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*旧官邸と渡り廊下で連結していた平屋造り508平方メートルの旧公邸は、その外観(→ [http://www.kantei.go.jp/jp/vt2/main/07/photo-koutei01.html 画像])こそは官邸に連なるライト風の建物だったが、内装には和式を取り入れていたことから、完成当時は「日本間」と呼ばれていた。内装が完了するとすぐに[[田中義一]]が入居し、以後六人の歴代総理がここに寝起きした。 |
*旧官邸と渡り廊下で連結していた平屋造り508平方メートルの旧公邸は、その外観(→ [http://www.kantei.go.jp/jp/vt2/main/07/photo-koutei01.html 画像])こそは官邸に連なるライト風の建物だったが、内装には和式を取り入れていたことから、完成当時は「日本間」と呼ばれていた。内装が完了するとすぐに[[田中義一]]が入居し、以後六人の歴代総理がここに寝起きした。 |
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*その後[[五・一五事件]]や[[二・二六事件]]など大事件の舞台となり、[[犬養毅]]や[[松尾伝蔵]]など数人の死者も出している<ref>1932年5月19日、犬養の葬儀が官邸大ホールでしめやかに執り行われた。旧官邸(新公邸)で葬儀が行われたのはこの犬養の葬儀が唯一の例で、他には1923年8月28日にかつての木造官邸の大広間で執り行われた[[加藤友三郎]]の葬儀の例があるのみである。</ref>。正面玄関には二・二六事件の際のものといわれる弾痕が残っていた。そうした背景からか、旧公邸では時折軍服姿の幽霊が出ては人を驚かせたという。[[森喜朗]]も肝を冷やされた一人で、ある晩森が寝ていると、ザック、ザック、という軍靴の足音が近づいてきて、寝室の扉の前でぴたりと止まる。慌てて飛び起きた森が「誰だ!そこにいるのはっ!」と寝室のドアを蹴り開けたが、そこには誰もいなかった。すぐに秘書官に連絡を取ったが、公邸にそのような者たちが入ってくるはずもなく、森はそこではじめて背筋が寒くなったという<ref name=Iwaya-Mori>衆議院議員・岩屋毅が森本人から直接聞いた話。<sup>[http://www.t-iwaya.com/essay_bn/bn22.html]</sup></ref>。その森を引き継いだ小泉に森がこの話をすると、小泉は声高に笑って「なに言ってるんですか。幽霊なんかいるわけないでしょ。俺はそんなのまったく信じないから怖いことなんかないよ」と、相手にもしない様子だったが<ref name=Iwaya-Mori/ |
*その後[[五・一五事件]]や[[二・二六事件]]など大事件の舞台となり、[[犬養毅]]や[[松尾伝蔵]]など数人の死者も出している<ref>1932年5月19日、犬養の葬儀が官邸大ホールでしめやかに執り行われた。旧官邸(新公邸)で葬儀が行われたのはこの犬養の葬儀が唯一の例で、他には1923年8月28日にかつての木造官邸の大広間で執り行われた[[加藤友三郎]]の葬儀の例があるのみである。</ref>。正面玄関には二・二六事件の際のものといわれる弾痕が残っていた。そうした背景からか、旧公邸では時折軍服姿の幽霊が出ては人を驚かせたという。[[森喜朗]]も肝を冷やされた一人で、ある晩森が寝ていると、ザック、ザック、という軍靴の足音が近づいてきて、寝室の扉の前でぴたりと止まる。慌てて飛び起きた森が「誰だ!そこにいるのはっ!」と寝室のドアを蹴り開けたが、そこには誰もいなかった。すぐに秘書官に連絡を取ったが、公邸にそのような者たちが入ってくるはずもなく、森はそこではじめて背筋が寒くなったという<ref name=Iwaya-Mori>衆議院議員・岩屋毅が森本人から直接聞いた話。<sup>[http://www.t-iwaya.com/essay_bn/bn22.html]</sup></ref>。その森を引き継いだ小泉に森がこの話をすると、小泉は声高に笑って「なに言ってるんですか。幽霊なんかいるわけないでしょ。俺はそんなのまったく信じないから怖いことなんかないよ」と、相手にもしない様子だったが<ref name=Iwaya-Mori/>、あとで神主を呼んでしっかり[[祓|お祓い]]をしたという<ref>岩屋が小泉本人から直接聞いた話。<sup>[http://www.t-iwaya.com/essay_bn/bn22.html]</sup></ref>。[[羽田孜]]の綏子夫人も「霊が見えるという人がいて、お祓いをしていただいた。庭に軍服を着た人たちがたくさんいるというんです」という話を紹介している。 |
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[[Image:Nihon-ya.jpg|thumb|250px|「日本家」<br /><small>仮公邸 (1937-45年)として建造されたが、ここに総理が住むことは一度もなかった。</small>]] |
[[Image:Nihon-ya.jpg|thumb|250px|「日本家」<br /><small>仮公邸 (1937-45年)として建造されたが、ここに総理が住むことは一度もなかった。</small>]] |
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Image:Tekigai-so.jpg|<small>「[[荻外荘]]」<br />現在でも近衛家所有なので見学はできないが、塀越しに垣間見ることができる。</small> |
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Image:Ogikubo Kaidan.jpg|<small>第二次近衛内閣の発足を控えて荻外荘で行われた「荻窪会談」では「東亜新秩序」の建設が確認された。左から近衛文麿、[[松岡洋右]]外相、[[吉田善吾]]海相、[[東条英機]]陸相。</small> |
Image:Ogikubo Kaidan.jpg|<small>第二次近衛内閣の発足を控えて荻外荘で行われた「荻窪会談」では「東亜新秩序」の建設が確認された。左から近衛文麿、[[松岡洋右]]外相、[[吉田善吾]]海相、[[東条英機]]陸相。</small> |
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Image:Hatoyama Hall (external appearance) BW.jpg|<small>「[[音羽御殿]]」<br />現在は多目的集会所[[鳩山会館]]として一般に公開されている。 |
Image:Hatoyama Hall (external appearance) BW.jpg|<small>「[[音羽御殿]]」<br />現在は多目的集会所[[鳩山会館]]として一般に公開されている。<small> |
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Image:Hatoyama and LDP leaders in Otowa Mansion.jpg|<small>音羽御殿の応接室に集まった自民党幹部。中央に鳩山一郎、その左に[[石橋湛山]]、右に[[池田勇人]]が見える。音羽御殿は[[保守合同]]や[[日ソ共同宣言|日ソ国交回復]]へ向けた調整などの舞台にもなった。</small> |
Image:Hatoyama and LDP leaders in Otowa Mansion.jpg|<small>音羽御殿の応接室に集まった自民党幹部。中央に鳩山一郎、その左に[[石橋湛山]]、右に[[池田勇人]]が見える。音羽御殿は[[保守合同]]や[[日ソ共同宣言|日ソ国交回復]]へ向けた調整などの舞台にもなった。</small> |
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== 注釈 == |
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== 関連項目 == |
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2008年1月17日 (木) 16:23時点における版
総理大臣官邸 | |
---|---|
情報 | |
設計者 | 建設大臣官房官庁営繕部 |
敷地面積 | 4万6,000平方メートル m² |
延床面積 | 2万5,000平方メートル m² |
階数 | 地上5階、地下1階 |
高さ | 35メートル |
着工 | 1999年5月22日 |
竣工 | 2002年4月22日 |
所在地 | 東京都千代田区永田町2丁目3番1号 |
総理大臣官邸(そうりだいじん かんてい)は、内閣総理大臣の執務の拠点である。一般に総理官邸、首相官邸、あるいは単に官邸ともいう。
隣接する内閣総理大臣が居住する施設は総理大臣公邸(そうりだいじん こうてい)という[1]。
概説
内閣総理大臣 |
---|
現職 第101代 岸田文雄 |
第2次岸田第2次改造内閣 就任日 2021年 (令和3年) 11月10日 |
歴代の首相と内閣 |
歴代内閣総理大臣 内閣(歴代) |
首相が使用する施設や機材 |
首相官邸 首相公邸 政府専用機 内閣総理大臣専用車 |
首相を補佐する人々 |
内閣官房長官(歴代) 内閣総理大臣補佐官 内閣総理大臣秘書官 (内閣官房) |
内閣を組織する人々 |
副総理 国務大臣、副大臣 内閣官房副長官 大臣政務官 内閣官房副長官補 内閣法制局長官 内閣法制次長 内閣特別顧問 内閣官房参与 |
首相関連の用語 |
首班指名選挙 内閣総理大臣臨時代理 班列と無任所大臣 内閣総理大臣の辞令 内閣総理大臣夫人 (内閣総理大臣配偶者) 内閣総理大臣夫人秘書 |
首相関連の表彰 |
内閣総理大臣杯 内閣総理大臣顕彰 国民栄誉賞 |
カテゴリ |
官邸と公邸
官邸は、内閣総理大臣が執務をする場であると同時に、日本国の行政府である内閣が閣議を開く場所のひとつ[2]でもある。そのため「官邸」は必ずしもこの建物だけを指す語ではなく、「総理」「政権」「政府」、さらには「官邸スタッフ」の総称として、また「与党」の対語のひとつとしても用いられることがある(例:「官邸主導で〜を推進する」)。
今日の日本において、「〜官邸」という名がつく施設はこの「総理大臣官邸」だけである。したがって「官邸」という語は短いようで、その意味するところを伝えるには必要かつ十分な語であり、これが混同されることはまずない。
厄介なのは「公邸」の方で、「〜公邸」という名のつく施設はこの「総理大臣公邸」の他にも「官房長官公邸」や「内閣法制局長官公邸」をはじめ、各都道府県の「知事公邸」、各国の「大使公邸」など、枚挙に暇がない。しかも、そもそもなぜ「総理大臣官邸」という、本来は「邸」宅でもあるはずの施設の脇に、もうひとつ「総理大臣公邸」という「邸」宅が付随するようになったのか、その辺りの経緯は杳として知れない。いずれにしても日本では、総理が公務を行う建物を「官邸」、居住する建物を「公邸」といい、同じ敷地内に隣接するこの二つをはっきりと区別している。外国では官邸の建物自体が首脳の居住施設を兼ねている場合が多く、居住施設が別個にある場合でも同じ敷地内にあれば両者を一つの名称で呼ぶことが一般的なのと対照的である[3]。
外国の官邸との比較でもう一つ顕著なのが、雅名や愛称の欠如である。多くの国の官邸には法令で定められた正式名称の他に、より親しみやすい雅名や愛称などの通称がある場合が多い。そうした国では通称の方が広く一般に使用されている場合が多く、そもそも正式名称は不明という国まである。また通称が正式名称に昇格した例も少なくない[4]。逆に特にこれといった通称もなく、そものもずばりの「総理官邸」などの正式名が一般に使用されているのはむしろ少数派となっている[5]。日本でもかつては政庁のことを「花の御所」や「聚楽第」などといった雅称で呼んでいたが、明治以降こうした伝統は公の場では途絶えてしまった。
そこでこの素っ気ない語を逆手に取って、日本では小泉政権の頃から従来の “Prime Minister’s Office” という直訳語に替えて、「官邸」という固有名詞をそのまま横文字にした “Kantei” を積極的に海外に向けて発信し始めるようになった。その甲斐あってか、今日 “Kantei” はホワイトハウスの公式サイトでも頻繁に使われるまでに「認知」された語となりつつある。
正式名称
官邸の正式名称については諸説あり、公文書にも複数の表記法がみられる。
- 内閣総理大臣官邸
- 総理大臣官邸
- 1952年以降、建物としての官邸を管理する組織(中央省庁再編前は内閣総理大臣官房、再編後は内閣官房)の詳細を定めた政令[11]で一貫してこの表記が用いられているほか、国会議員の質問主意書に対する政府答弁書[12]、2002年竣工の新官邸の整備計画に関する閣議了解[13]、他省の主催行事の場所表示などに用例がある。日本国憲法下の法令(府省令以上)中で登場する官邸の表記はすべてこの「総理大臣官邸」となっている。
- 首相官邸
- 公文書での用例はほとんどないが、報道などではよく使用される表現。また官邸の公式ウェブサイトも開設当時から「首相官邸ホームページ」という表記になっている。
初期の官邸
内閣制度創設期から旧官邸が完成した1929年まで使用された。西洋風の木造2階建てで、旧太政大臣官舎を転用したものであった。
この節の加筆が望まれています。 |
旧官邸と旧公邸(1929年)
大正末期から昭和初期にかけて流行したアールデコ、表現主義などの建築様式を取り入れた文化的にも価値があるといわれる建築。旧帝国ホテル本館などの設計で知られるフランク・ロイド・ライトのデザインに似ていたため、ライト風とも呼ばれたが、実際に設計したのは、当時大蔵省営繕管財局工務部工務課第二製図係長だった下元連である。 1階の西階段は組閣時に閣僚が記念撮影をする場所として広く知られた。
旧官邸の概略
旧官邸の逸話
- 他の役所と違って室名表示がなかったことや、官邸内が迷路のような構造になっていた為、歴代の内閣総理大臣が官邸で迷うことがしばしあった。
- 重大事件が起きると官邸内にある小食堂が危機管理センターの役割を果たしていた(現在の官邸には危機管理室が設置されている)。
- 総理執務室前での記者の張り番取材が行われていた(現在の官邸では警備の関係上、取材スペースと執務関係エリアは分離されている)。
- 太平洋戦争中には総理らが官邸を脱出するための地下トンネルがあった。60年安保で官邸がデモ隊に包囲されたとき、岸信介はこのトンネルから脱出したと、戸川猪佐武の『小説吉田学校』には書かれている。一部には堀り替えまでして残されていたという説もあったが、実際には高度成長期の地下鉄工事や周辺の再開発で取り壊されていたという。
- 1993年、約40年ぶりの政権交代で官邸の主となった細川護熙は、自民党政権の牙城だったこの総理官邸にさまざまな新風を持ち込んだ。組閣後の閣僚記念撮影では恒例の1階西階段の赤絨毯には見向きもせず、中庭の芝生の上で新閣僚がワイングラスを片手に懇談。みなの緊張が解けて表情が穏やかになった頃、おもむろに閣僚を生け垣の前に並ばせて記念撮影を行った(画像)。総理執務室では壁が殺風景だとして、壁紙を隅から隅まで貼りかえさせてもいる。総理や官房長官の記者会見を、演台の後方に立ったままで行う欧米式に切り替えたのも細川だった。
- 官邸の記者クラブの1階には1992年(平成4年)まで「スイス」という小さな食堂があった。歴代の総理も料理を注文をすることがあったという。
-
正門は現在の国会記者会館の方にあった
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玄関ホール
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総理執務室
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「舞踏場」としてつくられた大ホール
旧公邸の逸話
- 旧官邸と渡り廊下で連結していた平屋造り508平方メートルの旧公邸は、その外観(→ 画像)こそは官邸に連なるライト風の建物だったが、内装には和式を取り入れていたことから、完成当時は「日本間」と呼ばれていた。内装が完了するとすぐに田中義一が入居し、以後六人の歴代総理がここに寝起きした。
- その後五・一五事件や二・二六事件など大事件の舞台となり、犬養毅や松尾伝蔵など数人の死者も出している[14]。正面玄関には二・二六事件の際のものといわれる弾痕が残っていた。そうした背景からか、旧公邸では時折軍服姿の幽霊が出ては人を驚かせたという。森喜朗も肝を冷やされた一人で、ある晩森が寝ていると、ザック、ザック、という軍靴の足音が近づいてきて、寝室の扉の前でぴたりと止まる。慌てて飛び起きた森が「誰だ!そこにいるのはっ!」と寝室のドアを蹴り開けたが、そこには誰もいなかった。すぐに秘書官に連絡を取ったが、公邸にそのような者たちが入ってくるはずもなく、森はそこではじめて背筋が寒くなったという[15]。その森を引き継いだ小泉に森がこの話をすると、小泉は声高に笑って「なに言ってるんですか。幽霊なんかいるわけないでしょ。俺はそんなのまったく信じないから怖いことなんかないよ」と、相手にもしない様子だったが[15]、あとで神主を呼んでしっかりお祓いをしたという[16]。羽田孜の綏子夫人も「霊が見えるという人がいて、お祓いをしていただいた。庭に軍服を着た人たちがたくさんいるというんです」という話を紹介している。
- 公邸は二・二六事件で反乱兵によって掻き乱され、住居としては使い物にならないほどにまで荒らされてしまった。そこでこれを復旧するのはあきらめて官邸の事務所に転用し、翌年には官邸南庭に木造二階建ての仮公邸を新築した。この家屋は外観が日本式そのものだったので「日本家」と呼ばれた。しかし「日本家」は会合や臨時の休息所として使われることはあっても、定住する者はない空き家だった。二・二六事件以後の歴代総理は、もう誰もこの物騒な敷地内に住もうとはしなかったのである。「日本家」は1945年、5月25日の大空襲で焼失してしまった。
- 戦後になっても総理の自宅住まいは変らなかった。歴代総理は毎日都内の私邸から官邸まで、黒塗りの公用車に乗ってパトカー先導で「通勤」していたのである。兵士に襲撃される心配はなくなったが、公邸が事務所と化してすでに久しく、その内部は荒れ放題になっていた。一方、一昔前までは総理になるような大物政治家は御殿のような邸宅に居住している者も少なくなかった。彼らにとって旧公邸などは「あばら屋」同然に見えたのである。
- そうした邸宅をもつ総理のなかには、逆に官邸の機能を私邸の方へ持ってきてしまう者もいた。すでに戦前には、近衞文麿が杉並区荻窪の私邸「荻外荘」を主要閣僚との会談などに活用し、大戦前夜の重要な国策の多くがここで決定されている。鳩山一郎は脳梗塞の後遺症から体が不自由だったこともあり、「音羽御殿」と呼ばれた文京区音羽の大邸宅には与党幹部や政府要人が自ら足を運ぶことが多く、保守合同や日ソ共同宣言の下準備もここで行われた。「目白御殿」と呼ばれた文京区目白台の田中角榮の私邸にも与党幹部や各省庁の局長クラスなどが引っ切りなしに出入りして、まるで官邸のような様相を呈していた。
- 吉田茂にそうした立派な邸宅はなかったが、彼にはセンスがあった。幣原内閣で外相だった時、傍系11宮家の皇籍離脱が決定すると、吉田はいち早く関係各方面に働きかけてアールデコの粋を尽くした芝白金台の旧朝香宮邸を外務大臣公邸とすることに決めてしまう。そうこうしているうちに吉田は総理となり、外相も引き続き兼務したので、外相公邸は事実上の総理公邸になった。しかも与党のうるさ方が出入りして落ち着けない官邸を嫌った吉田は、愛してやまない[17]この瀟酒な邸宅で政務の大半をとったので、外相公邸は次第に第二の官邸のごとき様相を呈するにいたった。現在「官邸」と言うとそれが総理や官邸スタッフのことを意味することもあるように、戦後の一時期において「外相公邸」「目黒[18]」などと言えば、それは吉田やその側近たちのことを指したのである。
- 一方、旧公邸の方はその後も引き続き官邸事務所として使われていたが、60年安保でデモ隊が官邸を包囲して岸信介がカンヅメにされるという事態が起きると、官邸に隣接した居住施設の必要性が改めて浮き彫りにされた。そこで1963年から旧公邸に大規模な改修を施す工事が始まり、その完成を待って1968年には佐藤榮作が二・二六事件以来実に32年ぶりに公邸の主としてここに移り住んだ。
- 7年8ヵ月という連続在任の最長不倒記録をうち立てた佐藤は、任期後半の4年間を公邸で暮らしている。後に佐藤寛子夫人は、田中角榮・福田赳夫・大平正芳などが大派閥の領袖でありながらいずれも短期政権に終わったことを評して、「総理が在任中を通じて公邸に住み続けることこそが長期政権の秘訣ですよ」と語っていた。しかし佐藤には公邸住まいをせざるを得ない事情があった。運輸官僚出身で堅物だった佐藤には人気がなく、また折からのベトナム反戦と学生運動の過激化に70年安保が重なり、佐藤は行く先々でデモ隊に囲まれたり、外遊しようとすれば羽田空港が群衆によって封鎖状態にされたり、私邸が襲撃されるのは毎度のことで、公邸までもが数万人のデモ隊と群衆に包囲されてカンヅメにされたことがある。そんな佐藤にとって、警備さえしっかりしていれば、公邸は「住めば都」だったのである。
- しかし佐藤以後の総理がみな公邸住まいをしたわけではなかった。旧公邸には大規模な改修が施されたとはいえ、やはりそもそもが住み心地の悪い住居だった。奇怪なお化け話に加えて、狭い、日当りが悪い、造りが古い、使い勝手が悪い[19]など、満足のゆくものがなく、そのうえ巨大なゴキブリ[20]やネズミが頻繁に出没するといった問題までかかえていたのである。危機管理上の懸念[21]と、官邸機能の強化[22]から、総理の公邸住まいが常態として定着するのは、実に平成に入ってからのことである(「歴代総理と官邸公邸」の節を参照)。
- 5年5ヵ月の長期政権を担った小泉純一郎は、新官邸の建設 → 旧公邸の取壊し → 旧官邸の移動 → 新公邸への改装という、一連の歴史的な官邸建替え事業の一部始終を自らの任期中に体験することになった。旧公邸の取壊しを控えて小泉は仮公邸となった品川区東五反田の内閣法制局長官公邸に引っ越したが、そこでこの官舎の豪勢なことに驚愕し、「総理大臣公邸よりも、官房長官公邸よりも、官僚の公邸の方が上なのかなあ」と溜息したという。それほど旧公邸は「あばら屋」と化していたのである。
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「荻外荘」
現在でも近衛家所有なので見学はできないが、塀越しに垣間見ることができる。
新官邸(2002年)
現在の官邸は2002年(平成14年)4月22日から使用されている。
地上5階、地下1階の鉄骨鉄筋コンクリート構造。最上階である5階には内閣総理大臣、内閣官房長官、内閣官房副長官の執務室、4階には閣議室、内閣執務室が置かれ、この2層に執務機能が集中している。3階は事務室と玄関ホール、2階にはレセプションルーム(大小のホール)と貴賓室が設けられている。1階は記者会見室や記者クラブなど広報関係の施設がある。地階は総理官邸危機管理センターとなっている。また、屋上にはヘリポートが設置されている[23]。
傾斜地に作られているため、西側の入口は1階だが、東側にある正面の出入り口は3階となっている。同敷地内に官房長官公邸、宿舎などもある。
建設工事の際、山王パークタワーやキャピトル東急ホテルといった高層ビルが新官邸に隣接していることが問題となり、官邸からは、高層ビルに面した側から窓を取り除くなどの設計変更のうえ、高層ビルに対しては官邸に面した窓が開かないよう改修を要請した。さらにテロ対策として、敷地は高さ5メートル以上のコンクリート製防護壁で囲まれている。周辺の道路は警察官によって封鎖され、歩行者は基本的に通行できるものの、一般車両の通行は規制されている。 総理大臣官邸の警備は、敷地内は警視庁警備部警護課総理大臣官邸警備隊が担当し、敷地周辺は警視庁警備部機動隊(計9隊)が持ち回りで担当している。
概略
- 敷地の広さ:4万6000平方メートル
- 建物大きさ:敷地 90メートル × 50メートル 、高さ35メートル
- 延床面積:2万5000平方メートル
- 構造:地上5階、地下1階
- 建替え閣議決定:1987年(昭和62年)、第3次中曽根内閣当時
- 建設起工式:1999年(平成11年)5月22日、小渕内閣第1次改造内閣当時
- 新官邸開館(テープカット):2002年(平成14年)4月22日、第1次小泉内閣当時
- 建設費:435億円(総工費:約700億円)
- 設計:建設大臣官房 官庁営繕部
新公邸(旧官邸を改装)
新官邸の完成に伴い、旧官邸を移動・改装して、迎賓機能を持つ新しい総理公邸として使用することになった。
2003年(平成15年)10月から約1ヵ月をかけて、総重量約2万トンの建物全体を、東に8度回転させながら南に約50m移動させる曵屋を行い、その後1929年の完成当時の姿を丁寧に復元する改修が施された。また邸内には茶室や和室のダイニングなど外国からの賓客をもてなす部屋が新たに作られた(→ 画像)。また燃料電池による発電・熱供給システムや、太陽光発電、風力発電など環境に配慮した各種設備が導入された。
改修工事は2005年(平成17年)4月に終了、小泉純一郎政権発足5周年となった4月26日を記念して新公邸への引っ越しが行われた。
非常時官邸
立川広域防災基地内の立川防災合同庁舎(東京都立川市)には、国や都の災害対策本部予備施設が設置されている。大規模災害などにより、総理官邸危機管理センター(官邸地下)、内閣府災害対策本部本部長室(千代田区霞ヶ関の中央合同庁舎5号館内)、防衛省中央指揮所(新宿区市ヶ谷の防衛省本庁舎内)、東京都総務局総合防災部(新宿区の都庁第庁舎内)のいずれもが被災して災害対策本部としての機能が失われた際にはここが対策の拠点となり、官邸もここに臨時避難することになっている。
歴代総理と官邸公邸
総理 | 在任 | 居住 | 出来事 |
---|---|---|---|
田中義一 | 1927-1929 | 公邸 | 1929年:旧官邸と旧公邸が竣工、総理が公邸住まいになる。 |
濱口雄幸 | 1929-1931 | 公邸 | 1930年:東京駅で濱口が狙撃されて重傷、四ヵ月にわたって公邸に引き蘢り療養に専念する。 |
若槻禮次郎 | 1931 | 公邸 | |
犬養毅 | 1931-1932 | 公邸 | 1932年:五・一五事件。犬養が青年将校により公邸で射殺される。葬儀は官邸大ホールで行われる(旧官邸では唯一の例)。 |
齋藤實 | 1932-1934 | 公邸 | |
岡田啓介 | 1934-1936 | 公邸 | 1936年:二・二六事件。岡田の義弟・松尾伝蔵が総理と誤認されて青年将校により射殺される。 |
廣田弘毅 | 1936-1937 | 自宅 | |
林銑十郎 | 1937 | 自宅 | |
近衞文麿 | 1937-1939 | 自宅 | 1937年:杉並区荻窪の近衞の私邸「荻外荘」が政治の舞台となる。 |
平沼騏一郎 | 1939 | 自宅 | |
阿部信行 | 1939-1940 | 自宅 | |
米内光政 | 1940 | 自宅 | |
近衞文麿 | 1940-1941 | 自宅 | 1940年:「荻外荘」が再び政治の舞台となる。 |
東條英機 | 1941-1944 | 自宅 | |
小磯國昭 | 1944-1945 | 自宅 | |
鈴木貫太郎 | 1945 | 自宅 | 1945年:終戦の日の官邸襲撃事件が起り、鈴木の自宅も襲撃される。 |
東久邇宮稔彦王 | 1945 | 自宅 | |
幣原喜重郎 | 1945-1946 | 自宅 | |
吉田茂 | 1946-1947 | (公邸) | 1947年:芝白金台の旧朝香宮邸を外務大臣公邸とし、総理兼外相の吉田がこれを総理公邸として使用する。 |
片山哲 | 1947-1948 | 自宅 | |
芦田均 | 1948 | 自宅 | 1948年:片山内閣に外相として入閣し、総理となってからも吉田と同じように外相を兼任した芦田は、吉田とは違って外相公邸には近づこうともしなかった[24]。 |
吉田茂 | 1948-1954 | (公邸) | 1948年:吉田が外相公邸を再び総理公邸として使用。 1950年:旧朝香宮邸を迎賓館として整備するため民間に払い下げる。以後吉田は自宅住まいとなる[25]。 |
自宅 | |||
鳩山一郎 | 1954-1956 | 自宅 | 1954年:文京区音羽の鳩山の自邸「音羽御殿」が政治の舞台となる。 |
石橋湛山 | 1956-1957 | 自宅 | |
岸信介 | 1957-1960 | 自宅 | 1960年:60年安保で官邸がデモ隊に包囲され岸がカンヅメに。6月23日新安保条約の批准書が旧外相公邸で交換され発効する。 |
池田勇人 | 1960-1964 | 自宅 | 1963年:公邸改修工事開始。 |
佐藤榮作 | 1964-1972 | 自宅 | 1968年:公邸改修工事完了、佐藤が公邸に移り住み、総理として32年ぶりの公邸住まいとなる。 1970年:70年安保で官邸がデモ隊に包囲され佐藤がカンヅメに。 |
公邸 | |||
田中角榮 | 1972-1974 | 自宅 | 文京区目白台の田中の自邸「目白御殿」が政治の舞台となる。 |
三木武夫 | 1974-1976 | 公邸 | 1974年:「クリーン三木」を掲げて官邸入りした三木は、前任者との違いをアピールするため迷わず公邸住まいを選ぶ。 |
福田赳夫 | 1976-1978 | 自宅 | |
大平正芳 | 1978-1980 | 自宅 | |
鈴木善幸 | 1980-1982 | 自宅 | |
中曾根康弘 | 1982-1987 | 公邸 | 1982年:中曾根は官邸機能強化への地ならしとして任期中の5年間を通じて公邸で暮す。 1987年:官邸の建て替えを閣議決定。 |
竹下登 | 1987-1989 | 自宅 | |
宇野宗佑 | 1989 | 公邸 | |
海部俊樹 | 1989-1991 | 公邸 | |
宮澤喜一 | 1991-1993 | 自宅 | |
細川護煕 | 1993-1994 | 公邸 | |
羽田孜 | 1994 | 公邸 | 羽田内閣が内閣不信任決議案の可決を受けて総辞職。羽田はこの日の朝公邸を出ると二度そこには戻らず、替わりに数日後戻ってきた総理は村山だった[26]。 |
村山富市 | 1994-1996 | 公邸 | |
橋本龍太郎 | 1996-1998 | 公邸 | |
小渕恵三 | 1998-2000 | 公邸 | 1999年:新官邸の建設が始まる。 2000年:小渕が脳梗塞を発症して公邸で倒れて執務不能となり、順天堂医院に搬送される。 |
森喜朗 | 2000-2001 | 公邸 | |
小泉純一郎 | 2001-2006 | 公邸 | 2002年:新官邸が完成。小泉が旧官邸を出て、仮公邸となった品川区東五反田の内閣法制局長官公邸に移り住む。 2003年:旧官邸の移動改装工事が始まる。 2005年:新公邸が完成、小泉が移り住む。 |
仮公邸 | |||
公邸 | |||
安倍晋三 | 2006-2007 | 公邸 | |
福田康夫 | 2007- | 公邸 |
注釈
- ^ 公邸について、設置を定める法令上の規定は、国家公務員宿舎法10条3号である。他の公邸と同様に、法律上宿舎として設置され、無償で貸与される。
- ^ もうひとつは国会内閣議室で、国会会期中はこちらで閣議が開かれる。
- ^ 例えばアメリカの場合、お馴染みの白亜館は正式には「レジデンス」という、主に公邸として機能する建物で、官邸として機能する建物はこれに隣接する「ウエストウイング」という別棟である。この二棟と、やはりレジデンスに隣接する「イーストウイング」、そして小道を隔てて建っている「行政府ビル」の計四棟で構成されるのが「大統領府」で、これらをまとめて「ホワイトハウス」と呼んでいる。
- ^ アメリカ大統領府の正式名称は当初「行政府官邸 (Executive Mansion)」というものだったが、その塗装から「ホワイトハウス」という通称が早くからあった。そこで1906年の増築を機会にこの通称を正式名称にして「ワシントン ホワイトハウス」(White House – Washington) と改称している。
- ^ ドイツの「連邦首相府」、台湾の「総統府」など。
- ^ 「衆議院議員鈴木宗男君提出内閣総理大臣の出処進退に関する質問に対する答弁書」[1]
- ^ 「衆議院議員鈴木宗男君提出在上海総領事館員自殺事件に関する質問に対する政府答弁書」[2]
- ^ 1979年以前の用例はなく1990年以降2007年9月まで26件あり。なお1978年から1995年にかけて「総理官邸」とした例が9件、「内閣総理官邸」とした例が1件ある。
- ^ 総務省「内閣総理大臣と市町村長との頑張る地方応援懇談会」[3]
- ^ 農林水産省「平成18年緑化推進運動功労者内閣総理大臣表彰について」[4]
- ^ 「内閣官房組織令第2条第1項第8号及び第5条第2項」[5]
- ^ 「参議院議員秦豊君提出大韓航空機撃墜事件と政府の危機管理・情報管理体制に関する質問に対する答弁書」[6]
- ^ 1977年5月15日付け閣議了解「総理大臣官邸の整備について」
- ^ 1932年5月19日、犬養の葬儀が官邸大ホールでしめやかに執り行われた。旧官邸(新公邸)で葬儀が行われたのはこの犬養の葬儀が唯一の例で、他には1923年8月28日にかつての木造官邸の大広間で執り行われた加藤友三郎の葬儀の例があるのみである。
- ^ a b 衆議院議員・岩屋毅が森本人から直接聞いた話。[7]
- ^ 岩屋が小泉本人から直接聞いた話。[8]
- ^ 実際吉田は「外相を兼務したのはこの公邸に住んでいたかったからさ」と公言してはばからなかった。
- ^ 住所は白金台でも、旧朝香宮邸は目黒駅から徒歩5分ほどのところに位置しているため。
- ^ 細川護煕の佳代子夫人は、「どの部屋も薄暗い、家族五人が集まれる居間がない、台所のガス台は65年前のもの」などと当時を回想、公邸を下見したときは「ショックでした」と語っている。
- ^ 佐藤寛子は著書の中で、公邸のゴキブリは体長が4〜5センチはあり、さすがの総理もこれには参っていたことを記している。
- ^ たとえパトカー先導といえども都心の交通混雑は侮り難い。一刻一秒を争う緊急事態が発生しているときに総理の車が渋滞にはまってノロノロでは危機管理上の大問題なので、総理の「通勤」は避けるべきだとの意見は以前からあった。
- ^ アメリカ大統領なみの指導力を持った総理、そしてホワイトハウスなみの機動性を備えた官邸を目指した中曾根康弘は、在任中の5年間を公邸で過ごして存在感をアピールすることにより官邸機能強化への地ならしを図った。
- ^ 時折陸海空自衛隊ヘリコプターの離発着訓練が行われている。
- ^ 芦田は吉田に遅れること5年で外務省に入省したが、大使館附参事官を最後に退官して政治家となった党人で、吉田とは外交官歴も政治家歴もまったく異なっていた。しかも芦田の自宅は芝白金にあり、吉田が近所の旧朝香宮邸を外相公邸にして住み込んだことが面白くなかったのである。
- ^ ただし吉田はこの後も旧外相公邸をさまざまな機会に使用している。
- ^ 『首相官邸の決断 ― 内閣官房副長官 石原信雄の2600日』。
関連項目
参考文献
- 『首相官邸・今昔物語』(大須賀瑞夫 著、朝日ソノラマ、1995年、ISBN 4257034092)
- 『首相官邸の決断 ― 内閣官房副長官 石原信雄の2600日』(石原信雄 著、中央公論社、1997年)
- 官邸: 公式サイト
- もっと知りたい: 北海道新聞
外部リンク
- 新官邸バーチャルツアー: 公式サイト
- 新公邸完成披露: 公式サイト
- 旧官邸バーチャルツアー: 公式サイト
- 災害対策本部予備施設: 内閣府サイト
- 東京都庭園美術館: 公式サイト
- 東京都庭園美術館: ミュージアムガイド(豊富な画像を掲載)
- 鳩山会館: 公式サイト