「上山藩」の版間の差分
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== 上山藩の家臣団 == |
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== 廃藩直前の領地 == |
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== 関連項目 == |
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2011年7月18日 (月) 12:50時点における版
上山藩(かみのやまはん)は、羽前国(旧出羽国)村山郡の上山(現在の山形県上山市)周辺を領有した藩。藩庁は上山城に置かれた。
概要
上山は、北は山形藩、南は米沢藩に隣接する羽州街道の要衝であり、長禄2年(1458年)には上山温泉が発見され、温泉宿場町として早くから繁栄を遂げた。上山は最上氏が支配していた頃から重要拠点のひとつと見なされており、戦国時代には伊達氏と最上氏がこの地をめぐって争うことも少なくなかった。慶長5年(1600年)関ヶ原の戦いで、上杉景勝の家臣・直江兼続は2万5000を数える大軍を擁していながら、上山城を守る最上氏の家臣・里見民部率いるわずか1000の兵の前に、大敗を喫するという醜態を晒している。しかし里見民部は後に最上義光と対立して出奔し、その後には坂光秀、次いで最上光広(義光の五男)が入った。
しかし義光死後、最上氏内部では家督争いが絶えず、遂に元和8年(1622年)、最上氏は最上騒動と呼ばれるお家騒動を理由に幕命によって改易された。その後、上山には能見松平氏の松平重忠が4万石で入り、上山藩を立藩した。重忠は城下町や交通路の整備を行なうなどして藩政の基礎を固めようとしたが、わずか4年後の寛永3年(1626年)に摂津国三田藩へ移封となる。その後を受けて蒲生忠知(会津藩主・蒲生忠郷の弟)が4万石で入ったが、忠郷が翌年に嗣子無くして病死したため、忠知は伊予松山藩へ移封された上で蒲生氏を継ぐこととなった。その後、上山には室町時代の名門・土岐氏の血を継ぐ土岐頼行が2万5000石で入部する。延宝6年(1678年)に頼行は隠居して次男の土岐頼殷が後を継いだ。頼殷は元禄4年(1691年)に1万石加増の上で大坂城代を務め、翌年2月に越前国野岡藩へ移封となった。土岐氏は2代にわたって上山を支配したが、その間に城下町と交通路(特に難所であった「がらめき峠」の改修工事)の整備、鉱業や新田の開発、神社仏閣の建立、産業の奨励、用水路の建設など、上山の発展に大きな治績を残している。その後、上山には金森頼時が3万8700石で入ったが、元禄10年(1697年)6月に美濃国郡上藩へ移封となった。
同年9月15日、備中国庭瀬藩から松平信通が3万石で入り、ようやく藩主家が安定する。しかしやはり小藩ながらの悲しさから、延享年間から財政難が発生し、百姓一揆も頻発して起こった。延享4年(1747年)には五巴徒党一揆、明和8年(1771年)には逃散一揆、天保5年(1834年)には徳政一揆が起こって、合計8名が処刑されている。なお、文化6年(1809年)には藩校・天輔館(後に明新館)が設立された。
幕末になると幕府に重用され、大坂警備や江戸市中警備に出兵した。慶応2年には洋式兵学を取り入れた。慶応3年12月、江戸市中で浪人による放火が相次ぎ、その主犯が薩摩藩であることを突き止め、時の藩主・松平信庸は自ら兵を率いて薩摩藩邸を攻撃した。これに庄内藩と鯖江藩が同行した(薩摩藩邸焼討事件)。 慶応4年、戊辰戦争が勃発すると奥羽越列藩同盟に参加する。同盟方針に従って総督・山村求馬率いる洋式軍隊を久保田藩に派兵する。山村求馬は新庄藩の裏切りにより戦死、その後は庄内藩と行動を共にして久保田城を包囲した。また飛び地であった七日市が長岡の近所であったため北越戦争に巻き込まれ、別働隊を長岡に派遣した。 米沢藩が新政府に恭順すると、背後からの攻撃を恐れて軍を引き上げ降伏恭順し、版籍奉還を迎えた。
当時の軍楽隊が保存会として現存しており、当時の洋式軍隊と軍楽隊の保存会が存在する数少ない地域である。
歴代藩主
松平(能見)(まつだいら(のみ))家
4万石。譜代。
蒲生(がもう)家
4万石。外様。
- 蒲生忠知(ただとも)<従四位下。侍従。中務大輔>
土岐(とき)家
2万5000石→3万5000石。譜代。
金森(かなもり)家
3万8700石。外様。
松平(藤井)(まつだいら(ふじい))家
3万石。譜代。
- 松平信通(のぶみち)<従五位下。越中守>
- 松平長恒(ながつね)<官位なし>
- 松平信将(のぶまさ)<従五位下。山城守>
- 松平信亨(のぶつら)<従五位下。山城守>
- 松平信古(のぶふる)<従五位下。山城守>
- 松平信愛(のぶざね)<従五位下。山城守>
- 松平信行(のぶゆき)<従五位下。山城守>
- 松平信宝(のぶみち)<従五位下。山城守>
- 松平信庸(のぶつね)<従五位下。山城守>
- 松平信安(のぶやす)<従五位>
上山藩の家臣団
廃藩直前の領地
関連項目
先代 (羽前国) |
行政区の変遷 1622年 - 1871年 (上山藩→上山県) |
次代 山形県 |