「高松藩」の版間の差分
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頼房は兄である[[尾張藩]]主・[[徳川義直|義直]]・[[紀州藩]]主・[[徳川頼宣|頼宣]]に先だって男子をもうけたことを憚って、長男の頼重ではなく三男の[[徳川光圀|光圀]]を[[水戸藩]]主に立てた。しかし、光圀は後嗣を頼重の子である[[徳川綱條|綱条]]に譲り、自身の子である[[松平頼常|頼常]]を高松藩主に据えた。松平氏は入封当初より、高松城下に水道を引き、灌漑用に溜池を造るなど、水利の悪い讃岐の地を整備した。また、塩田開発を奨励した。藩財政は江戸後期に至るまで比較的安定していたが、[[幕末]]には財政は逼迫した。 |
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松平氏第5代藩主・[[松平頼恭|頼恭]]は[[平賀源内]]を起用し、城下の栗林荘(現在の[[栗林公園]])に薬草園を作らせた。また、医師の[[向山周慶]]に製糖技術を学ばせ[[白糖]]の製造を可能にした。これにより[[塩]]・[[綿]]と並ぶ[[讃岐三白]]の一つである讃岐[[和三盆]]糖の製造技術が確立し、現在も香川県の名産品の一つとなっている。9代藩主[[松平頼恕|頼恕]]は[[久米通賢]]を登用し、坂出の浜辺に日本最大級の塩田を開発した。 |
松平氏第5代藩主・[[松平頼恭|頼恭]]は[[平賀源内]]を起用し、城下の栗林荘(現在の[[栗林公園]])に薬草園を作らせた。また、医師の[[向山周慶]]に製糖技術を学ばせ[[白糖]]の製造を可能にした。これにより[[塩]]・[[綿]]と並ぶ[[讃岐三白]]の一つである讃岐[[和三盆]]糖の製造技術が確立し、現在も香川県の名産品の一つとなっている。9代藩主[[松平頼恕|頼恕]]は[[久米通賢]]を登用し、坂出の浜辺に日本最大級の塩田を開発した。 |
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2013年8月14日 (水) 09:03時点における版
高松藩(たかまつはん)は、江戸時代に讃岐国(現在の香川県)を領有した藩。生駒氏の代は讃岐一国を領していたが、松平氏(高松松平家)の代になり半国の東讃地域を領した。藩庁は高松城(現在の高松市)。
藩史
四国平定後の天正15年(1587年)、生駒親正が豊臣秀吉から讃岐1国、17万3000石を与えられたことに始まる。親正の子・一正は慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いにおいて東軍に加担したため、戦後に所領を安堵された。しかし、第4代藩主・高俊の代の寛永17年(1640年)にお家騒動(生駒騒動)により改易され、出羽国矢島藩に転封された。
その後讃岐国は一時、隣国伊予国の3藩、西条藩主・一柳直重、大洲藩主・加藤泰興、今治藩主・松平定房により分割統治された。
寛永18年(1641年)、西讃地域に山崎家治が入り丸亀藩が興った。
寛永19年(1642年)、東讃地域に常陸国下館藩より御三家の水戸徳川家初代藩主・徳川頼房の長男・松平頼重が12万石で入封し、東讃地域に高松藩が成立した。頼重は入封にあたり、幕府より西国諸藩の動静を監察する役目を与えられたという。
頼房は兄である尾張藩主・義直・紀州藩主・頼宣に先だって男子をもうけたことを憚って、長男の頼重ではなく三男の光圀を水戸藩主に立てた。しかし、光圀は後嗣を頼重の子である綱条に譲り、自身の子である頼常を高松藩主に据えた。松平氏は入封当初より、高松城下に水道を引き、灌漑用に溜池を造るなど、水利の悪い讃岐の地を整備した。また、塩田開発を奨励した。藩財政は江戸後期に至るまで比較的安定していたが、幕末には財政は逼迫した。
松平氏第5代藩主・頼恭は平賀源内を起用し、城下の栗林荘(現在の栗林公園)に薬草園を作らせた。また、医師の向山周慶に製糖技術を学ばせ白糖の製造を可能にした。これにより塩・綿と並ぶ讃岐三白の一つである讃岐和三盆糖の製造技術が確立し、現在も香川県の名産品の一つとなっている。9代藩主頼恕は久米通賢を登用し、坂出の浜辺に日本最大級の塩田を開発した。
幕末は宗家である水戸藩が尊皇に傾き、一方で藩主・頼聰の正室弥千代が井伊直弼の娘という立場から、苦しい立場に立たされた。結局、慶応4年(1868年)の鳥羽・伏見の戦いでは旧幕府方に就いたため、朝敵となった。これにより土佐藩・丸亀藩などが高松城下に進駐したが、戦わずに家老を処分し、頼聰も謹慎して恭順の意を示したことにより赦免された。
明治4年(1871年)、廃藩置県により高松県となり、のち香川県となった。
歴代藩主
生駒家
外様 17万3千石 (1587年 - 1640年)
松平〔水戸〕家
- 頼重(よりしげ)〔正三位、讃岐守・左近衛権少将・参議〕
- 頼常(よりつね)〔従四位下、讃岐守・左近衛権少将〕
- 頼豊(よりとよ)〔従四位下、讃岐守・左近衛権中将〕
- 頼桓(よりたけ)〔従四位下、讃岐守・侍従〕
- 頼恭(よりたか)〔正三位、讃岐守・左近衛権中将・参議〕
- 頼真(よりざね)〔従四位下、讃岐守・左近衛権中将〕
- 頼起(よりおき)〔従四位下、讃岐守・左近衛権中将〕
- 頼儀(よりのり)〔従四位上、讃岐守・左近衛権中将〕
- 頼恕(よりひろ)〔従三位、讃岐守・左近衛権中将・参議〕
- 頼胤(よりたね)〔正四位下、讃岐守・左近衛権中将〕
- 頼聰(よりとし)〔従二位・讃岐守〕
幕末の領地
参考文献
- 児玉幸多・北島正元監修『藩史総覧』新人物往来社、1977年
- 『別冊歴史読本 江戸三百藩 藩主総覧 歴代藩主でたどる藩政史』 新人物往来社、1977年
- 中嶋繁雄『大名の日本地図』文春新書、2003年
- 八幡和郎『江戸三00藩 バカ殿と名君 うちの殿さまは偉かった?』光文社新書、2004年
関連項目
先代 (讃岐国) |
行政区の変遷 1642年 - 1971年 (高松藩→高松県) |
次代 香川県(第1次) |