伊藤正徳 (競馬)
伊藤正徳 | |
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基本情報 | |
国籍 | ![]() |
出身地 | 兵庫県(出生地は北海道) |
生年月日 | 1948年10月22日(69歳) |
騎手情報 | |
所属団体 | 日本中央競馬会 |
所属厩舎 | 尾形藤吉(1968 - 1975) 尾形盛次(1975 - 1982) 尾形充弘(1982 - 引退) |
初免許年 | 1968年 |
免許区分 | 平地 |
騎手引退日 | 1987年2月28日 |
重賞勝利 | 17勝 |
G1級勝利 | 2勝 |
通算勝利 | 通算2115戦282勝 |
調教師情報 | |
初免許年 | 1987年(1988年開業) |
伊藤 正徳(いとう まさのり、1948年10月22日 - )は日本中央競馬会の調教師、騎手。
1968年に騎手デビュー。1987年の引退までにラッキールーラによる東京優駿(日本ダービー)優勝、メジロティターンによる天皇賞(秋)優勝という実績を挙げた。1988年より調教師として開業。GI競走に優勝した管理馬に1999年の安田記念とマイルチャンピオンシップに優勝したエアジハードがいる。またJRA通算1447勝を挙げた騎手・後藤浩輝は門下生である。それぞれ騎手・調教師を務めた伊藤正四郎は父、伊藤雄二は義兄[1]。
経歴[編集]
1948年10月22日、北海道に生まれる[1]。当時、太平洋戦争後の混乱期であったこともあり両親は離れて暮らしており、父・正四郎は阪神競馬場で調教師として活動、母は静内町で美容室を営んでいた[1]。正徳は母元で育っていたが、小学校卒業直前に正四郎が結核に倒れ、見舞いに駆けつけた病床で正四郎から「騎手にならんか」と誘われる[1]。正四郎は間もなく死去。正徳はその遺言を容れて宝塚市に移ったのち、中学卒業後に中央競馬の騎手養成長期課程に第15期生として入所した[1]。同期には後にいずれも騎手顕彰者となる福永洋一、岡部幸雄、柴田政人らがおり、後年この15期生は「花の15期生」と称される[1]。
父の師でもあった尾形藤吉に所属し、1968年に騎手デビュー[1]。徒弟制が色濃く上下関係が厳しい時代にあって正徳は兄弟子を差し置いて多くの騎乗機会を与えられた[1]。同年秋にはフリートターフに騎乗して東京障害特別を制し、重賞初勝利を挙げる[2]。以後も毎年の重賞勝利を重ねた。10年目の1977年にはラッキールーラで日本ダービーを制覇。これは1938年にトクマサで同競走を制していた正四郎との史上2組目の親子制覇となった[3][注 1]。
1981年9月27日、師の尾形が89歳で死去。その約15分後に正徳はメジロティターンでセントライト記念を制し、尾形最後の重賞勝利を挙げた。正徳がその死を知ったのは競走後のことであった[3]。尾形厩舎は息子の盛次に引き継がれ、正徳とティターンのコンビは翌1982年に天皇賞(秋)を制覇。これは正徳、盛次、ティターンいずれもが父子制覇という珍しい記録を伴った[3]。
1987年2月19日、調教師免許試験に合格[4]。同28日の騎乗をもって騎手を引退した。最終日に1勝を加え[5]、通算2115戦282勝、うち八大競走2勝を含む重賞17勝。
管理馬房に空きがなかったことから藤吉の孫・尾形充弘の厩舎で1年を過ごし、1988年より開業[1]。1990年に管理馬ウィナーズゴールドがクイーンステークスを制し、調教師としての重賞初勝利を挙げた[6]。1995年には関東4位(全国11位)の31勝を挙げ[7]、優秀調教師賞を受賞[8]。1996年にも34勝で前年に続き関東4位(全国6位)の成績を残し[9]、同賞を2年連続で受けた。1999年春、管理馬エアジハードが安田記念を制し、調教師としてGI競走を初制覇[10]。同馬は秋にもマイルチャンピオンシップを制し、同年のJRA賞において最優秀短距離馬と最優秀父内国産馬の2部門に選出された[11]。
1992年に伊藤厩舎からデビューした後藤浩輝はデビュー3年でフリーとなり、1996年のアメリカ滞在以降に大きく飛躍し関東の有力騎手となったが、そのころより正徳の管理馬への騎乗はなくなり、何らかの確執を生じたとも噂された[12]。しかしやがて両者は再び接近、2003年には後藤が騎乗するローエングリンが2重賞を制したほか、フランスのG1競走ムーラン・ド・ロンシャン賞で2着といった成績を挙げた[12]。新人の頃から国際志向が強く、地に足のつかない後藤を正徳は幾度もたしなめていたが、その一方で後藤の英語学習の費用を負担するなど陰では応援していたのだという[12]。
以後、師弟コンビではローエングリンのほか、エアシェイディでも2009年にアメリカジョッキークラブカップを制した[13]。しかし後藤は2012年より大きな落馬事故が重なったのち、2015年2月に自殺する[14]。正徳は「俺より先に逝くのは卑怯だ、一番の親不孝だと言いたいが、それ以上に苦労していたんだと思う。(度重なる)怪我が原因とは思いたくないけど、張り詰めていたものがプツリと切れてしまったのかもしれない」などと語った[15]。4月5日には中山競馬場で後藤を送る「メモリアルセレモニー」が開かれ、挨拶に立った正徳は「弟子を取るときに『歌のうまい子しか取らない』と言っていたら、本当にうまい子が来た。うちの馬ではあまり勝っていなくて、私は口うるさいだけの師匠でした。(後藤浩輝は)私の子供。こんなにいい子はいない。記録に残る騎手はたくさんいるけど、後藤は記憶に残る騎手でした」と語った[16]。
成績[編集]
騎手成績[編集]
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主に: 出典資料の提示を伴う年度別成績 |
- 通算2115戦282勝[17]
- 重賞勝利騎乗馬(優勝競走)
- 出典:『日本調教師会50年史』資料編・重賞競走成績
- 競走名太字は八大競走。
- フリートターフ(1968年東京障害特別・秋)
- ヒガシライト(1970年日本短波賞)
- ヤシマライデン(1971年京成杯、東京4歳ステークス)
- ムツミマサル(1971年アラブ王冠・秋)
- リキショウ(1972年アラブ王冠・春)
- ハクホオショウ(1973年安田記念)
- ウエスタンダッシュ(1974年京成杯 1975年日刊スポーツ賞金杯)
- ラッキールーラ(1977年弥生賞、東京優駿)
- タケノハッピー(1980年クイーンステークス 1981年ダービー卿チャレンジトロフィー)
- メジロティターン(1981年セントライト記念 1982年日経賞、天皇賞・秋)
- ヨロズハピネス(1983年日刊スポーツ賞金杯)
調教師成績[編集]
- 年度別成績
- 中央競馬成績の出典は日本中央競馬会公式サイト調教師名鑑「伊藤正徳」より。
年 | 勝利 | 出走 | 勝率 | 重賞勝利管理馬(優勝競走[注 2]) |
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1988年 | 2勝 | 67回 | .030 | |
1989年 | 15勝 | 162回 | .093 | |
1990年 | 18勝 | 196回 | .092 | ウィナーズゴールド(クイーンステークス) |
1991年 | 16勝 | 188回 | .085 | |
1992年 | 12勝 | 183回 | .066 | |
1993年 | 16勝 | 174回 | .092 | |
1994年 | 25勝 | 195回 | .128 | ホッカイセレス(中山牝馬ステークス、府中牝馬ステークス) シルキーローザ(タマツバキ記念) |
1995年 | 31勝 | 213回[注 3] | .139 | マイネルブリッジ(NHK杯、福島記念) |
1996年 | 34勝 | 215回 | .158 | |
1997年 | 26勝[注 4] | 222回[注 5] | .117 | マイネルブリッジ(七夕賞) |
1998年 | 22勝[注 6] | 212回[注 7] | .104 | ツクバシンフォニー(エプソムカップ) エアデジャヴー(クイーンステークス) エアジハード(富士ステークス) |
1999年 | 21勝 | 202回[注 8] | .104 | エアジハード(安田記念、マイルチャンピオンシップ) |
2000年 | 22勝[注 9] | 205回[注 10] | .107 | フューチャサンデー(クイーンカップ) |
2001年 | 21勝 | 223回 | .094 | |
2002年 | 32勝 | 278回 | .112 | ヒゼンホクショー(東京オータムジャンプ) |
2003年 | 23勝[注 11] | 262回[注 12] | .088 | ローエングリン(中山記念、マイラーズカップ) |
2004年 | 20勝 | 274回[注 13] | .073 | |
2005年 | 20勝 | 214回 | .093 | ローエングリン(マイラーズカップ) |
2006年 | 24勝 | 244回[注 14] | .098 | |
2007年 | 21勝 | 203回 | .103 | ローエングリン(中山記念) ネヴァブション(日経賞) |
2008年 | 20勝 | 189回 | .106 | エアシェイディ(アメリカジョッキークラブカップ) |
2009年 | 13勝 | 156回 | .083 | ネヴァブション(アメリカジョッキークラブカップ) |
2010年 | 16勝 | 176回[注 15] | .091 | ネヴァブション(アメリカジョッキークラブカップ) |
2011年 | 9勝 | 159回 | .057 | |
2012年 | 7勝 | 186回 | .038 | |
2013年 | 8勝 | 152回 | .053 | |
2014年 | 7勝 | 152回 | .046 | |
2015年 | 5勝 | 167回 | .030 | |
2016年 | 8勝 | 235回 | .034 | |
2017年 | 4勝 | 227回 | .018 |
- 受賞歴
- 優秀調教師賞(関東)2回(1995年、1996年)
日付 | 競馬場・開催 | 競走名 | 馬名 | 頭数 | 人気 | 着順 | |
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初出走 | 1988年3月5日 | 2回東京3日8R | 4歳上400万下 | トーヨーテイオー | 14頭 | 5 | 11着 |
初勝利 | 1988年5月15日 | 1回新潟8日8R | 4歳上400万下 | エイコーフィバー | 13頭 | 11 | 1着 |
重賞初出走 | 1989年3月12日 | 2回京都6日11R | 中山記念 | アイアンシロー | 13頭 | 12 | 13着 |
重賞初勝利 | 1990年9月30日 | 4回中山8日11R | クイーンS | ウィナーズゴールド | 13頭 | 8 | 1着 |
GI初出走 | 1989年5月21日 | 3回東京2日10R | 優駿牝馬 | エバープロスパー | 24頭 | 8 | 9着 |
GI初勝利 | 1999年6月13日 | 3回東京8日11R | 安田記念 | エアジハード | 14頭 | 4 | 1着 |
厩舎所属者[編集]
歌手活動[編集]
騎手時代の1980年に歌手として『おれでよければ』(作詞、作曲・四方章人)というEPレコードを発売し、10万枚を売り上げシルバーディスクを獲得している[19]。2015年にはミルファーム代表の清水敏がこの曲から命名した「オレデヨケレバ」が管理馬となった[19]。
脚注[編集]
注釈[編集]
出典[編集]
- ^ a b c d e f g h i 木村(1997)pp.35-40
- ^ 『日本の騎手』p.294
- ^ a b c 『優駿』1987年9月号、pp.37-39
- ^ 『優駿』1987年4月号、p.158
- ^ 『優駿』1987年4月号p.106
- ^ 『優駿』1990年11月号、p.154
- ^ 『優駿』1996年2月号、p.116
- ^ 『優駿』1996年2月号、p.174
- ^ 『優駿』1997年2月号、p.116
- ^ 『優駿』1999年8月号、p.133
- ^ 『優駿』2000年2月号、p.34
- ^ a b c 『優駿』2010年8月号、pp.67-69
- ^ 『優駿』2009年3月号、p.108
- ^ “後藤浩輝騎手が自宅で死去”. netkeiba.com (2015年2月27日). 2015年2月27日時点のオリジナルよりアーカイブ。2015年6月27日閲覧。
- ^ “ファンも参加できる「後藤騎手お別れ会」実現へ”. 東京スポーツ (2015年2月27日). 2015年6月27日時点のオリジナルよりアーカイブ。2015年6月25日閲覧。
- ^ “中山競馬場で後藤騎手お別れ会…ファン2000人見守る”. 産経新聞 (2015年4月6日). 2015年6月27日時点のオリジナルよりアーカイブ。2015年6月27日閲覧。
- ^ 日本中央競馬会公式サイト調教師名鑑「伊藤正徳」(直接リンク不可)
- ^ a b 『日本調教師会50年史』p.205
- ^ a b “【東京新馬戦】オレデヨケレバ 伊藤正師のレコードと同名馬デビュー”. スポーツニッポン (2015年6月5日). 2015年6月27日時点のオリジナルよりアーカイブ。2015年6月27日閲覧。
参考文献[編集]
- 木村幸治『調教師物語』(洋泉社、1997年)ISBN 978-4896912920
- 日本調教師会50年史編纂委員会(編)『日本調教師会50年史』(日本調教師会、2002年)
- 『優駿』(日本中央競馬会)各号