飯野矢住代

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いいの やすよ
飯野 矢住代
プロフィール
生年月日 1950年3月9日
没年月日 1971年12月28日
没年齢 21歳(数え22)
出身地 東京都渋谷区円山町
死没地 東京都渋谷区笹塚
瞳の色
毛髪の色
公称サイズ(1968年[1]時点)
身長 / 体重 169 cm / 51 kg
BMI 17.9
スリーサイズ 84 - 60 - 90 cm
活動
デビュー 1968年ミス・ユニバース世界大会
ジャンル グラビア
モデル内容 一般・水着ヌード
備考 1971年(昭和46年)12月28日、マンションの浴室内で死去
他の活動 女優
銀座の高級クラブ『姫』のホステス
事務所 ジャニーズ事務所
モデル: テンプレート - カテゴリ

飯野 矢住代(いいの やすよ、1950年3月9日[2] - 1971年12月28日)は、日本モデルタレント女優である。本名は飯野 裕代(読み同じ)。

1968年昭和43年)のミス・ユニバース日本代表として知られるほか、ジャニーズ事務所として初めての女性タレントであったものの、21歳で死去した。なお、彼女はジャニーズ事務所出身のすべてのタレントの中で最初にこの世を去った人物である[3]

人物[編集]

東京都渋谷区円山町出身。

1966年7月1日にリリースされたザ・スパイダースの6'thシングル「サマー・ガール」のB面「なればいい」の作詞を担当(オリベゆり名義。作曲はかまやつひろし)。中村俊夫によると、「時代を先取りしたサイケデリック・ナンバーで、シュールな歌詞を提供した」[4]

1967年(昭和42年)、『ミス東京』のグランプリとなる。

1968年(昭和43年)、ミス・ユニバース日本代表となるが、当選時の挨拶で「私は二号さんの娘です」と切り出した[5]。母は芸者出身の囲われ者だった。主催者は落胆し、日本代表の辞退も勧告したという[6]

同年7月、母と二人でフロリダ州マイアミビーチで行われたミス・ユニバース世界大会に出場。主催者サイドの介添え人は一切なし[7]。飯野はその大会で、入賞は出来なかったものの特別賞『ミス・アミティ』を受賞している。

帰国後は、作詞家で後に直木賞作家となった山口洋子が経営していた銀座の高級クラブ『姫』のホステスになることを宣言し、物議を醸した。同時期、ジャニーズ事務所に所属。雑誌グラビアや、テレビドラマ『プレイガール』の第18話や、映画『やくざ刑罰史 私刑(リンチ)!』に出演した。

1969年(昭和44年)12月、当時交際していたドラマーのジョニイ・レイズとの間に男児を儲けるが、男児は出産後間もなく死亡している。妊娠中『女性セブン』でジョニーと2人でヌードを披露した[8]。 この妊娠を巡り、ジャニーズ事務所と対立、契約を打ち切られることとなった。『姫』も辞め、職を転々とした。

1970年 (昭和45年)1月、『姫』に復帰。ジョニーと離別した。

1971年(昭和46年)の暮れ、幼馴染であり、恋人の一人だった俳優の池田秀一が当時住んでいたマンションの浴室内にて池田の不在中に死亡した。死亡原因については、風呂を沸かしていたところ、そのまま居眠りをしている最中に空焚きによるガス漏れを起こしたことによる一酸化炭素中毒であると報じられたほか[9]、風呂水が漏れて少量しか入っていなかったことが原因で空焚きを起こしてしまったとの報道もされた。

参考文献[編集]

  • 山口洋子 『ザ・ラスト・ワルツ - 「姫」という酒場』 双葉社、1996年、ISBN 9784575232677、63〜74頁
  • 「大女優も殺人犯もいる「ミスコン100年」美女たちの栄光と転落」『週刊新潮』2008年3月20日号、52〜55頁

脚注[編集]

  1. ^ 「東京の飯野さん ミス・ユニバース代表」『中日新聞』、1968年5月6日、14面。
  2. ^ 「〝虚名〟と〝ロマンス〟を着飾って生きた、はかない21年の生涯 飯野矢住代が過ごした死の前夜6時間」『週刊平凡』第14巻第3号、平凡出版、1972年、40-45頁、doi:10.11501/1851702 
  3. ^ ジャニーズ事務所出身の男性タレントでは、真家ひろみが2000年3月6日に、最初にこの世を去っている。
  4. ^ 中村俊夫 (2017年10月13日). “ザ・スパイダース隠れ名曲ガイド by 中村俊夫 エッジィな男 ムッシュかまやつより”. RittorMusic. 株式会社リットーミュージック. 2021年9月4日閲覧。
  5. ^ 「日本ミス・ユニバースに黒い影―家事手伝いという環境の中で」『週刊新潮』第13巻第20号、新潮社、1968年、140頁、doi:10.11501/3377507 
  6. ^ 井上章一『美人コンテスト百年史 芸妓の時代から美少女まで』新潮社、1992年3月25日、151-155頁。 
  7. ^ 「哀れ、飯野矢住代が悲惨な事故死!」『週刊明星』第15巻第3号、集英社、1972年、39-43頁、doi:10.11501/1825546 
  8. ^ 『女性セブン』(1969年11月19日号、小学館)
  9. ^ 読売新聞』 1971年12月29日付ほか多数

関連項目[編集]

外部リンク[編集]