。光緒2年(1876年)の統計によると、ハルビン・松花江北岸の水師営官屯と付近の各村だけで、3730世帯、28257人(民人または在籍していない丁、戸はまだ含まれていない)である。その時、全ハルビン地区には100余りの村があり、人口は少なくとも5万人以上だった[4]

またこのころになると、「ハルビン」との名も確認できるようになる。初めて史料に「哈爾浜」が登場したのは同治三年(1864年)である。黒竜江省将軍衙門の書には、「墨尔根中国語版上年船只见于哈尔滨住冻、今年挽回、为此呈报事(昨年墨尔根が所有する船は哈爾浜で凍っていたが、今年は挽回したので報告した)」と記されている。「哈爾浜/ハルビン」という名の由来については、現在も議論が残っている。かつて、「満州語で「魚網を干す場所」を指す言葉説」、「満州語で羊肩胛骨を指す言葉説」、「「哈勒費延(ハレフィエン)」に「扁(ビン)」を足した説」、「女真語で阿勒錦島(ハルビン内にある島)を指す言葉説」、「女真語で白鳥を指す言葉説」、「モンゴル語で平地を指す言葉説」、「ツングース語で「官渡口」を指す言葉説」、「ロシア語で「大坟墓(古代中国の墳墓の一種)」を指す言葉説」、「人名説」などの様々な説が挙げられている[10][11][12]

1898年からは、水文のデータがとられるようになる[13]

日清戦争後、清は日本と下関条約に調印し、台湾澎湖諸島遼東半島を日本に割譲した。 しかし、これに対し日本に警戒心を抱いたロシア帝国フランス第三共和政ドイツ帝国と共同でこれに介入し、日本に遼東半島を中国に返還するよう強く要求した。 所謂「三国干渉」である。しかし、これは決してロシア帝国が遼東における中国の主権を守るためのものではなかった。帝政ロシアは1891年にチェリャビンスクからウラジオストクまでのシベリア鉄道の建設に着手し、そのルートを短縮するために、満州を支配しようと考えていた。1896年6月3日モスクワロシア帝国の間で「露清密約」が締結される。これによりロシア帝国は中国東北部に鉄道を建設する権利を掌握した。1898年5月、帝政ロシアはハルビンを東慶鉄道のハブおよび管理センターに指定した[2]。そして1896年から1903年にかけて、セルゲイ・ウィッテによりハルビンに東清鉄道や、それに付随してハルビン駅が建設された[14]。これによりハルビンの人口は増加し、工業・商業は大幅に発展、近代都市となった[1][2][15]。「東洋のモスクワ」や、「極東のパリ」、「東洋のサンクトペテルブルク」と呼ばれるほどであった[9][16][17]。一方でハルビン内で帝政ロシアは大きな影響力を持つようになる[2]。また、ユダヤ人も2万人以上が移住し、多くの店を開いた[9]

当時、東清鉄道の東側、道外は漢民族が殆どなのに対し、西側の道裏にはロシア人など多くの外国人が居住していた。しかし、少し時間が経つと道外にも多くの外国文化が見られるようになる。1900年、ロシアの実業家チュリンがハルビンの道外区にやってきて、「チュリン外国銀行」という多国籍企業を設立し、デパートを運営し、赤いソーセージやレバ(パン)などのロシア食品をハルビンに持ち込んだ。同じ頃、ロシアの実業家ウルブレフスキーも道外にウルブレフスキー醸造所を設立した。これは中国初のビール醸造所であり、今日のハルビンビールの前身でもある[9]

これらの当時の施設で最も有名なのは、ユダヤ人であるシモン・カスぺ英語版によって運営されていたモダンホテルであろう。 ダイニング、エンターテイメント、宿泊施設を統合したモダンなホテルで、極東で最も豪華なホテルの1つであった。 ホテルで販売されていた冷たい飲み物「马迭尔冰棍」は100年を経て今ではハルビンの特産品となった[9]

聖ソフィア大聖堂
中央大街の街並み

ホテルに加えて、銀行、宝石店、衣料品店、その他の店も道外・道裏の両方に集まっており、中央大街は当時中国で最もファッショナブルな街道であるだけでなく、中国で最も初期の商業歩行者天国をつくりだした[9]

1907年に建てられた聖ソフィア大聖堂は、もともとロシア帝国軍の礼拝堂であったが、ロシアの実業家I.F.チスガコフの招きで、ロシアの建築家コヤシコフによって再設計・改修され、9年の歳月をかけて完成し、1932年に極東最大の正教会として完成した[9]

1909年10月26日ハルビン駅頭で日本の枢密院議長伊藤博文安重根暗殺される。同年、極東最大と言われたロシア系の「チューリン百貨店」が大直街に開店した(キタイスカヤ街店は1919年)。1908年にロシアが極東における自由貿易港廃止を決定し外国商品に高い関税を課すと、ウラジオストックからハルビンへ拠点を移す企業が現れ始めた[18]

1911年7月には、東清鉄道局の調査統計によると、当時のハルビンにはロシア人、イギリス人、ドイツ人、日本人、朝鮮人など6万人の外国人がいた[9]

日露戦争が勃発するとロシア帝国は敗戦しポーツマス条約を締結。東清鉄道南満洲支線やその支線が日本に割譲され、南満州鉄道となった。これによりハルビン駅に繋がる支線の大多数は南満州鉄道のものとなった[2]

1907年1月14日(光緒32年)、清政府は「ハルビンを商業用港」として開放することを決定した。1月23日には、吉林省省長は、ハルビン関道の管轄下で浜江庁を組織した。4月18日、初代浜江庁・江防同知傅家店で関防に当たった。その後、1909年から1911年までの間にハルビン市内の双城区阿城区が浜江庁の担当地域に編入された。しかし、中華民国成立後の1913年3月、浜江庁は「浜江県」に改名され、浜江庁の機能は消滅した[2]

中国東北部の大疫病中国語版によるペストで死亡した遺体

一方、1910年10月12日に中国東北部の大疫病中国語版が発生し、10月27日にはハルビンでもパンデミックが発生した。これによりハルビンの医療体制は崩壊状態となり、患者に対してできることと言えば瀉血鍼治療くらいであった。これに対し孝定景皇后伍連徳らに腺ペストの流行拡大の抑止方法を調査および研究するように伝え、ハルビンに派遣した。流行当初、清、大日本帝国、ロシア帝国三国の医療体制は独立していた。そこで伍は3国の協力を呼び掛けた。また、東清鉄道では入念に感染しているかのチェックが行われた。しかし、感染拡大の抑制は難しく、1911年4月には、黒竜江省全体で死者は15,295人に上った[19]

そこで、伍らは奉天で「国際防疫会議」を開催。清、英国、米国、ドイツ、フランス、イタリア、オーストリア=ハンガリー、オランダ、メキシコ、日本、ロシアを含む11カ国が出席し、清からは9名の代表者が出席した。会議終了後、ハルビンには「満洲防疫事務所」が設置され、ハルビンの病院建設を支援するなどした[19]

1914年4月30日、在ハルビン英国領事スライ、在ハルビン露帝総領事トラウショリット、東清鉄道社臨時代理は、「東清鉄道境界の自治と課税の規約を境界内の英国人に委任することに関する協定」(「英露協定」と呼ばれる)に調印した 。この協定は、ハルビンの東清鉄道租界におけるロシア帝国人の自治権を認め、東清鉄道境界内の英国人駐在員が租界内のロシア人と同じ自治権と免税権を享受することを定めたものであった。一方この内容に対し中華民国政府とその国民は反対した[2]

その後2年間で、アメリカ、フランス、日本、デンマーク、オランダ、イタリアなど10カ国がこの協定に参加し、同じ待遇を享受した。 それ以来、ヨーロッパのほぼすべての国を含む30カ国から10万人以上の駐在員がハルビンに集まった。 また、20カ国がハルビンに領事館を設置し、ハルビンは国際都市の中でも特にツァーリズム主義者の影響が強い都市となった。 前記のような国家はハルビンに数万社の工業、商業、金融などに関する企業を設立し、輸出入貿易に特化した商業会議所を設立した。これらの企業の支店は世界中に広がったため、東京、大阪、ロンドン、パリ、ベルリン、ニューヨークなどの世界の主要都市と直接接触して、国際複合一貫輸送の切符を買うことができる利点ができた。これにより、ハルビンは中国東北部の最大の商品市場と材料の流通場所になった[2]

1917年10月、ロシア帝国でボリシェヴィキ主導のもと十月革命が勃発。これにより不満を募らせた政治家、落ちぶれた貴族、家を失った人々はハルビンに逃亡した。統計によると、1922年には15万5000人のロシア人がハルビンに入国し、ハルビンの人口は約35万人に急増したという[9]。また、革命に感化された共産主義者は1917年9月にハルビン・ソビエト中国語版を発足。東清鉄道の利権を狙った[20] [21]。このように流民してきたロシア人の中には、ヴァレリー・ペレレシン英語版といった著名人もいた[22][23]

そのほか、迫害を恐れたロシア系ユダヤ人は、極東にユダヤ自治州を設けるより前に、ハルビンに逃亡することが多かった。このようなユダヤ人の流入、アレクサンドル3世とその息子ニコライ2世はいずれも超保守的な政治家、思想家コンスタンチン・ポヴェドノスツェフに傅育され、強い影響を受けていたからである。1913年までに、約5千人のロシア系ユダヤ人がハルビンに住んでいたと推定され、この数は1920年には約2万人に増えている。しかし現在も残るハルビンに流入したユダヤ人の遺跡は2つのシナゴーグほどしか残っていない[24]。ちなみに、イスラエルの元首相であるエフード・オルメルトの親族も当時ハルビンに住んでおり、2008年には墓参りを行っている(後述[25]

1919年3月、イギリス、フランス、アメリカ、日本、イタリアなどの国々が中国政府による東清鉄道の経営権を剥奪し、東清鉄道にいわゆる「国際監督」を課した(連合国鉄道管理委員会)。 1920年以降、中国政府は徐々に東清鉄道の経営権を取り戻し、1924年には中国とソ連が正式に契約を結び、「共同経営」することを決定し(北京協定)、以後、この鉄道は「中華民国東省鉄道」、略して「中東鉄道」と命名された[2]

更に1921年2月5日にはハルビン市政管理局、1923年3月1日に東省特別区行政長長官公署が正式に成立すると公署がハルビン埠頭区に設置され、現在の政治的な地位の基礎が築かれた。1926年3月30日に東省特別区市政管理局はハルビン市公議会を廃止、ハルビン自治臨時委員会が設置され、ロシア人による統治が終焉した。同年6月17日には『ハルビン特別市自治試弁章程』を施行し、埠頭区、新市街をハルビン特別市管轄区域とし、それ以外の馬家溝、老哈爾浜(現在の香坊区)、新安埠、八区、顧郷、正陽河等の地域を東省特別区市政管理局の管轄とした。経済面では、1920年代にはハルビンでも中国人による起業が増え、1929年の世界恐慌中ソ紛争の影響で、満洲のロシア系ビジネスは大きな打撃を受け、ハルビンでもロシア系資本の一部は閉鎖を余儀なくされ、中国人への売却や外国資本との合弁が行われた[26]

1921年の中国共産党創立直後、初期の革命家であった馬俊はハルビンに派遣され、革命思想を宣伝し、党支部設立の準備をさせた。1923年、中国共産党中央委員会陳為仁をハルビンに派遣し、陳を主任とする東北部初の党組織、中国共産党ハルビン独立組を設立、1924年6月、陳を主任とする中国共産党ハルビン支部が設立され、1925年、中国共産党北方局は呉麗石を書記として派遣し、1927年10月、ハルビンで東北部初の党大会が開催され、満州共産党が設立された。1927年10月、ハルビンで東北部第一回党大会が開催され、陳為仁を書記とする中国共産党満州委員会臨時委員会が設立され、その直後、陳為仁は奉天(現在の瀋陽)に赴いた。1929年、6月に「中東路事件」が発生すると、中国共産党満州委員会書記の劉少奇陳潭秋が相次いでハルビンに来て、革命のための指導を強化した。 1930年の国際労働節には、中共満州委員会執行委員の林仲丹(張浩)がハルビンに来て、大規模な集会と行進を行い、1931年までに、ハルビンの人口は33万人以上に増加した[2]

この間、中華民国北洋政府は相次いで「東省特別区市政管理局和行政長官公署」を設置し、1926年3月30日、白軍の残党が占拠していた市議会と理事会、別の市自治委員会グループの解散を命じ、ハルビン特別市を設立した。 この時点で、28年間続いた帝政ロシアとツァーリズム主義者が大きな影響力を持っていた時代は終了し、中華民国にハルビンの行政権が戻って来たのであった[2]

1932年柳条湖事件により満洲事変が勃発。これにより満州地域には満洲国が建国され、ハルビンも満洲国の一都市となった[1]

1932年6月下旬から8月20日まで、松花江流域は曇りと雨が続き、ハルビンでいえば7月に27日間連続で雨が降った。 そのうちの1日を見ると、昼夜の最大降水量が99.1mmにもなった。 このような長期的な雨天により嫩江第二松花江拉林河の3つの洪水が同時に発生、ハルビンの8月5日の水位は118.55メートルを超え、堤防が決壊し始めた。8月7日に道外は濁流が流れとなり、8月8日には道裏も冠水し、8月10日には道裏の一部の街で舟を浮かべることができるほどになった。8月12日8時、最高水位は119.72メートルに達し、道裏、道外の2区は一面海状態で、家屋の倒壊は数えきれず、浸水面積は877.5万平方メートルに達した[13]

この2年後、またハルビンは洪水に見舞われる。

1934年5月に松花江流域は早めに雨季に入り、ハルビンと周辺地域には豪雨が相次いだ。嫩江第二松花江拉林河で最高水位を記録し、7月20日にハルビンの堤防の一部が決壊し、川岸は川面の水位より1-2メートル低く、真夜中には鉄道が流されていき、松浦街道は水につかり水深は1-2メートルにもなった。これと同時に拉林河、阿什河で洪水発生、7月27日から江南(松花江南岸)が入水し始めた。8月13日に最高水位を記録、水位は118.53メートルに達し、今回の洪水による松花江南側の入水世帯は341世帯、被災者は1200人、江北(松花江北岸)の進水戸は3338世帯で、被災者は11900人に達した[13]

1937年から1941年の間、文学、美術、音楽、映画、ラジオ放送、曲芸、演劇、出版などの分野における文芸活動でも日本の影響を受け、日本語文学が盛んにハルビンで生まれたりもした。一方、1930年初頭にはハルビン文壇では抗日的な文学が大量に発表された。これは瀋陽などでは抗日文学の取り締まりが激しいのに対しハルビンなどではそれほどまだ取り締まりが強くなかったからである。また、これら抗日文学を発表した作家は左派であることから、ソ連に感化されロシア文学も流行した。また、ロシア革命後にハルビンへの亡命者が増えたことも要因とされる。このようなことから1898年から1961年まで、ハルビンで出版されたロシア語の書籍は合計3,447点、新聞は182紙、雑誌は338誌に達した。その大部分は1945年前に刊行された物である。1930年代と40年代、ハルビンで活躍したロシア人文学者は数百人に達した[27]

しかし、1936年に抗日文学作家が逮捕、処刑される「六・一三事件」が発生。'37年には同じような事件が発生(四・一五事件)。これにより抗日文学は消滅し、日本語文学が大量に生まれ、文学のジャンルも多種多様になった[27]

1934年12月28日満洲帝国ロシア人移民局(通称:白系露人事務局)が設立。

  • 満州国居住の白系ロシア人移民の財産及び法律上の地位の保全と強化。
  • 白系ロシア人に関連する全ての事項に関する満洲政府との連携の確立。
  • 白系ロシア人への日本・関東軍の影響力を強め、白系ロシア人の統制・団結を強めると共に反プロパガンダや諜報活動を強化すること。

を目的として活動を行った[28]

ハルビン内のユダヤ人は満洲国の中で非常に裕福な暮らしをしており、毛皮商、銀行家、パン屋、商店主、レストラン経営者、教師、文学者、芸術者など多種多様な職に就き、約20のユダヤ人新聞と定期刊行物を刊行したり、ユダヤ系スポーツ組織も2つほどあるほど大きなコミュニティを形成していた。しかし、そのようなユダヤ人のハルビンでの裕福さも長くは続かなかった[12]

ロシアファシスト党党員。1934年撮影。

在ハルビンロシア人のコミュニティは満州国を裏で支配する大日本帝国と協力し反ボリシェヴィキ・アジア戦線を形成する試みで、ファシズムに傾倒していった。その象徴となるのが「ロシアファシスト党」であろう。コンスタンチン・ロジャエフスキーを代表とし、ユダヤ人排斥正教会の権威の復活(ソ連は無宗教)、イタリア式の協同組合による経済システムの構築を訴えた。これにより反ユダヤ的思想が蔓延り、ユダヤ人の人口は、1931年の1万3千人から1935年の5千人にまで激減した[24]。迫害事件も発生し、裕福なユダヤ人家庭のピアニスト、セミョーン・カスぺがロシアファシスト党により誘拐され、当時の価値で30万円を要求した後殺害された(シモン・カスペ殺害事件)。この事件は、背後に日本がいるなどと噂されたが、結局あやふやな裁判となり資料も焼かれたため極東ユダヤ人史に残る一大ミステリーとなっている[29]

731部隊1号棟

1936年には、平房731部隊が設置される。詳しくは「731部隊」を参照してもらいたいのだが、ハルビンにおける部隊の影響は大きかった。ハルビンのロシア人をターゲットとし、生体実験の実験体とした。これらから、部隊の犠牲者3千~1万2千人の約30%がロシア人であったと推定される。また、ロシア人住民の大部分が、子供が大日本帝国に連行されるのを防ぐため、午後5時以降はさせないようにしていた[24]

1930年代後半までに、地元のロシア人の数は約3万人にまで減少した。1935年にソ連が東清鉄道を完全に満洲国に売却したことも重なり、多くのソ連に帰国することを選んだ。ところがソ連に帰化したとしても、そのうち4万8千人以上が、1936~38年、すなわちスターリンの大粛清の期間に、「日本のスパイ」として逮捕された[24]

1941年、「満鉄調査部事件」が発生、ハルビン文壇はプロパガンダ的な側面を強めていく[27]

1945年ソ連対日参戦により満洲国がソビエト連邦に攻められると、ハルビンは大日本帝国による実質的支配から解放された[1]

第二次世界大戦終結後

1946年4月28日、ハルビンは東北人民解放軍により占領、その後正式に第二次国共内戦下で漢民族による政治的主権を回復していった[1][9]。その中で在ハルビンユダヤ人や在ハルビンロシア人らは米国、オーストラリア、カナダ、ブラジル、パナマ、日本などに流入していった。しかし在ハルビンユダヤ人で言えば319人がハルビンに残り、在ハルビンロシア人も450人ほどが残った[12][14]

1950年2月27日、毛沢東はソ連訪問から帰国し、途中でハルビンを視察し、黒竜江省の産業発展の現状を知った後、ハルビン市党委員会に「生産発展」を指示し、ハルビンを消費都市から近代工業都市に変える計画を明らかにした[9]。そして、朝鮮戦争勃発と中国参戦に伴い軍需産業を発展させるため、ハルビンは第一次五カ年計画により国家重点建設都市に指定された[1][9]。これにより遼寧省の25の重工業企業が北のハルビンに進出した[9]。また、ソ連による中国内156施設への建設支援の内ハルビン内で3施設が建設された[1]。これは、ソ連がハルビンはシベリア鉄道によって交通の便が良く、農業資源や鉱物資源が豊富であったため、目を付けたからと思われている[9]

これらの政策により、1950年から1952年にかけてでいえば国家の都市に対する投資費用の5割以上を投資し、多くの人員を派遣したことにより、徐々にハルビンボイラー工場、東北軽合金加工工場、ハルビン電気機械工場などの設置が行われ、現在のハルビンにも通ずる機械電気産業の基礎が作られた[1][9]。同時に、ハルビン市は政策の奨励の下、ハルビン軍事工程学院、ハルビン工業大学、東北農業学院、東北林業学院、ハルビン医科大学、ハルビン師範大学、黒龍江ビジネススクールなど、十数校の高等教育機関を建設・拡張したことにより継続的にハルビン発展のための人材の育成体制も確立した[9]

これらの工業により、中国国内でもアルミニウムとマグネシウム加工や、電気の供給、航空機の生産などにおいて大きくシェアを伸ばし、外国製品技術の独占状態を打開し、国内産業の発展に関わった。ついに1957年にはハルビン市の社会総生産額は前年比22.84%増の17億2000万元に達し、そのうち工業総生産額は13億2400万元に達し、中国東北部の都市としてはトップレベルの生産率を誇るようになる。同時に、ハルビンの市街地面積は101.2平方キロメートルに増加し、人口は1952年の832,000人から1957年には1,427,000人に増加した。そして、これらの発展もあってか黒竜江省の省都はチチハルから打って変わりハルビンとなった[9]

文革を代表する一画。『毛沢東語録』を掲げる紅衛兵は、赤い八月のような反革分子に対する虐殺を行った。

しかし、1958年から1965年にかけて、ハルビンは大躍進政策とその他経済政策による紆余曲折した発展過程を経験した。 その後、文化大革命によりハルビンの国民経済は深刻な打撃を受け、経済・社会秩序も大きなダメージを受けた[1]。その代表例が聖ニコラス大聖堂で、文革により1966年8月23日に破壊された[14]。その際、紅衛兵は「砸碎封资修(封建的、資本主義的、修正主義的な法制度を粉砕せよ)」と叫びながら「大海航行靠舵手(航海は操舵手にかかっている)」というスローガンが書かれた3つの赤旗が立てたと言われている[30]

また、1950年代から60年代にかけ連続的な洪水が発生した[13]

1953年に満州で降雨が早まり、6月上、中旬に第二松花江の干支流水位が一般的に上昇した。8月上旬には嫩江流域でも雨が降り続き、嫩江の流量は急激に増加した。8月30日ハルビンは2路からの水の影響で水位が急激に上昇し、9月3日までの最高水位は119.30メートルに達した。洪水の氾濫期間中に松浦区の堤防が決壊し、顧郷屯遺跡、天恒両地の堤外家屋などの土地が冠水し、市全体の被災人口は33003人、農地は900ヘクタールが被害を受けた。災害救助を各区が行ったため、一定の経済損失をもたらしたが、死傷者は発生しなかった[13]

1956年夏の松花江流域では大規模な降雨が続き、豪雨が集中した。7月以降、嫩江流域では豪雨が続き、第二松花江一帯では雨量が多く、豊満ダムでは11日間放流が続いた。両江の洪水は松花江に流れ込み、松花江では8月6日に第1回の洪水が発生し、水位は119.64メートルだった。8月7日午後に松浦などで堤防が決壊し、水位は20センチ下がったが、その後再び上昇し、8月15日には2回目の高潮があり、水位は120.06メートルに達した。この時、江北の水位はすでに市街部の主要な通りより3メートル以上高く、ハルビン市内の松花江上流と江北地域の堤防が決壊し、広い畑と多くの村が冠水した[13]

1957年7月から8月にかけて、黒竜江省と吉林省両省で降雨が集中し、降水量が何度も多くなった。各流域の豪雨の時間が前後して異なるため、松花江では何度も洪水が発生した。流域内のいくつかの大河が同時に増水し、豊満ダムが連続放流され、第二松花江、嫩江、拉林河の洪水が合流し、8月末にはハルビンでとても大きい洪水が発生し、9月6日6時の水位は120.30メートルに達し、松浦地区の一部の堤防が決壊した。しかし、政府の支援などにより今回の洪水による損失は大きくならなかった。今回の洪水対策の勝利を記念して、ハルビン市民は中央通りの北端に洪水防止記念塔を建てた[13]

1959年秋は雨が大きく、一部の地域では深刻な冠水が発生し、土壌が飽和した。1960年には黒竜江省と吉林省両省で豪雨が多く、各河川は普遍的に増水し、豊満ダムはまた放流を余儀なくされた。複数の河川の洪水が合流し、松花江の幹線水位は急速に上昇し、8月17日の最高水位は119.52メートルに達した。今回の洪水はハルビンにも一定の被害をもたらしたが、被害はそれほど大きくなかった[13]

1969年の洪水は主に嫩江流域の連続豪雨によって引き起こされた。7月10日以降、嫩江流域に集中的な雨が降り、7月12日から15日にかけて嫩江で洪水が発生した。8月中旬には嫩江流域にまた大雨が降り、嫩江の第2次洪水をもたらした。洪水は松花江の本流に伝播し、8、9月の水位は急速に上昇し、9月20日には最高水位119.18メートルを記録。しかし、被害はそれほど大きくなかった[13]

文革後に行われた改革開放後、ハルビンは新しい発展を遂げるようになる。 国の経済社会政策は世界の注目を集める成果を上げ、ハイテクノロジー開発区と経済技術産業開発区を次々と設立、国内初の内陸港(ハルビン太平国際空港)を設立した。 第27回中国・ハルビン経済貿易交易会を開催し、中露博覧会、第33回中国・ハルビン国際氷雪祭、第33回中国・ハルビン夏音楽祭も行われた[1]。1990年には、1936年の11.8倍にあたる965万人の乗客がハルビン駅から送り出されたというデータからも発展が見て取れる[15]

成長の裏で環境面ではダメージが入り、カワウコウノトリといった鳥類や、魚類のほとんどが姿を消した。珍しく見ることができた魚類の70%はコイという有様である。しかし1980年には松花江沿いの写真で3.5キログラムのサケを、1981年には写真で11.5キログラムのサケを捕獲していることが判明しており、まだ完全にハルビンから姿を消したわけではないことが判明している[31]

1985年8月18日には八・一八松花江客船沈没事故が発生。238人の乗客の内、171人(大人128人、子ども43人)が死亡した[32]

現代

現代におけるハルビンの様子。

現在ハルビンの経済社会発展は飛躍的に進み、市の総合力は全国トップ10に入り、観光産業は中国の観光都市の競争力でトップ20にランクインし、「中国の幸福都市」で7位、世界の有名な夏のリゾート都市でトップ20にランクされている。 国連から「音楽都市」を授与され、「国家文明都市」、「国家公共交通都市建設模範都市」、「美湿地都市」、「国家二重支援モデル都市」、「トイレ革命優秀都市」、「中国で最も競争力のある地域金融センター都市」、「国家文化システム改革先進都市」などの名誉称号を授与されている[1]。2010年6月22日、ハルピンは国連から「音楽都市」に任命された[33]

また、これまで記してきたような歴史から、帝政ロシアのような建築がよく見られる。聖ソフィア大聖堂や、ヴォルガ・マノー・ホテル、中央大街はそれを象徴する建築物である[24]

ハルビンは様々なイベントの開催地となっており、世界四大氷雪祭の1つハルビン氷祭りが1985年1月5日から開催されており[34]、1990年からは毎年中国ハルビン国際経済貿易博覧会を開催されている。国際的イベントでは、2009年にハルビンは第24回冬季ユニバーシアード大会の開催地となった[25]1996年アジア冬季競技大会開催地にも選ばれた[35]。2003年、2003年バスケットボール男子アジア選手権の開催地になる[36]。2007年には、2007年中国杯がハルビンで開催された[37]。加えて、2025年2月28日から3月9日までの間開催される2025年アジア冬季競技大会はハルビンで開催される予定である[38]

ハルビンの8つの県はもともと松花江地区に属していたが、1999年8月11日にハルビンに編入され、ハルビンは副省級市となった。2004年2月4日、国務院はハルビンの一部の行政区画の調整を承認した。調整後、ハルビンの行政区画は8つの区、7つの県、4つの県級市から成るようになった。全市の面積は53,068平方キロメートルで、そのうち市街地の面積は4,272平方キロメートルである。人口は当時974万8400人で、そのうち都市部の人口は当時398万9600人である[39]

2000年4月に、黒龍江省社会科学院ハルビン・ユダヤ研究センターが設置されて以降、ハルビンではそれまで多く住んでいたユダヤ人の研究や保護が盛んとなった。2002年、イスラエル人のダン・ベン・カナーン教授は、黒龍江省社会科学院によって、21世紀にハルビンに定住した最初のユダヤ人として認定され、同年には中国・イスラエル研究センターが設立。カナン教授によってハルビンのユダヤ人コミュニティに関する映像作品なども作られ、2003年、中イスラエル研究研究センターはエルサレム・ヘブライ大学と正式な関係を結び、ハルビンで研究を行う博士候補生を留学させることにしたりするなど、積極的な交流が行われた[12]。2004年、イスラエル元首相エフード・オルメルトはイスラエルの貿易代表団とともにハルビンを訪れ、祖父の墓参りを行った[25]

2000年、中央大街の改修が行われた[30]

2006年8月15日、国務院はハルビン市政府が一部の行政区画を調整することを承認した。動力区・香坊区が合併し、香坊区を新設し、阿城市の一部が道外区に編入し、阿城市の残部が区制施行し、阿城区となった。調整後、松北区道裏区南崗区平房区香坊区道外区呼蘭区阿城区の8つの区、延寿県方正県賓県巴彦県木蘭県通河県依蘭県の7つの県、尚志市五常市双城市など3つの県級市がハルビンの管理下に置かれた。全市の面積はこれにより53,068平方キロメートルになり、、そのうち都市部の面積は7086平方キロメートルになった。調整時点で都市部の人口は464万2400人[39]

2014年1月19日、ハルビン駅近くに朝鮮の独立運動家で伊藤博文暗殺した安重根を称える記念館が建設された[40]。記念館の建設を考えたのは韓国の朴槿恵大統領で、2013年6月に中国を訪問した際、中国共産党総書記の習近平と会談した際に、記念館を建てるという考えを提起した。その後、中国はハルビン駅に安重根を称える記念館を建設し始めた。2014年1月19日に除幕式が行われると、日本側はすぐに記念館の建設をめぐって中国に抗議した[41]

2015年1月2日には道外で大規模な火災が発生(ハルビン市道外区1月2日火災事故)。11階建てビルが倒壊し、消防士5人が犠牲となり、13人の消防士と1人のガードマンが負傷し、火災は20時間も続いた[42][43]。2015年1月4日中華人民共和国公安部政治部は今回の事故で犠牲になった5名の消防士を「烈士」と認定し、献身国防記念金メダルを授与、弔慰金として20,000元を支給した[44]

2016年、ハルビン銀行はロシアの銀行21社と130億元相当の契約を締結した[45]

中央大街の最初の変貌から20年経った2020年、改修と補強に総額17億元が投資され、「中国における西洋的な通り」を推進することが目指された。中央大街とその脇道にある合計43棟の西洋風の歴史的建造物は、地元政府と建築、歴史、観光など幅広い分野の専門家たちとの広範な協議を経て、塗り直され、修繕された。その目的は、「通りの歴史的な外観と雰囲気を再現」し、この地区を「国際都市のリビングルーム(国際化城市会客庁)」にすることだった。中央大街の中心、1918年に竣工したバロック様式松浦洋行ビルは、新華書店やハルビン観光サービスセンターなど他の用途に長い間再利用されていたが、2020年の投資から、「松浦対外商会」と改名され観光客をターゲットにした洋風レストランとして再オープンした。改装された建物の外側には、「松浦西餐1918」、「松浦を味わい、前世紀を懐かしむ(品松浦、憶百年)」という新しいスローガンが掲げられており、少なくとも表向きにはロシアが強い影響力を持っていた過去への郷愁が露骨に表れている[30]

これ以外でも2009年には、ロシアが建設した聖ニコラス大聖堂とハルビン駅が再建され、2009年にはテーマリゾート「ヴォルガ・マナー」の一部として大聖堂の正確なレプリカが完成するなど、ロシア帝国に対するノスタルジーが顕著に表れている。のであるが、対して満洲国などでハルビンに大きな影響を残した日本に対してはというと、あまりいい評価はされておらず、「日本はハルビン及び満洲からすべてを略奪していった」といったようなイメージが強いのが現状である(「特定アジア」、「反日感情」も参照)[30]

2024年5月17日、ロシアのプーチン大統領がハルビンに到着し、中国の習近平国家主席と共に中露企業が出展する「中露博覧会」の開幕式や地域間協力フォーラムに参加した[46]。また同日プーチンはソ連対日参戦の際のソ連兵の記念碑に献花した[47]

脚注

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