大谷享子

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

大谷 享子(おおたに きょうこ、1936年 - 2006年1月17日)は、昭和32年(1957年)の「ミス・ジャパン」である。世界大会(ミス・ユニバース1957)でTop15に入賞、大陸別部門賞のMiss Asiaを受賞。

戦後最大級のフィクサーと呼ばれた大谷貴義[1]の長女である。

経歴・人物[編集]

大妻女子大学短期大学部を中途退学し、国際クッキングスクールを卒業した[2]

1957年、ミス・ユニバースの国内大会に応募するも、最初はその事実が発覚するのを恐れて新聞を隠したりもした[3]。日本代表に選ばれ、同年7月にカリフォルニア州のロングビーチで行われた第6回ミス・ユニバース世界大会(ミス・ユニバース1957)に出場。「一人娘だったこともあり家庭の監督はすごくきびしかった」[4]が、それに対する反抗精神もあり[5]、反対を押し切って世界大会に出場。

その大会で、当時21歳無職[6]で身長168センチ、体重55キロ、スリーサイズ87-56-87[7]だった大谷はセミファイナルに進出、『トップ15』に入賞し、「ミス・アジア」を受賞した[2]

作家の吉川英治のすすめにより、1960年昭和35年)、裏千家14世千宗室の三男・巳津彦と結婚した。媒酌人は、吉川夫妻と福田赳夫[8]夫妻が勤めた。

1966年(昭和41年)、夫と死別し。株式会社日美の代表取締役社長に就任。1997年(平成9年)、社長職を長男・裕巳(宗裕)に譲り、代表取締役会長に就任。

2006年平成18年)1月17日、69歳で死去した[9]

弟の吉右は、父・大谷貴義同様宝石卸・貸しビル業を営み、政・財・官界、芸能界、スポーツ界の著名人と深い親交がある。

脚注[編集]

  1. ^ 株式会社日美(東京・新橋)創業者
  2. ^ a b 大谷享子・思い出の記『週刊サンケイ』1959年7月臨時増刊号 ミス・ユニバース、ワールド美の祭典 42頁
  3. ^ 「人物双曲線 ミス・ユニバースとミス・ワールド」『週刊朝日』、朝日新聞社、1957年、 80頁。(昭和32年6月23日号)
  4. ^ 「日本にも可能性!ミス・ユニバースの舞台裏―世界一の美女をねらう各国のマイアミ・ビーチ作戦―」『平凡パンチ』第3巻第14号、平凡出版、1966年、 94f、 全国書誌番号:00021496
  5. ^ 井上章一 『美人コンテスト百年史 芸妓の時代から美少女まで』新潮社、1992年3月25日、150-151頁。 
  6. ^ 相沢正夫 『数字雑学事典』毎日新聞社、1977年4月5日、90-91頁。 NCID BA75766185 
  7. ^ ミス・ユニバース大谷さん、ミス・ワールド依藤さん『朝日新聞』1957年(昭和32年)6月10日7面
  8. ^ 1976年 - 1978年、内閣総理大臣
  9. ^ 「大谷享子氏逝去」『淡交』第60巻第4号、淡交社、 135頁、 ISSN 0289-3908(2006年(平成18年)4月号)

外部リンク[編集]