小島日女子
小島 日女子(こじま ひめこ)は、1952年(昭和27年)の『ミス・ジャパン』であり、同年に行われた第一回 『ミス・ユニバース』世界大会に日本代表として出場した[1]。
第一回 『ミス・ユニバース』日本大会は1952年、産業経済新聞社の主催により日活国際会館6階4号室に全国10地区の代表を集めて行われ、近畿代表の小島が選ばれた[2]。世界大会は同年6月、アメリカ合衆国カリフォルニア州のロングビーチでミスUSA大会と合同で行われ、アメリカ各州からの42人の参加者とそれ以外の29ヶ国(アメリカの準州であったアラスカとハワイを含む)からの代表者が競演した[1]。そこに敗戦後の占領状態から同年4月に独立を回復したばかりだった日本の代表として出場した小島は、非公式の特別賞 『ミス・エレガンス(Miss Elegance)』を受賞している[1]。当時は大阪府出身の20歳で身長168センチメートル(168 cm)、体重56キログラム(56 kg)、スリーサイズ91-66-91 cm。翌年の日本代表・伊東絹子はウエストの細さ、ヒップの大きさで小島を上回ったが、小島のバストは7年後の児島明子、身長は8年後の古野弥生に抜かれるまで歴代最大を保った。小島はその後オークランドのミルズ・カレッジに入学、さらにニューヨーク大学で家政学を学んだ[3][4]。
1955年(昭和30年)9月21日、アメリカの富豪で綿花貿易商のベンジャミン・アドラー(当時66歳)と結婚し、1959年時点でニューヨークに住んでいた[4]が、その後離婚し、国務省の役人と再婚したという[5]。
脚注[編集]
- ^ a b c Miss Universe 1952 Miss Universe LLPP、平成23年8月30日閲覧
- ^ 『週刊サンケイ』1959年7月臨時増刊号 ミス・ユニバース ワールド 美の祭典 70頁
- ^ ミス・ユニバース(一覧)『中部日本新聞』1959年6月8日夕刊3面
- ^ a b 『週刊サンケイ』1959年7月臨時増刊号 ミス・ユニバース ワールド 美の祭典 32頁
- ^ 23年間のミス・ユニバース 美女の運命はいかに? 週刊朝日1974年5月3日号 139~143頁
外部リンク[編集]
- Japón en el Mundo de la Belleza - 小島を含む歴代日本代表の写真を多数掲載