荻窪 (杉並区)

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上荻
かみおぎ
荻窪駅南口
Flag of Japan.svg 日本
都道府県 Flag of Tokyo Prefecture.svg 東京都
市町村 杉並区
等時帯 JST (UTC+9)
郵便番号 167-0051
ナンバープレート 杉並

荻窪(おぎくぼ)は、東京都杉並区の町名。現行行政地名は、荻窪一丁目から五丁目。住居表示実施済み区域。広義には荻窪駅周辺および歴史的に南荻窪上荻西荻北西荻南が範囲に含まれる。

地理[編集]

杉並区中央部に位置する。住居表示実施後の荻窪は、北側でJR東日本中央線快速を境に上荻と、北東部で阿佐谷南、東側で成田東と、南側で五日市街道付近まで延びて成田西及び高井戸東と、西側で環八通りを境に南荻窪とそれぞれ接する区域であり、ほぼ中央を善福寺川が流れる。

広義の汎称地名としては、JR東日本中央線快速・東京メトロ丸ノ内線荻窪駅周辺の地域で、公称町名としての荻窪に加えて、荻窪に由来する名を持つ南荻窪上荻や、さらには中央線〜早稲田通り間の天沼本天沼清水荻窪警察署等がある桃井、今川の全部または一部を含む地域を指すことが多い。なお、西荻窪(西荻北及び西荻南)は歴史的に荻窪村の一部であり、荻窪の名を含むが、今日では荻窪に含められることはほとんどない。

荻窪という地名の由来は、この地を訪れた旅人が辺に自生していたを刈り取って草堂を造り、観音像を安置し荻堂(おぎどう)と名付けたことと、周辺の地形が窪地であったことによると伝えられる。荻堂のあった場所は、現在では慈雲山荻寺光明院という寺になっている。

荻窪は、大正から昭和初期にかけて東京近郊の別荘地として住宅が増加した。1927年(昭和2年)に与謝野晶子与謝野鉄幹が南荻窪に居を構え、さらに1937年(昭和12年)に公爵内閣総理大臣(第34・38・39代)の近衛文麿が別邸「荻外荘(てきがいそう)」を構えたところから閑静な住宅地として評価が高まり、井伏鱒二太宰治棟方志功阿部知二戸川秋骨石井桃子恩地孝四郎尾崎喜八長谷川四郎大田黒元雄佐藤慶次郎遠藤実柴田翔三宅榛名などの作家・芸術家、音楽家、評論家など多くの文化人が移住するようになった。井伏鱒二著の『荻窪風土記』には、戦前から作家、画家等の知識階層が多く住み、荻窪の文化を形成していったことが書かれている。

その歴史と文化は今でも邸宅が並ぶ住宅街に生きづいている。ちなみに大田黒元雄の屋敷跡地は大田黒公園、角川書店創始者、角川源義の邸宅は角川庭園、与謝野晶子・鉄幹の住居跡地は与謝野公園となり杉並区の施設として一般公開されている。

1980年代半ばの初期のラーメンブームにおいて大きく取り上げられた「荻窪ラーメン」で有名であり、現在でもラーメンの老舗が多くある。

河川[編集]

歴史[編集]

  • 関東ローム層が地表を覆い、水利がきわめて悪い周辺地域の中で、善福寺川流域は水利が良く古くから水田が開かれていた。
  • 寛平年間(889年 - 897年) - 荻窪八幡神社が創建される。荻窪八幡には1052年に、源頼義前九年の役の戦勝祈願をしたと伝えられている。また、1477年には太田道灌が頼義の故事にならい、石神井城豊島泰経を攻める時に戦勝祈願をしている。
  • 1590年 - 荻窪村が西側の上荻窪村と東側の下荻窪村に分割される。江戸時代初期には、下荻窪村は服部半蔵の、上荻窪村はその配下の知行地であったが、その後どちらも天領となった。
    • 上荻窪村 - 現行行政地名の上荻の大部分、南荻窪の西半分、西荻北、西荻南の一部にあたる地域。西荻窪駅の位置も含む。
    • 下荻窪村 - 現行行政地名の荻窪全部、南荻窪の東半分、上荻の一部にあたる地域。
  • 1606年 - 青梅成木村に産する石灰の運搬路として青梅街道が開かれる。
  • 1892年 - 甲武鉄道(現・JR東日本中央線快速)荻窪駅が開業。
  • 1927年 - 『荻窪風土記』の作者井伏鱒二井荻村(現在の清水)の新居に転居。
  • 1936年 - 二・二六事件の際に、決起部隊が上荻窪の渡辺錠太郎教育総監邸を襲撃し、警備兵と銃撃の末に邸内に侵入。渡辺総監を殺害する。
  • 1936年11月から翌年にかけて - 太宰治が荻窪のアパート碧雲荘に住んでいた。
  • この一帯は空襲を免れたため、第二次世界大戦における空襲で被災した下町から多くの人が移り住み、人口が増加する。

施設[編集]

交通[編集]

鉄道[編集]

バス[編集]

道路[編集]

外部リンク[編集]