ラグビーニュージーランド代表

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ラグビーニュージーランド代表
ユニオン ニュージーランドラグビー協会
愛称 オールブラックス
エンブレム シルバー・ファーン
ヘッドコーチ ニュージーランドの旗 イアン・フォスター
主将 サム・ケイン
最多キャップ リッチー・マコウ (148)
最多得点選手 ダン・カーター (1598)
最多トライ選手 ダグ・ハウレット (49)
ファースト
ジャージ
セカンド
ジャージ
初国際試合
 オーストラリア 3–22 ニュージーランド 
(1903年8月15日)
最大差勝利試合
 ニュージーランド 145–17 日本 
(1995年6月4日)
最大差敗戦試合
 オーストラリア 28–7 ニュージーランド 
(1999年8月28日)
 オーストラリア 47–26 ニュージーランド 
(2019年8月10日)
ラグビーワールドカップ
出場回数 10 (1987年初出場)
最高成績 優勝 (198720112015)
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ラグビーニュージーランド代表英語: New Zealand national rugby union team)は、ニュージーランドラグビーユニオンナショナルチーム。愛称は「オールブラックス」 (英語: All Blacks)。

概要

次の優勝歴がある。

現在、テストマッチで全ての対戦相手に勝ち越している唯一のチームである。これまでに行われた試合の約4分の3の試合に勝っており、勝率はサッカーのブラジル代表を上回る[1]

試合の前にニュージーランドの先住民であるマオリの伝統舞踊「ハカ」(カマテ、カパオパンゴ)を行う。

1996年からラグビー南アフリカ代表(スプリングボクス)およびオーストラリア代表(ワラビーズ)との国際対抗戦トライネイションズを開催し、2012年からは新たにラグビーアルゼンチン代表を加えたザ・ラグビーチャンピオンシップを開催している[2]

1925年から1999年まで75年間に渡りカンタベリー・オブ・ニュージーランドと公式サプライヤー契約を結んだが、1999年シーズンからアディダスと公式サプライヤー契約を、1998年シーズンからニュージーランド航空、加えて2012年シーズンからAIGと公式スポンサー契約を締結している。

歴史

ラグビー王国の誕生

1905年 - 1906年に北半球遠征を行ったオリジナル・オールブラックスメンバー。
1905年に掲載された英国の風刺漫画雑誌パンチの1ページ。当時の風刺画ではブリテン諸島代表を強靭なライオン、オールブラックスを足の速いピューマに見立てた。
オールブラックス対イングランド、 トゥイッケナム・スタジアム( 2006年)

ニュージーランドへのラグビー伝来は医学者で政治家のデビッド・モンロ(出身はスコットランドエジンバラ)の息子であるC.J.モンロにより伝えられた説が有力である[3]。C.J.モンロは留学先のロンドンでラグビーと出会い1860年代後半にニュージーランドへ伝えたとされている[4]。1870年5月にネルソン・カレッジとネルソン・クラブとの間でラグビーの試合が開催された[5] 。1882年にサザンラグビー協会(現:ニューサウスウェールズ州ラグビー協会)がニュージーランド遠征を行い[6]、1888年にブリテン諸島チーム(イングランド、スコットランドおよびウェールズの選手から構成)がニュージーランド遠征を行った[7]

1892年にニュージーランド・ラグビーフットボール協会(NZRFU、現在のニュージーランド・ラグビー協会(NZRU))が設立され、1893年にニューサウスウェールズ州へ遠征。翌年にはニューサウスウェールズを招き初のホーム試合を開催。公式な初のテストマッチは1903年にシドニーで開催されたラグビーオーストラリア代表(ワラビーズ)との試合になる。

1905年から1906年にかけ初の北半球遠征(ブリテン諸島フランスアメリカ合衆国)を行った際にオールブラックスと呼ばれるようになったとされる(詳細は#ニックネームを参照)。この北半球遠征に帯同したメンバー27名は“オリジナル・オールブラックス”と呼ばれ、伝説のチームとされている。この遠征成績は35戦34勝1敗、うちテストマッチ5戦4勝1敗。

1921年にラグビー南アフリカ代表(スプリングボクス)がニュージーランド遠征を行い、1928年にはオールブラックスが南アフリカへ遠征。この遠征試合はともに引き分けとなった。

1924年から1925年にかけて行われたブリテン諸島・フランス・カナダ遠征では32戦全勝(うちテストマッチ4戦全勝)を達成。この遠征メンバーは“インヴィンシブル(無敵艦隊)”と称された。

1932年よりワラビーズとの国際対抗戦「ブレディスローカップ」を開催。

1965年から1969年にかけてテストマッチ17連勝を達成。

1976年に当時人種隔離政策(アパルトヘイト)により国際社会から強い批判を受けていた南アフリカへオールブラックスを派遣したことからアフリカ諸国がモントリオールオリンピックをボイコットするなど国際問題へ発展。

1978年の北半球遠征ではホーム・ネイションズの4チームと対戦し全勝、グランドスラムを達成。

初開催となるラグビーワールドカップ1987で優勝。ジョン・カーワンとクレイグ・グリーンが6トライを挙げトライ王に輝く。ラグビーワールドカップ1991では準決勝でワラビーズに敗れ3位に終わる。

ラグビーワールドカップ1995では優勝候補から外れ、ヘッドコーチのローリー・メインズはベテランのグレアム・バショップ、ジンザン・ブルックを復帰させる一方、新戦力のジョナ・ロムーアンドリュー・マーティンズジョシュ・クロンフェルドらを起用し新旧融合チームを結成。下馬評を覆し決勝へ進出。決勝はスプリングボクスと大会初となる延長戦に突入するも3点差で2位に終わる。メインズは辞任し、ヘッドコーチにノンキャップの知将ジョン・ハートが就任。

ハート就任後は1996年から始まったトライネイションズで2年連続全勝優勝するなど若手とベテランが噛み合ったラグビーワールドカップ1995での好調を維持する。

低迷期

長らくチームを支えたショーン・フィッツパトリック、ジンザン・ブルック、マイケル・ジョーンズ、フランク・バンス等のベテランが次々と代表を引退すると、1998年にブレディスローカップをワラビーズに明け渡すなど低迷期に突入、1998年から1999年の対ワラビーズは5戦1勝4敗と負け越す。ラグビーワールドカップ1999は準決勝でフランスに、3位決定戦でもスプリングボクスに敗れ4位に終わる。ハートは辞任しヘッドコーチにウェイン・スミスが就任。

スミス就任後の2000年、2001年のトライネイションズは2位に終わりブレディスローカップの奪回に失敗。スミスは更迭され当時37歳のジョン・ミッチェルがヘッドコーチに就任。ミッチェルは若手選手を中心にチーム編成を行い2002年・2003年のトライネイションズ優勝、2003年には5季ぶりにブレディスローカップの奪回に成功した。しかしラグビーワールドカップ2003は準決勝でワラビーズに敗れて3位。ミッチェルは辞任しグラハム・ヘンリーがヘッドコーチに就任。

復活

2004年にヘンリーがヘッドコーチに就任してから2006年までのテストマッチは33勝4敗、2004年11月以降は27勝2敗と圧倒的な強さを取り戻す。2005年11月の北半球遠征でホーム・ネイションズの4チームを相手に27年ぶり2度目のグランドスラム(全勝)を達成。その初戦ウェールズ戦と続くアイルランド戦では先発メンバーを全員入れ替えながらともに38点差で圧勝した。ラグビーワールドカップ2007は優勝の大本命とされたが、準々決勝でホスト国のフランスに敗れた。NZRUは新ヘッドコーチの選考を行うと表明し、ロビー・ディーンズとの指名争いが展開されたが、最終的にヘンリーの再任人事を発表。敗れたディーンズはワラビーズのヘッドコーチに就任した。この決定は賛否両論の議論を招いたが、2008年・2010年のトライネイションズ優勝と北半球遠征でグランドスラム達成、ブレディスローカップ3季連続防衛に成功するなど、勝率9割以上を言われるヘンリーの戦術は高い評価を得た。

2007年大会と同じく優勝候補の大本命とされたラグビーワールドカップ2011は圧倒的な強さで決勝まで進み悲願の優勝を果たした。この大会中、スタンドオフに3名の怪我人を出しながら優勝を果たし選手層の厚さを証明した。2011年シーズン終了後にヘンリーの勇退が発表され、ラグビーウェールズ代表時代から9年間に渡りヘンリーのアシスタントを務めたスティーブ・ハンセンがヘッドコーチに昇格した。

ハンセン就任後もオールブラックスの快進撃は止まらず、2013年には年間全勝となるテストマッチ14戦全勝を達成するなど、ブレディスローカップとザ・ラグビーチャンピオンシップ3季連続防衛に成功、2015年はザ・ラグビーチャンピオンシップの優勝こそワラビーズに奪われるもののブレディスローカップは防衛。本命視されて臨んだラグビーワールドカップ2015において優勝。ラグビーワールドカップ史上初の連覇を達成した。

ラグビーワールドカップ2019ではプールBを4戦全勝で1位通過。この中には、後に同大会を優勝するスプリングボクス戦が含まれていた。しかし、準決勝でイングランドに19-7で敗れ、ワールドカップ3連覇とはならなかった。3位決定戦ではウェールズ代表に40-17で勝利し3位が確定した。

2019年12月11日(現地時間)、ハンセンのアシスタントを8年間務めたイアン・フォスターが新ヘッドコーチに就任。契約期間は2年。

ワールドカップの成績

対戦成績

2019年11月2日現在のテストマッチの対戦成績は以下の通り[8]

チーム 試合数 勝率(%)
 アルゼンチン 29 28 1 0 96.55%
 オーストラリア 166 115 7 44 69.28%
ブリティッシュ・アンド・アイリッシュ・ライオンズの旗 ブリティッシュ・アンド・アイリッシュ・ライオンズ 41 30 4 7 73.17%
 カナダ 6 6 0 0 100.00%
 イングランド 42 33 1 8 78.57%
 フィジー 5 5 0 0 100.00%
 フランス 61 48 1 12 78.69%
 ジョージア 1 1 0 0 100.00%
 アイルランド 32 29 1 2 90.63%
 イタリア 14 14 0 0 100.00%
 日本 4 4 0 0 100.00%
 ナミビア 2 2 0 0 100.00%
パシフィック・アイランダーズの旗 パシフィック・アイランダーズ 1 1 0 0 100.00%
 ポルトガル 1 1 0 0 100.00%
 ルーマニア 2 2 0 0 100.00%
 サモア 7 7 0 0 100.00%
 スコットランド 31 29 2 0 93.55%
 南アフリカ共和国 99 59 4 36 59.60%
 トンガ 6 6 0 0 100.00%
 アメリカ合衆国 3 3 0 0 100.00%
 ウェールズ 35 32 0 3 91.43%
世界選抜 (World XV) 3 2 0 1 66.67%
Total 591 457 21 113 77.30%

選手

現在の代表

[9] オールブラックススコッド

※所属、 キャップ数(Cap)は2020年10月20日現在

個人記録

通算出場試合数

順位 名前 ポジション 期間 出場
1 リッチー・マコウ フランカー 2001-2015 148
2 ケヴェン・メアラム フッカー 2002-2015 132
3 キーラン・リード ナンバー8 2008-2019 118
3 トニー・ウッドコック プロップ 2002-2015 118
5 ダン・カーター フライハーフ 2003-2015 112
6 サム・ホワイトロック ロック 2010- 108
7 オーウェン・フランクス プロップ 2009-2019 106
8 マア・ノヌー センター 2003-2015 103
9 ミルズ・ムリアイナ フルバック 2003-2011 100
10 コンラッド・スミス センター 2004-2015 94
  • 2018年11月24日現在
  • 太字は現役選手

通算得点

順位 名前 ポジション 期間 得点
1 ダン・カーター フライハーフ 2003-2015 1598
2 アンドリュー・マーティンズ フライハーフ 1995-2004 967
3 グラント・フォックス英語版 フライハーフ 1985-1993 645
4 ボーデン・バレット フライハーフ 2012- 595
5 アーロン・クルーデン フライハーフ 2010-2017 322
6 カルロス・スペンサー フライハーフ 1997-2004 291
7 ダグ・ハウレット ウイング 2000-2007 245
8 クリスチャン・カレン フルバック 1996-2002 236
9 ジェフ・ウイルソン ウイング 1993-2001 234
10 ジョー・ロコココ英語版 ウイング 2003-2010 230
10 ジュリアン・サヴェア ウイング 2012-2017 230
  • 2018年11月24日現在
  • 太字は現役選手

ニックネーム

シルバーファーンを意匠にした旗の一例。紋章学では白(アージェント)が銀を表す。

「オールブラックス」という愛称の起源は、1905年から1906年にかけてブリテン諸島遠征を行ったニュージーランド代表チームを新聞などがそう呼んだことであり、当時のメンバーはオリジナルズ (The Originals)と呼ばれる。その一人、ビリー・ウォーラスは、愛称はロンドンの新聞が代表チームの戦いぶりを評して、全員バックスのように戦うと書きたてたことからオールバックスと呼ばれるようになり、それが変わってオールブラックスになったと主張している。別の説によると、チームのユニフォームの色は当時から黒が多く使われており、ブラックスは新聞の記事になる以前から使われていた愛称の一つだとしている。なお、"ALL BLACKS"はNZラグビー協会の登録商標である。[10]

1925年の遠征以後、代表のユニフォームは黒一色になり、唯一のアクセントとしてニュージーランド固有種のシルバー・ファーン(ギンシダ)の枝があしらわれることとなった。

ニュージーランドのスポーツ界では、ギンシダをあしらったユニフォームを着ることやオールブラックスの一員に選ばれることが名誉とされているため、様々なスポーツの代表チームがそれにあやかった愛称で呼ばれている。以下は一例。

純然たる代表チームではないが、

(使用するヨットの船体は黒塗りであり、帆には銀色のシダが描かれている。)

20世紀初めに設立されたニュージーランド初のラグビーリーグ代表チームは、ニュージーランドのメディアで代表に選ばれる名誉ではなく金目当ての選手たちで構成されていると批判されたため、オールゴールドと呼ばれていたことがある。現在では、キウイズ(Kiwis)と呼ばれて親しまれている。

エピソード

常に高い勝率を誇ってきたオールブラックスだが、その一方、1日のうちに2敗を喫するという記録も残している。1949年にオールブラックスが南アフリカへ遠征している最中に、オーストラリア代表がニュージーランドを訪れた。そこでニュージーランド側は、国内に残っていた選手から対戦相手となるチームを編成したが、主力を軒並み欠いていたにもかかわらず、このチームも正式な代表として認定された。そして、9月3日に両方の「オールブラックス」がテストマッチを戦い、ともに敗れたのである。

脚注

  1. ^ オールブラックスはなぜこれほど強いのか? 常勝軍団の秘密に迫る | 世界で最も成功したチームの「勝利の方程式」”. クーリエ・ジャポン (2017年9月1日). 2019年10月4日閲覧。
  2. ^ About SANZAAR”. Official SANZAAR Site. 2016年9月23日閲覧。
  3. ^ McCarthy (1968), pg. 11.
  4. ^ Davies, Sean (2006年9月27日). “All Black magic: New Zealand rugby”. UK: BBC. オリジナルの2013年3月31日時点におけるアーカイブ。. https://www.webcitation.org/6FWH9HrMq?url=http://news.bbc.co.uk/sport2/hi/rugby_union/5387120.stm 2006年11月12日閲覧。 
  5. ^ Ryan (1993), pg. 16.
  6. ^ McCarthy (1968), pg. 12.
  7. ^ Gifford (2004), p 30.
  8. ^ All Blacks Player Profiles, Match Details and Statistics”. 2019年11月2日閲覧。
  9. ^ All Blacksのツイート 2020年10月20日 . Twitter. 2020年10月20日閲覧。
  10. ^ ALL BLACKS - Trademark Details” (2019年10月3日). 2019年10月15日閲覧。


関連項目

外部リンク