「常陸府中藩」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
編集の要約なし
2行目: 2行目:


== 藩史 ==
== 藩史 ==
[[慶長]]7年([[1602年]])、[[出羽国]]の豪族であった[[六郷政乗]]は、[[関ヶ原の戦い]]で東軍に与して武功を挙げたため、常陸国府中に1万石を与えられて府中藩を立藩した。[[元和 (日本)|元和]]9年([[1623年]])、政乗は出羽[[本荘藩]]へ移され、その後に[[皆川広照]]が入る。広照と言えば、[[徳川家康]]の子・[[松平忠輝]]の後見人を務めていたことで有名であるが、広照は忠輝の家臣・[[花井吉成]]と対立し、さらに忠輝の不行状による責任なども取らされて、浪人となっていた。しかし幕府からやがて赦免され、再び所領を1万石与えられたのである。広照の後は、そのである[[皆川隆庸]]が自分がすでに領していた5000石と父の遺領を併せて1万5000石を領する。ただし、弟の[[皆川宗富]]に1070石を分与したため、1万3930石を領することとなった。[[寛永]]10年([[1633年]])、隆庸は[[近江国]]浅井郡に4000石を加増され、約1万8000石を領する大名となる。隆庸の後は子の[[皆川成郷]]が継ぐ。このとき、成郷は弟の[[皆川秀隆]]に5000石を分与している。しかし成郷は[[正保]]2年([[1645年]])6月に死去。嗣子が無かったため、皆川氏は断絶し、改易となる。そしてしばらくの間、府中藩は廃藩となった。
[[慶長]]7年([[1602年]])、[[出羽国]]の豪族であった[[六郷政乗]]は、[[関ヶ原の戦い]]で東軍に与して武功を挙げたため、常陸国府中に1万石を与えられて府中藩を立藩した。[[元和 (日本)|元和]]9年([[1623年]])、政乗は出羽[[本荘藩]]へ移され、その後に[[皆川広照]]が入る。広照[[松平忠輝]]の後見人を務めていたことで有名であるが、広照は忠輝の家臣・[[花井吉成]]と対立し、さらに忠輝の不行状による責任なども取らされて、浪人となっていた。しかし幕府からやがて赦免され、再び所領を1万石与えられたのである。広照の後は、その子[[皆川隆庸]]が自分がすでに領していた5000石と父の遺領を併せて1万5000石を領する。ただし、弟の[[皆川宗富]]に1070石を分与したため、1万3930石を領することとなった。[[寛永]]10年([[1633年]])、隆庸は[[近江国]]浅井郡に4000石を加増され、約1万8000石を領する大名となる。隆庸の後は子の[[皆川成郷]]が継ぐ。このとき、成郷は弟の[[皆川秀隆]]に5000石を分与している。しかし成郷は[[正保]]2年([[1645年]])6月に死去。嗣子が無かったため、皆川氏は断絶し、改易となる。そしてしばらくの間、府中藩は廃藩となった。


[[元禄]]13年([[1700年]])、[[徳川頼房]]の五男・[[松平頼隆]]([[保内藩]]主)が幕府から新たに常陸・[[陸奥国]]内において2万石を加増されたため、府中に陣屋を置いて府中藩を立藩する。このとき、保内における2万石は水戸藩に返還した。ただし藩の所領の大半は陸奥国のほうにあったため、陸奥長沼にも陣屋を置いていた。しかし所領が分散していたこと、所領の生産力が低かったことから財政難が起こり、藩財政を早くから逼迫した。
[[元禄]]13年([[1700年]])、[[徳川頼房]]の五男・[[松平頼隆]]([[保内藩]]主)が幕府から新たに常陸・[[陸奥国]]内において2万石を加増されたため、府中に陣屋を置いて府中藩を立藩する。このとき、保内2万石は水戸藩に返還した。ただし藩の所領の大半は陸奥国のほうにあったため、陸奥長沼にも陣屋を置いていた。しかし所領が分散していたこと、所領の生産力が低かったことから財政難が起こり、藩財政を早くから逼迫した。


[[明治]]2年([[1869年]])の[[版籍奉還]]で石岡藩と改称する。明治4年([[1871年]])の[[廃藩置県]]で石岡藩は廃されて、[[石岡県]]となった。
[[明治]]2年([[1869年]])の[[版籍奉還]]で石岡藩と改称する。明治4年([[1871年]])の[[廃藩置県]]で石岡藩は廃されて、[[石岡県]]となった。
52行目: 52行目:


{{江戸時代の藩}}
{{江戸時代の藩}}
{{DEFAULTSORT:ひたちふちゆうはん}}

[[Category:藩|ふちゆうはん]]
[[Category:藩]]
[[Category:六郷氏|*ひたちふちゆうはん]]
[[Category:常陸国]]
[[Category:皆川氏|*ひたちふちゆうはん]]
[[Category:六郷氏|]]
[[Category:水戸徳川氏|+ひたちふちゆうはん]]
[[Category:川氏|]]
[[Category:水戸徳川氏|藩]]
[[Category:茨城県の歴史]]


[[en:Hitachi-Fuchū Domain]]
[[en:Hitachi-Fuchū Domain]]

2011年5月5日 (木) 01:24時点における版

常陸府中藩(ひたちふちゅうはん)は、常陸国(現在の茨城県石岡市)に存在した。別名は石岡藩(いしおかはん)。藩庁は府中陣屋

藩史

慶長7年(1602年)、出羽国の豪族であった六郷政乗は、関ヶ原の戦いで東軍に与して武功を挙げたため、常陸国府中に1万石を与えられて府中藩を立藩した。元和9年(1623年)、政乗は出羽本荘藩へ移され、その後に皆川広照が入る。広照は松平忠輝の後見人を務めていたことで有名であるが、広照は忠輝の家臣・花井吉成と対立し、さらに忠輝の不行状による責任なども取らされて、浪人となっていた。しかし幕府からやがて赦免され、再び所領を1万石与えられたのである。広照の後は、その子皆川隆庸が自分がすでに領していた5000石と父の遺領を併せて1万5000石を領する。ただし、弟の皆川宗富に1070石を分与したため、1万3930石を領することとなった。寛永10年(1633年)、隆庸は近江国浅井郡に4000石を加増され、約1万8000石を領する大名となる。隆庸の後は子の皆川成郷が継ぐ。このとき、成郷は弟の皆川秀隆に5000石を分与している。しかし成郷は正保2年(1645年)6月に死去。嗣子が無かったため、皆川氏は断絶し、改易となる。そしてしばらくの間、府中藩は廃藩となった。

元禄13年(1700年)、徳川頼房の五男・松平頼隆保内藩主)が幕府から新たに常陸・陸奥国内において2万石を加増されたため、府中に陣屋を置いて府中藩を立藩する。このとき、保内2万石は水戸藩に返還した。ただし藩の所領の大半は陸奥国のほうにあったため、陸奥長沼にも陣屋を置いていた。しかし所領が分散していたこと、所領の生産力が低かったことから財政難が起こり、藩財政を早くから逼迫した。

明治2年(1869年)の版籍奉還で石岡藩と改称する。明治4年(1871年)の廃藩置県で石岡藩は廃されて、石岡県となった。

歴代藩主

六郷(ろくごう)家

1万石。外様

  1. 六郷政乗(まさのり)<従五位下。兵庫頭>

皆川(みながわ)家

1万石→1万5000石→1万3930石→1万8000石→1万3000石。譜代

  1. 皆川広照(ひろてる)<従四位下。山城守>
  2. 皆川隆庸(たかつね)<従五位下。山城守>
  3. 皆川成郷(なりさと)<不詳>

天領(てんりょう)

松平(水戸)(まつだいら(みと))家

2万石。親藩御連枝

  1. 松平頼隆(よりたか)<従四位下。播磨守。侍従>
  2. 松平頼如(よりゆき)<従四位下。能登守。侍従>
  3. 松平頼明(よりあき)<従四位下。播磨守。侍従>
  4. 松平頼永(よりなが)<従四位下。播磨守。侍従>
  5. 松平頼幸(よりとみ)<従四位下。播磨守。侍従>
  6. 松平頼済(よりずみ)<従四位下。播磨守。侍従>
  7. 松平頼前(よりさき)<従四位下。右京大夫>
  8. 松平頼説(よりひさ)<従四位下。播磨守。侍従>
  9. 松平頼縄(よりつぐ)<正四位。右京大夫>
  10. 松平頼策(よりふみ)<従四位下。播磨守>

以下は参考として記す。明治期以後現代までの水戸松平家の直系の子孫。

関連項目

先代
常陸国
行政区の変遷
1871年 - 1871年
次代
新治県