麻布中学校・高等学校
麻布中学校・高等学校 | |
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過去の名称 |
東洋英和学校内尋常中学部 私立麻布尋常中学校 麻布中学校(旧制) |
国公私立の別 | 私立学校 |
設置者 | 学校法人麻布学園 |
設立年月日 | 1895年 |
創立記念日 | 5月16日 |
創立者 | 江原素六 |
共学・別学 | 男子校 |
中高一貫教育 | 完全一貫制 |
課程 | 全日制課程 |
単位制・学年制 | 学年制 |
設置学科 | 普通科 |
学期 | 3学期制 |
高校コード | 13522E |
所在地 | 〒106-0046 |
![]() 北緯35度39分15.8秒 東経139度43分38.4秒 / 北緯35.654389度 東経139.727333度座標: 北緯35度39分15.8秒 東経139度43分38.4秒 / 北緯35.654389度 東経139.727333度 | |
外部リンク | 公式サイト |
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麻布中学校・高等学校(あざぶちゅうがっこう・こうとうがっこう)は、東京都港区元麻布二丁目に所在し、高等学校においては生徒を募集しない中高一貫教育を提供する私立男子中学校・高等学校。
概要[編集]
東洋英和学校普通科学校長江原素六が、同東洋英和から尋常中学校として分離独立させて創立したのが麻布の始まりで、同校創立以来、江原に形影相伴う存在だった清水由松がこの時に参集した。1900年(明治33年)9月、現在の元麻布の地に移転した[1]。
学校存続のため、当時の明治政府の制度に倣い尋常中学校として分離独立して創られた経緯から、当初から男子に中等教育を施し、旧制一高など高等教育への進学に力を入れる旧制中等教育学校を標榜していた[2]。
創立者の江原、2代目学校長として麻布の基盤を築いた清水共々キリスト教徒だった。彼らは生徒に対して過度とも言えるくらい寛大な姿勢を貫いた人物として語られているが、学校運営も当時の国の制度に頼らず、自由な校風を旨とした。
その後現在に至るまで自由な校風として知られ、政財界から芸能の世界に至るまで幅広く人材・異才を送り出してきた[3]。
設置者は学校法人麻布学園。
校則がほとんどないのが特徴である。標準服はあるが、制服自体は1970年代の学園紛争末期に撤廃された。
麻布大学とは無関係である。
校風・特徴[編集]
校風は自由闊達。校則はなく、生徒たちが自発的に考えた「麻布三禁」:
- 校内での麻雀禁止
- 授業中の出前禁止
- 校内を鉄下駄で歩くことの禁止
がある。自主・自立の校風の下、入学試験を除く学園生活の大部分で生徒が「自分で考えさせる」ことが重視されている[4]。そのため、服装だけでなく頭髪や装飾品に関しても全て生徒自身に裁量が委ねられている。クラブ活動の運営なども生徒の手で自主的に行われている。麻布では、生徒による問題行動が起こった場合は、担任をはじめとする教員間で話し合いをし、家庭にも連絡を取りながら、本人の反省が自他ともに認められれば、通常の授業への参加を認める、という方法をとっている[5]。校則がないこともあり、問題行動だからといって停学・退学処分にすることはない。1960年代までは制服着用や成績による序列化など、管理がそれなりに厳格だったが[6]、1970年代の学園紛争を通して校則や制服は撤廃された。
かつての制服であった標準服が用意されており、希望する生徒は購入できる。詰め襟・黒ボタンで、現在はほぼ全員が私服である。1990年代初めくらいまでは8割くらいの生徒が標準服を着ていたという[7]。
編成は、男子校で、1学年約300名・7学級[8]。高校からの募集をしない完全中高一貫教育である。学園関係者は、中学1・2・3年生を英語で中学を意味する middle school より M1・2・3、高校1・2・3年生を high school より H1・2・3 と呼ぶこともある。
沿革[編集]
全て月日が付属しない年表示は年度である。1995年までは『麻布学園の一〇〇年』による。
戦前[編集]
- 1895年 - 江原素六により東洋英和学校内に東洋英和学校内尋常中学部を創立し、同年私立麻布尋常中学校と改称。
- 1899年 - 麻布中学校と改称。
- 1900年 - 現在の立地に新校舎が落成し、移転。
- 1901年 - 集成館を創立。当時の旧制中学校第一学年を主に収容し進学時に麻布中学校に編入させ、麻布中学校の定員超過を名目上解消することを目的とした。
- 1903年 - 債権整理のため組織を麻布中学校財団法人として財団法人化する。
- 1912年 - 人数超過の解消と法の改正に伴い集成館を廃止。
- 1922年 - 江原素六死去。2代校長に清水由松が就任。
- 1924年 - 麻布中等夜間学校開校。
- 1926年 - 山中湖畔の土地を学校用地として買収。翌年洗心寮建設。
- 1930年から1931年頃 - 校歌制定。現在のものと併せて3番まで。
- 1931年 - 現在の普通教室が入っている"ロ"の字型の校舎のうち、学園のホームページに掲載されている画に写る塔を中心とした2辺が完成。
- 1932年 - 麻布中等夜間学校が麻布夜間中学へ変更。5か年制。
- 1935年
- 創立40周年を記念してプール落成。
- 現在の多摩川運動場に農場と運動場を開設。
- 1937年 - 校舎増築。現在のロの字校舎の中学1年1組がある辺が増築。現在の講堂がある場所に江原先生記念成毛講堂が落成。
- 1941年 - 校友会を改編して麻布中学校報国団結団。
- 1942年 - 清水由松が名誉校長になり、法大教授の細川潤一郎が校長に就任。
- 1944年 - 学級名をアルファベットから数字へ変更。
戦後 - 1960年代[編集]
- 1945年 - 校友会組織。第1回運動会開催。
- 1946年 - 自治委員会組織。
- 1947年
- 1948年
- 1949年
- 1950年
- 1951年 - 生徒協議会と教師との折衝の後9月に文化祭開催。しかし、以後2年間は開催せず。
- 1954年
- 1956年 - 現在の100周年記念棟の場所に新館と呼ばれる校舎が建設。
- 1957年 - 定時制課程廃止。
- 1961年
- 多摩川農園を廃止。
- 体育館の改築に伴い国立競技場で運動会開催。
- 1962年
- 柔剣道場付きの旧体育館が落成。
- 多摩川農園を多摩川運動場として整備。
- 麻布学園同窓会設立。
- 1965年 - 国立競技場にて創立70周年記念大運動会。
- 1966年 - 70周年記念新校舎落成。現在の芸術棟。新館が増築により生徒会館と呼ばれる。
- 1967年 - 細川校長辞任、藤瀬五郎が新校長に就任。
- 1968年 - この年度の卒業式より校歌3番廃止。
- 1969年9月26日 - 無届の反戦集会が学校中庭で行われたことに対して、校長の藤瀬五郎は『学園紛争が始まってしまったと解釈せざるを得ない』とする。山内が校長代行に就任する直前の1969年度終了までが第1次学園紛争と呼ばれる。
1970年代[編集]
- 1970年
- 1月10日 - 乱入者多数にて始業式中止。
- 2月10日 - ニ・一一闘争統一実行委員会が中庭使用届けを出すが校長が拒否。話し合いの場で校長を拘束。
- 2月20日 - 統実委が釈明を行わない校長に対して校長室を占拠。統実委校長室占拠事件。
- 3月9日から3月12日 - 生徒会・職員・統実委と生徒による全校集会で和解案が採択される。
- 3月18日から - 授業改革全校集会にて改革案を作成し、採択。
- 藤瀬校長辞任、山内一郎が校長代行として赴任。山内代行は教職員経験がなかったため校長になれず、校長代行となった。第一次学園紛争での藤瀬校長と生徒間の和解案を全て破棄。この後の一連の紛争を第二次学園紛争と呼ぶ。
- 理事会が山中湖畔の校地売却を承認。
- 文化祭において討論会が山内代行によって中止される。それに対する暴動により文化祭切り上げ。
- 成毛講堂・相模湖遭難記念館取り壊し。
- 1971年
- 文化祭は取り壊し工事を避けるため秋に開催。
- 10月3日 - 文化祭2日目に武装突撃隊が第一次学園紛争時の和解案の復帰を求めて突入。山内代行の導入した警備員が応酬。後に山内代行の決断で機動隊が導入され、生徒と突撃隊が学外へ排除される。
- 10月5日 - 討論会。代行の退去勧告に対し座り込みを行った生徒に対し再度機動隊導入。
- 10月6日 - 山内打倒共闘会議結成。
- 10月7日 - 山内代行がロックアウト開始。義務教育である中学校も含めたロックアウトは全国初。
- 11月13日 - ロックアウト解除。全校集会1日目。
- 11月15日 - 全校集会2日目運動場で雨中にも関わらず開催。生徒1名の逮捕に激発した生徒に囲まれて、16時58分に代行は退陣を表明し、17時32分に署名。
- 1972年
- 海野昌平が校長に就任。
- 山内前代行が逮捕、起訴される。
- 1973年
- 1974年 - 理事会の理事長と校長の分離決議に従い大賀毅が校長に就任。
- 1975年
- 文化祭公金横領事件。広告収入を禁止。
- 6年ぶりに運動会開催。
- 1976年 - 予算委員会設立。
- 1978年 - 全国高校野球選手権大会東東京予選で、対戦相手の高校に対し、学園側応援席から「落ちこぼれ」(國學院久我山高等学校に対して)「くやしかったら東大に入ってみろ」(東京都立小山台高等学校に対して)[10]の野次が飛ぶ事件が発生し、学園への非難がマスメディアを賑わす[11]。これに対して『麻布学園新聞』10月号は「『ひどい』、『下品だ』というような評があったが、それはそのとおりである。しかし、『あんたらの気持ちはお見とおしだよ』という感じで決めつけられるとは非常に心外である。『野次』は『野次』であって、それ以上の何物でもなく、その内容をうんぬんする種類のものではない。マスコミは自らが作った虚像が何か事を起こすと、『われ先に』と取り上げ紙上をにぎわすのが得意である」と論評[11]。これに対してさらに『朝日新聞』を中心とする学園批判キャンペーンが起きた[11]。なお試合は4-9で麻布が敗北している[12]。
1980年代以降[編集]
- 1981年
- 山内一郎前代行の上告が棄却。懲役5年が確定。
- 校内飲酒事件に対して調査委員会設立が全校投票によって承認。
- 山内事件に対して民事判決が下る。両者控訴せず、学園側の要求がほぼ通り確定。
- 1983年
- 予算委員会がサークル連合解散要求宣言を全会一致で採択。サークル連合解散。
- 全校投票にて「広告収入に関する新規約」を承認するが、実際には広告は取らず。
- 1984年 - 新サークル連合発足。
- 1986年 - 全校投票により年度末をもって新聞会が自治団体からサークルへ格下げ。
- 1989年 - 全校投票により「生徒活動費値上げ案」を承認。
- 1992年 - 大賀校長退任、根岸隆尾が校長に就任。
- 1993年 - 生徒会館を取り壊す。
- 1995年
- 生徒会館の跡地に100周年記念会館が竣工。『麻布学園の一〇〇年』が刊行。
- 地下鉄サリン事件は終業式日であり、目撃者多数も死者はなし。
- 1998年 - 一部生徒の悪質な行為により、生徒に開放されていた屋上が閉鎖される。
- 2000年
- 2004年 - 根岸校長退任、氷上信廣が校長に就任。
- 2006年 - 地下食堂が改築拡張、家庭科室が新設された。
- 2007年 - 一部生徒の飲酒により、運動会が中止となる。
- 2013年
- 氷上校長退任、平秀明が校長に就任。
- 一部の生徒による不適切な行為による不祥事が原因で、運動会が中止となる。
- 2015年3月 - 新体育館が完成。
- 2019年
- 4月6日午後4時15分ごろ - 普通教室棟地下1階から火災が発生、消防車など19台が出動し、約2時間後にほぼ消し止められた。地下1階の約20平方メートルが焼けた。けが人はいなかった[14]。
- 文化祭が6月に延期となる。(この年のみ)
- 2020年
- 文化祭が、在校生保護者のみを対象に、10月31日・11月1日に開催となる。(新型コロナウイルスのため)
- 2021年
- 文化祭が11月に延期となり、人数制限を設けた上で、外部客を招待して実施した。(新型コロナウイルスのため)
交通アクセス[編集]
- 東京メトロ日比谷線広尾駅より徒歩8分
- 東京メトロ南北線・都営地下鉄大江戸線麻布十番駅より徒歩12分
- 東京メトロ千代田線乃木坂駅より徒歩20分
- 都営バス 橋86系統 愛育クリニック前より徒歩2分
- 港区コミュティバス「ちぃばす」麻布西ルート 97番 愛育クリニックより徒歩2分
- 都営バス 品97系統日赤医療センター下より徒歩7分
学習内容[編集]
授業は中高一貫教育の利点を生かして高1修了の段階で高2までの単元をすべて消化し、その後それぞれの志望大学に向けて選択授業制となる。
麻布の教育では、入試から卒業まで一貫して文章などを「書く」ことに力を入れている。定期試験や実力試験では記述問題が目立ち、論文力を要求される教科目も多い。たとえば、現代文の授業では物語文の要約、中学卒業時にはグループでの卒業論文、高校1年次には個人で修了論文の提出が要求される。
中学の社会科教育においては、第1学年に「世界」という系統分野横断科目が設置されている。「世界」の授業内容は「世界地理・世界史および政治・経済」にまたがっている(習うのは「東アジア」「ヨーロッパ」など地域別である)。
高2の段階から理科と社会が選択制になり、理科は化学・物理・生物・地学のうち2科目、地歴・公民科は地理・日本史のうち1教科1科目、世界史・倫理・政経のうちの1科目の選択をする。そのため理系文系混合学級では移動が激しくなる。
通常高3では芸術科目は設置されないが、芸術系志望の生徒の希望により7・8時間目に芸術の科目が設置される。
週休2日制は導入されたことがなく、現在も土曜日は午前中のみの高校生は4時間授業、中学生は3時間授業となっている。2004年度からの学習計画改訂を機に、中3から高2までを対象とした「特別授業」が3・4時間目に設置された。様々な授業群の中から、自分が関心を持つ題材の授業を前期・後期1つずつ選択して学習する。2007年度からは対象を高1・2とし「教養総合」とした。講師は学園教員に限らず、最先端の研究者が訪れることもしばしばある。開設される講座は毎年度変わるが、ラテン語入門、量子化学入門、相対性理論入門などといった大学教養レベル以上のものや運動に専念するもの、社会情勢を考えるもの、日本文化を考えるものなど様々である。土曜日の午後は多くがサークルの活動時間となる。
また、中3では小説に対応した「卒業論文」を3人から5人で執筆する。対象作品は森鷗外・ドストエフスキー・太宰治・安部公房・村上春樹・サリンジャーのように様々である。
そして高1で「社会科基礎課程修了論文」と称し、社会科の学習をすべて修了したという意味で社会科に関する事柄を論じる。
論集[編集]
論集は生徒が書いた様々な文章を掲載する冊子であり、年に1度発行される。レポートで集めた文章から良質な文章を掲載するもの、生徒自身が論集に投稿するものがある。別冊が付随することもあるが、おおよそ300頁から500頁ほどの冊子である。表紙には毎回動物の絵が描かれる。
大学進学実績[編集]
東大や早慶などの難関大学へ、毎年多くの合格者を輩出している。合格・進学先は東大が最も多く、例年数多くの合格者を輩出している。高校別東大合格者数ランキングで、1954年にベスト10に入り、1956年以来10位以内を維持している唯一の学校である。
年間行事[編集]
- 5月:文化祭(2011年と2019年は6月、2012年と2013年は4月)・江原素六墓前祭
- 10月:学年行事
- 中学1年:江原素六初代校長の墓参
- 中学2年:日帰り旅行と相模湖事件慰霊の二日間
- 中学3年:2泊3日で、一般的な修学旅行で訪れる数箇所に旅行する。
- 高校1年:社会見学として観劇・マスコミ見学や都内ポイントハンティングなどが行われる。
- 高校2年:3泊4日修学旅行として国外と国内から数か所に分かれて旅行する。
- 高校3年:観劇や魚釣り・スポーツなどを行う。
- 10月:運動会
- 2月:入学試験
生徒自治[編集]
サークル[編集]
いくつかのサークルを挙げる。
- アーチェリー部:練習は月曜日から土曜日まで放課後行われているが、部員は週に1度出席するというノルマの下に練習している。平日は校内の数メートルの射場、土曜日は校外の遠距離が打てるアーチェリー場へ行くことが多い。試合も数多くある。
- 麻布パーソナルコンピュータ同好会(APCC・パー研):プログラムの開発を中心に活動する部活。先輩が講座を開き後輩に伝達する手法を取っており、BASICやC言語といった基本的な言語の習得と、Windowsや3Dライブラリ、Webプログラムのような API の習得をバランスよく行う。東京工業大学主催のスーパーコンピューティングコンテストによく出場し、何度か優勝経験も持つ。特に大会で初めてアジアからチームを招いて開催した2004年度は選抜チームを送り込んできた中国に残り3秒で僅差の逆転優勝を達成し、各メディアに大きく取り上げられた。
- オセロ部:オセロの部活。顧問は元オセロ世界チャンピオンの英語教員の村上健九段。各々の研究、日々の活動、東京大学をはじめ有名大学のオセロサークルも参加する合宿などを通じて活動するため、段位所持者が部員の多くを占める他、数々の大会実績が頻繁に始業式・終業式で表彰されている、学内では有名な部活の一つ。
- オリエンテーリング部:中学や高校でオリエンテーリング部が存在する学校は少ない。
- インターハイで個人戦、団体戦共に優勝者を過去に幾度も出しており、これまで3度ジュニア世界選手権の日本代表を輩出した。
- また、2017年にはアジアジュニアユース選手権大会に部内から2人日本代表を輩出した。
- 部員数も50人に近づき人気部活の一つにまで成長している。
- 鉄道研究部:60年以上の歴史を誇るサークルであり、主に鉄道マニアの生徒によって構成されている。文化祭では、約1年に渡り放課後の部活動において制作した鉄道模型(nゲージ)のレイアウトが展示となっている。日頃から模型制作に取り組んでおり、鉄道模型のコンテストに出場した経験も持つ。1年に3回遠征を実施している。6月には日帰りで春の撮影会を実施し、南東北や甲信地方を行き先としている。8月には1週間の旅程で夏合宿を実施している。夏合宿の行先は、北海道→四国→九州の3年サイクルが慣習となっている。また、12月には2泊3日程度で冬の撮影会を実施し、近畿地方や北東北地方に足を延ばしている。著名なOBに古川享(現:日本マイクロソフト初代社長)などがいる。
- 生物部:部員数50人を超える部活である。元は博物部であったため、化石や骨格標本も扱っているほか、野外での採集・フィールドワークを活動の主軸としている。活動範囲は日本全国に及び、長期休みには高山や離島での合宿が行われる。文化祭では生きた生物を展示しているため、展示大賞を授賞することも多い。OBに北杜夫(博物部時代に在籍)、桝太一など。
- 将棋部:全国屈指の強豪部である。2000年にオール学生選手権団体戦で優勝。なお、この大会における高校チームの優勝はこの1度だけである。また、2000年にキリンビバレッジ主催キリンビバレッジ杯団体戦も優勝を果たしている。2001年には高校竜王戦優勝者を輩出。高校将棋選手権団体では11回優勝している(この優勝回数は過去最高である)。
- 囲碁部:全国高校囲碁選手権大会で灘高校と並び最多の優勝回数を誇る。岸田正吉が創設し、プロ棋士石倉昇も輩出した。
- チェス部:中学・高校でチェス部のある部は非常に少ないが、それゆえに一般棋戦に参加することが多く、好成績を上げている。卒業生で FIDE Master の小島慎也は麻布在籍時に最年少日本チャンピオンとなり、現在も国内アクティブレーティング1位である。総じて部員のレベルは高く日本トップクラスである。2006年アジア競技大会の選手として、チェス部の高校生2名が選ばれた。
- バックギャモン部:中学・高校では全国唯一のバックギャモン専門のサークルである。2007年の BackgammonFestival における日本選手権Beginnersで優勝を果たし、2009年も準優勝と3位に入賞している。なお当サークルの在籍者ではなかったが、2009年のバックギャモン世界選手権で日本人として初めて優勝した望月正行(在学時はまだ部として存在しなかった。将棋部在籍)も同校の出身であり、たびたび指導に来ている。
- 地歴部:1939年に「地理研究会」の名で発足して以来、70年以上の歴史を持つ。卒業後に地理歴史の分野で活躍する人もいる(小島毅、近藤成一、早乙女雅博、寺阪昭信[15]、中島義一[16]、松澤裕作ほか)。卒業生は「よもぎ会」という会を作って活動している。
入学試験[編集]
唯一、教員のみによって行われる対外的な行事である。2月1日に入学試験を実施、2月3日に合格発表を行う。入学試験は国語・算数・社会・理科の4教科で算数と社会の間に昼食を挟んで行われる。国語・算数は試験時間60分で60点満点、社会・理科は試験時間50分40点満点である。
かつては、入試前に身体をほぐすため、受験生にラジオ体操をさせていた。今は昼休みの時間にグラウンドを開放しており、校庭で友達と遊び、息抜きをする受験生もいる。また、2月1日に大雪が降り交通機関が麻痺したこともあったが、受験生を可能な限り受け入れるため受験時間を大幅にずらして入試を実施した。また、以前は2月1日と2月2日の2日間で入学試験を行っていた。
学校関係者一覧[編集]
提携校[編集]
- 韓国養正(ヤンジョン)高校
- カナダショーニガンレイクスクール
- 中国河南省実験中学
関連書籍[編集]
- 川又一英『麻布中学と江原素六』新潮新書、2003年9月1日、ISBN 978-4106100321
- 村上龍『希望の国のエクソダス』文藝春秋、2002年5月10日、ISBN 978-4167190057 - 登場する学生は麻布学園の生徒への取材から作られた。
- おおたとしまさ『中学受験 注目校の素顔 麻布中学校・高等学校 学校研究シリーズ002』 ダイヤモンド社、2013年10月17日初版発行、ISBN 978-4478044858 - 麻布学園出身者による学校研究シリーズ。
- 神田憲行『「謎」の進学校 麻布の教え』(集英社新書)(2014年10月17日初版発行)ISBN 978-4087207583
- 独自に麻布文庫と称して学校に関係する事柄や教師の著作物を書籍化している。「文庫」と称しているが、判型としては新書に近い。事務室で販売されている。
- 加藤史朗『江原素六の生涯』2003年1月1日、ISBN 978-4204370534
- 斎藤嶢『銅版画家 長谷川潔』
- 都司嘉宣『地震・津波の話』
- 松元宏『メキシコ・中米一人旅』
- 山賀進『君たちの地球はどうなっているのか そして、どうなっていくのか -かけがえのない地球-』
- 麻布学園国際交流委員会編 - 『ぼくたちは冒険する・麻布生の異文化体験記』
- 原口宏『まんぼう君 海に潜る』
- 金昇俊『ナショナリズム イデオロギー 宗教』
- 田邊肇『いきあたり ばったり -僕と「麻布の自由」の物語-』
- 菅野正則『諸葛孔明』
- 國吉一臣『異文化が消えるとき』
- 山岡幹郎『パレスチナ・グラフィティ』[18]
- 龍谷博『英語の考え方-英語の苦手な君に-』
- 松元宏『アジアを旅する-フィリピンからインドまで-』
- 氷上信廣『汝の馬車を星に繋げ-麻布学園とともに-上・下』
脚注[編集]
- ^ 麻布未来写真館 平成22年度 p.8(10ページ目) (PDF)
- ^ 静岡県立沼津西高等学校 学校案内>沼津西高校創立者、江原素六先生
- ^ 文藝春秋社編 『同級生交歓』(文春新書、2006年7月)
- ^ 自由な校風だからといって風紀が乱れるわけではない
- ^ 生徒の問題行動にはしっかり向き合うのが麻布の姿勢
- ^ 「男子御三家」の麻布、茶パツもスカートも気にせず|出世ナビ|NIKKEI STYLE
- ^ 再発見・男子校の魅力 | 中学受験と子育てを考えるフォーラム
- ^ 1970年度以前は中学校は5学級で、高校は若干名を募集して6学級としていた。1971年度入学者から中学校も6学級化され、さらに2000年度に学級定数減を目的に全学年で一斉に7クラス化されて現在に至る。
- ^ プランゲ文庫内に第2号のみ所蔵されている。
- ^ 高杉晋吾『受験校 つくられる神童たち』(学陽書房、1979年)169頁
- ^ a b c 小林哲夫『東大合格高校盛衰史』p.96(光文社新書、2009年)
- ^ 黒い甲子園の真偽
- ^ 2013年3月2日付中日新聞32面「セカンドキャリア―引退から始まる物語・川嶋勝重・第4回」
- ^ 「麻布学園でぼや 生徒の花火の不始末か 東京」『産経新聞』、2019年4月6日。2019年4月21日閲覧。
- ^ “よもぎ会”. www.azabu-jh.ed.jp. 2018年7月23日閲覧。
- ^ “よもぎ会”. www.azabu-jh.ed.jp. 2018年7月23日閲覧。
- ^ “国際交流 提携校の紹介”. 麻布学園 麻布中学校 麻布高等学校. 2021年8月4日閲覧。
- ^ MIKIRO YAMAOKA PHOTO GALLARY