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'''ラッキールーラ'''([[1974年]][[2月22日]] - [[1991年]][[5月12日]])は、[[日本中央競馬会]]の[[競走馬]][[種牡馬]][[1977年]]の[[東京優駿|東京優駿(日本ダ)]]が主な勝ち鞍である。引退後に種牡馬となり、晩年は[[大韓民国|韓国]]に寄贈された
'''ラッキールーラ'''(欧字名:{{Lang|en|Lucky Ruler}}、[[1974年]][[2月22日]] - [[1991年]][[5月12日]])は、[[日本]]の[[競走馬]]、日本および[[韓国]][[種牡馬]]<ref name="jbis">{{Cite web|title=ラツキラ|JBISサーチ(JBIS-Search)|url=https://www.jbis.or.jp/horse/0000069494/|website=www.jbis.or.jp|accessdate=2021-05-04}}</ref>


主な勝ち鞍は、[[1977年]]の[[東京優駿|東京優駿(日本ダービー)]]、[[弥生賞]]。
馬名がラッキールーラーではなくラッキールーラとなったのは「ラッキーセブン」にちなんで7文字の馬名にしたためと言われている<ref>『優駿』1988年1月号より。</ref>。

[[馬齢]]は旧表記を用いる。


== 生涯 ==
== 生涯 ==
=== 誕生・デビュー前 ===
[[1974年]][[2月22日]]、[[北海道]][[伊達市 (北海道)|伊達市]]の高橋農場で誕生。父・ステューペンダスは[[ボールドルーラー]]を父に持つ[[1963年]]生まれの[[アメリカ合衆国|アメリカ]]産馬で、[[1966年]]に[[プリークネスステークス]]で2着になっている。[[種牡馬]]としては、[[1968年]]から[[イギリス]]で供用され、[[1973年]]より[[日本国|日本]]に輸入された。ラッキールーラはステューペンダスの初年度産駒であった。ラッキールーラ以外の代表産駒としては[[地方競馬|地方]]出身ながら[[宝塚記念]]を勝った[[カツアール]]がいる。


=== デビューまで ===
母・[[トースト (競走馬)|トースト]]は4歳時は[[桜花賞]]2着が最高であったが、古馬になって本格化し、[[中山金杯|金杯(東)]]・[[中山記念]]・[[アルゼンチン共和国杯|アルゼンチンJCC]]・[[毎日王冠]]に勝ち、[[天皇賞 #天皇賞 (秋)|天皇賞(秋)]]・[[有馬記念]]で2着の実績を残した名牝。牝馬限定路線が整備されている現在なら、おそらく[[競馬の競走格付け|GI]]競走を2勝以上しただろうと思わせる逸材であった。
[[トースト (競走馬)|トースト]]は、桜花賞、[[天皇賞 #天皇賞 (秋)|天皇賞(秋)]]、[[有馬記念]]で2着。[[中山金杯|金杯(東)]]・[[中山記念]]・[[アルゼンチン共和国杯|アルゼンチンジョッキークラブカップ]]・[[毎日王冠]]を優勝するなど、39戦17勝の成績で繁殖牝馬となり、1966年に初仔を生産した<ref>{{Cite web|title=トースト|JBISサーチ(JBIS-Search)|url=https://www.jbis.or.jp/horse/0000006553/|website=www.jbis.or.jp|accessdate=2021-08-30}}</ref><ref>{{Cite web|title=繁殖牝馬情報:牝系情報|トースト|JBISサーチ(JBIS-Search)|url=https://www.jbis.or.jp/horse/0000006553/broodmare/info/|website=www.jbis.or.jp|accessdate=2021-08-30}}</ref>。それから1973年の配合相手は、イギリスからの輸入初年度であるステューペンダスが選ばれた<ref name="優駿-1988-2-20">『優駿』1988年2月号 20頁</ref>。

ステューペンダスは、[[ボールドルーラー]]を父に持つ[[1963年]]生まれの[[アメリカ合衆国|アメリカ]]産馬で、[[1966年]]に[[プリークネスステークス]]で2着になっている。[[1968年]]から[[イギリス]]で[[種牡馬]]として供用され、1973年に日本に輸入された<ref name="優駿-1988-2-20" />。


[[1974年]][[2月22日]]、[[北海道]][[伊達市 (北海道)|伊達市]]の[[高橋農場 (北海道伊達市)|高橋農場]]で黒鹿毛の牡馬(後のラッキールーラ)が誕生する<ref name="優駿-1988-2-20" />。早生まれで大きく育った仔は牧場で評判が高く、病気せず健康であった<ref name="優駿-1988-2-20" />。早くから[[尾形藤吉]]調教師が注目しており、尾形が[[東京鐵鋼]]社長の[[吉原貞敏]]を紹介し、吉原が800万円購入した<ref name="優駿-1988-2-21">『優駿』1988年2月号 21頁</ref>
母の父・[[ハクリョウ]]は[[菊花賞]]で優勝してから本格化し、5歳で[[天皇賞 #天皇賞 (春)|天皇賞(春)]]を制覇、日本で初めて制定された[[JRA賞 #歴代年度代表馬|啓衆社賞年度代表馬]]に選ばれている。代表産駒としては[[皐月賞]]馬・ヤマノオー、桜花賞馬・[[シーエース]]がいる。


仔に競走馬名を与えるにあたり尾形は、吉原がこれまで[[冠名]]として使用していた本業の鉄鋼業に関連する「アイアン」を「アイアンという名はどうも重すぎますよ<ref name="優駿-1988-2-21" />」として敬遠した。そこで代わりに、吉原の「'''吉'''」から「'''ラッキー'''」を連想<ref name="優駿-1988-2-21" />。そして仔の祖父、かつステューペンダスの父であるボールドルーラーから「'''ルーラー'''」を抽出して組み合わせ「'''ラッキールーラー'''」、さらに[[ラッキーセブン]]を考慮して下の長音符を省き7文字の「'''ラッキールーラ'''」と命名された<ref name="優駿-1988-2-21" />。[[1975年]][[11月]]に[[東京競馬場]]の尾形藤吉厩舎に入厩した<ref name="優駿-1988-2-21" />。デビュー前の調教では、ダートコースで好タイムを記録し「尾形の一番馬<ref name="優駿-1988-2-21" />」と評判を集めた。
早生まれで大きく育ったラッキールーラは牧場で評判が高く、早くから[[尾形藤吉]]調教師に目を付けられていた。[[東京鐵鋼]]社長の[[吉原貞敏]]に800万円で購入され、[[1975年]][[11月]]に[[東京競馬場|東京]]・尾形藤吉厩舎に入厩した。


=== 競走馬時代 ===
=== 競走馬時代 ===
=== 3歳(現・2歳)時 ===
560kgを越えるラッキールーラはなかなか身体を絞れず、デビュー戦は[[1976年]][[6月]]の[[札幌競馬場|札幌]]ではなく、[[8月15日]]の[[函館競馬場|函館]]となった。デビュー戦は[[伊藤正徳 (競馬)|伊藤正徳]]を鞍上に3着だった。折り返しの新馬戦も2着となり、初勝利は[[10月]]の[[中山競馬場|中山]]の未勝利戦だった。


==== 3-4歳(1976-77年) ====
11月の東京の白菊賞は[[カネミノブ]]の2着、同月のさざんか賞は勝って2勝目を挙げたものの、[[12月]]の中山のひいらぎ賞は[[プレストウコウ]]の2着に敗れて、この年を終えた。
1976年6月の[[札幌競馬場]]でデビューを予定していたが、身体が大きいことから先送りとなった<ref name="優駿-1988-2-21" />。8月15日、[[函館競馬場]]の[[新馬|新馬戦]]でデビュー、[[伊藤正徳 (競馬)|伊藤正徳]]が騎乗し3着、続く2戦目の新馬戦も2着に敗れた<ref name="優駿-1988-2-21" />。10月の[[中山競馬場]]の未勝利戦で初勝利、続く白菊賞は[[カネミノブ]]に敗れて2着となったが、さざんか賞で2勝目、ひいらぎ賞は[[プレストウコウ]]に敗れて2着となった<ref name="優駿-1988-2-21" />。


4歳となった1977年、1月の[[京成杯]]2着、2月の[[東京4歳ステークス]]4着とどちらも[[ヒシスピード]]に敗れた。3月の[[弥生賞]]では初めて[[拍車]]を装着して出走、5番人気に支持された。逃げの手に出て、カネミノブやプレストウコウを退けて優勝。弥生賞レコードでの重賞初制覇となった<ref name="優駿-1988-2-21" />。[[皐月賞]]は、4番人気で出走。逃げて先頭で直線に進入したが、[[ハードバージ]]が内からかわされ、それから2馬身半差をつけられた2着に敗れた<ref name="優駿-1988-2-21" />。伊藤は「ゴールまであと600メートル地点では勝てると思ったが、外からくる馬にばかり気を遣っていたら[[福永洋一|(福永)洋一]]の馬に内を衝かれた。じわじわくる馬には強いが、一気にこられてなす術がありませんでした。(カッコ内補足加筆者)<ref name="優駿-1988-2-21" />」と回顧している。続く[[東京優駿]]に向けて、[[トライアル競走]]の[[NHK杯 (競馬)|NHK杯]]に1番人気で出走し、先行したもののプレストウコウとそのほか2頭に交わされ4着に敗れた<ref name="優駿-1988-2-22">『優駿』1988年2月号 22頁</ref>。
=== 4歳(現・3歳)時 ===
==== ダービー前 ====
[[1977年]]、4歳となったラッキールーラは休養を取ることなく、[[1月]]の[[京成杯]]で初めて重賞に挑戦。[[朝日杯フューチュリティステークス|朝日杯3歳ステークス]]で[[マルゼンスキー]]と接戦を演じていた[[ヒシスピード]]の2着に敗れた。


5月29日、[[東京優駿]](日本ダービー)に出走。28頭立て7枠24番という外枠からの発走となり、単勝9番人気の支持であった<ref name="優駿-1988-2-22" />。発走直後に先頭に立ったが、大外枠のワールドサバンナにハナを奪われ2番手で進んだ<ref name="優駿-1988-2-23">『優駿』1988年2月号 23頁</ref>。最終コーナーにかけてワールドサバンナとの差を縮め、直線では内から位置を上げたカネミノブと並び、先頭争いとなった<ref name="優駿-1988-2-23" />。やがてカネミノブを下したが、外から1番人気のハードバージが迫り、ラッキールーラに並びかけたところで決勝線を通過した<ref name="優駿-1988-2-23" />。直後にハードバージの[[伊藤雄二]]調教師が勝利を確信していたが、写真判定の結果、ラッキールーラのアタマ差先着が認められた<ref name="優駿-1988-2-23" />。
[[2月]]の[[共同通信杯|東京4歳ステークス]]もヒシスピードの4着に敗れた。ここまで使い込まれているにも関わらず、ラッキールーラの馬体はなかなか絞れず、巨体を持て余していた。しかし、尾形は飼い葉を減らさず、汗取りもせず、自然に成長するのを待った。


尾形は、14年ぶりの東京優駿制覇であり、[[フレーモア]](1934年)[[トクマサ]](1936年)[[クリフジ]](1943年)[[クリノハナ]](1952年)[[ハクチカラ]](1956年)[[ハクシヨウ (1958年生)|ハクショウ]](1961年)[[メイズイ]](1963年)に続いて8勝目<ref name="優駿-1988-2-23" />。また伊藤は父伊藤正四郎が[[トクマサ]](1936年)で制しており、親子制覇となった<ref name="優駿-1988-2-23" />。その後は、夏休みを東京競馬場の厩舎で過ごした<ref name="優駿-1988-2-23" />。
尾形の誕生日である[[3月2日]]に行われた[[弥生賞]]では、ラッキールーラは540kgにまで絞り込まれた馬体で挑み、出ムチをくれた逃げ戦法に出て、3度目の重賞挑戦で重賞初制覇を決めて、クラシック候補に名乗りを挙げた。


秋は10月、中山競馬場の[[オープン競走]]で始動。逃げ切り勝ちし、その3日後に関西に遠征した<ref name="優駿-1988-2-24">『優駿』1988年2月号 24頁</ref>。[[菊花賞]]の前哨戦とした[[京都新聞杯]]は、[[単枠指定制度]]の対象となり1番人気で出走。逃げに出たが、プレストウコウにかわされ1馬身半差の2着<ref name="優駿-1988-2-24" />。目標の菊花賞は追い切りの内容がよかったことも手伝って1番人気で出走した。ハイペースの2番手につけたこともあり、直線では全く伸びず15着に敗れた<ref name="優駿-1988-2-24" />。伊藤は「僕の騎乗ミスだったのかな<ref name="優駿-1988-2-24" />」と振り返る一方、尾形は「(伊藤)正徳に責任はない。結果論かもしれんが、長距離向きではなかった。2400メートルまでの馬だったんですな<ref name="優駿-1988-2-24" />」としている。
4番人気で迎えた[[皐月賞]]は先行して抜け出しを図ったが、伊藤の同期で「'''天才'''」と称された[[福永洋一]]騎乗の[[ハードバージ]]が[[忍者]]のように内から伸びてきて、為す術もなく2着に敗れた。


12月に入って、左前脚に深管骨瘤を発症<ref name="優駿-1988-2-24" />。長期の戦線離脱となり、[[福島県]][[いわき市]]の[[JRA競走馬総合研究所|JRA競走馬総合研究所常盤支所]]にある「馬の温泉」や北海道[[早来町]]の[[吉田牧場 (北海道)|吉田牧場]]で快復を図った<ref name="優駿-1988-2-24" />。
そして、1番人気に推されたダービートライアルの[[NHK杯 (競馬)|NHK杯]]では直線で粘りを欠き、[[プレストウコウ]]の4着に敗れた。


==== 日本ダービー ====
==== 5-7歳(1978-80年) ====
2年間の休養を経て、1979年、6歳12月の中山競馬場で復帰したが最下位<ref name="優駿-1988-2-24" />。1980年、7歳でも現役を続行し、1月から5月にかけて4戦4敗。6月の札幌日経賞では、[[プリテイキャスト]]等相手に逃げ切り、32か月ぶりの勝利となった<ref name="優駿-1988-2-24" />。尾形は、[[天皇賞(秋)]]から[[有馬記念]]に進み、年末に引退すると宣言した<ref name="優駿-1988-2-24" />。しかし、その後は[[札幌記念]]9着、巴賞、[[函館記念]]では連続最下位となり、計画を前倒しして競走馬を引退した<ref name="優駿-1988-2-24" />。[[11月30日]]に中山競馬場にて[[引退式]]が行われた<ref name="優駿-1988-2-24" />。
[[東京優駿|日本ダービー]]は曇り空の中、良馬場で行われることになったが、[[持込馬]]で[[中央競馬クラシック三冠|クラシック]]の出走権がなかったマルゼンスキー以外で争うことになり、[[ドングリ #文化|どんぐりの背比べ]]といった感じで、戦国ダービーの様相を呈していた。


=== 引退後 ===
[[武邦彦]]に乗り替わったハードバージが1番人気に支持され、ボルテール、パワーシンボリがそれに続き、福永がハードバージから乗り替えたホリタエンジェルが4番人気であった。ラッキールーラは調教の動きこそ抜群で好気配を示していたものの、28頭立ての7枠24番と、前走の凡走ぶりから9番人気と低評価であった。
引退後は[[日本中央競馬会]]が4500万円で買い上げ、[[日本軽種馬協会]]へ寄贈。[[1981年]]から[[胆振総合振興局|胆振]]種馬場で[[種牡馬]]として供用された<ref name="優駿-1988-2-24" />。馬体重が700kgを越えて、小柄な牝馬の相手が耐えられないこともあった<ref name="優駿-1988-2-25">『優駿』1988年2月号 25頁</ref>。さらにペニスが大きく、射精に至るまでの時間が長いことから、スムーズな種付けすることができなかった<ref name="優駿-1988-2-25" />。[[1986年]]には種付け5頭まで落ち込んだが、[[1987年]]にトチノルーラーが[[きさらぎ賞]]を制し、種付け頭数は39頭まで回復、種付け料も15万円から20万円に値上げした<ref name="優駿-1988-2-25" />。


[[1990年]]、プレストウコウ、[[カツトップエース]]、[[ヤマノスキー]]とともに、所有者の好意で[[大韓民国|韓国]]に輸出され、ソウル郊外の韓国馬事会種馬牧場に繋養された<ref>『優駿』1991年2月号 58-59頁</ref>。[[1991年]][[5月12日]]に事故により死去。残した僅か4頭の産駒の中から[[1996年]]-[[1997年]]韓国最優秀[[内国産馬]]の[[タンディチェイル]](当代第一)を送り出した。
ラッキールーラは外枠から好スタートで斜めに横切り、1コーナーを先頭で回った。しかし逃げる意図はなかったので、向正面でワールドサバンナにハナを譲った。ハードバージは中団の外に待機し、ポルテール、パワーシンボリも同じ位置に控えた。プレストウコウとカネミノブは好位に付け、ホリタエンジェルは後方に位置した。

直線に入ると、まずカネミノブが先頭に立ち、すかさずラッキールーラと伊藤が馬体を合わしてこれをかわすと、ゴールを目指すラッキールーラにハードバージが迫った。一完歩ごとにラッキールーラを追い詰め馬体が合うが、ゴール寸前で最後の粘りを発揮したラッキールーラがハードバージを競り落とし、頭差先着していた。「欅の向こうを越えたら馬任せ。直線で抜きかえすつもりで行け」という尾形の指示を伊藤が忠実に守り、それが最後の逆転に繋がった。

尾形にとっては[[メイズイ]]以来14年ぶり8回目、生涯最後のダービー制覇となった。尾形にとって過去7回の制覇は馬房制限がなく、素質馬を独占できた頃の記録で、それ以降のダービー制覇は至難の業であった。表彰式で尾形は感涙していたが、このダービーの夜に自宅が火事で全焼する悲劇に見舞われることになる。一方、ラッキールーラに騎乗していた伊藤は父・正四郎も第5回の日本ダービーを[[トクマサ]]で優勝しており、史上2組目の父子2代のダービージョッキーになった。

また、アメリカ産種牡馬がダービーを制するのは初めてであり、この時のラッキールーラの馬体重534kgは[[2020年]]現在でも日本ダービー優勝馬最重量であり、同時にダービー史上最外枠での優勝馬でもある。ただし、勝ちタイムの2分28秒7は前週の[[優駿牝馬|オークス]]を勝った[[リニアクイン]]に0.6秒も劣るもので、出走馬のレベルの低さを伺わせた。

==== ダービー後 ====
ダービー優勝後、ラッキールーラは、夏の間は府中で過ごした。なお、休養中の[[7月26日]]に父・ステューペンダスが死亡している。

秋は10月の中山から始動。初戦の平場のオープンで逃げ切り勝利をおさめると、3日後に西下して[[京都新聞杯]]に出走。ここはプレストウコウの2着に敗れたが、前哨戦ということもあり問題視されなかった。

[[菊花賞]]では、ラッキールーラは直前での調教の動きが抜群だったこともあり、「亡くなった種牡馬の仔は走る」というジンクスも手伝って1番人気に推された。だが、レースでは[[九州産馬]]・オサイチセイダイのハイペースの大逃げに反応して2番手に付けてしまいスタミナが著しく消耗、直線で急激に手応えを失い15着に惨敗した。

=== 5歳(現・4歳)以降 ===
菊花賞後、ラッキールーラは深管骨瘤で2年余りの長期休養に入り、復活したのは6歳になった[[1979年]][[12月9日]]の中山の平場のオープンだった。しかし、長期の休み明けが祟ったのか、結果は7頭立ての殿負けに終わった。

年が明けて[[1980年]]、7歳となったラッキールーラは1月の東京、2月の中山と平場のオープンを2戦したが、それぞれ2着、7着に敗れた。[[4月]]の[[京王杯スプリングカップ|京王杯SH]]は7着、[[5月]]のニュージーランドT<ref>当時はオープン特別。現在の[[ニュージーランドトロフィー]]とは別。</ref>も11着と惨敗が続いたが、[[6月]]の札幌日経賞で[[プリテイキャスト]]以下に逃げ切り勝ちし、鮮やかに復活した。

尾形は、天皇賞から有馬記念を目指すと宣言したが、続く[[札幌記念]]は14頭立ての9着、[[8月]]の函館の巴賞と[[函館記念]]はそれぞれ殿負けを喫した。尾形はダービー馬の名誉を守るため引退を表明。[[11月30日]]に中山で引退式が行われた。

=== 引退後 ===
引退後は中央競馬会が4500万円で買い上げ、[[日本軽種馬協会]]へ寄贈した。[[1981年]]から[[胆振総合振興局|胆振]]種馬場で[[種牡馬]]として供用されたが、馬体重が700kgを越え、性器も大きかったため、小柄な牝馬では相手が務まらなかった。マルゼンスキーと同世代であったため不当に低い評価をされ、[[1986年]]には種付け5頭という寂しさであったが、[[1987年]]にトチノルーラーが[[きさらぎ賞]]を勝ち、種付け頭数も39頭に戻り、種付け料も15万円から20万円に上がった。種牡馬としては成功とは言い難く、[[1990年]]にはプレストウコウ・[[カツトップエース]]とともに[[大韓民国|韓国]]に輸出されたが、[[1991年]][[5月12日]]に事故により死去。残した僅か4頭の産駒の中から[[1996年]]-[[1997年]]韓国最優秀[[内国産馬]]の[[タンディチェイル]](当代第一)を送り出した。


== 競走成績 ==
== 競走成績 ==
以下の内容は、[[netkeiba.com]]<ref>{{Cite web|title=ラッキールーラの競走成績 {{!}} 競走馬データ|url=https://db.netkeiba.com/horse/1974103455/|website=netkeiba.com|accessdate=2021-08-30|language=ja}}</ref>およびJBISサーチ<ref>{{Cite web|title=競走成績:年度別累計成績/主な成績|ラツキールーラ|JBISサーチ(JBIS-Search)|url=https://www.jbis.or.jp/horse/0000069494/record/|website=www.jbis.or.jp|accessdate=2021-08-30}}</ref>、『優駿』1988年2月号<ref>『優駿』1988年2月号 20-25頁</ref>の情報に基づく。
* 1976年(6戦2勝)
{| style="border-collapse: collapse; font-size: 90%; text-align: center; white-space: nowrap;"
** 1着 - さざんか賞
!競走日
** 2着 - 白菊賞、ひいらぎ賞
!競馬場
* 1977年(9戦3勝)
!競走名
** 1着 - '''[[東京優駿]]'''、[[弥生賞]]
!格
** 2着 - '''[[皐月賞]]'''、[[京成杯]]、[[京都新聞杯]]
!距離
* 1979年(1戦0勝)
(馬場)
* 1980年(8戦1勝)
!頭
** 1着 - 札幌日経賞

!枠
== 代表産駒 ==
* トチノルーラー - 1987年きさらぎ賞、[[1986年]][[新潟2歳ステークス|新潟3歳ステークス]]・1990年鳥海大賞典([[上山競馬場|上山]])2着
!馬
* ダイカツジョンヌ - [[1993年]]・[[1994年]][[フェブラリーステークス|フェブラリーハンデキャップ→フェブラリーステークス]]3着、1993年[[帝王賞]]2着
* ナエボルーラ - 1987年[[フラワーカップ]]3着、1986年[[北海道2歳優駿|北海道3歳優駿]]2着
!オッズ
* ラッキーケイアイ - 1994年スプリンターズ賞([[高崎競馬場|高崎]])3着
(人気)
* ロングランシチー - 1991年新春杯・[[二十四万石賞]]([[高知競馬場|高知]])3着
!着順

!タイム
== 悲運の世代の悲運のダービー馬 ==
!騎手
ラッキールーラは日本ダービーを制して世代の頂点に立ったが、この世代には、当時の規則で[[持込馬]]には出走権が無く、クラシックに出走できなかった[[マルゼンスキー]]がいた。
!斤量

[kg]
マルゼンスキーと同世代のダービー馬である本馬は直接対決が期待されたが、マルゼンスキーも脚部不安で早々に引退してしまったため、実現することはなかった。このため、マルゼンスキーとの直接対決で完敗しているヒシスピードやアローバンガード、プレストウコウなどの、両馬と対戦した他馬を定規としたマルゼンスキーとの机上の比較が、マスコミや競馬ファンにより行われることとなった。また、ラッキールーラが優勝した日本ダービーの優勝タイムがオークスで優勝したリニアクインのタイムを0.6秒も下回っていることや、ダービーの前哨戦である4歳中距離ステークスでも牝馬であるリニアクインが7馬身差で完勝していたことから、ラッキールーラは軒並み低評価を与えられ、後に「悲運のダービー馬」などと形容されることになった。
!1着馬

(2着馬)
また、同世代の皐月賞馬ハードバージも競走生活引退後の種牡馬生活が不調で、最後はショーや馬車の使役馬に転用された末に、[[熱射病]]で[[斃死|死亡]]するという悲劇的な運命を辿っている。マルゼンスキーがクラシックに出走できず、裏街道路線に進まざるを得なかったことも、この世代の評価を押し下げる要因となっており、後年、この世代の牡馬はしばしば「悲運の世代」として評されている。
|-

|[[1976年|1976]].{{0}}[[8月15日|8.15]]
そして、1977年の牡馬クラシック路線で活躍した馬の悲運と、ちょうどこの10年後の[[1987年]]の牡馬クラシック路線で活躍した[[サクラスターオー]]や[[マティリアル]]らの悲劇的な生涯に因み、'''「西暦末尾が7の年のクラシック戦線の牡馬たちは不幸の世代になる」'''と、[[ジンクス]]の様に語られた経緯がある。
|[[函館競馬場|函館]]
|[[新馬|3歳新馬]]
|
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|52
|シロバトミラ
|-
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|
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|52
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|-
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|
|芝1200m(良)
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|
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|
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|
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|
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|-
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|
|芝2400m(良)
|28
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|
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|(ハードバージ)
|-
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|
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|5
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|
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|{{00}}3.6(1人)
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|
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|{{00}}3.9(1人)
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|中山
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|
|芝1600m(良)
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|2
|{{0}}18.3(6人)
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|-
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|東京
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|
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|4
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|中山
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|
|芝1600m(良)
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|3
|4
|
|取
|
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|マイエルフ
|-
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|中山
|5歳上オープン
|
|芝1800m(良)
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|マイエルフ
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|[[京王杯スプリングハンデキャップ|京王杯スプリングH]]
|
|芝1800m(良)
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|1
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|1:48.7
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|-
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|東京
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|
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|-
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|
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|2
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|
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|
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|2
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|11着
|2:10.5
|{{0}}伊藤正徳
|58
|サーペンプリンス
|}


== 主な産駒 ==
なお、ラッキールーラの代表産駒であるトチノルーラーは1987年の牡馬クラシック組であり、[[ジュニアカップ]]やきさらぎ賞などクラシック本番までに4勝を挙げて期待されたものの、クラシックレース以後は伸び悩み、5歳時に[[上山競馬場]]に移籍したため、きさらぎ賞が中央競馬での最後の勝利となっている。
* トチノルーラー - 1987年きさらぎ賞、[[1986年]][[新潟2歳ステークス|新潟3歳ステークス]]・1990年鳥海大賞典([[上山競馬場|上山]])2着<ref>{{Cite web|title=トチノルーラー|JBISサーチ(JBIS-Search)|url=https://www.jbis.or.jp/horse/0000166502/|website=www.jbis.or.jp|accessdate=2021-08-30}}</ref>
* ダイカツジョンヌ - [[1993年]]・[[1994年]][[フェブラリーステークス|フェブラリーハンデキャップ→フェブラリーステークス]]3着、1993年[[帝王賞]]2着<ref>{{Cite web|title=ダイカツジョンヌ|JBISサーチ(JBIS-Search)|url=https://www.jbis.or.jp/horse/0000213834/|website=www.jbis.or.jp|accessdate=2021-08-30}}</ref>
* ナエボルーラ - 1987年[[フラワーカップ]]3着、1986年[[北海道2歳優駿|北海道3歳優駿]]2着<ref>{{Cite web|title=ナエボルーラ|JBISサーチ(JBIS-Search)|url=https://www.jbis.or.jp/horse/0000172073/|website=www.jbis.or.jp|accessdate=2021-08-30}}</ref>
* ラッキーケイアイ - 1994年スプリンターズ賞([[高崎競馬場|高崎]])3着<ref>{{Cite web|title=ラッキーケイアイ|JBISサーチ(JBIS-Search)|url=https://www.jbis.or.jp/horse/0000209516/|website=www.jbis.or.jp|accessdate=2021-08-30}}</ref>
* ロングランシチー - 1991年新春杯・[[二十四万石賞]]([[高知競馬場|高知]])3着<ref>{{Cite web|title=ロングランシチー|JBISサーチ(JBIS-Search)|url=https://www.jbis.or.jp/horse/0000180999/|website=www.jbis.or.jp|accessdate=2021-08-30}}</ref>


== 血統表 ==
== 血統表 ==
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== 脚注 ==
== 脚注 ==

=== 注釈 ===
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=== 出典 ===
{{Reflist}}
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== 参考文献 ==

* 『[[優駿]]』([[日本中央競馬会]])
** 1988年2月号
*** 横尾一彦「【サラブレッド・ヒーロー列伝 24】黒い重戦車 ラッキールーラ」
**1991年2月号
***「ラッキールーラ、カツトップエース、プレストウコウ、ヤマノスキー、韓国に渡って種牡馬に。」


== 外部リンク ==
== 外部リンク ==
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[[Category:1974年生 (競走馬)|日らつきいるうら]]
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2021年8月30日 (月) 15:00時点における版

ラッキールーラ
欧字表記 Lucky Ruler[1]
品種 サラブレッド[1]
性別 [1]
毛色 黒鹿毛[1]
生誕 1974年2月22日[1]
死没 1991年5月12日
ステューペンダス[1]
トースト[1]
母の父 ハクリヨウ[1]
生国 日本の旗 日本北海道伊達市[1]
生産者 高橋農場[1]
馬主 吉原貞敏[1]
調教師 尾形藤吉[1]東京
競走成績
生涯成績 24戦6勝[1]
獲得賞金 1億5350万6000円[1]
勝ち鞍
八大競走 東京優駿 1977年
重賞 弥生賞 1977年
テンプレートを表示

ラッキールーラ(欧字名:Lucky Ruler1974年2月22日 - 1991年5月12日)は、日本競走馬、日本および韓国種牡馬[1]

主な勝ち鞍は、1977年東京優駿(日本ダービー)弥生賞

生涯

デビューまで

トーストは、桜花賞、天皇賞(秋)有馬記念で2着。金杯(東)中山記念アルゼンチンジョッキークラブカップ毎日王冠を優勝するなど、39戦17勝の成績で繁殖牝馬となり、1966年に初仔を生産した[2][3]。それから1973年の配合相手は、イギリスからの輸入初年度であるステューペンダスが選ばれた[4]

ステューペンダスは、ボールドルーラーを父に持つ1963年生まれのアメリカ産馬で、1966年プリークネスステークスで2着になっている。1968年からイギリス種牡馬として供用され、1973年に日本に輸入された[4]

1974年2月22日北海道伊達市高橋農場で黒鹿毛の牡馬(後のラッキールーラ)が誕生する[4]。早生まれで大きく育った仔は牧場で評判が高く、病気せず健康であった[4]。早くから尾形藤吉調教師が注目しており、尾形が東京鐵鋼社長の吉原貞敏を紹介し、吉原が800万円購入した[5]

仔に競走馬名を与えるにあたり尾形は、吉原がこれまで冠名として使用していた本業の鉄鋼業に関連する「アイアン」を「アイアンという名はどうも重すぎますよ[5]」として敬遠した。そこで代わりに、吉原の「」から「ラッキー」を連想[5]。そして仔の祖父、かつステューペンダスの父であるボールドルーラーから「ルーラー」を抽出して組み合わせ「ラッキールーラー」、さらにラッキーセブンを考慮して下の長音符を省き7文字の「ラッキールーラ」と命名された[5]1975年11月東京競馬場の尾形藤吉厩舎に入厩した[5]。デビュー前の調教では、ダートコースで好タイムを記録し「尾形の一番馬[5]」と評判を集めた。

競走馬時代

3-4歳(1976-77年)

1976年6月の札幌競馬場でデビューを予定していたが、身体が大きいことから先送りとなった[5]。8月15日、函館競馬場新馬戦でデビュー、伊藤正徳が騎乗し3着、続く2戦目の新馬戦も2着に敗れた[5]。10月の中山競馬場の未勝利戦で初勝利、続く白菊賞はカネミノブに敗れて2着となったが、さざんか賞で2勝目、ひいらぎ賞はプレストウコウに敗れて2着となった[5]

4歳となった1977年、1月の京成杯2着、2月の東京4歳ステークス4着とどちらもヒシスピードに敗れた。3月の弥生賞では初めて拍車を装着して出走、5番人気に支持された。逃げの手に出て、カネミノブやプレストウコウを退けて優勝。弥生賞レコードでの重賞初制覇となった[5]皐月賞は、4番人気で出走。逃げて先頭で直線に進入したが、ハードバージが内からかわされ、それから2馬身半差をつけられた2着に敗れた[5]。伊藤は「ゴールまであと600メートル地点では勝てると思ったが、外からくる馬にばかり気を遣っていたら(福永)洋一の馬に内を衝かれた。じわじわくる馬には強いが、一気にこられてなす術がありませんでした。(カッコ内補足加筆者)[5]」と回顧している。続く東京優駿に向けて、トライアル競走NHK杯に1番人気で出走し、先行したもののプレストウコウとそのほか2頭に交わされ4着に敗れた[6]

5月29日、東京優駿(日本ダービー)に出走。28頭立て7枠24番という外枠からの発走となり、単勝9番人気の支持であった[6]。発走直後に先頭に立ったが、大外枠のワールドサバンナにハナを奪われ2番手で進んだ[7]。最終コーナーにかけてワールドサバンナとの差を縮め、直線では内から位置を上げたカネミノブと並び、先頭争いとなった[7]。やがてカネミノブを下したが、外から1番人気のハードバージが迫り、ラッキールーラに並びかけたところで決勝線を通過した[7]。直後にハードバージの伊藤雄二調教師が勝利を確信していたが、写真判定の結果、ラッキールーラのアタマ差先着が認められた[7]

尾形は、14年ぶりの東京優駿制覇であり、フレーモア(1934年)トクマサ(1936年)クリフジ(1943年)クリノハナ(1952年)ハクチカラ(1956年)ハクショウ(1961年)メイズイ(1963年)に続いて8勝目[7]。また伊藤は父伊藤正四郎がトクマサ(1936年)で制しており、親子制覇となった[7]。その後は、夏休みを東京競馬場の厩舎で過ごした[7]

秋は10月、中山競馬場のオープン競走で始動。逃げ切り勝ちし、その3日後に関西に遠征した[8]菊花賞の前哨戦とした京都新聞杯は、単枠指定制度の対象となり1番人気で出走。逃げに出たが、プレストウコウにかわされ1馬身半差の2着[8]。目標の菊花賞は追い切りの内容がよかったことも手伝って1番人気で出走した。ハイペースの2番手につけたこともあり、直線では全く伸びず15着に敗れた[8]。伊藤は「僕の騎乗ミスだったのかな[8]」と振り返る一方、尾形は「(伊藤)正徳に責任はない。結果論かもしれんが、長距離向きではなかった。2400メートルまでの馬だったんですな[8]」としている。

12月に入って、左前脚に深管骨瘤を発症[8]。長期の戦線離脱となり、福島県いわき市JRA競走馬総合研究所常盤支所にある「馬の温泉」や北海道早来町吉田牧場で快復を図った[8]

5-7歳(1978-80年)

2年間の休養を経て、1979年、6歳12月の中山競馬場で復帰したが最下位[8]。1980年、7歳でも現役を続行し、1月から5月にかけて4戦4敗。6月の札幌日経賞では、プリテイキャスト等相手に逃げ切り、32か月ぶりの勝利となった[8]。尾形は、天皇賞(秋)から有馬記念に進み、年末に引退すると宣言した[8]。しかし、その後は札幌記念9着、巴賞、函館記念では連続最下位となり、計画を前倒しして競走馬を引退した[8]11月30日に中山競馬場にて引退式が行われた[8]

引退後

引退後は日本中央競馬会が4500万円で買い上げ、日本軽種馬協会へ寄贈。1981年から胆振種馬場で種牡馬として供用された[8]。馬体重が700kgを越えて、小柄な牝馬の相手が耐えられないこともあった[9]。さらにペニスが大きく、射精に至るまでの時間が長いことから、スムーズな種付けすることができなかった[9]1986年には種付け5頭まで落ち込んだが、1987年にトチノルーラーがきさらぎ賞を制し、種付け頭数は39頭まで回復、種付け料も15万円から20万円に値上げした[9]

1990年、プレストウコウ、カツトップエースヤマノスキーとともに、所有者の好意で韓国に輸出され、ソウル郊外の韓国馬事会種馬牧場に繋養された[10]1991年5月12日に事故により死去。残した僅か4頭の産駒の中から1996年-1997年韓国最優秀内国産馬タンディチェイル(当代第一)を送り出した。

競走成績

以下の内容は、netkeiba.com[11]およびJBISサーチ[12]、『優駿』1988年2月号[13]の情報に基づく。

競走日 競馬場 競走名 距離

(馬場)

オッズ

(人気)

着順 タイム 騎手 斤量

[kg]

1着馬

(2着馬)

1976.08.15 函館 3歳新馬 芝1000m(良) 7 5 5 009.1(2人) 03着 1:01.1 0伊藤正徳 52 シロバトミラ
0000.08.29 函館 3歳新馬 芝1000m(良) 6 3 3 007.9(3人) 02着 1:00.1 0伊藤正徳 52 ユーグランド
0000.10.09 中山 3歳未勝利 芝1200m(良) 5 3 3 001.8(1人) 01着 1:11.1 0伊藤正徳 52 (スズランタロー)
0000.11.28 東京 さざんか賞 3下 芝1600m(良) 11 6 7 004.8(2人) 01着 1:38.8 0伊藤正徳 53 (テンマオー)
0000.12.19 中山 ひいらぎ賞 6下 芝1600m(良) 6 1 1 004.5(2人) 02着 1:36.8 0伊藤正徳 53 プレストウコウ
1977.01.16 東京 京成杯 ダ1600m(良) 9 8 9 013.5(5人) 02着 1:36.7 0伊藤正徳 54 ヒシスピード
0000.02.13 東京 東京4歳S 芝1800m(良) 9 2 2 006.1(3人) 04着 1:50.7 0伊藤正徳 55 ヒシスピード
0000.03.06 中山 弥生賞 芝1800m(良) 12 1 1 010.1(5人) 01着 1:49.8 0伊藤正徳 55 (カネミノブ)
0000.04.17 中山 皐月賞 芝2000m(稍) 20 2 4 010.2(4人) 02着 2:05.5 0伊藤正徳 57 ハードバージ
0000.05.08 東京 NHK杯 芝2000m(良) 17 3 6 004.2(1人) 04着 2:03.5 0伊藤正徳 56 プレストウコウ
0000.05.29 東京 東京優駿 芝2400m(良) 28 7 24 01着 2:28.7 0伊藤正徳 57 (ハードバージ)
0000.10.08 中山 4歳上オープン 芝1800m(良) 6 5 5 002.5(1人) 01着 1:49.2 0伊藤正徳 58 (シタヤロープ)
0000.10.23 京都 京都新聞杯 芝2000m(良) 13 5 7 003.6(1人) 02着 2:01.3 0伊藤正徳 57 プレストウコウ
0000.11.13 京都 菊花賞 芝3000m(良) 18 3 5 003.9(1人) 15着 3:10.4 0伊藤正徳 57 プレストウコウ
1979.12.09 中山 4歳上オープン 芝1600m(良) 7 2 2 018.3(6人) 07着 1:37.7 0古西勝廣 54 マイエルフ
1980.01.27 東京 5歳上オープン ダ1700m(良) 10 4 4 016.5(6人) 02着 1:44.4 0伊藤正徳 56 メジロマーティン
0000.02.24 中山 5歳上オープン 芝1600m(良) 14 3 4 0伊藤正徳 58 マイエルフ
0000.04.06 中山 5歳上オープン 芝1800m(良) 14 1 1 013.5(7人) 07着 1:53.4 0森安重勝 56 マイエルフ
0000.04.27 東京 京王杯スプリングH 芝1800m(良) 10 1 1 011.3(6人) 07着 1:48.7 0伊藤正徳 58 シーバードパーク
0000.05.17 東京 ニュージーランドT 芝1800m(重) 13 1 1 009.5(2人) 11着 1:52.6 0伊藤正徳 56 ニチドウアラシ
0000.06.15 札幌 札幌日経賞 ダ1800m(良) 7 1 1 005.9(3人) 01着 1:52.1 0伊藤正徳 57 (プリテイキャスト)
0000.06.29 札幌 札幌記念 ダ2000m(良) 14 2 2 005.3(2人) 09着 2:08.4 0伊藤正徳 59 マークリシルバー
0000.08.03 函館 巴賞 芝1800m(良) 9 7 7 013.5(5人) 09着 1:48.6 0伊藤正徳 57 バンブトンコート
0000.08.17 函館 函館記念 芝2000m(不) 11 2 2 012.8(5人) 11着 2:10.5 0伊藤正徳 58 サーペンプリンス

主な産駒

血統表

ラッキールーラ血統ボールドルーラー系 / Pharos 5×5, Royal Minstrel 4×5 (血統表の出典)

*ステューペンダス
Stupendous
1963 青毛
父の父
Bold Ruler
1954 鹿毛
Nasrullah Nearco
Mumtaz Begum
Miss Disco Discovery
Outdone
父の母
Magneto
1953 黒鹿毛
Ambiorix Tourbillon
Lavendula
Dynamo Menow
Bransome

トースト
1959 鹿毛
ハクリヨウ
1950 鹿毛
*プリメロ
Primero
Blandford
Athasi
第四バツカナムビユーチー *ダイオライト
バツカナムビユーチー

mmff = Polemarch

母の母
*フラワーワイン
Flower Wine
1950 鹿毛
*ヴイーノーピユロー
Vino Puro
{{{mmff}}}
Vainilla
Mimosa Royal Minstrel
Bryonia F-No.13-c


脚注

注釈

出典

  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o ラツキールーラ|JBISサーチ(JBIS-Search)”. www.jbis.or.jp. 2021年5月4日閲覧。
  2. ^ トースト|JBISサーチ(JBIS-Search)”. www.jbis.or.jp. 2021年8月30日閲覧。
  3. ^ 繁殖牝馬情報:牝系情報|トースト|JBISサーチ(JBIS-Search)”. www.jbis.or.jp. 2021年8月30日閲覧。
  4. ^ a b c d 『優駿』1988年2月号 20頁
  5. ^ a b c d e f g h i j k l 『優駿』1988年2月号 21頁
  6. ^ a b 『優駿』1988年2月号 22頁
  7. ^ a b c d e f g 『優駿』1988年2月号 23頁
  8. ^ a b c d e f g h i j k l m 『優駿』1988年2月号 24頁
  9. ^ a b c 『優駿』1988年2月号 25頁
  10. ^ 『優駿』1991年2月号 58-59頁
  11. ^ ラッキールーラの競走成績 | 競走馬データ”. netkeiba.com. 2021年8月30日閲覧。
  12. ^ 競走成績:年度別累計成績/主な成績|ラツキールーラ|JBISサーチ(JBIS-Search)”. www.jbis.or.jp. 2021年8月30日閲覧。
  13. ^ 『優駿』1988年2月号 20-25頁
  14. ^ トチノルーラー|JBISサーチ(JBIS-Search)”. www.jbis.or.jp. 2021年8月30日閲覧。
  15. ^ ダイカツジョンヌ|JBISサーチ(JBIS-Search)”. www.jbis.or.jp. 2021年8月30日閲覧。
  16. ^ ナエボルーラ|JBISサーチ(JBIS-Search)”. www.jbis.or.jp. 2021年8月30日閲覧。
  17. ^ ラッキーケイアイ|JBISサーチ(JBIS-Search)”. www.jbis.or.jp. 2021年8月30日閲覧。
  18. ^ ロングランシチー|JBISサーチ(JBIS-Search)”. www.jbis.or.jp. 2021年8月30日閲覧。

参考文献

  • 優駿』(日本中央競馬会
    • 1988年2月号
      • 横尾一彦「【サラブレッド・ヒーロー列伝 24】黒い重戦車 ラッキールーラ」
    • 1991年2月号
      • 「ラッキールーラ、カツトップエース、プレストウコウ、ヤマノスキー、韓国に渡って種牡馬に。」

外部リンク