桶狭間

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高根山(たかねやま)中腹より生山(はえやま)に立地する有松グリーンハイツを望む(2012年(平成24年)8月撮影位置、南東方面を望む)。桶狭間の戦いの折り、高根山では松井宗信佐々政次千秋季忠による前哨戦があったとされ[1]、生山との名は織田方の軍勢が這い登った「這山(はいやま)」に由来するともいわれる[2]
生山より桶狭間古戦場伝説地方面を望む。手前は有松武路公園、右奥手の木立は豊明市域となり、その向こうに香華山高徳院の納骨堂「瑜祇塔」が見える[3](2012年(平成24年)10月撮影位置、東方面を望む)。

桶狭間(おけはざま)は、愛知県名古屋市緑区と愛知県豊明市にまたがる地域の汎称地名・歴史的地名である。

本来的には知多半島の基部にあたる丘陵地を指し[4]、後述するように室町時代初期にその発祥をみて以来現在に至るまで、尾張国知多郡桶廻間村とその村域を明治時代以降にほぼ踏襲した行政区域を指す地名でもある。行政区域としては2013年(平成25年)現在、名古屋市緑区を構成する町のうち9つに桶狭間の名が冠されている(「名古屋市緑区桶狭間」、「名古屋市緑区桶狭間上の山」、「名古屋市緑区桶狭間北2丁目」、「名古屋市緑区桶狭間北3丁目」、「名古屋市緑区桶狭間切戸」、「名古屋市緑区桶狭間清水山」、「名古屋市緑区桶狭間神明」、「名古屋市緑区桶狭間南」、「名古屋市緑区桶狭間森前」)。

他方、1560年6月12日永禄3年5月19日)に知多郡北部から愛知郡南部にかけて展開された桶狭間の戦いの故地の名としてもよく知られている。名古屋市の桶狭間古戦場調査委員会が1966年昭和41年)にまとめた『桶狭間古戦場調査報告』で桶狭間を「漠とした広がりを持った地名語」と表現しているように[5]、その戦跡は桶廻間村の村域を大きく越えて広く残され、桶狭間の名を冠した地名・史跡・神社・公共施設・店舗・イベント、また桶狭間の戦いに由来するという同種のものが名古屋市と豊明市の両方に散見される。

目次

「桶狭間」の名称の由来[編集]

「桶狭間」の名称は、桶廻間村・大字桶狭間という村名・字名として知られるとともに、「桶狭間の戦い」の故地の地名としても知られる。桶廻間村・大字桶狭間の地名の由来にかかわる伝承は、『有松町史』や名古屋市立有松小学校の教材『有松』、名古屋市立桶狭間小学校の教材『桶狭間』などで詳しく紹介されている。 それらによると、地名の由来については諸説あって定かでないが、一説には、古くと呼ばれた場所に由来するという[6]。伝承では、南北朝時代(室町時代初期)にあたる1340年代頃、皇室の分裂に伴う政争において南朝に与し落武者となった少数の武者集団の入郷があり[6]北朝の南朝残党追討隊から逃れるために[7]林の奥深くの「洞」(窪地)に家屋を建てて隠れ住んだといわれ[6]、名古屋市緑区有松町大字桶狭間字セト山付近(現名古屋市緑区桶狭間)がその地であるという[7]

「洞」の字は、当時「クキ」と読まれていたとされる。やがて「クケ」に訛り、さらに「ホケ」に転じたという[6]。ここに谷間の地形を指す「ハサマ」と結合し「クケハサマ」・「ホケハサマ」と連称されるようになり、戦国時代の頃までには「洞迫間」・「公卿迫間」・「法華迫間」といった漢字が当てられている[6][8]。小起伏の多い桶廻間村・大字桶狭間にあって「ハサマ」と目される地形は数多く、嵐廻間(あらしばさま)、六ヶ廻間(ろくがばさま)、神明廻間(しんめいはさま)、牛毛廻間(うしけばさま)、梨木廻間(なしのきばさま)、井龍廻間(ゐりうばさま)といった古くからの地名が各所に残されている[9]。桶狭間の発祥地と考えられる字セト山は、村の中心地であった森前から見て裏手、すなわち背戸(せと)にあたることからその名が付いたとされ[10]、隠れ場所の比喩とも捉えられるような[注 1]標高40メートル台の丘陵地である[13]。この山の中腹に密かに居を構えていたとみられる落人たちの視線を想定すれば、西方にはすぐ眼下に鞍流瀬川が南進する沖積平野が南北に細長く広がり、その先に森前・神明の丘陵地がそびえることから[14]、この沖積平野付近の落ちくぼんだ様子は「ハサマ」と捉えうるものである。また、桶狭間東部にあたる東ノ池位置を中心に丸く平坦に広がった一帯を「桶」と見なす捉えかたもある[15]。しかし『有松町史』は「ハサマ」の具体的な所在地については明確にしておらず、丘陵と丘陵の間に広がる洞のような、桶のような谷底平野がその名にふさわしいと記すのみである[16]。すなわち、丘陵と谷底平野が複雑に交錯する広範囲の景観をもって「ハサマ」と名付いたと考えることが妥当のようである[4]

安土桃山時代の成立といわれる軍記物足利季世記』には尾州「ヲケハサマ」とあり[17]、桶廻間村・大字桶狭間に残る江戸時代最初期(1608年慶長13年))の検地帳控が『慶長拾三戊申十月五日尾州智多郡桶廻間村御縄打水帳』とあるのは[18]、すなわち16世紀後半頃にはすでに「ホケ」・「クケ」がさらに「オケ」に転じていたことを示すものである。漢字表記では、江戸時代になると「桶廻間」・「桶迫間」・「桶峡」といった表記が主となるが、桶廻間村・大字桶狭間に残る古文書では「桶廻間」が最も多く、数点「桶迫間」がみられ[7]尾張藩家老であった山澄英龍(やまずみひでたつ)の著書に『桶峡合戦記』があり[19]寛政年間(1789年 - 1801年)に成立した『寛政重修諸家譜』には「洞廻間」と記されたりしている[7]。これら様々に表記されてきた漢字が「桶狭間」に統一されたのは、郡区町村編制法の制定に伴う1878年(明治11年)のことである[16]

上記に示した「洞」の由来とまったく異なり、「桶がくるくる廻る間(ま、ひととき)」から桶廻間と呼ばれるようになったとする説もある。郷土史家梶野孫作によれば、その昔、南朝の落人による村の開墾が次第に軌道に乗った頃、大池位置北部の小さな土地に御鍬社(おくわしゃ)を祀って毎年の農閑期に田楽を奉納するようになり、すなわちここにまず「田楽坪」の名が生まれたとする[20]。それが後年いつのまにか桶狭間とされたのは、名古屋刈谷を結ぶ三河街道(長坂道)に沿っていたこの地がちょうど道中の中間地点でもあり、一息付けるような木陰の脇には泉がこんこんと沸いていて、水汲み用の桶が水の勢いでくるくる廻る様子をおもしろく眺めながら一服するひとときを過ごす旅人によって、そう呼ばれるようになったからだという[20]。名古屋市緑区桶狭間北3丁目(旧有松町大字桶狭間字ヒロツボ)にある「桶狭間古戦場公園」位置は、かつて神廟が祀られ田楽が奉納された小さな土地の跡地であるとされ[20]、「義元公首洗いの泉」と呼ばれる小川なども整備されているが、1986年(昭和61年)の区画整理前には「泉ボチ」と呼ばれて[2]清水が豊富にわき出る場所であったといわれる[1]。また、大池の東に位置する和光山長福寺境内にある「弁天池」と呼ばれる放生池も、桶がくるくる廻る桶廻間伝承を持つ泉のひとつである[1]

現在、「桶狭間」の一般的な読みは「おけはざま」であるが、地元では「おけばさま」と連濁および清濁交代を起こして読まれることがあり、さらに「おけば」と略することも一般的である[21][22]。これは大字桶狭間で自称されるのみならず、近隣の大字有松や豊明市栄町からも同様に呼ばれている[23][24]

行政区画としての桶狭間[編集]

大字桶狭間の位置。

定義[編集]

1889年(明治22年)4月1日市制・町村制施行時に発足した知多郡桶狭間村、ついで1892年(明治25年)9月13日に南隣の知多郡共和村と合併しその一部となった知多郡共和村大字桶狭間[25][注 2]は、共和村内で旧追分新田村(おいわけしんでんむら、現大府市)、旧伊右衛門新田村(いえもんしんでんむら、同)と接し、村外では知多郡横根村(よこねむら、現大府市)、同北崎村(きたざきむら、同)、同有松町(ありまつちょう、現名古屋市緑区)、同大高村(おおだかむら、同)、および愛知郡鳴海町(なるみちょう、同)、同豊明村(現豊明市)とそれぞれ境を接する2.4平方キロメートルの面積[30]を有し、これは1893年(明治26年)11月に有松町[注 3]と合併して知多郡有松町大字桶狭間となり[26]1964年(昭和39年)12月1日に有松町が大高町と共に名古屋市緑区に編入されたことで名古屋市緑区有松町大字桶狭間となってからも[26]、おおむね変わっていない。
ただし、1988年(昭和63年)9月25日に字武路、字ヒロツボ、字喜三田一帯で町名町界整理が行われて名古屋市緑区「桶狭間北2丁目」および「桶狭間北3丁目」が誕生したのを皮切りに[注 4][31]平成時代に入ってからは数度の町名・町界の変更が行われている。そして2009年(平成21年)と2010年(平成22年)には行政区画の大幅な整理が行われ[32][33]、大字桶狭間の大部分と多くの小字が消滅すると共に旧有松町大字有松域や旧大高町域をまたぐ形で新町名や新町域が設定されたりしている。これにより、2013年(平成25年)現在刊行されている地図などで「桶狭間」の正確な範囲を特定することが困難になっている。もとより町界・字界の軽微な変更は旧来から頻繁に実施されたと考えられるが、本稿では特記を除き1983年(昭和58年)当時の大字界の範囲内において桶狭間村・大字桶狭間の記述を行うものとし[34]、その呼称を「大字桶狭間」とする。また有松地域にも同様の範囲の定義を適用してその呼称を「大字有松」とし、大字桶狭間と大字有松町を併せた呼称を「有松町」とする。

地理[編集]

地形・地質[編集]

大字桶狭間が位置するのは知多半島の付け根付近にあたり、「猿投-知多上昇帯」と呼ばれる緩やかな丘陵地帯にある[35]。「猿投-知多上昇帯」は豊田市の猿投山付近から知多半島にかけて、第四紀(258万8,000年前から現在)以降に断層地塊運動によって隆起したといわれる比較的新しい地形である[35]。この連続した丘陵地は天白川水系の大高川、および境川水系の石ヶ瀬川が流れる谷間[注 5]を境に北を「尾張丘陵(「名古屋東部丘陵」)、南を「知多丘陵」と呼び、北部の「尾張丘陵」は河川によってさらにいくつかのブロックに分けられ、扇川以南にある尾張丘陵最南部のブロックを「有松丘陵」という[36]。名古屋市緑区南部、豊明市北西部、大府市横根町付近の丘陵がこれに属し、大字桶狭間が位置するのは「有松丘陵」が大高川・石ヶ瀬川の谷間に向かって南西へ緩やかに落ち込む付近に広がる一帯である[36]。「有松丘陵」を含めたこれらの丘陵では一般に開析が進んでおり、起伏に富んだ地形になっている[13]。大字桶狭間では北西部にある高根山(たかねやま)、同じく北東部にある生山(はえやま)が孤立丘としてその形状をある程度保ってきたほか、このふたつの山からそれぞれ南西方向に向かって、西は愛宕山・幕山・清水山・又八山・切戸山、東は武路山・セト山・阿刀山などの小丘陵が断続的に連なっており、この東西の丘陵に挟まれるように中央部では南に向かって広い谷底平野が形成されている[13]
なお、有松丘陵や扇川を挟んだ北側の鳴子丘陵を総称して鳴海丘陵といい、『張州府志』(1752年宝暦2年))は、かつて名古屋市緑区一帯に「鳴海山」と総称される28峰の連なりがあったことを示している[37]。この鳴海丘陵一帯には50メートルから80メートルほどの頂部が点在するが[注 6]、頂上の高さはかなり揃っており(定高性)、開析を受ける前の背面(各丘陵の頂部を連ねた面)はなだらかな面であったことを示している。
地質学的には、新第三紀鮮新統の温暖な時期(500万〜300万年前)に東海湖に堆積した東海層群と呼ばれる柔らかな湖成層(「矢田川累層」)を土台としている[39]。矢田川累層は下層から「水野部層」・「高針(たかばり)部層」・「猪高(いたか)部層」に分けられ[40]、大字桶狭間で見られるのはこのうち「猪高部層」で、粘土の不規則な互層であり、最南部を除いた外縁部分にて主にこの地層が見られる[13][41]。またこのうち神明廻間や森前付近の段丘には「猪高部層」の上に八事層よりも新しい堆積の褐色礫・シルト層が見られる[42][41]。これらの地層では土壌化が進んでおり、浸食もあまり見られなかったことから、古くより果樹園として利用されてきた歴史を持つ[43][44]。ただし近年では大規模な宅地開発が行われており、畑の面積は大幅に減少している。
高根山の頂上部、字幕山・字愛宕西・字牛毛廻間の一部では、標高40メートル付近に不整合面があり、それより上層は「八事層」と呼ばれる砂やシルトを挟んだ礫層となっている[13]。これは矢田川累層が東海湖の後退によって地表に露出した後に、再び湖底や川底となり堆積した層であり[41]、その時期は第四紀前期から中期頃と考えられるが、はっきりした年代は分かっていない[45]。大字桶狭間において、これらの丘陵は農地への転用が困難な、もろく崩れやすいバッドランドとして理解されており、長らく針葉樹林などに覆われていたが[13]、後年になっての開拓が進められたり、住宅地になったりしている。なお、尾張丘陵全般に見られる頂部の定高性はこの八事層に基づくものであり、八事面と呼ばれている[46]
大字桶狭間と大字有松の境界線より有松側には、わずかながら洪積台地が見られる。旧東海道沿いに広がった有松市街地の大部分を占める低位段丘がそれであり、名古屋市内の台地(熱田台地)をなす「熱田層」に比定されるもので、その形成はリス-ヴュルム間氷期(13万-7万年前)後半と目される[43]湿地のような場所に砂などの細粒物が貯まって作られたとされる引き締まった地層で[47]、地盤も良好であり、大字有松では古くから住宅地として利用されている[43]
南部から中央にかけて細長く食い込んだように広がるのは沖積平野である。鞍流瀬川とその支流である中溝川(なかみぞがわ)が丘陵部を切りながら南進し、それぞれの両岸に広く沖積層を構成している[43]水田として開発・利用されてきた部分が多く、桶狭間神明の東部、南陵、野末町付近がこれらに該当し、かつては大池から彼方にある共和駅の駅舎を望めたといわれるほど広々とした田園地帯であったという[48]。しかし1972年(昭和47年)に名古屋市営桶狭間荘(現在の桶狭間住宅)が建設されたのを皮切りに、南陵ではほとんど桶狭間住宅の敷地および大型ショッピングモール「有松ジャンボリー」の敷地に転用され、野末町も戸建住宅地として整備されており、は桶狭間神明の一部に残るのみとなっている。

ため池・河川など[編集]

大字桶狭間は開析の進行した丘陵地であるため集水面積が狭く[43]灌漑用水を得るためにため池を多く築造してきた歴史を持つ[49]1961年(昭和36年)に愛知用水が完成し、農業用としての役割を終えたため池は、防火用水の水源として利用されたり[49]、水辺公園として整備される一方で、埋め立てられて住宅地などに転用された池も少なくない。

大池
大池(おおいけ)は名古屋市緑区桶狭間(旧有松町大字桶狭間字寺前)にあるため池で、20,552平方メートル(2.06ヘクタール)の面積および41.2ヘクタールの流域面積を持つ[50]。尾張藩撰地誌である『寛文村々覚書』(寛文年間(1661年 - 1673年))にも「大池」とあるが[51]、大規模なため池は室町時代以前に造営されることがまれであることから、大池も江戸時代初期に築造されたものと考えられている[52]
地蔵池
地蔵池(じぞういけ)は、名古屋市緑区桶狭間北2丁目(旧有松町大字桶狭間字幕山)にあるため池で位置、『寛文村々覚書』に示すところの「有松道池」[51]、『天保十二年丑年五月知多郡桶廻間村圖面』に示すところの「鳴海道池」である[53]。池の北岸には地蔵堂があり、現在の地蔵池の名はこの地蔵堂に依っている。
大芝池
大芝池(おおしばいけ)は名古屋市緑区桶狭間南(旧有松町大字桶狭間字嵐廻間)にある0.5ヘクタールほどのため池である位置。『寛文村々覚書』や『天保十二年丑年五月知多郡桶廻間村圖面』では「おうし廻間池」とあり[51][53]、現在の「おおしば」は、江戸時代にこの地にあった字「おうしばさま」の古名が縮まったものといわれる[54]
西ノ池
西ノ池(にしのいけ)は名古屋市緑区有松町大字桶狭間字牛毛廻間にあるため池である位置。『天保十二年丑年五月知多郡桶廻間村圖面』(1841年天保12年)、徳川林政史研究所蔵)などには「牛毛廻間池」と記されるが[53]、明治時代に至って西ノ池と呼ばれるようになる[54]
伊勢池
伊勢池(いせいけ)は名古屋市緑区桶狭間上の山(旧有松町大字桶狭間字上ノ山)にある0.3ヘクタールほどのため池で位置、東岸は大府市との境界にほぼ沿っている。『寛文村々覚書』には「近崎道池」とあって[51]、池のすぐ東を南北に走る大府市道がかつて近崎道(ちがさきみち)であったことに由来すると考えられる[54]。また、かつて村から伊勢講参拝に出かける人々がここでを行ったことから、伊勢池と呼ばれるようになる[54]
権平谷池
権平谷池(ごんべいだにいけ)は名古屋市緑区有松町大字桶狭間字権平谷にあるため池である位置
東ノ池
東ノ池(ひがしのいけ)もしくは東池(ひがしいけ)は名古屋市緑区桶狭間(旧有松町大字桶狭間字樹木)にあるため池で、15,338平方メートル(1.53ヘクタール)の面積および16.3ヘクタールの流域面積を持つ[50]。『寛文村々覚書』には「石池」とあり[51]、東(ノ)池と呼ばれるようになったのは明治時代以降である[55]。豊明市および大府市との境界付近にあり、池の北岸ではかつて近崎道と大脇道が交わり[56]、現在では池の南岸で名古屋市道桶狭間勅使線から名四国道北崎インターチェンジへと向かう大府市道が分岐しており、交通の要所にあるのは昔も現在も変わっていない。なお、灌漑用水利としてはすでに利用されていない[50]
二ツ池
二ツ池(ふたついけ)は名古屋市緑区桶狭間神明(旧有松町大字桶狭間字神明廻間)の桶狭間公園にあるため池で位置、8,767平方メートル(0.88ヘクタール)の面積および12.2ヘクタールの流域面積を持つ[50]。『寛文村々覚書』では「森脇池」とあり[51]、『尾張徇行記』(1808年文政5年))には「神明廻間池」とあって、二ツ池と呼ばれるようになったのは明治時代以降である[57]。一方、『天保十二年丑年五月知多郡桶廻間村圖面』などでは武路付近に「二ツ池」が見られるが[53]、これは当池とはまったくの別物で、明治時代には「摺鉢池」などと呼ばれていたが、後年の区画整理の際に消滅している[52]
唐池
唐池(からいけ)は名古屋市緑区桶狭間森前(旧有松町大字桶狭間字又八山)にあるため池で位置、『天保十二年丑年五月知多郡桶廻間村圖面』に示すところの「から池」である[53]。小さく浅いため池で、晴天が続くとすぐに空になってしまうことに由来するという[58]
鞍流瀬川
鞍流瀬川(くらながせがわ)は名古屋市緑区から大府市にかけて流れる境川水系のである[59]。古くは井桁川といい[52]、『天保十二年丑年五月知多郡桶廻間村圖面』は源流が北方の二ツ池(桶狭間神明にある二ツ池とは別物)にあったことを示しているが[53]、後年の区画整理の際に大池付近まで埋め立てられている(二ツ池もこの時に埋め立てられている)[52]。現在では大池に端を発し、南西に向かって流れながら大府市域を縦断し、やがて石ヶ瀬川に合流する。「鞍」は川の両端が崖でせり上がりのような形状をしている様子、「瀬」は浅い川底であることを示しているといわれる[60]。また、桶狭間の戦いの際、血潮に染まった流れの中で誰のものとも知れない鞍が浮かんでいたことから名付けられたともいう[52]
なお、名古屋市営桶狭間住宅の西側、名古屋市道森下線に沿って南進する小川は中溝川(なかみぞがわ)と呼ばれる支川で、大字桶狭間の南端で本川と合流する[59]
愛知用水
愛知用水(あいちようすい)は、木曽川上流に端を発し、愛知県下の濃尾平野南東部・知多半島の丘陵地帯を潤す人工用水路である[61]1955年(昭和30年)から1961年(昭和36年)にかけて愛知用水公団により施工され、農業用水として利用されてきたほか、水道用水・工業用水・発電など、複数の用途も満たしている[61]。大字桶狭間における用水の幹線水路はおおむね東から西へ流れており、豊明市栄町南舘より桶狭間北2丁目地内に入り、地蔵池ではサイフォン施設によって流入・流出、そのまま大高町方面に向かう。

交通[編集]

名古屋鉄道名古屋本線有松駅(2007年(平成19年)5月)。

鉄道[編集]

大字桶狭間を通る鉄道路線は、最南部の野末町を東海道新幹線がかすめるほかは無く、鉄道駅も存在しない。ただし大字有松を併せた有松町としては、名古屋市との緊密な関係もあって大正時代より一貫して鳴海町字有松裏(現・名古屋市緑区有松)に設置された愛知電気鉄道有松裏駅(現・名鉄名古屋本線有松駅)が町の玄関口となっている[62]。同路線には1931年6月から1935年頃まで桶狭間駅が存在したが、その位置は現在の中京競馬場前駅から西に約200m地点の鳴海町地内であった[63]

そのほか、南ではJR東海道本線のうち南大高駅が最寄りではあるが、かつて有松尋常高等小学校からの修学旅行は伊勢参りで、大高駅まで徒歩で向かったという[64]

主な道路[編集]

国道1号
大字桶狭間と大字有松の複雑な境界線付近を縫うようにして東西に貫く。有松町内では、1932年(昭和7年)には東海道(現愛知県道222号緑瑞穂線)のコンクリート舗装化が実現していたが[65]、市街地のただ中を貫通しており幅員も狭く、トラックの往来などが増えたこともあり、1937年(昭和12年)頃から関係市町村との協議の上で東海道バイパスが計画され、1942年(昭和17年)から1943年(昭和18年)にかけて現在のルートとなる新国道が建造されている[66]1954年(昭和29年)には舗装が完成し、それまでの東海道が愛知県に移管されて県道緑瑞穂線となったことで、現在ではこの国道1号が名実共に地域の大動脈となり、膨大な交通量を支え続けている。
国道23号名四バイパス
大字桶狭間南部を東西に貫く。野末町に有松インターチェンジ位置がある。
国道366号
大府市境界から名四バイパス有松インターチェンジにかけてのわずかな区間である。国道であるが、名古屋市の管理道路となっている[67]
伊勢湾岸自動車道
国道23号名四バイパス上の高架にある。
愛知県道243号東海緑線
後述する旧大府県道のバイパスとして計画され、1974年(昭和49年)から1983年(昭和58年)にかけて建設された道路で、「大府新道」[68]・「刈谷新道[69]」の俗称を持つ。当初は名古屋市道名古屋刈谷線であったが[70]、現在は愛知県道に昇格している。野末町では有松インターチェンジによって名四バイパスと交差している。
名古屋市道有松橋東南第2号線
明治時代には知多郡道大府街道であり[71]、その後は愛知県に移管されて県道名古屋刈谷線とされ[68]、大字桶狭間では「大府県道」と呼ばれた道である[68]。大字桶狭間をほぼ南北に貫き、大字有松と大府市を結ぶかつては重要な幹線道路であり、大正年間には1間半(約2.7メートル)以上の道幅を持つ大字内唯一の「広い道」であった[72]。交通量の増大を受け、戦後まもなくの大改修により湾曲部を改善するなどして交通の便をはかるも、昭和30年代までは未舗装の状態が続いている[66]。1983年(昭和58年)にバイパス大府新道(現愛知県道243号東海緑線)が開通したことによって現在では幹線道としての役割は終え、むしろ県道のバイパスとして迂回路的に利用される面が強くなっている。
名古屋市道三ツ屋線・有松第157号線
国道1号の有松交番前交差点から南に折れて進む、幅員6メートル前後の狭い道路である[67]。愛知用水付近まで一本道が続く。桶狭間北西部の丘陵地帯に立ち並ぶ住宅街の生活道路の役割を果たしているほか、名古屋市立有松中学校の生徒の主な通学路でもあり、車両での通行には細心の注意が必要である。
名古屋市道森下線・平子第1号線
大池南岸の名古屋市道有松橋東南第2号線から分岐する交差点(名称は無い(位置)を起点とし、名古屋市道有松橋東南第2号線にほぼ併走していく形で南に抜けていく道路である。かつての追分新田道(おいだけしんでんみち)を踏襲した路線で、1953年(昭和28年)までに有松町によって整備されている[73]。名古屋市緑区南陵付近では中溝川に沿い、有松ジャンボリー敷地の北端にさしかかったあたりで平子第1号線に切り替わり[67]、愛知県道243号東海緑線に接続する生活道路である。
名古屋市道桶狭間勅使線
厳密には1号線から6号線まで細分化されるが、大字桶狭間のほぼ中央部付近を東西に貫く幹線道路である。かつての大高道(おおだかみち)に近い道筋をたどっており、現在でも豊明市方面との往来が激しく、交通量も非常に多い。2013年(平成25年)現在の西端は籠池の手前(位置)にあるが、将来的には国道302号に接続する計画である[74]

古くからの交通路[編集]

近世から明治時代に至るまでに桶廻間村・大字桶狭間に存在した街道には、「長坂道(ながさかみち)」、「分レ道(わかれみち)」、「近崎道」、「大高道(おおだかみち)」、「大脇道(おおわきみち)」、「追分道(おいわけみち)」、「追分新田道(おいわけしんでんみち)」、「横根道(よこねみち)」などが知られている。
近世の街道は、目的地の名を街道名に冠することが一般的であり、同じ道筋でも村や集落ごとにその名が異なっている場合が多い[75]。たとえば「長坂道」は別名「鳴海道(なるみみち)」・「有松道(ありまつみち)」とも呼ばれ、桶廻間村から見て北の有松村・鳴海村方面に向かう街道であるが、有松村から見れば南の桶廻間村に通じる道であるので、同じ道を「桶廻間村道」と呼んでいる[76]。同じように「大脇道」は東の知多郡大脇村(おおわきむら、現豊明市栄町)に向かう街道であるが、大脇村の視点からすればこれを「おけば道」と捉えるのである[24]。実質上、長坂道と追分道と横根道、そして大高道と大脇道は同一の交通路である。
このうち前者の「長坂道」は、北は相原郷付近の鎌倉街道から分岐したとみられており、鳴海村・有松村・桶廻間村・伊右衛門新田・横根村を経たところで境川・逢妻川を越えて三河国へと至るという道筋をたどっている[77]。すなわち三河国刈谷に至る近道として[78]「三州道」・「刈谷街道」・「刈谷街道」と呼ばれたこともあり[79]、江戸時代以前より存在していたと考えられる古い街道である[77]。他方、飯沼如儂の手になる『尾陽寛文記』という書物には、有松村に始まり大符村(おおぶむら、現大府市)・緒川村(おがわむら、現知多郡東浦町)・半田村(はんだむら、現半田市)など知多半島東部の海岸沿いを南下して師崎村(もろざきむら、現知多郡南知多町)に至る街道を「東浦街道」と呼ぶとあり[80][注 7]、『尾張国知多郡誌』(1893年(明治26年))では、有松村にて第一号国道より分岐して師崎村へと至る県道を師崎街道、俗称を東浦街道としている[81]
また後者の「大高道・大脇道」は、東は東阿野村(ひがしあのむら、現豊明市)付近に端を発し大脇村・桶廻間村を経て西大高村(にしおおだかむら)へと至る道筋である。これも鎌倉街道と同様に江戸時代以前から存在していた官道で、東海道の開通に伴い1601年(慶長6年)に官道を解かれている[77]
一方で桶廻間村中心の視点からすれば、かつての村の中心は「郷前」と呼ばれる集落にあり[82](後年の有松町大字桶狭間字郷前、現在の郷前交差点付近位置)、おのおのの街道はここから放射線状に延びていたと捉えることもできる。なお、同村内の同じ道筋でも時代によって名称の変転などもあり、呼び名が一定していない場合も多いが、本稿では最も一般的と思われる名称を代表的に用いて論じ、必要に応じて別称とその由来を記述している。

長坂道・追分道[編集]

長坂道(ながさかみち)は、『天保十二年丑年五月知多郡桶廻間村圖面』に示すところの名称で、丘陵上の桶廻間村から谷底の有松村に至るまで長い坂が延々と続いていたことから名付いたと考えられる[19]。「三河街道」あるいは「師崎街道」の一部をなす。2013年(平成25年)現在は消滅している有松町大字有松字長坂北、一部が残る同字長坂南などの字名、国道1号の長坂南交差点の名は、この里道に由来している。他に、『寛文村々覚書』に示すところの「有松道池[51]」から推定しうる「有松道(ありまつみち)」、『天保十二年丑年五月知多郡桶廻間村圖面』に記載のある「鳴海道池」から推定しうる「鳴海道(なるみみち)」、『天保十二年丑年五月知多郡有松村圖面』に示すところの「桶廻間村道(おけばさまむらみち)[83]」などの名が知られている。
現在の郷前交差点から北に延びる市道(名古屋市道有松橋東南第2号線)が、往時の長坂道のルートをほぼ踏襲している。セト山交差点、大池南岸のクランク、幕山交差点、地蔵池西岸などを経て、ファミリーマート武路町店付近で分レ道との分岐に至る位置。現在では分レ道側が名古屋市道有松橋東南第2号線のまま幹線道として整備され、国道1号に向かって降りていくが、長坂道はここで左に折れて名古屋市道長坂線となり[67]、高根山の南側山麓を走る細い路地となる。名古屋市道有松第157号線と交わる付近では大字桶狭間と大字有松の境界線が走り、また区画整理が進んで往時の道筋がわかりにくくなっているほかは、往時の街道と現在の市道のルートはほぼ同一である。大字有松に至ってからは三丁山の丘陵を越え、有松市街地へとほぼまっすぐ下る坂が延々と続く。なお下り坂の途中付近では、愛知県道243号東海緑線の建造の際に国道1号の南側の丘陵に切通しが設けられたことで道が一時分断されていたが、有松橋位置が架けられて再びつながっている[84]。そのすぐ先では国道1号との有松町交差点があり、かつては信号機が敷設されていたが、2013年(平成25年)現在では撤去されている。そして国道1号以北では有松市街地となり、江戸時代から明治時代にかけては東海道筋と同様に絞商工業者が軒を並べた界隈であり[85]、現在でも沿道に有松しぼり久田本店があるほか、町屋の長坂弘法堂などが残る。
なお大正年間の地形図には、長坂道は1間(約1.8メートル)から1間半(約2.7メートル)の道幅を持つ里道として記載されているが[72]、2013年(平成25年)現在でもとりわけ大字有松地内における市道の道幅は2.7メートル以内の狭隘な箇所が多く[67]、舗装がなされている以外はその様相に昔からほとんど変化が無いことが見て取れる。また有松しぼり久田本店付近の長坂道からは東へさらに細い市道(名古屋市道有松第15号線)が分岐しており、かつて絞商屋同士が商品の貸し借りのために客に分からないよう行き来したことから「絞り小径(しぼりこみち)」と呼ばれる幅員1メートルほどの裏道である[86]
有松市街地の西端近く、大雄山祇園寺の山門から東海道を挟んだ向かいに、南東方向へ分岐する小さな小道がある。これが長坂道であり、大字桶狭間から見ればこの東海道との合流点位置が長坂道の終点となる。

追分道(おいわけみち)は「三河街道」あるいは「師崎街道」の一部をなし、本項では郷前交差点より南方面へ向かう道筋について記述するものである。長坂道と同じく、現在の名古屋市道有松橋東南第2号線が往事のルートをほぼ踏襲しており、大字桶狭間南方の字井龍へと至る。国道23号のゲート下をくぐった付近位置で、そのまま南へ向かう道と南西へ向かう脇道とが分岐するが、南西方面の脇道が追分道であり、『知多郡村邑全図』が示すところの「大符道」でもある[58]。分岐せずにそのまま進む道は『知多郡村邑全図』が示すところの「横根道」で[58]、現在では分岐以降において名古屋市道桶狭間線に切り替わり、70メートルほどでまもなく大府市に至る。
なお、大府市内の追分道ないし大符道は、原(現大府市東新町5丁目付近)位置・追分(現大府市追分町)の集落を経て大浜街道(現愛知県道50号名古屋碧南線)に接続する。同じく大府市内の横根道はそのまま現在の国道366号に近いルートで南下し、横根村の中心地(現大府市横根町字中村・字前田)へと続く。知多郡誌は緒川村以北の師崎街道を俗に大浜街道というとあり[81]、他方で「三河街道」は横根村を経て三河国へ至っていたものと考えられている[77]。すなわち相原郷あるいは有松村に端を発する「三河街道」は字井龍の分岐以南においては横根道のことを指し、同様に有松村に端を発する「師崎街道」は字井龍の分岐以南においては追分道・大符道のことを指すと考えることが可能である。

分レ道[編集]

分レ道(わかれみち)は、『天保十二年丑年五月知多郡有松村圖面』に示すところの名称で[87]、『天保十二年丑年五月知多郡桶廻間村圖面』には道名が特に記載されていない。先述の「長坂道」の項で触れたように、市道(名古屋市道有松橋東南第2号線)をファミリーマート武路町店付近で左の脇道に折れずにそのまままっすぐ北に下っていく道筋が、旧分レ道にほぼ相当する。桶狭間交差点で国道1号と交差位置、そのまま有松市街地に至り、名古屋有松郵便局付近で旧東海道と合流する位置。全線を通じて現在ではほぼ直線になっているが、湾曲したかつての旧道の名残が場所によってわずかに残されている。
名古屋有松郵便局の南東にある延命地蔵堂は、かつて桶狭間交差点付近の沿道にあったのが現在地に移転されたものである[88]。また東海道との辻には「←◎→ 東海道 ☞大府行縣道」と記された道標があり、現在は有松山車会館前に移築されている[88]

桶狭間神明社境内東側の追分新田道(2009年(平成21年)4月撮影位置)。
追分新田道[編集]

追分新田道(おいわけしんでんみち)は、大池の南岸付近位置で「三河街道」あるいは「師崎街道」から分岐し、追分新田へと至る道である。追分新田は知多郡追分村の支郷として開発された村で、三ツ屋と呼ばれる集落を形成している(現大府市共栄町付近)。大字桶狭間では中溝川に沿って南進する名古屋市道森下線[67]におおむね比定されるが、国道23号と交差する付近から野末町にかけては旧来の道筋をたどることがやや困難となっている。野末町から大府市域に入ると北西に向かって緩やかなカーブとなるが、共和町6丁目と7丁目の境をなす大府市道、共和町4丁目地内を北上する愛知県道244号泉田共和線に、旧街道の道筋をたどることができる[72]。そして伊勢湾岸自動車道の名古屋南インターチェンジが愛知県道50号名古屋碧南線に接続する付近で、かつての追分新田道も大浜街道に接続している[72]

大高道・大脇道[編集]

大高道(おおだかみち)および大脇道(おおわきみち)は、『知多郡村邑全図』によるところの呼び名で、前者は郷前から西に向かい大高に至る道筋、後者は郷前から東へ向かい大脇村に至る道筋である[57]。大脇村では「大高道[89]」もしくは「おけば道[24]」という。江戸時代以前には官道として機能していた古い街道である[77]。また近世には、真言宗豊山派白泉山妙楽寺の第13代住職であった亮山によって開かれた知多四国八十八ヶ所霊場を巡る「遍路道(へんろみち)」としての役割を持つにも至り[89]、かつては1番札所である清涼山曹源寺(豊明市栄町位置)と88番札所である瑞木山円通寺(大府市共和町位置)を往来する巡礼者の姿も多く見られたという[89]

名古屋市道有松橋東南第2号線上の郷前交差点から約80メートル北に、東西に分岐する市道との辻があり位置、ここを長坂道と大高道および大脇道との交点と捉えることができる。大高道は、西に分岐する名古屋至道有松第65号線[67]を西進し、桶狭間神明社境内の南側を越えたところにある市池位置[注 8]の手前を右に折れ(ここから名古屋市道大高線になる[67])、そのまま北西に向かって桶狭間神明の住宅地を抜け、愛知県道243号東海緑線との交差点である権平谷交差点位置を経て旧大高町内の文久山へと至るルートにほぼ比定される。
文久山に至ったのち、大高道の名残とされる道は名古屋市道大高線から名古屋市道桶狭間線に切り替わる[67]。市道桶狭間線は区画整理された名古屋市緑区大根山1丁目地内、および名古屋第二環状自動車道・国道302号によっていったん寸断されるが、その以西では緑ヶ丘自動車学校敷地の北側を廻り、蝮池を左に見ながら大高緑地敷地の南側を西進し、砦前交差点から70メートルほど南で大浜街道に接続している位置

大脇道は、名古屋市道有松橋東南第2号線上の交差点から東に分岐する名古屋市道桶狭間中部第20号線、同桶狭間中部第14号線、同桶狭間中部第4号線、同有松第116号線、同大脇線がこれに相当する[67]。これらは路線名のみが断続的なもので、実際には一続きの道路であり、しかも総延長は450メートル程度である。郷前交差点から東へ延びる名古屋市道桶狭間勅使線のほぼ100メートル北を併走しており、東ノ池の北岸を回り込んだところで豊明市との市境界を越え、大脇へと至る。
なお、この先の大脇道は、栄町大根交差点位置にて豊明市道大根若王子線(名古屋市道桶狭間勅使線の東側延長上にある)と交差した後[注 9]、大原池北岸、豊明市立栄中学校敷地の南側を東進する。JAあいち尾東豊明栄支店付近で清涼山曹源寺に向かう道が右に分岐するが位置[注 10]、大高道はそのまま栄町字姥子・南姥子・下原の住宅地の狭間を縫うようにさらに東進し、境川水系皆瀬川にかかる大師橋位置を越え、旧愛知県道瀬戸・大府停車場線[注 11]との交差点[注 12]を経て南東へと進み、やがて左折、名鉄名古屋本線のガード下をくぐり、国道1号に接続する。

豊明市栄町南舘付近の古戦場道(2012年(平成24年)9月撮影位置、北東方面を望む)。
古戦場道[編集]

古戦場道は『豊明市史』による呼び名で[91]、大字桶狭間においては『天保十二年丑年五月知多郡桶廻間村圖面』に記載されている「これより落合村」への道がこれに該当し[53]、「落合道」などと呼ばれた可能性はある。地蔵池の北岸で有松道から東に分岐し位置、桶狭間北2丁目の住宅地を通って豊明市域に入り位置、豊明市内では栄町字西山・字南舘の住宅密集地の狭間を縫うようにしてくぐり抜け、やがて香華山高徳院・史跡桶狭間古戦場伝説地の脇を通って国道1号(東海道)に至る位置

近崎道[編集]
近崎道(2012年(平成24年)10月撮影位置、北北東方面を望む)。

近崎道(ちがさきみち)は、有松村から桶廻間村・北尾村(きたおむら)[注 13]を経て近崎村(ちがさきむら)[注 14]までを結んだ里道である[77]。江戸時代以前より存在していたと考えられ、桶狭間の戦いの折りには今川方・織田方が共に軍を進めた道筋としても知られている[77]。ただし、往時の里道が近代以降の幹線道のベースとなっているパターンと異なり、大字桶狭間のとりわけ東ノ池以北における近崎道は近世以降あまり重要視されなかった可能性がある。『天保十二年丑年五月知多郡桶廻間村圖面』にも『天保十二年丑年五月知多郡有松村圖面』にも道筋は見えず[注 15][53][87]、明治時代や大正時代の地形図にも里道としての記載が無い[29][72]。2013年(平成25年)現在にあっても住宅地に続く生活道路以上の役割を果たしているとは言い難いものがある。

旧東海道が整備される以前には三河街道より分岐していたと考えられているが[77]、現在では大字有松での旧東海道からその道筋をたどることができる。『天保十二年丑年五月知多郡有松村圖面』に示されるところの筋違橋(現在の松野根(まつのね)橋)は藍染川(あいぞめがわ)[注 16]にかかる東海道の橋で、有松村の東端にあって鳴海村との境界にもなっているが[93]、橋の手前で南に分岐する小道があり(名古屋市道生山線[67])、ここが近崎道の分岐点となっている位置
市道生山線は国道1号と交わった付近で名古屋市道桶狭間北部第二第34号線に切り替わるが[67]、道はそのまま生山東麓を回り込む形で大きくカーブし、豊明市との境界線に沿いながら次第に南進、大字桶狭間東部の住宅地の中へと続いていく。名古屋短期大学敷地南側付近に隣接するあたりは「釜ヶ谷」と呼ばれ、桶狭間の戦いの折りには織田方が驟雨の中で突撃の機をうかがうために身を潜めていた場所だといわれている[94]。釜ヶ谷を過ぎ、愛知用水を下にくぐってさらに南進した付近で、かつての近崎道の名残は後年の宅地造成のために途切れてしまう。和光山長福寺にある桶狭間霊園の東の小道(位置)は一部が近崎道の名残とみられるが、それも再びセト山・樹木の住宅地の中で途切れてしまう[95]。しかしさらに南方の東ノ池の西岸を南に走る名古屋市道桶狭間中部第5号線[67]は近崎道の名残とみられ、東ノ池の北端で後述する大高道と交差している。なお近崎道はさらに南下、大字桶狭間の東西の幹線道のひとつである名古屋市道桶狭間勅使線を横切り(位置)、名四国道北崎インターチェンジと交差する大府市道へと抜けてゆくのである[注 17]

なお、近崎の読みは「ちかさき」でも「ちかざき」でもなく、「ちがさき」が正式である。かつての衣が浦は近崎村の付近まで奥まっており、この付近が(ちが)の繁茂する岬であったことが、地名の由来であるという[97]。「近」の字は近世以降の当字と考えられ、『尾張国地名考』(1836年(天保7年))でも正式名は「茅之崎(ちがさき)」であるといい、「が」が濁音であり「さ」が清音であると念を押している[98]

東海道[編集]

大字桶狭間に旧東海道(現愛知県道222号緑瑞穂線)は通っていない。ただし、大字桶狭間を南北に貫く街道、すなわち「長坂道」、「分レ道」、「近崎道」の北端は、すべてが国道1号の北に併走する旧東海道にある。「長坂道」は大字有松の西端にほど近い地点に、「分レ道」は大字有松の中ほどの地点、「近崎道」は大字有松の東端にほど近い地点に、それぞれたどり着く。
名古屋鉄道名古屋本線有松駅改札口を出て正面側の出入口を降りると、踏切愛知県道237号新田名古屋線が交差する南西側に至る位置[注 18]。ここは大字有松であり、名古屋市による「有松土地区画整理事業」(1990年(平成2年)-2014年(平成26年))によって景観の変化が著しい一帯である[99]。県道新田名古屋線は緩やかな坂を上ってそのまま国道1号に長坂南交差点でつながるが、名鉄名古屋本線をまたぐ幅員20メートルの主要な幹線として交通量も多い現在の様相とは異なり、かつては天王坂と呼ばれた田面道(たもどう、ともどう、農道の意)がこの付近を南進して大字桶狭間方面へ向かっている[100]。一方、踏切から南西へ80メートルほど進むと左右に分岐する細い道があるが、これが往時は「往還」と尊称された旧東海道である。踏切を南に越えた県道新田名古屋線も実際にはこの辻が終点であり、以降長坂南交差点までは有松線第1号と呼ばれる名古屋市道[67]であって、2003年(平成15年)10月に車道部の共用が開始されるまでは存在しなかった道である[99]

地域[編集]

2013年(平成25年)現在、大字桶狭間の範囲には、以下の17の町丁と8つの字が含まれている。

町丁 (参考)大字桶狭間の新旧町丁字図
有松(ありまつ)(一部) 愛宕西(あたごにし)
Map of Okehazama.png
有松愛宕(ありまつあたご)(一部) 牛毛廻間(うしけはざま)
有松三丁山(ありまつさんちょうやま)(一部) 権平谷(ごんべいだに)
桶狭間(おけはざま) 高根(たかね)
桶狭間上の山(おけはざまうえのやま) 寺前(てらまえ)
桶狭間北二丁目(おけはざまきたにちょうめ) 生山(はえやま)
桶狭間北三丁目(おけはざまきたさんちょうめ) 巻山(まきやま)
桶狭間切戸(おけはざまきれと) 幕山(まくやま)
桶狭間清水山(おけはざましみずやま)
桶狭間神明(おけはざましんめい)
桶狭間南(おけはざまみなみ)
桶狭間森前(おけはざまもりまえ)
清水山一丁目(しみずやまいっちょうめ)(一部)
清水山二丁目(しみずやまにちょうめ)(一部)
武路町(たけじちょう)
南陵(なんりょう)
野末町(のずえちょう)

先述のように、大字桶狭間では町名・町界の変更が頻繁に行われ、大字有松・旧大高町とまたがった新町名・新町界なども設定されてきたことから、「大字桶狭間」の範囲を特定することは困難になっている。大字桶狭間の地域を記述するにあたり、ここでは1988年(昭和63年)9月25日に町名町界整理が行われる直前まで構成されていた32の字を区分の目安としている。

高根
高根(たかね)は、大字桶狭間の最北端にあたり、2009年(平成21年)11月7日の町名・町界変更により国道1号の北側が「名古屋市緑区有松」に編入されたものの[32]、2013年(平成25年)現在も存続している字である。
西の長坂道(現名古屋市道長坂線)と東の分レ道(現名古屋市道有松橋東南第2号線)に挟まれるようにして位置し、北部では国道1号が東西に貫通する。大字有松に食い込み三方を囲まれたような字域を持つ。『天保十二年丑年五月知多郡桶廻間村圖面』に示すところの「高根」付近に相当し、御林山(おはやしやま)[注 19]・定納山(じょうのうやま)[注 20]が広がっていたようである[53]。高根山頂上に有松神社が鎮座し、山麓に御嶽神社、開元寺がある。名古屋市緑区有松とまたがる形で名古屋市立有松小学校が、名古屋市緑区有松町大字有松字往還南とまたがる形で名古屋市立有松中学校が、それぞれ立地している。
生山
生山(はえやま、はいやま)は、大字桶狭間最北部にあり、2009年(平成21年)11月7日の町名・町界変更により国道1号の北側が「名古屋市緑区有松」に編入されたものの[32]、2013年(平成25年)現在も存続している字である。
北部で大字有松、東部で北崎道を挟み豊明市栄町と対峙するほか、一部旧鳴海町とも境を接している。『天保十二年丑年五月知多郡桶廻間村圖面』に示すところの「はへ山」付近に相当し[53]、その名はかつて草木の生い茂る丘陵地であったことに由来するとも[19]、桶狭間の戦いの折りに織田方の軍勢が這い登った「這山(はいやま)」に由来するともいう[2]。現在では、生山西麓に有松グリーンハイツ、東麓にはリーデンススクエアザ・シーズ、シティハイツ有松などの大型マンションが建ち並び、その他戸建住宅・ワンルームマンションなどで埋め尽くされた住宅地となっている。
愛宕西
愛宕西(あたごにし)は大字桶狭間北西部にある字である。西で旧大高町と接していたほか、かつて大字有松の字三丁山と非 常に入り組んだ境界をなしていたが、愛知県道243号を境に西側は「有松愛宕」が設定されて別の区画となり、現在は字三丁山を分断した形になっている。『天保十二年丑年五月知多郡桶廻間村圖面』に示すところの愛宕社(愛宕森)の西に該当し、かつて御林山が広がっていたようである[103]。現在では愛知県道243号と名古屋市道有松第157号線がそれぞれ南北に貫き、名古屋市立愛宕霊園、有松院、私立めぐみ保育園などが立地するほか、ほぼ全域にわたって住宅地が広がっている。
幕山
幕山(まくやま)は大字桶狭間北部にあり、一部分が1988年(昭和63年)9月25日の町名・町界変更により発足した「名古屋市緑区桶狭間北2丁目」[31]に編入されたものの、2013年(平成25年)現在も存続している字である。
長坂道(現名古屋市道有松橋東南第2号線)の西に沿って南北に長く広がるほか、長坂道の東にある地蔵池も幕山に属する。桶狭間の戦いの折りには今川方の松井宗信がこの山麓に陣を置いたといわれ、陣に張り巡らされた幕が「幕山」の由来になったという[58]。『天明元年桶廻間村絵図』によれば、この地に愛宕社を擁する愛宕山があったようである[103]。現在ではほぼ全域にわたって住宅地が広がる。
武路
武路(たけじ)は大字桶狭間北東部にあり、すでに消滅している字である。
生山南麓にあたり、現在でいう「名古屋市緑区武路町」の南半分と「名古屋市緑区桶狭間北2丁目」の北部に該当する地域である。西は長坂道・分レ道が南北に走り、字の南部では愛知用水が西進している。東部は落ち込みが深く谷間をなしているが、ここをかつては「武路廻間」といい、『蓬州旧勝録』(1779年安永8年))によれば桶狭間の戦いの折りに谷底を南北に走る近崎道を両軍が行き来したことが武路の名の始まりというが[104]、元は「竹次」という人物名に由来するともいわれる[105]。『天保十二年丑年五月知多郡桶廻間村圖面』に示すところの「武路山」および南麓の「字名武路」付近に相当し、江戸時代後期には御林山であったようである[53]。南麓に「二ツ池」が見えるが、これは明治時代以降に摺鉢池と呼ばれ、後に土地区画整理の折りに埋め立てられて消滅したため池のことである[52]。現在ではほとんどが住宅地となっており、私立ひいらぎ保育園などが立地する。
近崎道を挟んだ東側は名古屋短期大学および桜花学園大学の敷地であり、豊明市域となる。ただし武路に接する豊明市側の字も「武侍(たけじ)」といい、地名の共通性がみられる[58]
牛毛廻間
牛毛廻間(うしけはざま)は大字桶狭間北部にあり、2009年(平成21年)11月7日の町名・町界変更により一部が「名古屋市緑区桶狭間神明」に編入されたものの[32]、2013年(平成25年)現在も存続している字である。
長坂道(現名古屋市道有松橋東南第2号線)と愛知県道243号に挟まれた付近にあり、愛知用水が東西を横断するほか、西ノ池を擁する。『弘化二年六ヶ村図』に示すところの「牛毛廻間」付近に相当し[82]、『天保十二年丑年五月知多郡桶廻間村圖面』にある「牛毛廻間池」は現在の西ノ池を指す[53]。現在では畑として利用されている土地が多くあり、住宅地も点在する。
名古屋市立桶狭間小学校(2009年(平成21年)4月撮影位置)。
巻山
巻山(まきやま)は大字桶狭間中央部北寄りにあり、2009年(平成21年)11月7日の町名・町界変更により一部が「名古屋市緑区桶狭間神明」に編入されたものの[32]、2013年(平成25年)現在も存続している字である。
長坂道(現名古屋市道有松橋東南第2号線)の西に沿う。『天保十二年丑年五月知多郡桶廻間村圖面』には1832年(天保3年)に開発されたことを示す「辰新田」として「まき山」の名が見える[53]イヌマキが生える山を意味するが[106]、桶狭間の戦いの際に今川方の部将井伊直盛によってこの付近に置かれた仮陣営が織田方にとり巻かれたことから、その名が付いたともいわれる[107]太平洋戦争時には高射砲部隊の対空陣地が置かれ、第16照空中隊が駐屯している[107]。この陣地が置かれていた付近に1976年(昭和51年)4月1日、名古屋市立桶狭間小学校が開校[108]、現在では畑として利用されている土地が多くあるほか、住宅地も点在する。
ヒロツボ
ヒロツボは大字桶狭間北東部にあり、1988年(昭和63年)9月25日の町名・町界変更により発足した「名古屋市緑区桶狭間北二丁目」・「名古屋市緑区桶狭間北三丁目」[31]に分割編入されたことで、すでに消滅している字である。
長坂道(現名古屋市道有松橋東南第2号線)の東に沿ってあり、桶狭間古戦場跡として整備された桶狭間古戦場公園、ユーホーム桶狭間店などの商業施設があるほか、住宅地が全域に広がる。
『天保十二年丑年五月知多郡桶廻間村圖面』はこの付近が「廣坪田面」と呼ばれる本田(ほんでん)[注 21]であったことを示している[53]。長らく水田地帯であったが、昭和40年代後半頃から字幕山で始まった名古屋市立桶狭間小学校の建設工事を受け、山を削った土を水田に埋め立てたことで住宅地に生まれ変わっている[109]
喜三田
喜三田(きざた)は大字桶狭間北東部にあり、大部分は1988年(昭和63年)9月25日の町名・町界変更により発足した「名古屋市緑区桶狭間北二丁目」・「名古屋市緑区桶狭間北三丁目」[31]に分割編入され、残った一部分も2010年(平成22年)11月6日の町名・町界変更により「名古屋市緑区桶狭間」に編入されたことで[33]、すでに消滅している字である。
東部は豊明市栄町に接し、ほぼ全域が住宅地となっている。
『天保十二年丑年五月知多郡桶廻間村圖面』に示すところの「喜三田 本田」付近に相当する[53]。「おけはざま山」と目されている丘陵の西側斜面にあたり、郷土史家の梶野渡桶狭間古戦場保存会は、この字付近に今川義元の本陣が置かれたと主張している。
寺前
寺前(てらまえ)は大字桶狭間中央部東寄りにあり、2010年(平成22年)11月6日の町名・町界変更により大部分が「名古屋市緑区桶狭間」に編入されたものの[33]、一部において2013年(平成25年)現在も存続している字である。
文字どおり寺の前の意味で、和光山長福寺の門前を意味する。長坂道(現名古屋市道有松橋東南第2号線)の東に沿ってあり、一部豊明市栄町と境を接する。字域の大部分が大池・長福寺境内・桶狭間霊園に該当し、住宅が点在するほか、長福寺の北には針葉樹からなる雑木林、畑が広がる。この雑木林付近は、桶狭間の戦いの折りに今川方の先遣隊で瀬名氏俊らの一帯が陣を構えた場所といわれ、「瀬名陣所跡」と呼ばれる史跡となっている。
権平谷付近(2012年(平成24年)9月(撮影位置))。
権平谷
権平谷(ごんべいだに)は大字桶狭間中央部西寄りにあり、2009年(平成21年)11月7日の町名・町界変更により一部が「名古屋市緑区桶狭間神明」・「名古屋市緑区清水山一丁目」・「名古屋市緑区文久山」に分割編入されたものの[32]、2013年(平成25年)現在も存続している字である。
愛知県道243号東海緑線に沿って南北に長い字域を持ち、西部は旧大高町に接する。権平谷池を擁するほか、愛知用水が字域を横断している。県道沿いに商業施設がみられるほか、ほぼ全域に住宅地が広がる。
権平谷の名の由来について、大字桶狭間には伝承が残っている。昔々、権平という名の老人が孫娘を連れて谷川の河原まで散歩に出かけた。権平が春の陽気に誘われてついうたた寝をした隙に、オオワシが孫娘を捕まえ、谷川の向こうに飛び去ってしまっていた。以来、権平は毎日河原に出て孫娘を捜し歩いたが、あるときついに力尽き、行き倒れてしまったという[108]。地蔵池の北岸にある地蔵堂は、不憫な最期を遂げた権平と孫娘の2人を供養するために祀られたとされる[108]
神明廻間
神明廻間(しんめいはざま)は大字桶狭間中央部にあり、2009年(平成21年)11月7日の町名・町界変更により全域が「名古屋市緑区桶狭間神明」編入されたことで[32]、すでに消滅している字である。
長坂道(現名古屋市道有松橋東南第2号線)の西に沿ってあり、大高道が東西を貫く。桶狭間神明社・二ツ池を擁し、字の東部は桶狭間神明社の境内が社叢として桶狭間公園となっている。そのほかでは「桶西地区」とも呼ばれる住宅地が広がり、現在でも区画整理が進んでいる。
地名の由来は桶狭間神明社の鎮座する谷地をいい[110]、『天保十二年丑年五月知多郡桶廻間村圖面』では「神明宮」を中心に、南北の本田、神明廻間池(現二ツ池)、市右衛門池(位置)、それら後背地の御林山付近に相当する[53]
桶狭間神明社の西方にはかつてNHK名古屋中央放送局(現NHK名古屋放送局)桶狭間ラジオ放送所があり、NHKラジオ第1放送1929年(昭和4年)から、NHKラジオ第2放送を1932年(昭和7年)からそれぞれ放送開始[111]、1983年(昭和58年)に廃止される。その後も施設は残されていたが、現在では跡形も無く、宅地造成地となっている位置。放送所の敷地には4本の高い鉄塔がそびえ立ち、長らくランドマークとなっていたようである[111]
林下
林下(はやしした)は大字桶狭間中央部にあり、2009年(平成21年)11月7日の町名・町界変更により大部分が「名古屋市緑区桶狭間神明」、一部分が「名古屋市緑区南陵」に分割編入され[32]、残りも翌2010年(平成22年)11月6日の町名・町界変更で「名古屋市緑区桶狭間」に編入されたことで[33]、すでに消滅している字である。
南北に併走する鞍流瀬川・中溝川に挟まれて位置し、かつまた長坂道(現名古屋市道有松橋東南第2号線)の西に沿ってあり、追分新田道との分岐部でもある。名は桶狭間神明社の林の下を意味するという[19]。『天保十二年丑年五月知多郡桶廻間村圖面』はこの付近が「森東田面」と呼ばれる本田であったことを示しており[53]、長らく水田地帯であったが、1972年(昭和47年)に名古屋市営桶狭間荘(現在の桶狭間住宅)の建設を受けて水田が埋め立てられ、「郷前商店街」と呼ばれる商店街が形成される[109]。後に商店の多くが姿を消し、現在では名古屋桶狭間郵便局玉越桶狭間店、マンションなどが立地している。
セト山
セト山(せとやま)は大字桶狭間中央部東寄りにあり、2010年(平成22年)11月6日の町名・町界変更により全域が「名古屋市緑区桶狭間」に編入されたことで[33]、すでに消滅している字である。
長坂道(現名古屋市道有松橋東南第2号線)の東に沿ってあり、南部はかつての大脇道に接している。
『天保十二年丑年五月知多郡桶廻間村圖面』はこの付近が「セど山」と呼ばれ、1828年(文政11年)開発されたことを示す子新田の一部であったことを示しているほか、「弥市池」の所在も示している[53]。「弥市池」は『寛文村々覚書』にも記載のある古いため池であったが、早くに滅失したという[112]。南は大脇道を挟んで郷前と接し、郷前と共に桶廻間村の中心地として栄えた集落でもあることを示す「屋敷[注 22]」が多く見られる。1970年(昭和45年)頃に、大字桶狭間で最初に区画整理が始まったところで[113]、現在ではほぼ全域に住宅地が広がっている。
樹木
樹木(じゅもく)は大字桶狭間中央部東寄りにあり、2010年(平成22年)11月6日の町名・町界変更により「名古屋市緑区桶狭間」と「名古屋市緑区桶狭間上の山」に分割編入されたことで[33]、すでに消滅している字である。
東部は豊明市栄町と接し、一部で大府市北崎町とも接している。かつての大脇道が横断し、その南に東ノ池を擁するほか、西で北崎道が縦走している。『天保十二年丑年五月知多郡桶廻間村圖面』は「じもく」と呼ばれ、1828年(文政11年)開発されたことを示す子新田の一部であったことを示しているほか、定納山も存在していたようである[53]。現在ではほぼ全域に住宅地が広がる。
森前
森前(もりまえ)は大字桶狭間中央部にあり、2009年(平成21年)11月7日の町名・町界変更により北部が「名古屋市緑区桶狭間神明」、南部が「名古屋市緑区桶狭間森前」、その他一部分が「名古屋市緑区南陵」に分割編入されたことで[32]、すでに消滅している字である。
中溝川の右岸に位置する。『天保十二年丑年五月知多郡桶廻間村圖面』は、当地が「森前畑」と呼ばれる本田であったことを示している[53]。現在では、字域のほぼ中央を東西に抜ける名古屋市道桶狭間勅使線を挟み、北半分が桶狭間神明、南半分が桶狭間森前の住宅地となっている。愛知県警察緑警察署桶狭間交番などが所在する。
藪下
藪下(やぶした)は大字桶狭間中央部にあり、2009年(平成21年)11月7日の町名・町界変更によ大部分が「名古屋市緑区南陵」へ編入[32]、残りも翌2010年(平成22年)11月6日の町名・町界変更により「名古屋市緑区桶狭間」・「名古屋市緑区桶狭間上の山」に分割編入されたことで[33]、すでに消滅している字である。
南北に併走する鞍流瀬川・中溝川に挟まれて位置し、かつまた追分新田道の東に沿ってある。『天保十二年丑年五月知多郡桶廻間村圖面』は、「藪下田面」と呼ばれる本田であったことを示している[53]。現在では字域のほとんどが名古屋市営桶狭間住宅の敷地にあり、名古屋市立桶狭間幼稚園が立地している。
郷前
郷前(ごうまえ)は大字桶狭間中央部東寄りにあり、2010年(平成22年)11月6日の町名・町界変更により大部分が「名古屋市緑区桶狭間」、一部分が「名古屋市緑区桶狭間上の山」に分割編入されたことで[33]、すでに消滅している字である。
鞍流瀬川の左岸にあたり、南北に走る長坂道・追分道と東西に走る大高道・大脇道、および北崎道が交わるかつての交通の要所であり、桶廻間村の中心地として栄えた集落でもある[55]。『天保十二年丑年五月知多郡桶廻間村圖面』では「村前田面」と呼ばれる本田のほかに公共施設としての「郷倉」があったことを示している[53]。長らく水田地帯であったが、1972年(昭和47年)に名古屋市営桶狭間荘(現在の桶狭間住宅)の建設が開始されたことを受け次第に埋め立てられて住宅地への変貌を始めたほか、林下と同様に郷前でも追分道沿いに「郷前商店街」の一部が形成される[109]。現在では名古屋市道桶狭間勅使線が東西を抜けて幹線道の役割を果たし、新規商業施設が多く立ち並んでいるが、追分道沿いの郷前商店街も小規模ながら存続している。住宅地の中に郷前公園などがある。
桶狭間清水山付近(2012年(平成24年)10月撮影位置))。
清水山
清水山(しみずやま)は大字桶狭間中央部南西寄りにあり、2009年(平成21年)11月7日の町名・町界変更により南側の大部分が「名古屋市緑区桶狭間清水山」、北側が「名古屋市緑区清水山一丁目」、最北部で一部「名古屋市緑区桶狭間神明」、東側の一部で「名古屋市緑区桶狭間森前」、その他「名古屋市緑区清水山二丁目」に分割編入されたことで[32]、すでに消滅している字である。ただし、「名古屋市緑区清水山」もしくは「名古屋市緑区桶狭間清水山」としてその名が継承されている。
愛知県道243号沿いにあり、西部で旧大高町と接する。『天保十二年丑年五月知多郡桶廻間村圖面』では森前畑・あら畑の後背地にあたる御林山付近一帯を指す[53]。後年には宅地開発が進んで昭和50年代後半に「有松台団地」と呼ばれる住宅地が形成され[114]、現在では県道沿いにピアゴ清水山店、ファッションセンターしまむら桶狭間店などの商業施設が立ち並ぶほか、ほぼ全域が住宅地または宅地造成地となっている。
六ケ廻間
六ケ廻間(ろっかはざま、ろくがはざま)は大字桶狭間中央部南寄りにあり、2009年(平成21年)11月7日の町名・町界変更により大部分が「名古屋市緑区桶狭間森前」、一部が「名古屋市緑区南陵」に分割編入されたことで[32]、すでに消滅している字である。
中溝川の右岸に位置する。『天明元年桶廻間村絵図』には新たに開墾された畑を意味する「荒畑」の名が見え[82]、『天保十二年丑年五月知多郡桶廻間村圖面』にも「あら畑」とある[53]。現在では桶狭間森前住宅地の一角をなすほか、名古屋市立南陵小学校が立地している。
平坪
平坪(ひらつぼ)は大字桶狭間中央部南寄りにあり、2009年(平成21年)11月7日の町名・町界変更により大部分が「名古屋市緑区南陵」に編入され[32]、残りも翌2010年(平成22年)11月6日の町名・町界変更により「名古屋市緑区桶狭間南」に編入されたことで[33]、すでに消滅している字である。
南北に併走する鞍流瀬川・中溝川に挟まれて位置し、かつまた追分新田道の東に沿ってある。『天保十二年丑年五月知多郡桶廻間村圖面』はこの付近が「前田」と呼ばれる本田であったことを示している[53]。現在では字域のほとんどが名古屋市営桶狭間住宅の敷地にあり、名古屋市立はざま保育園も立地している。
桶狭間上の山から市営桶狭間住宅を望む(2012年(平成24年)10月撮影位置)。
上ノ山
上ノ山(うえのやま)は大字桶狭間中央部南東寄りにあり、2010年(平成22年)11月6日の町名・町界変更により大部分が「名古屋市緑区桶狭間上の山、北部で「名古屋市緑区桶狭間」、南部で「名古屋市緑区桶狭間南」に分割編入されたことで[33]、すでに消滅している字である。ただし「名古屋市緑区桶狭間上の山」としてその名は継承されている。
鞍流瀬川の左岸に位置し、かつほぼ併走する追分道(現名古屋市道有松橋東南第2号線)の東に広がっており、東部は北崎道を挟んで大府市北崎町に接する。伊勢池を擁し、慈雲寺、慈昌院、庚申堂があるほかは、ほぼ全域において住宅地が広がっている。
江戸時代初期(慶安明暦年間)頃より追分道の両沿いに人家が建ち始めた古い集落で、江戸時代末期(弘化年間(1844年 - 1847年))には桶狭間南町の一部を構成するまでに発展している[115]。『天保十二年丑年五月知多郡桶廻間村圖面』に示すところの「上之山畑新田」付近に相当するほか、山の神を祀った「山之神森」などもその一部である[53]
切戸山
切戸山(きれとやま)は大字桶狭間南西部にあり、2009年(平成21年)11月7日の町名・町界変更により北側半分が「名古屋市緑区桶狭間切戸」、南側半分が「名古屋市緑区桶狭間清水山」、西側の一部が「名古屋市緑区清水山2丁目」に分割編入されたことで[32]、すでに消滅している字である。
北西部で旧大高町と、南西部で大府市共栄町と接する。かつてサカキの自生する山であったことから「榊山」とも呼ばれ[110]、『天保十二年丑年五月知多郡桶廻間村圖面』が示すところの「又八山畑」の後背地にあたる御林山付近一帯を指す[53]。現在ではほぼ全域において住宅地が広がっている。
又八山
又八山(またはちやま)は大字桶狭間南部にあり、2009年(平成21年)11月7日の町名・町界変更により愛知県道243号の西側南部が「名古屋市緑区桶狭間切戸」、西側北部が「名古屋市緑区桶狭間清水山」、東側が「名古屋市緑区桶狭間森前」、その他一部分がそれぞれ「名古屋市緑区南陵」・「名古屋市緑区野末町」に分割編入されたことで[32]、すでに消滅している字である。
追分新田道に沿ってやや小高い丘陵をなしながら西に広がっており、唐池を擁する。『天明元年桶狭間村絵図』においては「又八山」・「南高根山」と記載のある付近を指し[106]、『天保十二年丑年五月知多郡桶廻間村圖面』ではこの付近に1832年(天保3年)に開発されたことを示す「辰新田」の記載がみられる[53]。現在では、字のほぼ中央を南から北へ愛知県道243号が貫いている。県道沿いに商業施設が建ち並ぶほか、ほぼ全域において住宅地が広がっている。
有松ジャンボリー(2012年(平成24年)10月撮影位置、東方面を望む)。
畔道
畔道(あぜみち)は大字桶狭間南部にあり、2009年(平成21年)11月7日の町名・町界変更により大部分が「名古屋市緑区南陵」、一部分が「名古屋市緑区桶狭間切戸」・「名古屋市緑区野末町」に分割編入され[32]、残りの部分も翌2010年(平成22年)11月6日に「名古屋市緑区桶狭間南」に編入されたことで[33]、すでに消滅している字である。
南北に併走する鞍流瀬川・中溝川に挟まれて位置し、追分新田道に沿って東に広がっている。:『天保十二年丑年五月知多郡桶廻間村圖面』はこの付近が「野末田面」と呼ばれ、1726年享保11年)に開発されたことを示す「午新田」の一部であったことを示している[53]。現在では旧字域の大部分が大型ショッピングモール「有松ジャンボリー」の敷地となっており(鞍流瀬川右岸にあたる)、名四国道有松インターチェンジも一部含んでいる。
平子
平子(ひらこ)は大字桶狭間南部にあり、2010年(平成22年)11月6日に北部が「名古屋市緑区桶狭間上の山」、南部が「名古屋市緑区桶狭間南」に分割編入されたことで[33]すでに消滅している字である。
西の鞍流瀬川と東の追分道(現名古屋市道有松橋東南第2号線)に挟まれるようにして位置する。江戸時代初期(慶安年間(1648年 - 1651年))頃より人家が建ち始めた古い集落で、江戸時代末期(弘化年間(1844年 - 1847年))には桶狭間南町の一部を構成するまでに発展している[115]。『天保十二年丑年五月知多郡桶廻間村圖面』には1751年寛延4年)に開発されたことを示す「未新田」とあり、その中に人家のシンボルが記載されている[53]
井龍
井龍(いりゅう)は大字桶狭間南東部にあり、2010年(平成22年)11月6日に全域が「名古屋市緑区桶狭間南」に編入されたことで[33]すでに消滅している字である。
西の鞍流瀬川と東の追分道(現名古屋市道有松橋東南第2号線)に挟まれるようにして位置する。かつては「井龍廻間」といい、『天保十二年丑年五月知多郡桶廻間村圖面』に示すところの「ひへ田[注 23]」と呼ばれる本田付近、およびその北にあって1832年(天保3年)に開発されたことを示す辰(しん、たつ)新田付近の「井龍廻間 道下」に相当する[53]。ただし同絵図には追分道を挟んだ東側(後の嵐廻間・梨ノ木廻間付近)にも「井龍廻間」という地名が見え、かつては字域が街道の東西に広がっていたようである[116]。現在では旧字域の大部分が「有松ジャンボリー」の敷地となっており(鞍流瀬川左岸にあたり、ニトリ有松店が立地する付近)、南部では伊勢湾岸自動車道、名四国道が東西に貫通している。
嵐廻間
嵐廻間(あらしはざま)は大字桶狭間南東部にあり、2010年(平成22年)11月6日に北部が「名古屋市緑区桶狭間上の山」、南部が「名古屋市緑区桶狭間南」に分割編入されたことで[33]すでに消滅している字である。
追分道(現名古屋市道有松橋東南第2号線)に沿って東に広がり、東部は大府市北崎町に接する。1878年(明治11年)以前は「おうし廻間」と呼ばれたという[117]。『慶長拾三戊申十月五日尾州智多郡桶廻間村御縄打水帳』には「おうしはさま」とあり[82]、『天保十二年丑年五月知多郡桶廻間村圖面』も「おうし廻間池」が示され[53]、これは現在の大芝池を指す。「おうし廻間」の地名は、江戸時代のある時期に大芝池が築造されるまで当地に「おうし」と呼ばれる治水施設が設けられていたことの名残と考えられている[118]。他方で「嵐廻間」の由来は、各文書に示された「おうし」の筆記が「あらし」に似ていたことによる誤読という説、地形上強風が吹き付けることが多かったという説などがある[117]。現在では字域の大部分が住宅地と農地で占められているほか、南部では伊勢湾岸自動車道、名四国道が東西に貫通している。
梨ノ木廻間
梨ノ木廻間(なしのきはざま)は大字桶狭間南東部にあり、2010年(平成22年)11月6日に全域が「名古屋市緑区桶狭間南」に編入されたことで[33]すでに消滅している字である。
追分道(現名古屋市道有松橋東南第2号線)に沿って東に広がり、南は口無大池(大府市共和町字大池下、(位置))の北岸に接する。伊勢湾岸自動車道および名四国道が東西を貫いている。
なお口無大池について、『天保十二年丑年五月知多郡桶廻間村圖面』には「伊右衛門新田雨池」とあり、桶廻間村の飛地である旨も併記されている(「桶廻間村扣地内」[53])。また名古屋市営バスのうち最南端のバス停留所でもある「有松町口無池」は梨ノ木廻間及び追分道を挟んだ井龍にあり、そこから200メートルほど南にある操車場は大府市域となっている。
山脇
山脇(やまわき)は大字桶狭間南部にあり、1989年(平成元年)10月8日に「名古屋市緑区野末町」が発足したことに伴い[31]南半分が編入、北半分も2009年(平成21年)11月7日の町名・町界変更により「名古屋市緑区野末町」と「名古屋市緑区桶狭間切戸」に分割編入されたことで[32]、すでに消滅している字である。
追分新田道に沿って西に広がり、西部で大府市共栄町と接する。『天保十二年丑年五月知多郡桶廻間村圖面』には野末田面の西方に、1832年(天保3年)に開発されたことを示す「辰新田」として「田」と「畑」が小さく示されており、現在の八兵衛池(大府市共栄町五丁目、(位置))と思われる「桶廻間 追分新田立合池[注 24]」も記載されている[53]。現在では、字域のほぼ中央を伊勢湾岸自動車道および名四国道が東西に貫いており、北半分は桶狭間切戸の住宅地の一角をなし、南半分は中小の工場が建ち並ぶ工業地となっている。
半ノ木
半ノ木(はんのき)は大字桶狭間南部にあり、1989年(平成元年)10月8日に「名古屋市緑区野末町」が発足したことに伴い[31]南半分が編入、北半分も2009年(平成21年)11月7日の町名・町界変更により「名古屋市緑区野末町」と「名古屋市緑区桶狭間切戸」に分割編入されたことで[32]、すでに消滅している字である。
鞍流瀬川の右岸に位置し、追分新田道に沿って東部に広がり、南西部で大府市梶田町と接する。名はハンノキが生えていたところを意味し[19]、『天保十二年丑年五月知多郡桶廻間村圖面』はこの付近が「野末田面」と呼ばれ、1726年(享保11年)に開発されたことを示す「午新田」の一部であったことを示している[53]。現在では旧字域の大部分が中小の工場が建ち並ぶ工業地となっているほか、北部では伊勢湾岸自動車道および名四国道が東西を貫き、名四国道有松インターチェンジも一部含んでいる。
野末
野末(のずえ)は大字桶狭間の最南端にあたり、1989年(平成元年)10月8日に「名古屋市緑区野末町」が発足したことに伴い[31]消滅した字である。「名古屋市緑区野末町」としてその名が継承されているが、現野末町は字野末、字山脇、字半ノ木を含めたやや広い面積となっている。
東の鞍流瀬川と西の中溝川に挟まれながら、大府市に食い込むような字域を持つ。『天保十二年丑年五月知多郡桶廻間村圖面』によればこの付近に本田があるほか北に「野末田面」と呼ばれ1726年(享保11年)に開発されたことを示す「午新田」が広がり、字野末を含めた広い範囲を指す地名でもあったようである[53]。現在では中小の工場が建ち並ぶ工業地となっているほか、東海道新幹線が横断している。

歴史[編集]

平安・鎌倉・室町時代[編集]

古窯[編集]

名古屋市緑区において、旧鳴海町や旧大高町では旧石器時代から平安時代にかけての遺跡が数多く知られているのに対して、大字桶狭間や大字有松ではまったくといってよいほどそれらの痕跡が見あたらない[120]。わずかに、未確認ながら石鏃が発見されたという森前遺跡[121]石刃・石鏃が出土した又八山遺跡[58]、石鏃が出土した権平谷遺跡[55]などが知られるのみである。それ以降の、古代から中世初頭までの大字桶狭間の様子を示すような史料や考古学的遺物は皆無であるとされる。

一方、大字桶狭間や大字有松でも多く知られているのは、猿投山西南麓古窯址群5世紀-13世紀)の一端をなす古窯跡である[21]。1955年(昭和30年)に初めて具体的な踏査が行われ、1957年(昭和32年)に旧有松町内の11地点13基の窯跡(桶狭間10地点12基、有松1地点1基)が報告されている[122]。日本陶磁史において、窯を使用した高火度焼成のやきものの生産は5世紀頃、朝鮮半島の技術を導入して作られた須恵器に始まる。名古屋市域では、窯を構築するための斜面が存在し、材料となる粘土・燃焼のための豊富な木材が豊富に手に入る地域、すなわち名古屋東部丘陵地帯においてその発展をみることになる[123]。名古屋市緑区内に分布する古窯跡は旧鳴海町域の北部に広がるグループと旧有松町域から旧大高町域、豊明市域に広がるグループに大別され、前者を「猿投窯鳴海地区鳴海支群」、後者を「猿投窯鳴海地区有松支群」といい[124]、鳴海支群では奈良時代の須恵器第2型式と呼ばれる窯が主体であるのに対し、有松支群における型式のほとんどは「行基焼(山茶碗)第2型式窯」と呼ばれ、土地の斜面をトンネル状に掘り抜いて燃焼室・燃成室・煙道を構築する窖窯の方式を用いており[125]、周辺から山茶碗や山皿の残片が多数出土している[122]。行基焼窯は、その製品の型式によって第1型式、第1-第2過渡期型式、第2型式、第3型式に分けられ[126]、製作年代は第1型式が12世紀半ば、第2型式は13世紀半ば、第3型式は13世紀終わり頃から14世紀前半頃という推測がなされている[127]、大字桶狭間にある古窯群は有松支群に属するとみられ、北部や南部の丘陵地の山裾に広く分布しており[128]、その詳細は以下のとおりである。

大字桶狭間の古窯跡一覧[129]
遺跡番号 名称 窯の型式 出土遺物 所在地 備考
4230 深谷池古窯跡 行基焼第1型式 山皿・山茶碗 桶狭間清水山 ため池の北東側湖畔に遺物の散布が確認されている。現在では滅失。
4237 幕山古窯跡 行基焼第2型式 山皿・山茶碗 有松町大字桶狭間字幕山 高根山の南麓にあり、窯の遺構と遺物の散布が確認されている。窯跡は市道有松橋東南線(当時の愛知県道大府街道)道路脇の崖面に窯の焚口部分が口をあけて露出しており、内部に分焔柱が残されていたという。後にコンクリートの土留めで覆われ、現在では遺構を確認することはできない。
4238 生山古窯跡 行基焼第2型式 山皿・山茶碗 有松町大字桶狭間字生山 遺物の散布が確認されているが、1941年(昭和16年)の国道1号造成の際に破壊された上で滅失。当時の工事関係者の話では、3基の窯が並んでいたという。
4239 愛宕西古窯跡 行基焼第2型式 山皿・山茶碗 有松町大字桶狭間字愛宕西 愛宕霊園を西に望む谷底(現在のめぐみ保育園の裏手付近)にて遺物の散布が確認されている。昭和20年代の開墾によって滅失し、現在は宅地になっている。
4240 愛宕東古窯跡 行基焼第2型式 山皿・山茶碗 有松町大字桶狭間字愛宕西 遺物の散布が確認されている。昭和10年代の道路工事(市道三ツ屋線)によって滅失。
4241 嵐廻間古窯跡 行基焼第2型式
×2基
山皿・山茶碗 桶狭間上の山 大芝池北岸の丘陵斜面にあり、1956年(昭和31年)の有松中学校による調査では、遺物の散布と左右に並んだ2基の窯跡の遺構が確認されている。後年の宅地造成により滅失。
4242 清水山古窯跡 行基焼第2型式
×2基
山皿・山茶碗 桶狭間切戸山 遺物の散布と2基の窯跡が確認されている。1957年(昭和32年)の有松中学校によってうち1基の発掘調査が行われ、幅2メートル×長さ6メートルの燃焼部の中に、直径35センチメートル×高さ40センチメートルの分焔柱の遺構が確認されている。
4243 上ノ山古窯跡 行基焼第2型式 山皿・山茶碗 桶狭間上の山 東ノ池南岸の丘陵斜面にて遺物の散布が確認されている。
4245 神明裏古窯跡 行基焼第2型式 山皿・山茶碗 桶狭間神明 桶狭間神明社の境内にあり、社殿西方の谷地形部分に遺物の散布が確認されている。
4255 清水谷古窯跡 行基焼第3型式 山皿・山茶碗 桶狭間神明 現在の愛知県道243号沿い付近、大高方面に面した西向斜面に遺物の散布が確認されている。

このほか、1980年(昭和55年)には、名古屋市立桶狭間小学校分校用地として造成工事が行われた字森前から字六ケ廻間にまたがる付近(現名古屋市立南陵小学校敷地)で、2,000点にも及ぶ山皿・山茶碗が出土している[130]

桶狭間の始まり[編集]
氷上姉子神社拝殿(2012年(平成24年)10月)。

平安時代中期の百科事典『和名類聚抄』(承平年間(931年 - 933年))は、尾張国8郡のひとつである愛智郡の中に「成海(なるみ[注 25])郷」の所在を示している[132]。その領域を正確に確定することは困難であるが、成海の表記が後年「鳴海」に変化し[132]、江戸時代にはその遺称を受け継ぐ大村鳴海村が成立、明治時代以降の行政町である鳴海町を経て現在では名古屋市緑区の大部分(主に名古屋鉄道名古屋本線から以東の地域)で行政区画としての鳴海町が存続しており、この鳴海村・鳴海町の範囲が少なくとも成海郷の一部に含まれていたことはほぼ明らかであるとされている[132]
ところで、『延喜式神名帳』(925年延長5年))に記載された尾張国愛知郡17座のうち、現在でも古名をとどめる成海神社位置と共に「火上姉子神社位置」も成海郷内に鎮座していたとする[132]鎌倉時代中期に成立したという『熱田太神宮縁起』に「奈留美者、是宮酢媛所居之郷名、今云成海」という記述があり、宮酢媛(みやずひめ)の居所である氷上邑(ひかみむら)すなわち後年の知多郡大高村一帯もまた、愛智郡成海郷に含まれていたことを示唆するものである[133]
12世紀頃に丹羽郡郡司良峰氏によって開発されたとされる「成海庄」[134]1357年延文2年、正平12年)に後光厳天皇綸旨を受けて醍醐寺三宝院が「御祈料所」として知行することになった「鳴海庄」[135][注 26]が、郷名を継承した以外に往年の「成海郷」とどのような関連があるかは不明であり、「成海庄」と「鳴海庄」の関連性もはっきりしていないものの[135]、これら3者の領域は少なくとも後年の鳴海村を越え、とりわけ「鳴海庄」に至っては、西は「成海郷」と同様に大高[注 27]を包括したほか、さらにその先の名和(なわ、現東海市名和町付近)[137]にも領域を広げていたとみられ、東は傍示本(ほうじもと、現愛知郡東郷町大字春木付近)[注 28]、高大根(たかおおね、現豊明市沓掛町上高根・下高根付近)[注 29]、沓懸(くつかけ、現豊明市沓掛町本郷・宿付近)[139]、大脇(現豊明市栄町付近)[注 30]に至る、おおむね天白川以東に広がる広範囲をいったものと推測されている[139]

東に大脇・沓掛、西に大高、北に鳴海という愛智郡の領域に取り囲まれた洞迫間あるいは有松の地が、近隣同様に愛智郡成海郷あるいは鳴海庄に属していたかどうかははっきりと分かっていないが[132]、南の現大府市域に属する多くの村々[注 31]と同様[141]、むしろ知多郡の「英比(あくひ)庄」・「英比郷」と何らかの関わりを持つ地であったともいわれる[16]。「英比郷」は建武年間(1334年 - 1336年)に足利尊氏が「不断大般若経䉼所」として熱田社に寄進したとする土地で[注 32]、初め南部にあった熱田社領が徐々に国衙領を浸食しながら北部に広がったとみられることから[143][144]、英比郷中心地(現知多郡阿久比町付近)に比べて開発が遅れていた最北部の洞迫間[16]15世紀以降に熱田社領に含まれたとする想定も、まったく不可能ではないかもしれない。
また、『寛文村々覚書』(寛文年間(1661年 - 1673年))には各村の概説の始めに所属の庄名が記されているが、これによれば桶廻間村は近崎村・有松村などと共に知多郡「花房庄」に属していたことが示されている[51]。『寛文村々覚書』は知多半島の中央部から付け根にかけての村々に「英比庄」・「花房庄」・「大高庄」・「荒尾庄」などを冠しているが(いずれも知多郡)、そもそもが歴史的な名残をとどめたと考えられる表記でもあり[133]、これらの庄園の範囲や実情はほとんど知られていない[145]

セト山交差点から東に登ったこの付近に落人たちが屋敷を構えたとみられる(2012年(平成24年)9月撮影位置)。

近隣もしくは当地も含めて「成海庄」が存在していた1340年代、すなわち室町時代初期に洞廻間の地にやってきた南朝の落人とされる武装集団は20人あまりで、構成は中山氏梶野氏、青山氏の諸氏であったという[7]。このうち中山氏は平安時代中期の東三条摂政藤原兼家の系譜にある中山五郎左衛門の系統と考えられ[146]、その出自は法華経寺門前町である下総中山の地にあり、家紋は三階松、兼家から数えて16代目の子孫が太平記が記すところの中山光能で、光能の5代目子孫にあたるのが戦国時代の武将中山勝時となる[7]後醍醐天皇の綸旨を受けて梶野氏らを引き連れ上京するも敗走を重ね、最後は熱田大神社宮司であった藤原氏に従い美濃尾張で北朝方に相対するも敗戦、ついに洞迫間の地に落ち延びてしまう[147]。光能と勝時の間の4代は不詳とされているが、まさにこれらの代の過ごした時期が梶野氏や青山氏と共にした洞廻間での隠遁時代に相当すると考えられる[7]。中山氏は長く落人の身の上であることを潔しとせず、緒川城城主である水野氏と気脈を通じ続け、永正年間(1504年 - 1520年)には中山氏10人ほどが岩滑(柳辺(やなべ)、現半田市)に移住し、中山勝時は岩滑城主として水野信元の配下に組み込まれることになる[7]。一説には、1554年天文23年)12月重原城が今川方に攻撃された際、洞迫間の中山重時は織田方の部将として参戦するも討死、その功によって嫡子の中山勝時が岩滑城主に取り立てられたともいう[147]

一方、梶野氏や青山氏は士分を捨てて土着する道を選び、土地を開墾し村作りを始める[148]。和光山長福寺の境内に南接するあたり位置に居を構えたといわれ、1965年(昭和40年)に区画整理が行われるまではうっそうとした林が広がり、3件の屋敷跡とふたつの井戸と推定される遺構もみられたという[7]。人々は田畑を開くにあたって山頂に山の神を祀り、そこから石を投げて落ちた山背戸に石神社(しゃぐじ(社宮司)しゃ)を祀り、さらにそこに鍬を立てて御鍬社を祀ったといい、やがて田を耕す者が田楽を奉納し始め、また天照大神を祭神とする桶狭間神明社が立てられ氏神とされるようになる[149]

なお梶野渡によれば、村人たちは落武者という出自のコンプレックスを相当長い間持ち続け、他村との交流をほとんどなさずに山奥で閉鎖的・退嬰的な生活を続けてきたといわれ[150]、長年人口移動が少なく、同族意識がきわめて強い人々であったとされる[151]。よそ者の侵入には特に神経をとがらせ、スパイと思わしき山伏を密かに殺害したなどの伝承も残っている[10]1875年(明治8年)の調査における桶廻間村の戸数は81戸であったが、そのうち梶野姓が56戸、青山姓が9戸あり、この2姓が80パーセントを占めている[151]。2013年(平成25年)現在でも、セト山を中心とした大字桶狭間・大字有松全域および豊明市栄町にかけて、梶野姓や青山姓が多くみられる。

いずれにしても、落人たちは出自や身分が明らかになるような証拠をことごとく隠滅したといい、江戸時代に至って尾張藩の支配下に入るまで村の実情を知りうる一次史料は皆無だとされる[150]。しかし、室町時代末期である桶狭間の戦いの頃には戸数20から25、人口は100人から150人を数えたといい[152]、村としての形が次第に整えられていった様子がうかがえる[16]。またこの頃、洞迫間を領していたのは岩滑に移り住んだ中山氏であったともいわれる[150]

法華寺[編集]
和光山長福寺境内にある弁天池。ここでわき出る泉は、600年前から現在に至るまで途絶えていない(2012年(平成24年)7月撮影位置)。

大字桶狭間には古い時代に、下総国日蓮宗大本山法華経寺の出自とされる日観という僧侶が現れて法華寺(ほけでら)を開創したとする伝承がある。日観は不受不施義を説くために知多方面を広く廻ったというが[153]、その時期は落人らが隠遁生活を始めた前後だといわれ、草庵も落人らの隠れ家がある森の目と鼻の先、現在の和光山長福寺付近であったという[10]。長福寺境内にある弁天池は、かつて日観の草庵と落人たちの住まいの中間にあり、双方が日常的にこの水を使っていたともいわれる[7]。16世紀始めには法華寺も無住となり、以降長らく荒廃したままとなっていたが、1538年(天文7年)[149]もしくは1569年(永禄12年)[1]、その跡地に美濃国山県郡溝口村にある慈恩寺の末寺として[154]善空南立(ぜんくうなんりゅう)開山による和光山長福寺が創建されることになる[注 33]

知多郡史』では、この日観が下総国から中山氏や梶野氏を引き連れてきたとしている[153]。また梶野渡は、落人集団の一人であった中山氏が変装した姿が日観ではなかったかという説をとっている[147]。後に岩滑城主となる中山氏はおそらくは集団の首領として他を統率する立場にあり、北朝による執拗な落人狩りのターゲットとしては重要な位置を占めていたとも推定されることから、僧侶の身なりをして目くらませをしたというわけである[150]。日観が知多半島を遊説していたという伝承は、中山氏が水野氏と渡りを付けるための情報収集や布石作りが目的であったとも受け取れる。また中山氏は代々熱心な法華経信徒といわれ[注 34]、武士の身であっても法華経僧侶に変装することに違和感や抵抗感を持つことはさのみ無かったとも想像される[150]。そして日観があるとき忽然と姿を消し、法華寺が廃寺となった時期は、中山氏が水野氏の配下に組み込まれ岩滑に移住した時期とも重なるのである[150]

戦国・安土桃山時代[編集]

桶狭間の戦い以前[編集]

愛智郡鳴海庄は、15世紀後半以降になると醍醐寺三宝院の支配が及ばなくなったようである[138]。このことに大きな影響を与えたとみられるのが応仁の乱1467年応仁元年)-1477年文明9年)である。室町時代の尾張国守護斯波氏であったが、戦後処理を始めた将軍足利義政が乱を通じて最大の政敵となっていた斯波義廉への懲罰的討伐をもくろみ守護代織田氏を巻き込んで大攻勢をしかけたことを機に[注 35][156]、徐々に没落をみるようになる。なお、尾張国のうち知多郡と海東郡1391年(明徳2年・元中8年)の時点で三河国守護であった一色詮範の支配下に置かれていたことが確認されているが[157]1440年永享12年)に一色氏から守護職を引き継いだ細川氏は支配を十分に確立できずにやがて応仁の乱を迎え、やはり勢力の縮小をみることになる[158]。守護の力がそがれたことで、国境に近い辺境地域ではとりわけ支配の空白にさらされるようになり、境川流域にあった愛知郡・知多郡・碧海郡加茂郡もまた両国で勢力を伸ばし始めた土豪の手が次第に伸びるようになってくる[159]。鳴海庄における醍醐寺三宝院の支配衰退も、応仁の乱と前後して知多郡北部・愛知郡南部に浸透を始めたとみられる緒川の水野氏[160]、そして水野氏の配下にあったという中山氏の動きとまったく無関係ともいえないであろう。三河からは、水野氏の動きに呼応するように1535年(天文4年)、その同盟関係にあった松平氏惣領松平清康が尾張への侵攻をはかっている[161]
尾張国守護斯波氏の没落は守護代であった織田氏の台頭を許すことになるのだが、その織田氏も清洲城織田大和守家)と岩倉城織田伊勢守家)に分かれて尾張国を分割支配するようになって以降徐々に力を失い、清洲三奉行の一家で分家筋であった織田弾正忠家がやがて浮上してくる[162]勝幡城城主であった織田信秀と松平清康・今川義元が明確に対峙した天文年間(1532年 - 1555年)になると、境川流域の国境付近に点在していた中小の土豪は織田氏か松平氏・今川氏のどちらかへ帰属することを余儀なくされることになる[162]

織田信秀は織田弾正忠家当主であると共に、その傑出した「器用」によって尾張国内の諸勢力(諸家中)をあまねく掌握するまでになる[163]。水野・松平氏の勢力に浸食されつつあった尾張国東部(愛知郡・春日井郡)も、松平清康の変死[注 36]により三河からの圧力が急速に弱まったことがまず幸いして那古野城の攻略に着手、今川那古野氏の旧領を奪い取る形でその支配下に置くことに成功している[164]。一方、松平清康の遺児松平広忠を清康の後継者として擁立、その後ろ盾となることで三河国への浸透をはかり始めた今川義元は、安城合戦1540年(天文9年))[165]で居城安祥城を織田信秀に奪われた松平広忠に加勢、また1549年(天文18年)には織田氏に奪われた広忠の嫡子竹千代を取り戻して自らの元に人質として置くなどし(『三河物語』(1626年寛永3年)))[166]、松平氏の従属化を進めるかたわら、三河国額田郡で勃発した小豆坂の戦い1542年(天文11年)[167]1548年(天文17年)[168])などにおいて直接織田方と交戦、織田信秀による三河国への勢力拡大を阻止すべく動いている。

『紙本著色織田信長像』(部分) 狩野元秀画、長興寺

その織田信秀が領内での内紛、美濃国の斎藤氏との対立などの問題を抱えながら次第にその力を衰えさせ、1551年(天文20年)に病没した頃には[163]、今川義元はすでに境川を越えた尾張国内まで支配領域を拡大し[注 37]、天白川越えもうかがおうとしている。織田弾正忠家の家督を継いだばかりの織田信長にとっては、清洲城にあった守護斯波義統・守護代織田信友(織田大和守家)との対立[170]、家中では同母弟織田信行との対立[171]などが当初からあり、父の死去によってその支配下にあった土豪も次々と織田弾正忠家から乖離する動きを見せ始め、今川義元の圧迫に間近にさらされていた尾張国東部では、中村城山口教継鳴海城位置山口教吉笠寺城戸部政直(新左衛門)、沓掛城近藤景春などが今川方の傘下に下って反旗を翻すなど[172]、まさに火だるま状態であったといえる。織田弾正忠家と守護・守護代との抗争は1552年(天文21年)頃から始まったが、翌1553年8月20日(天文22年7月12日[注 38]、守護と信長との内通を疑った織田信友らが斯波義統を殺害するという事件が起こり、その子斯波義銀が信長の元に遁走するに及んで旧主の復仇という大義名分を得た信長は勢いをも得[173]安食の戦い(1554年8月10日(天文23年7月12日))などを経て守護代織田大和守家を滅亡させた上、清洲城入城を果たしている[174]。尾張国東部では、山口教継が尾張国の奥深くに位置する笠寺の地にまで今川方を迎え入れたことで、今川義元による浸食がいよいよ深刻なものとなっていたが、他方で、義元によってほぼ平定された三河国の中で唯一織田弾正忠家と通じていた勢力が刈谷城の水野信元で、斎藤道三の協力も仰いだ信長はこの水野信元と連携して緒川城の近くに築かれた今川方の村木砦を猛攻の上陥落させたほか[注 39](『信長公記』(1610年(慶長15年)頃))[175]、1555年(天文24年、弘治元年)から1556年(弘治2年)にかけて頻発した三河国内の反今川蜂起への工作にもいそしんでいたものとみられる[176]。1556年5月28日(弘治2年4月20日)、信長の強力な後援者であった斎藤道三が嫡子斎藤義龍に攻められた末に敗死(長良川の戦い[177]、この義龍の支援を受けた織田信行と稲生の戦い(1556年9月27日(弘治2年8月24日))で[171]、岩倉城の織田伊勢守家当主織田信賢とは浮野の戦い1558年(永禄元年))で争うなどし[178]、共にこれらを破った信長は、尾張国内において自身に対抗しうるだけの敵性勢力をある程度掃討することに成功したといえる[178]

1554年(天文23年)7月武田信玄の仲介により今川義元の嫡子今川氏真北条氏康の娘早川殿が結婚(『勝山記』)[179]、長らく続いた今川氏と後北条氏との敵対関係がここに融解する[180]。程なく、武田氏・後北条氏・今川氏の相互不可侵を確約した甲相駿三国同盟が締結され、これによって東もしくは北からの脅威が除かれた今川義元は親征を画策することとなる[181]1557年(弘治3年)に家督を氏真に譲った義元は三河国の平定および経営に本格的に乗り出したほか、1558年(永禄元年)頃、かつて織田信秀を見限り、近隣の沓掛城や大高城を調略して尾張国東部を明け渡した中村城主山口教継・鳴海城主山口教吉親子を駿府に誘い出して誅殺する(『信長公記』)[182][注 40]という暴挙に及ぶが、これは信長が策略として流した不穏の噂を義元が真に受けたともいわれる一方、義元が旧織田方の勢力を意図的に排除したものとも考えられ、空席となった鳴海城の主として家臣の岡部元信を当て実際に直接支配下に置いたことで、尾張国侵攻へのひとつの布石とも捉えられるのである[184]。そして翌1559年(永禄2年)になると、駿河国遠江国・三河国の宿駅に物資輸送のための伝馬供出の命[注 41]、七ケ条の軍法[注 42]などを発布、朝比奈輝勝を城代として大高城に置き[注 43]奥平定勝菅沼久助に大高城への兵糧入れを命じるなどして[188]、遠征のための周到な準備を着々と進めている。かたや信長も、鳴海城の周辺に善照寺砦位置丹下砦位置中島砦位置、大高城東辺に丸根砦位置鷲津砦位置を築くなどして義元の動きに対応している[185]。そして翌1560年6月1日(永禄3年5月8日)に三河守に補任された義元[注 44]は、それからまもなくの6月5日(旧暦5月12日[190]、1万あまり(『足利季世記』)[17]とも4万5,000(『信長公記』)[191]とも伝えられる大軍を率いて駿府城を発つことになる。

桶狭間の戦い[編集]

1560年6月12日(永禄3年5月19日)に勃発した桶狭間の戦いは、伝承に従えば洞迫間村の開墾から200年ほど時を経た時の出来事と見なされる[192]
駿府を発った今川義元の本隊は、藤枝・懸河(掛川)・引間(ひくま、浜松)・吉田(豊橋)・岡崎・地鯉鮒(ちりふ、知立)を経て(『三河物語』)[193]、合戦の2日前にあたる6月10日(旧暦5月17日)に近藤景春の居城であった沓掛城位置に入城する[194]。なお、この同じ日に今川方の先手侍大将であった瀬名氏俊の一隊が村に陣取り、後日到着する義元のための本陣造営に村人をかり出している[192]
義元が構想していた作戦は、織田信長が築いた善照寺・丹下・中島・丸根・鷲津の各砦を攻撃し、それらの砦に圧迫されていた鳴海・大高の2城を救援(後詰)し解放したのち、熱田へ進軍、その先の清洲城を落城させるという主旨であったものと考えられる[195]。このとき、鳴海城には岡部元信が、大高城位置には鵜殿長照が、それぞれ織田方に備えて布陣を敷いている[193]。一方の信長は、この2城を略取し今川の勢力を尾張から一掃することに主眼があったとみられる。

沓掛城に到着し、城中備蓄の兵糧の欠乏を訴える鵜殿長照からの知らせを受け取った義元は、評定において松平元康(後の徳川家康)に大高城への兵糧入れを命じている[196]。大高城へ兵糧入れを行うには丸根砦・鷲津砦が立地する「棒山」の山間を通過する必要があることから挟撃される可能性も大きく、斥候を放ってその様子を偵察させたところ、敵の間近にあって押し通すことは困難であるという報告のほかに、敵は我々の軍旗を見ても山から下りてこないどころか山頂に向かって退く始末なので通過は容易であるという報告を受けた元康は、速やかに行動すべきことを判断、翌6月11日(旧暦5月18日)の夜までにそれを成功させている(『三河物語』)[197]
他方、丸根砦の佐久間盛重、鷲津砦の織田秀敏は清洲城にあった織田信長に宛てて、翌12日(旧暦19日)の早朝は満潮の見込みのために清洲からの救援が間に合わず、大高城から両砦に対して攻撃が始まる見込みだとする急報を走らせている。信長はその報告を表にはいっさい出さず、晩の評定では登城した部将らの前での雑談に興じるのみであったという(『信長公記』)[194]
翌6月12日(旧暦5月19日)の夜明けになり、丸根・鷲津の両砦がいよいよ取り囲まれているとの急報を手にした信長は、幸若舞敦盛の一節を詠じながら舞い、従者5騎のみを連れて清洲城を出立する。辰の刻(午前7時〜8時頃)に熱田の源太夫殿宮(現上知我麻神社(かみちかまじんじゃ)、熱田神宮摂社)の付近までたどり着いた時に[注 45]、はるかに二筋の煙が立ち上っているのが見え、信長は丸根・鷲津の両砦が陥落した様子であることを知る。このまま海岸に出て進めば近くはあったが満潮にかかっていたこともあり断念、「かみ道」[注 46]を駆って丹下砦、ついで佐久間信盛の居陣である善照寺砦まで進み、ここで兵を参集してそれを巡閲している(『信長公記』)[191]
沓掛城を出立した義元の軍勢は、午の刻(正午頃)、「おけはざま山」に着陣して休息を得ている。ここで丸根・鷲津両砦の陥落の報告を受けた義元は謡に興じるなどし、前日来より兵糧入れや砦攻略に手を砕いた松平元康は鵜殿長照に代わって大高城に入り、休息を兼ねながら守備に入っている。信長が善照寺砦に入ったことを受けた佐々政次・千秋季忠の2部将は、高根山に布陣していたとされる今川方の松井宗信を300人ほどで急襲するものの、2将を含む50騎ほどが討死する。この様子を目にした今川義元は、自らの向かう先には天魔鬼神も近づけまいと心地よくなり、悠々と謡を続けている(『信長公記』)[198]
なお、当の洞迫間村では、今川義元の到着に合わせて村人たちは酒や肴の準備に朝から大わらわとなり、午前11時頃には村長(むらおさ)や有力者たちが羽織袴姿で今川義元の本陣に向かっている[192]。この間、村の年寄り、女性、子供たちは北尾村に退避させており、義元や従者たちに贈り物をして本陣を後にした有力者たちもそのまま村長の家に集まり、部隊が早急に大高へ立ち去ってくれることをひたすら祈っていたという[192]

高根山山頂からの眺望(2012年(平成24年)10月撮影位置、北西方面を望む)。この方角に善照寺砦・丹下砦・中島砦があり、織田信長が進攻したとされるコースの大部分が視界に収まる。

他方、信長はさらに先の中島砦まで進もうとする。中島へは周辺に深田が広がる中に馬一騎が通れるほどの狭い道がつながっているだけであり、移動の様子は敵方にも筒抜けになるとの懸念から周辺が押しとどめようとするも、信長はそれを振り切って進み、中島砦に入城している。この時の兵数は2,000人にも満ちていない。そしてさらに先に進もうとするのを今度は押しとどめられたが、ここで信長は全軍に対して触れを発している。この時、抜け駆けをした前田利家ら10人前後が銘々に敵兵の首を持ち帰ってきたのを見て、信長はさらに兵を進め、義元が布陣していた「おけはざま山」の際までたどり着く(『信長公記』)[199]
このとき突然、天地を揺るがすような驟雨となり、これが止んだ頃合いに、織田方の急襲が始まる。今川方は一挙に崩れ、うち捨てられた義元の輿を見た信長が「旗本は是なり、是へ懸れ」と命を下し、東に向かって襲いかかったのは未の刻(午後2時頃)のことであったという。初めは300騎ばかりいた旗本も次第に無人数になり、やがて服部小平太が義元に肉薄してかかり合うものの膝の関節を切られて負傷、ついで毛利良勝が襲いかかり、義元は切り伏せられ、ついにその首を討ち取られてしまったという(『信長公記』)[200]

戦いに決着が着いたのは夕刻とみられ、信長もその日のうちに清洲へと帰参している。戦いが意外な結果をみ、事態の異変に際して同日中から各方面であわただしい動きが始まっており、信長の迅速な帰還も不測の事態に備えてのものであったと考えられる[201]。今川義元に与し、大高城下の黒末川[注 47]河口付近に武者船1,000艘を集結させていた海西郡鯏浦(うぐいうら)[注 48]服部左京助率いる服部水軍は、同日中に退散、この帰路にあって熱田湊を襲撃したものの、町人に撃退されている(『信長公記』)[202]。大高城、鳴海城、沓掛城、重原城知立城位置にそれぞれあった今川方の部将も、義元の敗死を知って退却を始める[203]。大高城にあった松平元康は、その日の夕刻に事態を把握したといわれ、伯父の水野信元からも翌日には織田方の追撃が行われるであろうから早急に退去するよう使者が遣わされるなどしており、元康は斥候を出して桶狭間における今川方の敗戦を確認した後、その夜半に大高城を脱出している(『三河物語』)[204]。鳴海城の岡部元信は立てこもりを続けたが、信長の猛攻にさらされ、義元の首級の返還を条件に開城し駿河に帰参(『三河物語』)[205]、沓掛城の近藤景春もまた籠城し奮戦したが、織田方に攻められ続け、戦いの2日後の14日(旧暦21日)に討死したといわれる(『尾張志』(1843年(天保14年)))[206]。こうして織田信長は、今川氏による東方からの圧迫より解放され、同氏に長年浸食され続けた尾張国東部を回復することになる[201]

ちなみに、洞迫間を領していたともいう中山勝時は、桶狭間の戦いでは主君の水野信元を通じて織田方に与していたとみられ、寄親・寄子の制に従って洞迫間村からも数人の人夫が中山陣営にかり出されていたと考えられる[150]。中山勝時は一方で、大高城への兵糧搬入のために尾張国に侵入した松平元康に対して火縄銃100丁を献上している[150]

桶狭間の戦い以後[編集]

1575年12月30日天正3年11月28日)、尾張国および美濃国は、織田信長より正式に家督を譲られた嫡男織田信忠に扼されることになる[207]。なお、それからまもなくの1576年1月27日(天正3年12月27日)、知多郡を支配下に置き、織田信長・松平元康の間を取り持って清洲同盟を成立させた立役者でもあった水野信元が讒言を受け、織田信長の命により松平元康に誅殺されるという不可解な事件が起きている[注 49][209]。やがて1582年6月21日(天正10年6月2日)に起きた本能寺の変により、信忠は二条城において奮戦するも最後に自刃して果て[210]、水野氏を離れ織田信忠の家臣となっていた中山勝時も、このとき信忠に殉じている[146]明智光秀の反乱を短期間に抑えた羽柴秀吉7月16日(旧暦6月27日)に柴田勝家丹羽長秀池田恒興と共に清洲会議を催し、この席で信長の次男織田信雄の尾張国相続が決定される(美濃国は信長の三男織田信孝が相続)[211]。織田信雄は初め秀吉に与し、柴田勝家に呼応した異母弟の信孝を討つなどして領国を広げたが(尾張国・伊勢国伊賀国[212]、次第に秀吉と対立、小牧・長久手の戦い1584年(天正12年))の結果としてこれに服属するも、小田原征伐1590年(天正18年))の論功行賞でなされた国替えの命令を拒否したことにより改易され[213]、ここに織田信雄の尾張国支配も終止符が打たれることになる[214]

信雄追放によって新たに尾張国に封ぜられたのは、秀吉の甥にあたる豊臣秀次である。ただし秀次は1592年2月11日(天正19年12月28日)に秀吉から関白職を譲り受けて常に在京することになり[215]、尾張国の実質的な支配は秀次の父である三好吉房があたっていたとされる[216]豊臣秀頼の誕生を機に秀次との関係に微妙な緊張が走り出した1593年文禄2年)頃から、秀吉は鷹狩りを名目として尾張国の監察に赴いたり、奉行を派遣して実地調査を行わせるようになるが。その目的は秀次の失政を追及することにあり、後の秀次事件1595年(文禄4年))が引き起こされるための布石のひとつともなっている[217]。この秀次事件によって豊臣秀次は自刃、三好吉房も流罪となり、尾張国はいったん秀吉が掌握した後、清洲城を与えられた福島正則の支配下に入ることになる[218]。この福島正則執政期の尾張国は、旧秀次領を没収して引き継いだ秀吉直轄領(豊臣氏蔵入地)、福島正則領、黒田城一柳直盛領・犬山城石川光吉領などが入り組んでおり、洞迫間村一帯を含む知多郡・愛知郡南部は福島正則預かりの秀吉直轄領であったとみられる[219]。秀吉の死後勃発した関ヶ原の戦いはさらに諸大名の変動を引き起こし、東軍に与した福島正則は安芸広島49万8,000石の領主に栄転、一柳直盛も伊勢神戸城主として加増転封(3万5,000石→5万石)、西軍に与した石川光吉はその領地を没収されるなどした結果[220]、福島正則が去った清洲城には徳川家康の四男であった松平忠吉が入城、忠吉の家老であった冨永忠兼小笠原吉次がそれぞれ黒田城主と犬山城主に封じられている[220]。ただしかつての秀吉直轄領であった知多郡などでは、土着の水野氏や千賀氏に対して徳川家康から領地を分与されていることから、松平忠吉の支配に属さず徳川家康直轄地(徳川氏蔵入地)であったとみられる[220]

江戸時代[編集]

1603年(慶長8年)、江戸幕府が開府される。1606年(慶長11年)に知多郡10万石が加増された清洲藩主松平忠吉であったが[221]、翌1607年(慶長12年)に品川で客死、継嗣を持たず改易され、まもなく徳川家康の九男で異母弟であった徳川義直が清洲城主となる[222]清洲越しを敢行して政府機能を清洲から名古屋へ移転すると共に、尾張一円領国化も着々と進めた尾張徳川家の支配体制が盤石になるにつれ、桶廻間村もまた鳴海宿にあった尾張藩代官所(鳴海陣屋)の支配下に落ち着くことになる[223][注 50]。江戸時代の村々は庄屋組頭百姓代らの地方三役によって自治運営され[注 51]、上納する年貢や諸役も村ごとに請負う体がとられるようになり、こうした幕藩による間接支配体制(幕藩体制)が徐々に固まっていく。長らく身分を隠し続け、文書のたぐいを残さず何ごとも口頭で済ます習わしを持っていたという桶廻間村においても、と村との間で交わされる各種書状・検地帳・名寄帳・免状などの文書を作成および保管する義務を負うようになり、ここに桶廻間村の実情が書面の上で初めて明らかになってくる[227]。2013年(平成25年)現在知られている限りでは1608年(慶長13年)の史料が最も古いとみられ、この年の2月18日(1608年4月3日)付の達し状[228]、および10月5日(1608年11月12日)付の『慶長拾三戊申十月五日尾州智多郡桶廻間村御縄打水帳』[18]がそれである。前者は有松支郷設立に関する文書であり、後者は「備前検」と呼ばれた伊奈忠次による検地の際の台帳を指す。
1608年(慶長13年)の達し状は、桶廻間村新町においては諸役を免除するから移住を勧める、という主旨である[229]。徳川義直が入封したばかりの尾張藩は諸改革に取り組み、藩内を通過する東海道の改修や宿場の整備にも努めていたが、池鯉鮒宿鳴海宿との間は松林が生い茂る丘陵地で人家も田畑も無く、盗賊のたぐいも出没するような物騒な土地柄であったことから[228]、旅行者の安全・便宜をはかるために間の宿としての小集落(新町、あらまち)の開発を計画し、知多郡内に広く移住者を募ったようである[22]
この呼びかけに対し、1608年(慶長13年)中に阿久比庄から8名、1613年(慶長18年)までに7名、1625年(寛永2年)までに14名の移住者が確認されている。初めは桶廻間村の支郷として有松村新田と呼ばれていたが[229]、尾張藩は1625年(寛永2年)に「町屋敷永代御国検除」よってさらに税制の優遇を行い、有松村に町場として自立をはからせようとしている[229]。有松村が桶廻間村から独立した時期は定かでは無いが、この1625年(寛永2年)が一応の目安だと考えられている[230][注 52]

こののち有松村では絞産業が興されて「有松絞」の発祥をみ、商工の村として発展していく一方で、桶廻間村は江戸時代を通じて農業を基礎として緩やかに発展してゆくことになる。その閉鎖性ゆえか人の流出入も少なく、江戸時代中頃に人口315人・戸数67戸であったのに対し(『尾張徇行記』[232])、1875年(明治8年)の調査では人口382人・戸数82戸とあり[233]、人口の増加も総じて緩慢である。『尾張徇行記』(1808年(文政5年))によれば、桶廻間村に住まう人々はみな農民であり、商いに携わる者はおらず、石高からみても戸数が多く農業人口が過剰の傾向にあったらしく、男性は他村に土木作業を手伝いに行く者があったり、女性は農作業の合間に有松絞の絞りくくりを内職として、生計の足しとしていたようである[232]。1608年(慶長13年)の検知帳控と1875年(明治8年)の戸籍帳は共に少数の富農による土地所有の集中を示しており、そのほかはほとんどの村民が零細な小自作農小作農であったとみられる[234][151]。『尾張徇行記』に記された村民の暮らしぶりはこの大多数の村民のそれであると考えられ、しかも江戸時代を通じてその様相にほぼ変化が無かったことがうかがわれる。
他方で、この時代に耕地の開拓は徐々に進み、慶長年間(1596年 - 1615年)と明治時代初期を比べると、耕作地において田は2.1倍、畑は6.7倍の増加をみ、石高も約1.5倍に伸びている。慶長の頃にはまだ、耕作しやすいところに水田を設けることで精一杯であったが[注 53]。平坦地の少ない桶廻間村にあって丘陵地を有効活用すべく開拓が続けられた結果、とりわけ畑の著しい増加につながったのである[233]。作物は大麦小麦のほか、綿たばこ大豆なども栽培していたようである[232]

石高と耕作地の推移
年代 石高 出典
1608年(慶長13年) 213石9斗7升5合[233]
(約32,096.3kg)
22町9反9畝25歩[233]
(約22.81ha)
3町7反21歩[233]
(約3.68ha)
『尾州智多郡桶廻間村御縄打水帳』
年代不詳 259石7斗1升3合[235]
(約38,957.0kg)
『尾州領郷帳』
『尾張国地方覚書』
年代不詳 258石4斗7升5合[235]
(約38,771.3kg)
『郷帳所見高』
1869年(明治2年) 318石8斗[235]
(約47,820.0kg)
- - 『旧高旧領取調帳』[236]
1876年(明治9年) - 49町1反6畝27歩[233]
(約48.76ha)
24町9反5畝9歩[233]
(約24.75ha)
新田開発
新田名 年代 石高
寛文新田 1666年(寛文6年) 52石8斗5升6合[227]
(約7,928.4kg)
4町3反5畝11歩[227]
(約4.32ha)
5町8畝5歩[227]
(約5.04ha)
午新田 1726年(享保11年) 45石7斗3升8合[235]
(約6,860.7kg)
5町5反5畝9歩[227]
(約5.51ha)
-
未新田 1751年(寛延4年) 17石5斗8升1合[235]
(約2,637.2kg)
5反24歩[227]
(約0.50ha)
3町2反8畝23歩[227]
(約3.26ha)
亥新田 1755年(宝暦5年) 9斗5升5合[235]
(約143.3kg)
- 2反5畝1歩[227]
(約0.25ha)
子新田 1828年(文政11年) 10石2升3合[227]
(約1,503.5kg)
2反2畝[227]
(約0.22ha)
1町6反5歩[227]
(約1.59ha)
辰新田 1832年(天保3年) 26石6斗3升6合[227]
(約3,993.2kg)
6反9畝1歩[227]
(約0.68ha)
5町3反4畝20歩[227]
(約5.30ha)
酉新田 1837年(天保8年) 3石8斗9升2合[227]
(約583.8kg)
- 1町5反5畝20歩[227]
(約1.54ha)

(注:両表共に石高の質量は4斗(=1俵)を60キログラムとして換算している。)

明治維新以降[編集]

有松町との合併以前[編集]

1868年(明治元年)8月、尾張藩は行政組織を改編し、南方・東方・北方の三総管所を設置する[237]。このうち知多郡横須賀村に設置されたものを南方総管所とし、桶廻間村も有松村と共にその管轄下に置かれることになる[237]。総管所は行政軍事に関して広範囲な権限を有していたが、各村の自治にまでは手を付けていない[237]。桶廻間村では庄屋らの支配的地位は旧来のままで、有松村では絞取締会所による村政の運営がそのまま続いている[237]

しかし、1871年8月29日(明治4年7月14日)に廃藩置県が行われ、ここに名古屋藩[注 54]が消滅すると同時に名古屋県が誕生する[239]。続いて同年12月26日(旧暦11月15日)には三河国の諸県・諸地域[注 55]、および尾張国知多郡が統合して額田県が成立、知多郡であった桶廻間村は有松村と共に額田県に移管されることになる。
廃藩置県以前の1871年5月22日(明治4年4月4日)に制定された戸籍法は編成単位として「区」を置くことを規定しており[注 56]、これが後に大区小区制として結実していくことになるが、大区小区制は国による体系的な法令に基づいた制度ではなく、その具体的な内容も各府県の事情によって異なる様相を見せている[242]。額田県では、翌1872年(明治5年)2月の戸籍法施行時と同時期の『戸長并副戸長規則』においてすでに大小区を設定していることが理解できる[243][注 57][注 58]。桶廻間村は有松村と共に、額田県下では第1大区[245]1小区[26]に区画されている。
1872年5月15日(明治5年4月9日)、明治政府は旧来各村の支配層であった庄屋・名主年寄を廃止し、戸長・副戸長・用掛組長などを設置するよう布告を出している[注 59][247]。これを受けて額田県は、同様の通達を5月25日(旧暦4月19日)に出している[248]
名古屋県は1872年5月8日(明治5年4月2日)に「愛知県」に改称した後[注 60]の同年9月、『愛知県区画章程』において、それまでの区を小区とし、新たに6の大区を設け、正副区戸長の配置と職務を規定する[250]。そして同年12月27日(旧暦11月27日)に額田県が愛知県に編入され[239]、翌年の1873年1月に知多郡を第7大区に指定、これにより桶廻間村は有松村と共に愛知県第7大区[245]1小区[26]に属することになる[251]。 廃藩置県に始まる一連の行政改革は、幕藩体制の地域支配制度から中央集権的な地方制度への大きな転換であり、地域社会の実態を根本的に変革させることになる[252]。とりわけ大区小区制は、村方三役や自発的組織によって長年培われた村の旧慣や自立性を無視した中央の強権的な改革として見られることが多い。事実、上からの押しつけに対する群村からの反発やサボタージュは頻繁に起こり、府県は大区小区制の趣旨を貫徹させるためにさまざまな調整策を講じながらも人民のコントロールに苦慮することになる[253]。愛知県では、1876年(明治9年)頃に至ると、県令安場保和の強力なリーダーシップの元で、1873年(明治6年)以来混迷をきわめ遅々として進まなかった地租改正事業が本格的に軌道に乗り始める[254]。地押丈量(土地の検査と測量)の円滑な進捗を目的とした飛地の解消、町村界の確定、村落の合併・分郷が数多く行われ[255]、また同様の目的から同年8月21日にはこれまでの大区小区制が廃止されて新たに18の区が設けられたが[注 61]、このとき、木之山村(このやまむら、現大府市)・伊右衛門新田村・又右衛門新田村(またえもんしんでんむら、同)・八ツ屋新田村(やつやしんでんむら、同)・追分新田村・追分村(おいわけむら、同)・長草村(ながくさむら、同)、桶廻間村の8村が合併して共和村が成立、桶廻間村は共和村の一部になる[26]。この共和村への合併に際して、桶廻間村は強力な反対を示したものの愛知県に押し切られてしまったといわれる[27]。反対の理由としては他の旧7村からは遠隔地で交通の便が悪いから、そしてかねてより人情の折り合いが悪かったからとされ、合併後には果たしてその懸念どおりになり、5年後の1881年(明治14年)に共和村から離脱、単独の桶狭間村として再び存続することになる[27][注 62]

知多郡所属当時の大字桶狭間。左は共和村の大字、右は有松町の大字。

1878年(明治11年)7月22日、地方三新法のひとつである郡区町村編制法が施行され、それまでの区制が撤廃され、・町・村が法令上の行政単位として認められることになる[258][注 63]。1888年(明治21年)4月25日に市制および町村制が公布されたことを受け(翌1889年(明治22年)4月1日施行)、桶狭間村も法人格を持つ行政村にいったんは移行する。しかし、この法律の適用を受ける実力の無い町村は整理されることになり、桶狭間村も財政規模の小ささから単独で立村が困難であると判断した愛知県の介入を受け、再び共和村との合併問題が浮上して大いに「紛糾」する[27]。桶狭間村は今回もやはり共和村との合併に反対の意向を再三示しており、「歴史的に名を知られる本村が一大字に転落するのは忍びがたいこと」、「地価33,180円余り・公民権者60名余りを有する本村は単独で存続するに差し支えないこと」、「先の合併では多数選出された共和村議員が数にものをいわせて横暴となり、自村に利益誘導をはかるばかりで距離が遠く交通が不便な本村を顧みなかったという現実があり、一度破綻した間柄であることから再び合併しても将来的に融和は望めないこと」などを理由として、愛知県庁には初め共和村との合併反対・単独立村を請願する[27]。しか容易に許可が下りる気配も無く、次善の策として北接する有松村との連合組合を画策するようになり、1889年(明治22年)10月には有松村と共同で町村制116条に基づく「連合組合設定[注 64]」を出願する[260]
桶廻間村が農業を中心とする山村であったのに対して、有松村は旧東海道沿いにあって絞業で発展した街村であったが[261]、出自を同じくし、かつては両村で氏神を共有し、慶事弔祭などの社交上のつきあいを非常に密接になし、有松村の絞業には多くの桶廻間村民が下請けとして従事し、耕地の少なかった有松村は桶廻間村の農作物に多くを依存していたという間柄でもある[262]。連合組合設定の理由として両者は、こうした歴史上・民俗上・経済上の結びつきを示したほかに、交通の便が良いこと、ただし合併にまで至って共に大字に転落することは忍びがたいことであるからそれぞれ村として独立しながら緩やかに連合するのが望ましいこと、などとしている[28]。しかし共和村に押し切られる形で1892年(明治25年)9月13日に桶狭間村は共和村と合併、共和村大字桶狭間としてなる[25]。桶狭間村はあくまで単独での立村を望んでいたが、愛知県が懸念したごとく財政が極度に逼迫するようになり、民間から公債寄付や無尽講による融通を受けたり、他村から借り入れるなどして、何とかやり繰りするありさまであったという[28]。この頃有松村は1891年(明治24年)に開いた臨時村会で桶狭間村との合併が有益であることに満場一致で賛成するなど、しきりにラブコールを送るようになっており[28]、名を捨てて実をとることを迫られた桶狭間村も単独立村を断念し、有松村との合併を模索するようになり、やがて共和村も分村に賛成、1893年(明治26年)5月には有松町・共和村・大字桶狭間の三者連名で町村組替願書を愛知県庁に提出、愛知県の同意にこぎ着け、11月に知多郡長より合併許可の通達を受ける[28]。ここに有松と桶狭間の合併がかない、以降70年以上にわたり二人三脚で寄り添うようになるのである。

農村としての桶廻間村では、江戸時代にその性格が顕著になっていたように、耕地の面積に比して農家が多い状況が明治時代に入ってからも続いている[263]1884年(明治17年)度の資料では民有地のうち69パーセントが田畑となっており、残った原野も地味の悪い山林などであったりしたことから、新たな農地の開墾はすでに行き詰まっていたという[264]。他方で、1873年(明治6年)7月28日には地租改正法および地租改正条例が制定(地租改正)、地券の発行に際して桶廻間村では全地積の40パーセント以上が官有地とされ、そのうち山林部分は禁裏御料が80パーセント以上を占めるようになる[265]。江戸時代には定納山として村の共有地であった山林で、純農村であった桶廻間村の村民にとってはここでの山稼ぎも生計を構成する重要な一要素であったが、禁裏御料に編入されてからは立ち入りも禁止され、生計の一部が奪われると共に、禁裏御料の存在が耕地拡大を阻害する主要因ともなっていたことで、村民の生活への打撃はより深刻なものになってゆく[265]
その後1921年(大正10年)に払い下げが実現する[266]までの半世紀間、禁裏御料の開放は桶狭間村・大字桶狭間住民の悲願であり続けている。まず1886年(明治19年)に部分林が設立されるなどの取り組みが行われたが[注 65]、あくまで農地の開墾を望んでいた住民の間では山田豊次郎らの熱心な運動が続き[267]、やがて借用と開墾が認められたを受け、1897年(明治30年)1月からは官民有地の併せて120町(約119ヘクタール)余の開墾がスタートする[266]。部分林設定の期限が切れた1900年(明治33年)には禁裏御料拝借権の入札が行われて多くの農民が土地を手にし、開墾のペースに拍車がかかった結果、明治時代末頃までにはほぼ完成の域に達する[266]。そしてその10年後に払い下げが実現したことで、桶狭間の土地が名実共に桶狭間住民のものとなるのである。

なお、最初に共和村と合併していた頃、セト山には共和村長草小学校分教場ができている位置[268]。1886年(明治19年)4月小学校令が公布され、かつまた独立村になろうとする機運が渦巻いていた当時にあって、村独自の小学校を設立したいという要望も強く、1892年(明治25年)2月には知多郡長宛てに私立小学校設立願が提出されている。そして「私立桶狭間小学校」が、修業年限4年の尋常小学校として設立される[268]教科は「修身」・「読書」・「作文」・「書写」・「算術」・「体操」の6つを数え、教員数は1名、児童数は50名、校舎は分教場を借りたものを利用することになる。翌1893年(明治26年)、共和村大字桶狭間は有松町と合併して有松町大字桶狭間となり、私立桶狭間小学校も「有松町立有松尋常小学校桶狭間分校」に衣替している[注 66][268]

有松町との合併以降[編集]

施設[編集]

公共施設[編集]

教育施設[編集]

  • 名古屋市立はざま保育園位置
  • 社会福祉法人相和福祉会めぐみ保育園位置
  • 社会福祉法人英沁会ひいらぎ保育園位置
  • 名古屋市立桶狭間幼稚園位置
  • 名古屋市立有松小学校位置
  • 名古屋市立桶狭間小学校位置
  • 名古屋市立南陵小学校位置
  • 名古屋市立有松中学校位置

郵便・金融機関[編集]

その他[編集]

名古屋市立愛宕霊園(なごやしりつあたごれいえん)は、名古屋市緑区有松愛宕(旧有松町大字桶狭間字愛宕西)にある墓地である。当地にはかつて馬の死骸の焼却処理を行う施設があり、1951年(昭和26年)に大字有松にあった共同墓地をこの跡地へ移し、「愛宕西墓地」として運営が始められている[270]

社寺・祠堂[編集]

桶狭間神明社[編集]

有松神社[編集]

有松神社(ありまつじんじゃ)は、名古屋市緑区有松町大字桶狭間字高根にある神社である位置。高根山の山頂にあり、1955年(昭和30年)5月に創立される[271]。当地には1891年(明治24年)桶狭間分校に建てられ1910年(明治43年)に移された征清献捷碑、同じく1910年(明治43年)に日清日露両戦争で戦死した有松町内の10名を記念した建立された忠魂碑があったが、これに太平洋戦争での有松町内の戦死者74名を加え、慰霊のための社殿が建立されたものである[271][112]。なお、戦前にはこの地に数多くの記念碑があったために高根山を「記念碑山」と呼ぶことがあったという[112]

長福寺[編集]

慈雲寺[編集]

慈雲寺(じうんじ)は、名古屋市緑区桶狭間上の山にある浄土宗西山派の尼寺である位置[272]山号を相羽山と称する。近隣に在住する相羽家の菩提寺で、開山の慈空潜龍、俗名相羽弌郎(あいば いちろう、1818年6月13日(文政元年5月10日)-1889年(明治22年)12月1日)は江戸時代後半から明治時代にかけて桶狭間に在住した医師である[272]性病の名医として知られたほか、漢学者・教育者として弘化年間(1844年 - 1847年)には「学半館」と呼ばれる私塾を設け[54]、政治家としては桶廻間村の戸長を勤めるなどしながら、生涯のうちで巨万の富を築いたという。相羽が祖先の霊を祀るために1882年(明治15年)に設けた清心庵が、1890年(明治23年)に慈雲寺を称するようになる[273]。現在の本堂は1892年(明治25年)に建立されたものである[274]

開元寺[編集]

開元寺(かいげんじ)は、名古屋市緑区有松町大字桶狭間字高根にある天台寺門宗の寺院である位置。山号を報恩山と称する。古くからの灯籠や百度石が残るほか、比較的新しいものと思われる本堂、石像などがある[112]

慈昌院[編集]

慈昌院(じしょういん)は、名古屋市緑区桶狭間上の山にある真言宗醍醐派の寺院である位置。山号を阿刀山、寺号を大遍照寺と称し、本尊として不動明王を祀る。

庚申堂[編集]

庚申堂(こうしんどう)は、名古屋市緑区桶狭間上の山にある小堂である位置
当地にはかつて、村に伝染病がはやるとその退散を願って青面金剛を供養したとする庚申塚があったという[272]。堂が建立されたのは江戸時代中期頃とみられ、本尊の青面金剛像は化政時代1804年-1829年)のものと推定されている[275]幕末から明治時代前半にかけては、庚申堂のすぐ西隣の医師相羽弌郎のもとを訪れた患者の平癒祈願が多くみられ、平癒の礼として数多くの絵馬も奉納されたという[272]。堂の南隣にある小さな空き地では、春の初庚申日には餅まき芝居が行われたほか[271]、秋の庚申祭には碧海郡西境村(現刈谷市西境町付近)の獅子芝居の奉納が恒例となっていたようである[275]。なお、堂は大正時代に絵馬と共に全焼し[276]1981年(昭和56年)にも子供の火遊びによって半焼するという憂き目にあっている[277]

地蔵堂[編集]

名古屋市緑区桶狭間北2丁目にある小さな地蔵堂をいう位置。本来の本尊は失われているようで、正面(南側)より見て左側(西側)の地蔵堂には3基の石塔が収められており、左から白龍大明王、地蔵池主大神、白天竜王の刻銘を持つ。右側(東側)の小堂には大日如来石像および地蔵石塔道標が収められているほか、小堂の右手に建つ十一面観音石像、石をくりぬいた一対の灯明塔、塔婆板などがある[278]。大字桶狭間に残る民話「ごんべい谷」に登場する権平と孫娘の2人を供養するために建立されたいわれ、毎年春の彼岸入りには餅を供えて供養が行われる[108]

御嶽神社[編集]

御嶽神社(おんたけじんじゃ)は、名古屋市緑区有松町大字桶狭間字高根にある御嶽教教会である位置。桶廻間村では文久年間(1861年 - 1863年)に御嶽講が発足し、以後梶野覚清らを先達とする御嶽山登山が盛んに行われるようになる[271]。現在では宗教法人御嶽神社有松日の出教会として説教所および石鳥居を持つほか、隣接して秋葉神社が祀られている[112]

出雲大社愛知日の出教会[編集]

出雲大社愛知日の出教会(いずもおおやしろあいちひのできょうかい)は、名古屋市緑区有松町大字桶狭間字巻山にある出雲大社教の教会である位置。祭神として大国主(おおくにぬし)を祀る。1909年(明治42年)に先述の梶野覚清が出雲大社教管長千家尊愛の教えを受けて同教に入信、当教会を設立する[271]

史跡など[編集]

桶狭間古戦場跡[編集]

桶狭間古戦場公園(2012年(平成24年)10月)。2つの案内板の間に立つ小さな標石が鞍流瀬川より引き揚げられた「桶狭間古戦場の碑」、案内板の向かって左に立つのが「桶狭間古戦場田楽坪の碑」。

桶狭間古戦場跡(おけはざまこせんじょうあと)は、名古屋市緑区桶狭間北3丁目(旧有松町大字桶狭間字ヒロツボ)にある史跡である。現在は「桶狭間古戦場公園」として整備されている。
1608年(慶長13年)の『尾州智多郡桶廻間村御縄打水帳』は、この付近を「いけうら田面」と呼び[注 67]、1町1反2畝9歩(約1.11ヘクタール)の深田が存在していたことを示している[279]。そして「いけうら田面」の脇に台地があり、古くから田楽が奉納されてきたこの地は「田楽坪」と呼ばれたという[280]。「いけうら田面」一帯の深田は洞迫間で最も初期に開墾されたものと判明していることから、1608年(慶長13年)から48年前の桶狭間の戦いの折りにも存在していたと考えられ[281]、今川義元や残党が深田に足をとられて討ち取られたのはこれらの深田であったというのが、大字桶狭間側の古くからの主張である。
『尾張徇行記』(1808年(文政5年))などによれば、「いけうら」はそのまま田面の字として残り[78]、ヒロツボ、牛毛廻間、幕山あたりの広い範囲をいったようである[82]。享保年間(1716年 - 1735年)に尾張藩の開田奨励策によって、「田楽坪」と呼ばれた台地を含めた広範囲が開墾され、この頃に「いけうら」の字名も「ひろつぼ」に変わっているが、「田楽坪」の台地にあった「ねず塚」と呼ばれる10坪程度のは、そこに立つネズに触れると熱病にかかると恐れられたことからそのまま深田の中に残されている[280]。昭和時代初期に「桶狭間古戦場」と記された標石(「文化13年(1816年)建」という銘を持つ)が鞍流瀬川の底から発掘されるなどし[282]、地元ではこの「ねず塚」を中心とした田楽坪を桶狭間の戦いの主戦地として捉えるようになり、1933年(昭和8年)には梶野孫作がこの地に「田楽庵」を建て、桶狭間史蹟保存会を組織して座談会などを催すようになる[282]。また1950年代には「駿公墓碣」と彫られた粗末な石碑が発掘されたりもしている[283]
2010年(平成22年)、桶狭間の戦いから450周年にあたることを記念して公園の改修が行われ、「近世の曙」と呼ばれる今川義元・織田信長両人のブロンズ像のほか、合戦当時の地形・城・砦、今川・織田両軍の進路などを配したジオラマが築造されている[284]

アクセスは、名古屋市営バス幕山停留所位置より南東へ徒歩約5分以内。なお、豊明市が運営する「ひまわりバス」のバス停留所に「桶狭間古戦場公園」が存在するが、これは豊明市栄町南舘にある「桶狭間古戦場伝説地」の近在にあるもので、大字桶狭間の桶狭間古戦場跡へのアクセスにはならないので注意が必要である[285]

桶狭間古戦場の碑
桶狭間古戦場の碑(おけはざまこせんじょうのひ)は、昭和時代初期に鞍流瀬川の川底から引き上げられた石碑である[286]。正面には「桶狭間古戦場」、背面には「文化十三年丙子五月建」とあり、途中で欠損しているために以降の文字は不明だが、製作年は1816年(文化13年)とみられる[1]
駿公墓碣
駿公墓碣(すんこうぼけつ)は、1953年(昭和28年)に「ねず塚」の中から発見された製作時期不詳の石碑である。敗軍の将を弔うことをはばかった当時の村人が、塚に墓石を埋め、密やかに供養したものと考えられている[1]
桶狭間古戦場田楽坪の碑
桶狭間古戦場田楽坪の碑(おけはざまこせんじょうでんがくつぼのひ)は、1933年(昭和8年)5月に梶野孫作によって建立された石碑である。今川方先鋒として布陣し戦死を遂げた部将松井宗信の子孫で、大日本帝国陸軍大将であった松井石根が当地を訪れた際、揮毫を行っている[1]
義元公首洗いの泉
義元公首洗いの泉(よしもとこうくびあらいのいずみ)は、討ち取られた今川義元の首を洗い清めたとされる泉である[1]。「義元水汲みの泉(よしもとみずくみのいずみ)」ともいわれる。桶狭間が桶狭間と名付いたいわれのひとつとされる、桶がくるくる廻る伝承を持つ泉でもあり、1986年(昭和61年)に区画整理が行われるまで、水が豊富にわき出る場所であったといわれる[1]
馬繋ぎのねずの木
馬繋ぎのねずの木(うまつなぎのねずのき)は、今川義元がこの地に着陣した時に、泉の水を飲むために馬の手綱をつないだといわれるネズである。触れると熱病にかかるとも言い伝えられ、「ねず塚」と共に長らく残されてきたが[1]1959年(昭和34年)の伊勢湾台風の折りに1週間ほど冠水した末に枯死し[280]、現在ではこの枯木が公園内に残されている。
義元公墓
義元公墓は、1934年(昭和9年)に建立された今川義元の墓碑である[286]
釜ヶ谷撮影位置、北北東方面を望む)。蛇行する市道はかつての近崎道、市道の右手に沿って立つフェンスはほぼ名古屋市緑区(左手)と豊明市(右手)の境界線でもある。写真中央奥の平地は、近年まで存在した「長池」を埋め立てたところ。

釜ヶ谷[編集]

釜ヶ谷(かまがたに)は、生山南麓にある谷地を指し、近崎道の途上にあって、桶狭間の戦いの折りには織田方が驟雨の中で突撃の機をうかがうために身を潜めていたとされる場所である[94]。桶狭間史跡保存会所蔵の写真によれば、この地は昭和初期に至るまでうっそうとした林で覆われた一帯であったことがうかがわれる[287]

かつて近崎道の東に沿って竹次池(たけじいけ)と呼ばれたため池があったが(所在地は豊明市栄町武侍)、これは江戸時代以降に建造されたものである[288]。後に「長池」と呼ばれるようになり、近年埋め立てられて消滅している。

瀬名陣所跡[編集]

瀬名陣所跡(せなじんしょあと)は、名古屋市緑区桶狭間(旧有松町大字桶狭間字寺前)にある史跡である位置。桶狭間の戦いの2日前の1560年6月10日(永禄3年5月17日)に瀬名氏俊を大将とする今川方の先遣隊約200名が陣を構えた場所とされる。『東照軍鑑』(成立年代不詳)に「義元ハ瀬名伊予守・朝比奈肥後守父子高天神ノ小笠原ヲ先懸トシテ五千騎桶挟(オケハサマ)表ヘ押出シ…」とあり[289]、このうち瀬名の役割は村木[注 68]・追分村・大高村・鳴海村各方面の監視、および近日中の本隊到着に向けて本陣の設営であったと考えられている[1]。瀬名隊の陣所は東西15メートル、南北38メートルほどであったといわれ、当時トチノキで覆われた林であったのが後年は竹藪となり、地元では長らく「セナ藪」・「センノ藪」などと呼ばれていたが、1986年(昭和61年)に大池の堤防工事が行われた際にこのセナ藪も滅失する[1]。現在では「瀬名伊予守氏俊陣地跡(せないよのかみうじとしじんちあと)」と刻まれた標柱が残されているほか、案内板が立っている。
なお、大池の堤防工事が行われる以前はすぐ脇を鞍流瀬川が流れており、数多く舞うホタルハグロトンボの姿がよく見られたといい、住民はそれを桶狭間の戦いの戦死者の魂魄だとして、捕獲することをはばかっていたという[291]

戦評の松(2012年(平成24年)7月)。

戦評の松[編集]

戦評の松(せんぴょうのまつ)は、名古屋市緑区有松町大字桶狭間字幕山にある史跡である位置。桶狭間の戦いの折りに、今川義元がこの地で評議を行ったという伝説があり、それを示す石碑も残されているが、一般には、今川方の先遣として当地に布陣した瀬名氏俊が配下の部将を集めて戦の評議をしたのがこの地にあったの大木の根元であったとされる[1]。『天保十二年丑年五月知多郡桶廻間村圖面』にも長坂道に沿って大きな松の木が描かれており、地元で「一本松」・「大松」などと呼ばれて親しまれていたが[1]、1959年(昭和34年)9月に襲来した伊勢湾台風のために枯死してしまう[14]。2代目の松は1962年(昭和37年)5月19日に植樹されたが[14]2008年(平成20年)に虫食いのために枯死、翌2009年(平成21年)3月に幼木が植樹され、現在は3代目である[292]

七ツ塚(2012年(平成24年)9月)。

七ツ塚[編集]

七ツ塚(ななつづか)は、名古屋市緑区桶狭間北2丁目(旧有松町大字桶狭間字武路)にある史跡である位置。桶狭間の戦いで今川義元が戦死し織田方が勝利したことを受け、織田信長は村人に命じて武路山の山裾に沿い7つの穴を等間隔に掘らせ、そこに大量の戦死者を埋葬させたという[1]。このうちふたつ(七ツ塚・石塚)が後年まで原型をとどめ、これを取り壊すものは「たたり」に遭うという言い伝えから長らくそのままにされていたが、1989年(平成元年)の区画整理の折りに内のひとつが整備され[1]、碑も建立されて現在に至る。
なお、合戦とは本来関わりなく、経塚のように宗教的作善目的で建立されたとする見解もあり、こうした場合の建立時期は戦国時代以前にさかのぼる可能性もあるという[52]

「桶狭間の戦い」の故地としての桶狭間[編集]

ここでの桶狭間(おけはざま)は、1560年6月12日(永禄3年5月19日)に駿河国・遠江国の守護大名であった今川義元と尾張国守護代分家織田弾正忠家当主の織田信長との間で行われた桶狭間の戦いの主戦地とされる地域のことである。

概要[編集]

桶狭間の戦いとは一般に、戦国時代の武将であった太田牛一の手になる『信長公記』巻首の「今川義元討死の事」の項で語られる範囲、すなわち1560年6月10日(永禄3年5月17日)の今川義元の沓掛城入城に始まり[293]、2日後の主戦を経て、今川方部将であった岡部元信が鳴海城を開城するまで[202]を指すことが多いようである[294]。戦闘に限ってみれば一連の流れとして、義元の沓掛城入城に呼応して始まったとみられる松平元康らによる大高城への兵糧入れ、決戦当日の早朝から勃発していたという鷲津砦・丸根砦への大高城からの攻撃、おそらく午前中であろうと考えられる岩室重休・佐々政次・千秋季忠と松井宗信の前哨戦、前田利家らの個人行動による戦功、主戦となる戦闘およびその決着などが『信長公記』によって知られている[295]
このうち主戦とは、時間的には未の刻(午後2時頃)から夕刻までの数時間、すなわち、驟雨の中で今川義元の本陣間近に迫った織田方が信長の「すわ、かかれ」という号令と共に一斉に襲いかかった瞬間から、毛利良勝によって大将の首が落とされ、深田に足を取られた残兵がことごとく掃討されるまでの展開を指し[200]、地理的には両軍が展開した「おけはざま山」を中心とした一帯、現在のと豊明市と名古屋市緑区の境界線付近をまたがった範囲を指すことが多い[5]

ところで、桶狭間の戦いは、非常に著名でありながら、詳細に不明な点が多いことでも知られた戦いでもある。今川義元の尾張侵攻の目的は何であったのか、今川方や織田方はどのようなルートをたどって進軍したのか、今川方本陣の所在地や今川義元の戦死の場所はどこであったのか、など、かねてよりさまざまな議論があるが、今もってはっきりしたことは分かっていない[296]。地理的な観点でいえば、戦いの主戦地とされたのはさして特徴の無い山容が綿々と続く丘陵地のただ中で、そもそもが両軍の陣立てがなされない遭遇戦であり、きわめて短時間の間に事態がめまぐるしく推移した結果あっけなく終息をみていることから、場所や進軍ルートの特定が困難な理由はここにある[297]。また、同時代に記された史料の少なさ[298]、戦いの舞台とされた一帯がすでに住宅地で覆われていたりして考古資料の発掘が困難であること[299]なども理由として挙げられる。そして、とりわけ江戸時代以降に多く書かれた軍記物などの読み物において信憑性に疑問のある潤色が多くなされたことも、事実の探求への困難さにいっそう拍車をかけてきたといえる[300]

太田牛一による『信長公記』は、織田信長に仕え、桶狭間の戦いにも参戦した人物による信長の一代記としては唯一のものとして知られる。首巻と1-15巻の全16巻から成り、桶狭間の戦いから50年経った、太田自身も80歳を越えようとしていた1610年(慶長15年)頃に刊行されたという[301]。太田が長年つけてきた日記やメモを集大成したものといわれ、その文章表現は簡潔かつ無味乾燥であり、その構成も読み物としては著しく魅力を欠くものであった[302]。また、織田信長が上洛するまでを記した首巻においては年月日や役名などに記述ミスがとりわけ多く、老耄を懸念されるなどして信頼性に疑問符が打たれていた点もある[303]
この『信長公記』を補完するとして書かれたのが、太田の同郷の春日井郡の人であった小瀬甫庵による『信長記』(1611年(慶長16年))である。「太田牛一輯録・小瀬甫庵重撰」、すなわち太田による史実を下敷きとしながら漏脱を加えたとしており[304]、実際に、織田信長が熱田神宮に立ち寄り戦勝祈願文を奉納したこと、白鷺が織田方を今川本陣へ誘ったこと、簗田政綱の活躍などは、『信長公記』には見られない記述であって[305]、小瀬による独自調査の結果として加えられた可能性がある[306]。こうした純粋な補追の一方で、信長の進軍ルート、退却の仕かた、振る舞いなどに『信長公記』からの大きな書き換えがみられ[307]、小瀬の推測も多分に含まれているとの指摘もあるほか[305]、何より小瀬の執筆姿勢を示すものとしての特徴は、本書が流麗な文体を通して小瀬自身の儒教史観による教訓性の濃い「読み物」に仕上がっていることである[304]。したがって、『信長記』は純粋な意味での『信長公記』の増強版とはいえず、『三河物語』(1626年寛永3年))の中で大久保忠教が『信長記』を「イツワリ多シ」とも批判しているように[305]、同時代にあっても批判が無かったわけではない[305]。しかし、版本として刊行されずに長年陽の目を見ることがなかった『信長公記』に対し、大きな反響を呼んで幾度となく版本が繰り返されることになった『信長記』は、それを下敷きとして数多くの潤色に満ちた歴史小説を生み出すと共に、桶狭間の戦いの全体像の形成にも多大な影響を与えることになる[305]

1966年(昭和41年)、今川義元の陣所に関して、従来の軍記物を退けつつ『信長公記』の記述に基づいて解釈したのが小島広次である[注 69]。同じ年、小島も委員の1人であった名古屋市教育委員会による『桶狭間古戦場調査報告』は『信長公記』を「もっとも信頼できる現存史料」とし[309]、1969年(昭和44年)に角川文庫より『信長公記』が刊行されるに及んで[303]、長年埋もれていた太田の『信長公記』が広く知られるようになり、その素朴かつ誠実で信憑性の高い記述の評価が一気に高まっていく。信長による攻撃のありさまについては従来、「織田方は善照寺砦より北方へ迂回、太子ケ根(大将ケ根)と呼ばれる丘陵[注 70]を回り込んだところからにわかな暴風雨に乗じて田楽狭間にあった今川方本陣を奇襲した」とする説(「迂回奇襲説」)が一般的であった[310]。これは、江戸時代に流布した数多くの軍記物の内容を集大成した大日本帝国陸軍参謀本部編集の『日本戦史 桶狭間役』(1898年(明治31年))での記述の影響が大きいといわれる[311][注 71]。しかし、『信長公記』の記述を素直に解釈することが理解の主流となっている現在において、『日本戦史 桶狭間役』の「迂回奇襲説」はすでに否定的にみられるようになっている[313]

主戦場の地理的範囲[編集]

名古屋市教育委員会による『桶狭間古戦場調査報告』(1966年(昭和41年))は主戦場の範囲を豊明市栄町の北部から名古屋市緑区有松町の北部の一帯にかけてと見なしている[314]。すなわち、往年の呼称によるところの「知多郡英比之庄横根ノ郷大脇村(おおわきむら)[315][316]」および「知多郡花房之庄桶廻間村(おけはさまむら)[51]」にまたがった地域を指す。

大脇村・桶廻間村と「おけはさま」[編集]

豊明インターチェンジを南より望む(2013年(平成25年)8月撮影位置)。豊明市栄町元屋敷と呼ばれるこの田園地帯付近が大脇郷発祥の地とされる[317]

このうち、主戦地のおおむね東側にあり、現在の豊明市栄町一帯にほぼ該当する大脇村は、13世紀後半にその初出をみて以来1875年(明治8年)まで存続した尾張国知多郡の自然村で、伝承によれば鎌倉時代の1275年建治元年)に「英比荘」(現知多郡阿久比町付近)から移住してきた大脇太郎によって開かれたとされる古い土地柄である[318]
1354年5月16日(文和3年、正平9年4月23日)の日付を持つ『熱田社領目録案』(猿投神社文書)の「愛知郡」の項に「大脇鄕」がみられること[注 72]、1391年6月14日(明徳2年・元中8年5月12日)に室町幕府管領細川頼元土岐満貞に宛てた『施行状』(醍醐寺文書)には「尾張国熱田社座主領同國大脇鄕以下六ヶ所」を理性院雑掌に沙汰するとあって[321]、大脇郷が前年に熱田神宮寺座主となった醍醐寺理性院僧正宗助(72代醍醐寺座主)[322]の所領となったことを示していることから、大脇郷は当初愛知郡に属し、熱田社もしくは熱田神宮寺の所領であったと考えられている。その後、1505年(永正2年)に大脇郷の集落内に曹洞宗寺院として清涼山曹源寺が開創[317]、天文年間(1532年 - 1555年)には水野信元配下にあった梶川五左衛門秀盛が居城したといわれる大脇城が同じく集落近くに存在し[323]、1551年1月7日(天文19年12月1日)の日付を持つ今川義元の判物では大脇郷が数年来丹羽隼人佐の知行地であることを示し[324]、桶狭間の戦いを経て尾張国が織田信雄の支配下に置かれた1584年(天正12年)頃には矢野弥右衛門の知行地となっている[注 73]

ところで、太閤検地(尾張国では1592年(天正20年)[326])によって村切りが行われるまで、まずもって村域とは明確なものではなかったことに注意が必要である[327]。室町時代までの大脇郷は、境川水系正戸川に近い沖積平野(豊明インターチェンジの南付近)に人家が点在する小規模な集落であったようだが[328]、その村域も江戸時代以降のように明確なものでは当然無く、集落から3キロメートルほど北西にいったあたりのやや遠隔地となる山間部、すなわち主戦地の東側に相当し後年大脇村に所属することになる一帯が室町時代当時の大脇村とどのような関わりを持っていたかを示す、いかなる史料や伝承も知られていない[注 74]
一方の桶廻間村は山中にあって、大脇郷と比べると距離としては合戦地のより近くに存在しており、伝承では今川方を酒で饗応したのもこの村の住民であったとされる[192]。この主戦地のおおむね西側に相当する桶廻間村は、1340年代頃に当地に流入した南朝の落人によって開かれたとする伝承を持つ村で[6]、1892年(明治25年)9月13日に知多郡共和村と合併するまで存続した[25]、尾張国知多郡の自然村・行政村である。現在の名古屋市緑区有松町大字桶狭間、武路町、桶狭間北2丁目、桶狭間北3丁目、桶狭間、桶狭間上の山、桶狭間切戸、桶狭間清水山、桶狭間神明、桶狭間南、桶狭間森前、清水山1丁目、清水山2丁目、南陵、野末町などがこれに該当する。古くは「洞迫間(ほらはさま)」・「公卿迫間(くけはさま)」・「法華迫間(ほけはさま)」などの漢字が当てられていたといわれるが[6]、一村立ての村名として登場するのは備前検地(1608年(慶長13年))の「桶廻間村」が史料上初出とされる[327][227]。大脇村や近隣の村々と比べると桶廻間村は、近世以前の時代において、その存在や名が示されるほどの同時代の史料が皆無であり[150]、岩滑城主であった中山氏が「柳辺・北尾・洞狭間」を領したとする寛政重修諸家譜(寛政年間(1789年 - 1801年))[8]のような近世以降の史料によって知られるのみである[7]。もとより山がちであって周辺地域より開発が遅れたことに理由が考えられるほか[16]、村民らが落人の出自であることをひた隠しにし、人々の移動や他村との交流がほとんどなされずに山奥で閉鎖的・退嬰的な生活を続けてきたことにより、その実情が外部に知られにくかったことも理由であるとされる[150]

この2村のそれぞれ北部でまたがり、桶狭間の戦いの舞台地となった山間の一帯とは、室町時代の頃までは大脇郷とも洞迫間とも接点を持たない、漠然とした無主地・無名地であった可能性も大きい[330]。検地が行われる以前において、荘園制の名残によって人と土地の支配は別であったこと、そして山林原野に名が与えられることはほとんど無かったからでもある[327]。桶狭間の戦い直後に出された判物・感状の中で今川氏真は、このたびの「不慮之儀」[331]が生じた舞台地について、「尾州一戦の砌(みぎり)」[注 75]、「尾州に於て…」[注 76]といった漠然とした範囲を指す表現を使用している。今川氏の内部で事態の把握が進んでいなかったかといえばそうでもなく、同時期に「去る五月十九日尾州大高口において」戦功を挙げた鵜殿十郎三郎を賞し[注 77]、「大高・沓掛自落せしむといえども、鳴海一城堅固にあい踏」んだ岡部元信の戦功を賞していることから[注 78]、今川氏真はじめ駿府にも地理的状況が詳細に伝わっていたことは明らかである。そして戦いそのものを「鳴海原一戦」[注 79]と表現している。これらのことから、「おけはさま」という地名が、この当時存在していなかったか、あるいは存在していても戦いの舞台地として認識されていなかったことが考えられるのである。

少し時代が下ると、「尾州ヲケハサマト云処」で戦役があったことを記す『足利季世記』(安土桃山時代)[17]のような史料が登場してくる。ところで、この「ヲケハサマ」が近隣の集落である洞迫間を意識していったものであるかどうかは判然としない。『信長公記』の「おけはざま山」、『成功記』の「桶峡之山」も同様であるが、これらの「おけはさま」とは、洞迫間あるいは桶廻間村という一村の名とは性質の異なる呼称であるとする考えかたがある[5]。中世時代の地名や村名は一般に、江戸時代のそれより広範囲を指す場合が多かったといわれ[327]、すなわち「おけはさま」なる地名また、元来は大脇郷と洞迫間をまたぐ[5]山間部一帯を漠然と指すものではなかったかとする説である[327]。そして、それまで曖昧な広範囲を指していた地名が、検地を機会に村名などに冠されることも多くあったといい、主戦地の西側にあった小集落もこれにちなんで初めて正式に桶廻間村という村名が名付けられた可能性があることを、名古屋市桶狭間古戦場調査委員会は示唆している[327]。「おけはさま」が洞迫間あるいは桶廻間村の名の由来となったとする理解である。
しかし、ある土地に名が発祥するのは山林原野より先に人の住まうところであるのが自然でもあり、「オケハサマ」もしくはそれに近い呼び名の近隣の集落が「おけはさま」の地名に元になった可能性も考えられる。洞迫間は、史料上にこそ登場しないものの、桶狭間の戦い当時にはすでに神明社があり(今川方の瀬名氏俊が戦勝祈願をしたといわれる[148])、法華寺もしくは和光山長福寺があったとされ(今川義元の首実検がなされたといわれる[1][337]、社寺をよりどころとした村落と呼べるほどの人家の集まりがあった可能性は高い[2]。そして梶野渡は、長年伝承の域を出なかった「洞迫間」という名が、中山氏末裔とされる人物からの聞き取りにより実際に呼称されていたことを確認したとしている[338]。洞迫間あるいは桶廻間村が「おけはさま」の名の由来となったとする理解である。

なお、漠然と広がる「おけはさま」のうち大脇村の北部に相当する東側の山間部は、はるか後年の江戸時代後半において「屋形はさま」という通称をもって知られることになる。「屋形はさま」の初出は『道中回文図絵』(1664年(寛文4年))とみられるが、『今川義元桶迫間合戦覚』(1706年宝永3年)頃)には、元もと大脇村のうち「桶迫間」と呼ばれた地に、今川義元が布陣したことからそれ以降「屋形迫間(やかたはさま)」と呼ばれるようになったとある[339]。現在も字名として残る豊明市栄町舘および南舘の「やかた」は、江戸時代の呼称である「屋形はさま」を継承するもので、その由来は、今川方がこの地に「陣屋形」を設けたからだとも(『桶狭間合戦記』(1807年(文化4年)))[340]駿府今川屋敷の主「お屋形様」がこの地に本陣を構えたからだともいわれるが[341]、いずれにしても桶狭間の戦いにちなんで名付けられたものと考えられる[327]。『張州府志』(1752年(宝暦2年))もまた、かつての「桶峡(おけはさま)」は今は「舘峡(やかたはさま)」と呼ばれているといい[342]、『蓬州旧勝録』(1779年(安永8年))もやはり「屋形挾間(やかたはさま)」とは「桶挾間(おけはさま)」のことを指すと述べている[104]。そして『尾張国地名考』(1836年(天保7年))は、大脇村の「屋形はさま」で行われたはずの合戦を桶狭間の名で呼ぶのは不審であるとまで述べ、大脇とはかつて広範囲の地域を占めた村名であって、桶廻間も「屋形はさま」も落合もかつては大脇村の字であったのが天正年間(1573年 - 1592年)にそれぞれ独立したことから、とりあえず桶廻間合戦と呼ぶことにしたのであろうとする山本格安の説を紹介している[343]

梶野渡は南舘が1951年(昭和26年)以降恣意的に桶狭間の名を使用するようになったとしているが[344]、少なくとも江戸時代中期以降、「屋形はさま」と呼ばれる地がかつて「おけはさま」もしくはその一部であったという認識は一般的であったようである[5]。名古屋市桶狭間古戦場調査委員会は、主戦地とされる一帯がそれぞれ桶廻間村と大脇村の村域に明確に分離された後も、主戦地一帯を「おけはさま」そのものとして呼ぶ慣習が残っていたとみるのが自然ではないかとしている[5]

落合村・有松村[編集]

落合村(おちあいむら)は、慶長年間(1596年 - 1615年)、東海道の開通に伴い街道沿いへの移住の呼びかけに応じた大脇村の住民により開拓されたという大脇村の支郷である[231]。現在の豊明市新栄町の大部分がこれに該当する[231]。桶狭間の戦いの当時、独立した体裁を持つ村として存在していた可能性は低いが、『尾張国地名考』(1836年(天保7年))は、天正年間にはすでに独立して存在した大脇村の小名のひとつとして落合があり、すでに民家が存在していたことを記している[343]ことから、落合なる名称が当地を示す地名として桶狭間の戦い以前に存在していた可能性はある[345]。一説には、この戦いで功績のあった落合小兵衛という人物が褒賞として手にした土地であるというほか[346]、敵味方の首が落ち合ったことが名の由来だとする伝承もある[345]

有松村(ありまつむら)は、1608年(慶長13年)に尾張藩が開発を始めた村である[228]。現在の名古屋市緑区有松、有松町大字有松などがこれに該当する。落合村と同様、江戸時代初頭に東海道の開通に伴い成立した村であるので、桶狭間の戦い当時には存在していなかったと考えられている。

井田村・猪田村[編集]

桶梜間合戦名残』(文政年間(1818年 - 1830年)?)には桶狭間村はかつて「井田村」であったという記述がある[347]。「井田村」を「猪田村」と記述する資料もあるほか[347]、和光山長福寺には桶狭間が11世紀頃に「猪田村」であったことを示す古文書が残されているという[31]。井田村もしくは猪田村の詳細ははっきりしないが、大府市北崎町には「井田」という字名が残っており、この「井田」との関連性が指摘されている[15]。すなわち、大字桶狭間の東方にある東ノ池は、名古屋市緑区・豊明市・大府市(北崎町井田)の境界線の交点位置付近に位置するため池であり、水利上の関係からかつては東ノ池を中心に井田村が同心円上に広がっていたのではないかとする[15]。後年、井田村の多くが桶狭間村に改名し、南側の大府市域に井田という地名が残ったとする理解である[15]

今川義元の本陣地・戦死地について[編集]

桶狭間の戦いそのものは2つの村にまたがる広範囲にわたって展開されたものと考えられるが、このうち今川義元が本陣地および戦死地はある程度限定された一地点であるはずで、この一地点の所在地がどこであるのかが桶狭間の戦いにおける大きな論点のひとつとされている。

家忠日記[注 80]や『成功記』[注 81]のように、今川義元の本陣地と戦死地が同一の地点であるとする史料もみられる一方[350]、義元が床机に座して少しも動かず討ち取られたなどというのは虚説であると真田増誉が『続明良洪範』で批判したように[349]反論もあり、本陣から移動中に討ち取られたとする『信長公記』の解釈により、現在では本陣地と戦死地はそれぞれ異なる地点であるという説が有力となっている[308]

山ノ神山麓より「石塚山」方面を望む(2012年(平成24年)10月撮影位置、西方面を望む
名古屋市緑区桶狭間北2丁目にある「おけはざま山 今川義元本陣跡の碑」(2012年(平成24年)10月)。

今川義元の本陣地について[編集]

『信長記』[注 82]や『松平記[注 83]などの記述から、高いところにいた織田方が低地の今川方本陣地に攻撃をしかけたという展開は江戸時代には広く知られており、この低地に相当すると一般に考えられてきたのが「屋形はさま」、すなわち現在の桶狭間古戦場伝説地付近(豊明市栄町南舘)である。しかしながら、周囲から見下ろされる危険な場所にわざわざ陣を敷くことは考えにくいという観点から、あまりにも「狭間」である桶狭間古戦場伝説地付近を本陣地と見なすことは、現在に至ってはほぼ否定されている[353]。今川方本陣地については一方で、『信長公記』をはじめとして、丘陵の頂上あるいは中腹、一段低いところであっても緩やかな鞍部であるとする記述も多い。『信長公記』によると、今川義元は本陣を「おけはざま山」に置いたという[191]。この「おけはざま山」という山名は現在では失われているが[354]、東海道沿いの間の宿であった有松村から南東に約1キロメートル付近、あるいは豊明市栄町にある「桶狭間古戦場伝説地」から見て南西に約700メートル付近の丘の頂上にはかつて三角点位置が敷設されており[注 84]、その実績値64.9メートル[注 85]が付近で最も高所であったと考えられることから、小島広次はこの丘陵一帯を「おけはざま山」と推定している[357]。また、桶狭間古戦場伝説地から南に約500メートルほど、現在の豊明市新栄町5丁目付近にかつて「石塚山」と呼ばれる丘陵があり(ホシザキ電機株式会社本社が立地する敷地付近)、『尾州古城志』(1708年(宝永5年))にここに今川義元が陣を張ったとする記述が残ることから[358]高田徹はここを「おけはざま山」に比定している[注 86]。いずれにしても、眺望の良い山頂付近に本陣が置かれていたのではないかとする見解である。他方、『信長公記』のいう「おけはざま山」とは特定の丘陵名ではなく桶狭間にある山稜地帯の総称ではないかとする海福三千雄の説があり[360]尾畑太三は、『総見記』(1685年貞享2年))にある「桶狭間ノ山ノ下ノ芝原[361]」、『桶狭間合戦記』(1807年(文化4年))にある「義元只今桶狭間山の北、松原に至て[362]」などの記述、そして『武徳編年集成』(1741年寛保元年))にある「桶狭間田楽が窪義元の陣所[363]」、『桶狭間合戦記』の「沓掛を出陣し桶狭間山の中、田楽狭間[364]」などとする記述から、山中ではなくその際にある田楽狭間あるいは坪と呼ばれる平地、さらに方角を考慮して名古屋市緑区桶狭間北2丁目(さらに限定して桶狭間北町公会堂のある付近位置)ではなかったかとしている[365]。また梶野渡は、64.9メートルを頂とする豊明市栄町の山上からは西方の高根山や幕山の稜線に阻まれて善照寺砦・中島砦をうかがうことは不可能であるという指摘を、また人馬や輿がわざわざ深い山林をかき分け山頂にまで至るという労苦を味わう必要があるのかという疑念を呈し、水の補給があり、数千の兵員と数百の馬が休息可能な、この山の西麓にあったとされる広い平坦地を本陣地に比定している[366]。現在の名古屋市緑区桶狭間の北部、名古屋市緑区桶狭間北2丁目から3丁目、そして豊明市栄町字西山にかけての付近としており、戦いの2日前に今川方先手侍大将瀬名氏俊による本陣設営が行われたとされる場所で[367]、桶狭間古戦場保存会は名古屋市緑区桶狭間北2丁目の住宅地の一角に「おけはざま山 今川義元本陣跡」の碑石を設けている位置

今川義元の戦死地について[編集]

今川方本陣地には広範囲にわたるさまざまな説がみられるのに対し、今川義元の戦死地はある程度絞り込まれているといえる。義元討ち取りの後に深田に足をとられてはいずり回った今川方の残兵がことごとく討ち取られたという『信長公記』の記述は、義元戦死地が深田ないしは湿地帯の近くであったことを示唆しており[301]、深田ないしは湿地帯の「はさま」と目される地形は自ずから限定されるからである。いずれにしても、本陣地と異なることは前提としてあり[308]。『信長公記』に「三百騎計り真丸になつて義元を囲み退きける」とあるように[293]、義元らは騎馬で撤退を始めていることから、戦死地を本陣地からある程度離れた場所として捉えることは自然である。
関東下向道記』(1628年(寛永5年))に、東海道を鳴海から池鯉鮒(ちりふ、知立)に向かう途中、右手に今川義元の墳墓といわれる塚を見たとあり[注 87]、これは現在の桶狭間古戦場伝説地付近が今川義元戦死地として登場する初出とされ、東海道に面した北を除く三方を丘陵で囲われた狭隘な地(「屋形はさま」)が、江戸時代初頭にすでに今川義元終焉の地として信じられていたことを示している[369]。『信長公記』は織田方が「東に向つてかゝり給ふ」といっており、そのことで『感興漫筆』は山の上に幕を張って酒宴を催していた義元が麓まで追い落とされたという伝承を紹介している[注 88]。西から襲撃された義元らが東に向かってのけぞり、東に向かって転がり落ちたとするのは素直な解釈であるといえる[注 89][371]。そして山鹿素行の紀行文『東海道日記』には「オケハザマ、デンガクツボ、こゝに今川義元の討死の所とて塚あり、左の山の間のサワにあり」とあり、桶狭間古戦場伝説地付近が大正時代まで湿地帯(サワ)であったことは[372]、今川方の残兵がぬかるみに足を取られてはいずり回ったという『信長公記』の記述を裏付けるものでもある[373]。おそらくはその日の朝まで滞在していた沓掛城を目指していた途中、義元は桶狭間古戦場伝説地付近で討ち取られたのではないかとするのが従来より見られる主張となっている[371]

これに対し、義元が「田楽坪」で討ち取られたとする説も存在する。「田楽坪」は、町丁名でも字名でもないが、名古屋市緑区桶狭間北3丁目付近に「田楽坪」という名称で長らく『2万5千分1地形図』に記載され続け、現在でも『電子国土基本図(地図情報)』(国土交通省国土地理院)に掲載されている地名である[374]。大字桶狭間では、字名としてあった広坪(ヒロツボ)の古称として「いけうら」の他に「田楽坪」が認識されており[375]、昭和時代に入り古戦場であったことを示す江戸時代の碑石が発見され、昭和50年代以降に藤本正行小和田哲男らによって発表された新説にも補完されて、この「田楽坪」も義元戦死地の候補地として声高に主張されるようになる[303]
その小和田哲男は、義元が大高城へ撤退するために西に向かう途中、すなわち名古屋市緑区内で討ち取られたという『続明良洪範』の記述を支持している[注 90]。そして梶野渡は、『信長公記』のうち、今川方の兵卒の多くが「深田のぬかるみ」に足を取られたところを討ち取られたという記述をみ、1608年(慶長13年)の慶長検地において石高が決定した田、すなわちその開墾時期の多くが江戸時代以前であったことが推察される「本田」[102]の存在が、豊明市の桶狭間古戦場伝説地付近ではみられないことを指摘、義元はやはり西方に退却し、「本田」のあった「田楽坪」付近で討ち取られたのではないかとしている[301]

尾張名所図会』(1841年(天保12年))に描かれた「二村山」の左手の谷地に「田楽ガ窪」が見える。小田切春江画。
二村山から望む田楽ケ窪の地(2012年(平成24年)5月)。

「田楽がつぼ」・「田楽がくぼ」・「田楽はさま」[編集]

今川義元の本陣地あるいは戦死地を示す地名として、江戸時代には「屋形はさま」のほかに、「田楽がつぼ」・「田楽がくぼ」・「田楽はさま」といったものが数多く使用されている。「田楽がつぼ」の初出は『中古日本治乱記』(1602年(慶長7年))[注 91]、「田楽がくぼ」の初出は『慶長見聞集』(1614年(慶長19年))[注 92]、「田楽はざま」の初出は山澄英龍の『桶峡合戦記』(1690年元禄3年))[注 93]とみられる。これらのうち、「屋形はさま」は先に述べたように、「桶狭間」を改称したものだとする記述も多い一方で、「田楽がつぼ」・「田楽がくぼ」・「田楽はさま」は桶狭間の中の小地名(小字)として認識されることが多い[注 94][327]。また『日本戦史 桶狭間役』のように、「桶狭間」と「田楽狭間」を別個のものとして見なす立場もある[379]
「つぼ」とは窄まった一角をいって「坪」や「壺」などと書き、「くぼ」は山あいの谷間にある低湿地を指す言葉で「凹」や「窪」の字が当てられ、「はさま」は山と山に挟まれた谷間をいう言葉で「狭間」・「迫」・「峡」などの字が当てられるが、いずれも地形的には周囲の山々から見下ろされるような狭隘な低地の意味を指し[380]、桶狭間の「狭間」と同様にこの地特有の地形を言い表したものとみられること、あるいは、和光山長福寺が所蔵する『尾州桶廻間合戦之事』には義元の陣所として「田楽ガ久保(くぼ)」と「田楽ガ坪(つぼ)」の両方が登場しており、地元においても呼び名や表記が不統一で曖昧であったことを示すことから[376]、意味の上でも使用上でもこの3者に大きな差違は無かったものと考えられる[381]
一方、「田楽」に意味の力点を置いて考えたとき、名古屋市桶狭間古戦場調査委員会は、たとえば今川義元の終焉を「田楽刺し」に見立てたのではないかという想定を挙げており、いずれにしても「屋形はさま」と同様に桶狭間の戦いにちなんで後付けされた地名ではないかとしている[382]。これに対して名古屋市緑区の「田楽坪」では、室町時代の初期より御鍬社が鎮座し、農閑期に「田楽」を奉っていたという伝承がある[20]。「田楽坪」という地名も相当古いもので[20]、桶狭間の戦いより以前から存在したか、あるいは後年であっても田楽の伝承に基づいて名付けられた地名であり、なおかつそれは名古屋市緑区桶狭間北3丁目付近に存在していたとする可能性を示している。
名古屋市緑区の「田楽坪」の由来は、しかしあくまで伝承として伝えられてきたものである。一方、桶狭間の戦いより以前から史料上に登場し、確実に存在していたとされる地名が、豊明市にある。室町時代の連歌師宗祇による『名所方角抄』(15世紀頃)、仁和寺の僧侶尊海による『あづまの道の記』(同)、連歌師里村紹巴による『富士見道記』(16世紀頃)などに登場し、平安時代より和歌の名所として知られ鎌倉街道の要所でもあった二村山(豊明市沓掛町)の西麓にあり、室町時代後期には鎌倉街道の物騒な一帯として知られ、それそのものも和歌に詠まれることがあった[注 95]「田楽ケ窪(でんがくがくぼ)」である[383]
「田楽がつぼ」・「田楽がくぼ」・「田楽はさま」、そのいずれも、初めこの「田楽ケ窪」から類推されて発生した名であるか、それそのものと混同されたという考えかたがある[380]。『新編桶峡合戦記』(1846年(弘化3年))の中で田宮篤輝は、私見として、「田楽峡(はさま)」は義元の死所であるのに対し、「田楽ケ窪」は東海道より北の鳴海古道(鎌倉街道)にある地名のことで、混同しやすいと述べている[384]。2013年(平成25年)現在でも豊明市沓掛町の字名として「田楽ケ窪」が残っており、藤田保健衛生大学藤田保健衛生大学病院の敷地の大部分に相当する一帯であるが、この、「屋形はさま」(桶狭間古戦場伝説地)から東北東へ直線で約2.2キロメートル、「田楽坪」(桶狭間古戦場公園)から東北東へ直線で約3.2キロメートル、そして沓掛城から西へ直線で約1.9キロメートルのところにある「田楽ケ窪」という古歌の名所を、『中古日本治乱記』(1602年(慶長7年))の著者山中長俊や『慶長見聞集』(1614年(慶長19年))の著者三浦茂正のような他国の教養人が、地理に不案内なためにそのまま混同した可能性や、あえて近隣の名所に織り交ぜて新たな地名を作り出した可能性も、十分に考えられる[382]。なお、「田楽がつぼ」や「田楽がくぼ」に比べてやや下った時代に登場する「田楽はさま」は少なくとも、山澄英龍の造語であることはほぼ過たないであろうと梶野渡は述べている[385]

なお、地名の混同に伴い、この和歌の名所である「田楽ケ窪」そのものも今川義元の本陣地あるいは戦死地の候補地ひとつとして知られ、郷土史家の鈴村秋一らがこの説を支持している[386]。しかし、早朝に沓掛城を出立した今川方が正午頃にこの地で休息したとすると進軍速度があまりに緩慢であることになり、田宮篤輝がまったく別個のものであると認識しているように、過去から現在に至るまで特に重視されていない説である[376]

豊明市と名古屋市緑区の「本家争い」[編集]

ふたつの桶狭間古戦場の位置関係。

豊明市と名古屋市緑区の「本家争い」は、今川義元戦死の地が大脇村(屋形はさま)に属していたか桶廻間村(田楽坪)に属していたかについて、後年のそれぞれの所属自治体(愛知郡豊明村→同郡豊明町→豊明市、知多郡有松町→名古屋市緑区)が自らの行政区域に属すると主張しあうことで、繰り広げられてきたものである。義元敗死の地をもって古戦場と見なす考えかたから[371]、屋形はさまと田楽坪は、現在それぞれ「桶狭間古戦場伝説地」・「桶狭間古戦場跡(桶狭間古戦場公園)」として、それぞれの自治体から史跡の扱いを受けている。
昭和時代の初めに「桶狭間古戦場の碑」が鞍流瀬川の底から引き上げられ[1]、この頃より有松町の田楽坪を今川義元戦死の地とする主張が本格的になったとみられることから[387]、「本家争い」が表面化したのは昭和時代以降の、比較的近年であるともいえる[388]。それぞれが当の大脇村・桶廻間村であった江戸時代に、桶狭間古戦場が大脇村地内の「屋形はさま」に属するものであるという見解が一般的であったのは先にみたとおりで、このことに桶廻間村が異論を唱えていたかどうかははっきりしない。確かに、1816年(文化13年)の建立とされる「桶狭間古戦場の碑」、建立年代不詳の「駿公墓碣」の存在は、田楽坪が戦いの中心地もしくは今川義元最期の地であるという[1]、江戸時代後半にそうした見解が芽生えていた可能性を示しており、『桶梜間合戦名残』(文政年間(1818年 - 1830年)?)にも、桶廻間村内のハイ山(生山)を敗軍の地だとする有松村の古老の話が紹介されている[347]。しかし他方で、「屋形はさま」で行われていた旧暦5月19日の法要を桶廻間村の長福寺も「年中行事」として重要視し、住職は五条印金の袈裟という特別な装束を身にまとい念仏回向に臨んだといわれるほか[389]、豊明市の桶狭間古戦場伝説地に残る碑柱の多くは明治時代から大正時代にかけて有松村・有松町の官民によって建碑されたものであって[388]、「屋形はさま」が桶廻間村・有松町の人々にとっても長年崇敬と供養の対象であり続けたことは確かである。
大脇村(およびその支郷の落合村)と桶廻間村(およびその支郷の有松村)とは隣村同士で共に知多郡に属していたが、大脇村は1874年(明治7年)7月に東阿野村・落合村と合併して知多郡栄村(さかえむら)に、栄村は1889年(明治22年)10月1日に大沢村・東阿野村・沓掛新田と合併の上で行政村としての豊明村となり[390]、この時点で知多郡から愛知郡に編入される[391]。旧2村の間に郡界・町村界が厳然と引かれ、それがそのまま豊明市と名古屋市緑区の境界に引き継がれて久しく、心理的な壁もしくは隔たりは、豊明市にとっては国の指定まで受けている古い由緒を名古屋市緑区に侵されているという不快感となり、名古屋市緑区にとっては本来は有松町のものである桶狭間の名を豊明市に横取りされてきたという不満となって[392]、それぞれ表面化するに至るのである。しかし、本来の大脇村と桶廻間村の関係をみると、大脇村にある清涼山曹源寺は桶廻間村にも相当数の檀家を持ち[151]、豊明市の有形文化財に指定されている「曹源寺山門」は桶廻間村の住民梶野清右衛門からの寄進であるほか[24]、桶廻間村の庚申堂で開かれていた祭りには大脇村からも大勢の参拝者があったといわれ[275]、このように文化的な交流が密であったことはもとより、長福寺の動きからも分かるように、両住民の間には対立よりむしろ合戦の故地としての連帯意識があり、共同で戦死者を悼み冥福を祈る心情が一般的に存在していたものとみられる。
長いあいだ続いてきた「本家争い」によって、合戦の場所が実際以上に不確定と思われてきた面も否めず、近年に至り、観光面で熱心に宣伝されてこなかったことを改めるべく名古屋市緑区と豊明市は桶狭間の戦い関連のイベントを合同で盛り上げてゆくことを考えているとのことである[393]。観光マップである「桶狭間の戦い広域マップ」は、名古屋市緑区役所と豊明市役所が合同で制作したものである[94]

桶狭間古戦場伝説地[編集]

桶狭間古戦場伝説地(2012年(平成24年)9月)。

桶狭間古戦場伝説地(おけはざまこせんじょうでんせつち)は、豊明市栄町南舘3番地・11番地にある戦跡(伝承地)で、国の史跡に指定されている位置。桶狭間の戦いの際に今川義元が敗死した推定地のひとつとして「屋形はさま」の名で古くから知られている。現在では公園(豊明市栄町南舘11番地)と香華山高徳院境内(豊明市栄町南舘3番地)の一部で構成される。

『寛文村々覚書』(寛文年間(1661年 - 1673年))には、英比庄大脇村の項に「一今川義元墓所 長百間程、横五拾間程構[注 96]、当村石塚山之内ニ于今有之。」という記述がみられる[394][395]。また、『尾州古城志』では、大脇村には今川義元陣所の遺構とされる「石塚山塁跡」が残されているという[358]。江戸時代前期の地誌ではこのように義元の本陣地や戦死地を大脇村内の「石塚山(いしづかやま)」とする記事がいくつかみられる。この「石塚山」には、桶狭間の戦いの戦死者を弔った塚(石塚)があったともいわれ[396]、一説には「メサ」(周囲の地表が侵食によって削られて形成された平らかな台地)ではなかったかともされるが[397]、いずれにしても何らかの特徴的な構造物がそこに存在していたことは考えられる。桶狭間古戦場伝説地から南へ500メートルほどの付近に現在ではホシザキ電機株式会社本社が立地する小高い丘陵地があり、『豊明村誌』が眺望良好としている小山状の地形[398]、これを石塚山とし、ここから南方へ緩やかに下る中腹付近がそれらの遺構の推定地とされている[396]。なお、石塚山一帯は区画整理されて現在は住宅地であり、石塚の名も「石塚公園」と呼ばれる街区公園位置や同名の交差点位置が残る程度である。

しかし、『寛文村々覚書』や「当村石塚山之内」や『尾州古城志』の「石塚山塁跡」という墓所の所在地が、「石塚山」とされる小丘陵上を指しているのか、「屋形はさま」を指しているのか、はっきりと確認することができない[398]。『関東下向道記』(1628年(寛永5年))にある「道より馬手(右手)にあたりて小高き古塚有そのかミ織田の信長公、駿河義基と夜軍有しに義基たたかひまけて此所にて果給ひし古墳なりと聞て」という記述は[368]、具体的な地名は挙げられていないものの、『道中回文図絵』(1664年(寛文4年))や『絵入東海道中記』(1669年(寛文9年))にある「今川義元さいご所」と同様、「屋形はさま」を指していると考えられている[389]。すなわち江戸時代初期には「屋形はさま」にも「塚」が存在していたことを示しており、その大きさを『知多郡桶廻間合戦申伝之覚』(1725年(享保10年))は2間半四方(約20.7平方メートル)であると記録している[389]

江戸時代に整備された東海道は、参勤交代の諸大名から伊勢参拝の庶民に至るまで多くの人々が往来してにぎわいを見せると共に、旅の参考となる宿駅・里程・名所旧跡を記した印刷物も大量に発行され、流通するようになる[399]。特に「屋形はさま」は東海道のすぐかたわらにあり、往来する多くの人々の目にもとまりやすく、手軽に訪れることのできる名所として、道中記などでも頻繁に紹介されている[399]。また、尾張藩士の間で桶狭間の戦いとは、神君(徳川家康)が関わった戦役として小牧・長久手の戦い(1584年(天正12年))と共に関心の高かったイベントであり、多くの合戦録が執筆されたほか、現地を訪れて調査を行うなどの人物も現れるようになる[400]1771年明和8年)12月、尾張藩勘定奉行の人見桼(ひとみ あつし)は友人であった同藩小納戸職の赤林信之明倫堂教授の古川宗三と共に桶狭間古戦場を訪れ、そのときの様子を『遊桶狭記』(『人見桼文艸』)で描いている[401]。このとき古戦場には今川義元の塚、少し離れて松井宗信の塚、他に隊将の塚が5つあり、暗く寂しい様子であったという[注 97][注 98]。名古屋に戻った人見と赤林は程なくして、それぞれの塚の上に「桶峡七石表」と呼ばれる7基の石柱を建立する。
その後、何度か荒廃の憂き目に遭いながらそのつど整備の手が入り、江戸時代後期から大正時代にかけて後述するような記念碑や墓石がいくつも建立されている。1937年(昭和12年)、当時の愛知郡豊明村村議会は文部省に対して当地を国の史跡として認可するよう申請を行う[404]。これを受けた文部省史蹟名勝天然記念物保存協会の担当者が現地で詳細な調査を行ったが、申請を受けたが当地を史跡として指定するにあたり「伝説地」としたのは、合戦地に比定される場所として諸説が次第に論じられるようになり、従来どおり「屋形はさま」がその地であると必ずしも断定しがたくなっていたためである[405]。他方で、文部省の担当者は大字桶狭間の広坪(ヒロツボ)付近の調査も行い、広坪すなわち「田楽坪」もまた「伝説地」として指定することもやぶさかでないという見解を示したが、大字桶狭間の案内者であった梶野禄文は「伝説地」としての扱いに難色を示し、これを拒否したという[404]

1966年(昭和41年)には、史跡指定地のうち香華山高徳院境内を除く部分が公園として整備されている[405]

桶峡七石表[編集]

桶峡七石表(おけはざましちせきひょう)は、「桶狭間古戦場伝説地」内に点在する7基の石標の総称である[406]。江戸時代後期、桶狭間の戦いの故地を訪れその荒廃ぶりを嘆いた人見桼が、友人の赤林信之と共に、鳴海の下郷家の出資を受け1771年(明和8年)12月に建立したものである[407][406]。この地にはもとより「三河七騎の墓」と称する7つの墳墓があったといい、2つが失われていることから「五墳」とも呼ばれ[341]、山田塚・御小姓塚・御草履取塚などという別称を持っていたとする[408]。あるいは、七墳とされたのは義元と松井宗信の墳墓を含めてのことだったともいう[341]。1号碑は今川義元、2号碑は松井宗信の名が刻まれるが、3号碑以降には特定の人物の名は刻まれていない。また埋設部分など、判読しきれていない文字もあると考えられている。今川義元の戦死の地を示した最も古い指標といわれ、これらの石標と松井宗信墓碑によって取り囲まれた範囲が桶狭間古戦場伝説地として史跡の指定を受けている[407]

七石表の一覧[406]
番号 画像 寸法[注 99] 文字 備考
1号碑 The Shichisekihyou 1st, Sakae-cho Toyoake 2012.JPG 18×18×130 北面:「今川上総介義元戦死所」
東面:「桶峡七石表之一」
南面:「明和八年辛卯十二月十八日造」「人見弥右衛門桼[407]」「赤林孫七郎信之[407]
「上総介」は織田信長が名乗った称号で、今川義元がそれを称したことは無いとされる。
2号碑 The Shichisekihyou 2nd, Sakae-cho Toyoake 2012.JPG 15×17×103 東面:「松井八郎冢或云五郎八」
南面:「桶峡七石表之一」
南面:「明和八年辛卯十二月十八日造」
香華山高徳院境内にある。
3号碑 The Shichisekihyou 3rd, Sakae-cho Toyoake 2012.JPG 15×15×95 西面:「士隊将冢」
東面下方:「人見弥右衛門桼」「赤林孫七郎信之」
南面:「本田尚澄書」
北面:「桶峡七石表之一」
調査によりすべての文字が確認済み。
4号碑 The Shichisekihyou 4th, Sakae-cho Toyoake 2012.JPG 15×15×84 西面:「士隊将冢」
東面下方:「人見弥右衛門桼」「赤林孫七郎信之」
北面:「桶峡七石表之一」
5号碑 The Shichisekihyou 5th, Sakae-cho Toyoake 2012.JPG 15×15×90 西面:「士隊将冢」
東面下方:「人見弥右衛門桼」「赤林孫七郎信之」
北面:「桶峡七石表之一」
6号碑 The Shichisekihyou 6th, Sakae-cho Toyoake 2012.JPG 15×15×90 南面:「士隊将冢」
西面:「桶峡七石表之一」
7号碑 The Shichisekihyou 7th, Sakae-cho Toyoake 2012.JPG 15×15×105 南面:「士隊将冢」
東面下方:「人見弥右衛門桼」「赤林孫七郎信之」
北面:「桶峡七石表之一」

桶峡弔古碑[編集]

桶峡弔古碑(おけはざまちょうこひ)は、桶狭間古戦場伝説地のうち公園内にあって、1809年(文化6年)に津島の神官であった氷室豊長(ひむろ とよなが)が建立した石碑である[405]。表面では「桶狭間の戦い」を回顧する文と往時を偲んで捧げた詩で、撰文は尾張藩の儒学者であった秦鼎(はた かなえ)、揮毫は尾張藩大坂蔵屋敷奉行であった中西融(なかにし とおる)[405]。裏面では荒廃する古戦場のありさまを見かねて建碑に至ったという趣旨などが記されている[409]。なお、碑文中には建碑年として「文化己巳夏五月」とあるが、当時出回っていた碑文の刷り物では「文化十三年己巳夏五月」(1816年)となぜか改竄されて記載されており、この刷り物を引用したと思われる『尾張名所図会』から『豊明町々誌』に至るまで、この「文化十三年己巳夏五月」がそのまま引用されている[405]

徳本の名号塔[編集]

徳本の名号塔(とくほんのみょうごうとう)は、桶狭間古戦場伝説地のうち香華山高徳院境内ののり面にある石塔である[410]。高さ50センチメートル、径25センチメートルほどの塔身を持つ[411]。江戸時代中期の浄土宗僧侶徳本(とくほん)は全国各地を回りながら庶民の教化に努めたとされ、その足跡は畿内・北陸・東海・関東と広範囲に及んでおり、自筆の「南無阿弥陀佛」の名号と円形の特徴的な花押が刻印された名号塔を各地に残している[411]

おばけ地蔵[編集]

おばけ地蔵は、桶狭間古戦場伝説地のうち香華山高徳院境内ののり面にあって、1853年嘉永6年)に某尾張藩士が建立したとされる地蔵である。界隈では人々により幽霊が出ると恐れられていたが、この地蔵の建立以降、幽霊の姿は見られなくなったという[410]

今川義元仏式の墓碑[編集]

今川義元仏式の墓碑(いまがわよしもとぶっしきのぼひ)は、桶狭間古戦場伝説地のうち香華山高徳院境内ののり面ある墓碑で、今川義元の300回忌にあたる1860年(万延元年)に建立されたものである[1]。方形の石柱と蓮花弁および笠を模した台座が組み合わさった墓塔の形状をなしていることから、仏式の墓碑と呼ばれている[412]。正面には「天澤寺殿四品前礼部侍郎秀峯哲公大居士」、右側面には「万延元年庚申五月十九日」、左側面には「願主 某」とそれぞれ刻まれている[412]
なお、江戸時代末期から明治時代にかけて活躍した儒学者細野要斎は旅の途中でこの300回忌の法要に立ち会ったとみられ、随筆『感興漫筆』において江戸時代末期の「屋形はさま」の様子を書き記している[413]

今川治部大輔義元の墓[編集]

今川治部大輔義元の墓(いまがわじぶだゆうよしもとのはか)は、桶狭間古戦場伝説地のうち公園内にある墓碑で、有松村の住人であった愛知県第7大区1小区戸長山口正義[414]が主唱し愛知県令安場保和の協力を仰いで1876年(明治9年)5月に建立されたものである[415]。元々は塚であったと考えられ、碑陰記の示すところでは、前出の桶峡弔古碑が建立されて以来それを今川義元の墓と勘違いをして香華を手向ける人が後を絶たず、後にいばらやごみで埋もれてしまって碑の在処さえ分からない状況に陥っていたので、このたび改めて周辺を整備し、この墓碑を建立するに至った、とのことである[415]。碑は初め東面であったが、1906年(明治39年)10月の明宮(後の大正天皇)行啓に際して南面に改修したという[416]

松井宗信の墓[編集]

松井宗信の墓(まついむねのぶのはか)は、桶狭間古戦場伝説地のうち香華山高徳院境内の墓地にある墓碑で、今川治部大輔義元の墓と同じく山口正義が主唱して1876年(明治9年)5月に建立されたものである[417]二俣城城主であったとされる松井宗信は今川義元の重臣として知られ、桶狭間の戦いにおいて奮戦の末に戦死している[417]

古戦場標柱[編集]

1915年(大正4年)、大正天皇の即位を記念して有松町によって建てられた標柱である。正面には「桶狭間古戰場趾 愛知縣」、左側面には「従二位男爵野邨素介書」、背面には「大礼記念大正四年十一月有松町建之」とそれぞれ刻まれている[418]

その他の桶狭間[編集]

桶狭間古戦場まつり[編集]

桶狭間古戦場まつり(おけはざまこせんじょうまつり)は、桶狭間の戦いの戦死者を慰霊するために催される祭りである。豊明市と名古屋市緑区でそれぞれ同名の祭りが開催されている。

豊明市の「桶狭間古戦場まつり」[編集]

開催日は毎年6月第1土曜日・翌第1日曜日で[190]、主催は桶狭間古戦場まつり実行委員会、共催は豊明市および豊明市観光協会である。土曜日には、国の史跡戦人塚位置[注 100]において戦人塚供養祭、桶狭間古戦場伝説地において今川義元の墓前祭、香華山高徳院において今川義元の霊前祭が行われる。日曜日には、市民参加による武者行列が豊明市栄町内を練り歩き、その後香華山高徳院で合戦の様子を再現した寸劇が披露されるほか、火縄銃の発砲実演や棒の手演技、芸能発表、ハイキング大会、フリーマーケットなど、数々の催しが繰り広げられる[190]。 かつて、義元の死を悼み供養するという義元まつりであったが、義元だけでなく織田信長の偉業も讃えなければ義理が悪いのではないかという土川元夫(かつての名古屋鉄道株式会社取締役社長)の提案により、以来古戦場まつりとなったという[419]

名古屋市緑区の「桶狭間古戦場まつり」[編集]

開催日は桶狭間の戦いが勃発した5月19日の直前にあたる5月中の日曜日で[注 101]、主催は桶狭間学区区政協力委員会、桶狭間古戦場保存会、共催は有松商工会、有松桶狭間刊行振興協議会、桶狭間消防団、有松・桶狭間・南陵子ども会、和光山長福寺、桶狭間神明社などである[420]。桶狭間古戦場公園において桶狭間の戦いの戦死者に向けた慰霊式典が行われる。ほかに、公園では古武道演舞の奉納、芸能発表、和光山長福寺では歴史講演会の開催、和光山長福寺駐車場では屋台が建ち並んで飲食が可能となっている。史跡巡りのツアー、スタンプラリーなども同時に開催される[421]。夕刻になると、大池の周囲で3,500本のろうそくが灯される万灯会が行われる[420]

桶狭間区の氏神である桶狭間神社(2012年(平成24年)10月)。

桶狭間区[編集]

桶狭間区(おけはざまく)は、豊明市に存在する行政区である。桶狭間区はさらに桶狭間1、桶狭間2、桶狭間3、桶狭間4に分かれるが、全体の範囲は、おおむね豊明市栄町南舘のうち豊明市道大脇舘線の東側、ホシザキ株式会社本社敷地周辺、および豊明市栄町山ノ神とする。1960年(昭和35年)4月1日に当時の愛知郡豊明町が行政区の再編を行い第7区のひとつとして桶狭間を設置[422]、1972年(昭和42年)4月2日の再編により単独の桶狭間区に昇格している[422]。2013年(平成25年)4月1日現在の人口は2,238、世帯数は969を数えている[423]

桶狭間神社[編集]

桶狭間神社(おけはざまじんじゃ)は、豊明市栄町字山ノ神にある神社である位置。正式には神明社(しんめいしゃ)といい、1947年(昭和22年)に創建、祭神として鎮宅霊神を祀る[405]。地名にあるように元は山の神を祀っていたが、後年桶狭間区の氏神となり、神明社に改号している[405]

脚注[編集]

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注釈
  1. ^ 福島県いわき市の渓谷である背戸峨廊(せどがろう)は詩人草野心平によって名付けられたもので、背戸は隠れたところ、峨廊は美しい岸壁を意味するという[11]。なお、大字桶狭間に隣接する豊明市新栄町1丁目から2丁目にかけて、新栄町交差点位置から落合神明社位置にかけての一帯にも、かつて「背戸山」と呼ばれる字が存在した[12]
  2. ^ 桶狭間村が共和村と合併した時期について、やや不明瞭な点があることにも触れておきたい。愛知県が発行する『市町村沿革史』、また桶狭間村の受け皿であった共和村の後継自治体大府市による『大府市誌』は、1889年(明治22年)の市制・町村制施行時に桶狭間村が歴として存在していたことを示し、共和村との合併を1892年(明治25年)9月13日としている[26]。本項の記述もそれに依っている。他方、『有松町史』は共和村との合併の明確な年月日を記していないものの、文脈上、1888年(明治21年)4月の段階で愛知県により共和村と合併が強行されたような記述がなされており[27]、また1891年(明治24年)に隣村有松村で開かれた村会で「共和村大字桶狭間」との合併を満場一致で決議したことにも触れている[28]。そうであるとすれば、市制・町村制に基づく法人格を帯びた「桶狭間村」は一度も存在しなかったことになる。また、陸地測量部による50,000分の1地形図である『名古屋二號 熱田町』は1891年(明治24年)に測図し1900年(明治33年)に発行されたものだが、ここでも桶狭間村は存在せずに大字桶狭間とされている[29]
  3. ^ 有松村は1892年(明治25年)9月13日に町制施行し有松町になっている[28]
  4. ^ 「桶狭間北1丁目」は存在しない。
  5. ^ 名古屋市緑区から大府市にかけての付近。この谷間に沿って東海道本線が走る。
  6. ^ いくつか例を挙げれば、有松丘陵として大高緑地付近(54.6メートル、位置)、高根山(52.3メートル)、坊主山(59.1メートル、位置)、「おけはざま山」と推定されてきたうちのひとつの丘(64.9メートル、位置)、有松裏(55.3メートル、位置)、中京競馬場付近(57.2メートル、位置)、大清水(60.1メートル、位置)、二村山(71.8メートル、位置)などがあり、鳴子丘陵に滝の水緑地(63.7メートル、位置)、天白公園(60.1メートル、位置)、豊田工業大学敷地(三角点83.4メートル、位置)、平針付近(三角点88.1メートル、位置などがある。ただし、昭和30年代以降の宅地開発などによる大がかりな土地の改変により、本来の地形や丘頂高度が失われていることにも留意しなければならない[38]
  7. ^ 『尾張徇行記』(1808年(文政5年))は、大脇村から近崎村・北尾村・横根村・大符村・緒川村へ抜ける街道、すなわち現在の愛知県道57号瀬戸大府東海線国道366号に近いルートを「東浦街道」としている[80]
  8. ^ 『天保十二年丑年五月知多郡桶廻間村圖面』には「市右衛門池」と記されている[53]
  9. ^ 交差点の北側に、高さ2メートルほどの地蔵が建立されている。知多四国八十八ヶ所霊場の巡礼者が特に多い時期には(空海の命日である3月21日前後など)、一日中読経の声と焼香が絶えなかったといわれる[89]
  10. ^ 大脇村では、右折し清涼山曹源寺へと向かう道を「おけば道」といい、そのまま東進を続ける道を「大高道」と呼んでいたようである(大脇村の視点からすれば、共に進行方向が逆向きであることに注意)[90]。なお2013年(平成25年)現在、この分岐部は不明瞭である。
  11. ^ 後年の愛知県道57号瀬戸大府東海線。豊明市域では南方に作られたバイパスが県道として認定され、旧県道は現在では豊明市によって管理される市道となっている。
  12. ^ この付近の地名を豊明市阿野町字大高道(おおだかみち)といい、当地がかつて街道沿いにあったことの名残を伝えている[89]
  13. ^ 北尾村は知多郡に所属した村で、現在の大府市字北屋敷・城畑・南屋敷付近に集落が存在している。1876年(明治9年)、同じく知多郡に所属する近隣の近崎村と合併して北崎村となり、消滅する[92]
  14. ^ 近崎村は知多郡に所属した村で、現在の大府市北崎町7丁目から神田町6丁目付近にかけて集落が存在している。
  15. ^ 『天保十二年丑年五月知多郡桶廻間村圖面』では東海道ではなく「廣坪田面」付近から端を発しているようにも見える[53]
  16. ^ 天白川水系手越川(てこしがわ)を指す。
  17. ^ 厳密なところの近崎道は、この先の井田熱田神社付近で市道からはずれ左に折れるようなコースをとり、北崎インターチェンジとは交わらない[96]
  18. ^ 改札口を出て右側の出入口を進むとそのままイオンタウン有松へ直結する。
  19. ^ 「御林山」は尾張藩が公共用材の確保を目的として所有していた山林で、地元民の伐採などの原則として禁じ、保護林としている[102]
  20. ^ 「定納山」は毎年一定の年貢(下苅年貢米)を納めることで肥料・飼料・燃料となる下草・落葉の採取が許可されていた山林で、日常生活に欠かせない村の共有林でもある[102]
  21. ^ 「本田」とは慶長検地において石高が決定していた田畑をいう[102]。これにより、本田の開墾時期は多くが江戸時代以前であったことが推察できる。
  22. ^ ここでの「屋敷」とは居住家屋の集まった一帯を指す[102]
  23. ^ 湧水があり、低温状態の田をいう[106]
  24. ^ 「立合池」は2村以上の村民が共同で管理する池をいう[119]
  25. ^ 『尾張国熱田大神宮縁起』(890年寛平2年))には万葉仮名で「奈留美」と表記されている[131]
  26. ^ 厳密には「鳴海東西庄」とあり、東西ふたつの庄域を併せて「鳴海庄」と呼ばれている[136]
  27. ^ 「尾州鳴海庄大高郷三座村」(『大般若経』第62巻奥書(1392年明徳3年・元中9年))、雨宝山如意寺知多市佐布里地蔵脇)所有)[133]
  28. ^ 「於尾張国愛智郡鳴海庄内傍爾本藺生山談義所」(『愚要抄』奥書(1386年至徳3年・元中3年))[138]
  29. ^ 「尾張国愛智郡鳴海庄高大根郷若子」(円通山小馬寺鰐口銘文(1417年応永24年))[138]
  30. ^ 「愛智郡大脇鄕」(熱田社社領目録『一円御神領』(1354年文和3年、正平9年))[140]。ただし愛智郡のうち鳴海庄に属していたかどうかは判然としない。
  31. ^ 猪伏村(あいち健康の森公園付近)、大苻村(大府駅周辺付近)、吉川村(知多半島道路沿道、大府東海インターチェンジ付近)、半月村(愛知県道252号大府常滑線沿道付近)、北尾村(大府市北崎町・神田町、北崎インターチェンジ付近)、横根村(国道366号沿道付近)、追分村(大府市東新町付近)、長草村(大府市長草町、大府パーキングエリア付近)。
  32. ^ 『応永一九年熱田大神宮祠官共僧等言上状』、京都御所東山御文庫記録[142]
  33. ^ 『尾張徇行記』(1808年(文政5年))によれば、善空南立は開山ではなく中興であったという[155]
  34. ^ 現在でも中山家本家には日蓮自身の手になる仏像が安置されているという[150]
  35. ^ 織田敏定の尾張進攻、1478年10月4日(応仁2年・文明10年9月9日)。
  36. ^ 森山崩れ」、1535年12月29日(天文4年12月5日)。
  37. ^ 今川義元判物『沓懸・高大根・部田村之事』(京都府個人所有)。1551年1月7日(天文19年12月1日)に出されたこの文書は、丹羽隼人佐(にわはやとのすけ)に尾張国沓掛・高大根・部田村を安堵するというものである[169]
  38. ^ 従来は1554年8月10日(天文23年7月12日)といわれてきたが、近年ではその一年前の出来事であったという説が有力である[173]
  39. ^ 村木砦の戦い」、1554年2月25日(天文23年1月24日)。
  40. ^ 誅殺されたのは山口父子ではなく笠寺城主の戸部政直(新左衛門)であったとする『甲陽軍鑑』の記述もよく知られている[183]
  41. ^ 『今川義元伝馬手形写』(1559年4月25日(永禄2年3月18日))、屋代本文書[185]
  42. ^ 『今川義元定書写』(1559年4月27日(永禄2年3月20日))、松林寺文書[186]
  43. ^ 『今川義元判物写』(1559年9月22日(永禄2年8月21日))(『土佐国蠧簡集残編三』、高知県立図書館蔵)[187]
  44. ^ 「永禄三年五月八日 宣旨(せんじ) 治部大輔源義元(じぶだいふみなもとのよしもと) 宜任参河守(よろしくみかわのかみにんずべし) 蔵人頭(くろうどのとう)」(『瑞光院記』)[189]
  45. ^ このときには馬上の6人のほかに雑兵が200人あまり集まっている。
  46. ^ 山沿いの道の意か。
  47. ^ 現在の天白川。
  48. ^ 現在の弥富市鯏浦町付近。
  49. ^ 讒言は佐久間信盛によるものとされ、三方ヶ原の戦い1573年元亀3年))の際に敵方の秋山虎繁(信友)と内通したというものであったという。水野信元の死後、水野氏の支配地は佐久間信盛の手中に収まったが、後年信長はこれを悔やみ、信元の後継者であった水野忠重に旧領を与えると共に刈谷城主とし、他方の佐久間信盛を追放するの挙にでることになる[208]
  50. ^ 鳴海に代官所が置かれたのは1782年天明2年)のことである[224]。当初は鳴海村森下に置かれ、1860年安政7年)前後に丹下砦跡に移転している[225]
  51. ^ 庄屋・組頭・百姓代という地方三役の構成は江戸幕府直轄地(天領)において正式に認められたものであるが、尾張藩では百姓代ではなく「頭百姓」が置かれており、その役割も百姓代とは相当異なっていたようである[225]。制度下の存在である百姓代が庄屋・組頭を監視する役目を帯びていたのに対し、尾張藩の「頭百姓」はむしろ庄屋・組頭の補佐、村内の相談役といった場で活躍することが多く、藩政との直接のつながりも持っていなかったとみられる[226]
  52. ^ 桶廻間村に東接する大脇村でも、東海道の開通に伴い街道沿いへの移住が呼びかけられ、慶長年間(1596年 - 1615年)に支郷落合村(おちあいむら)が成立している[231]
  53. ^ 『天保十二年丑年五月知多郡桶廻間村圖面』に記載のある「本田」は1608年(慶長13年)以前から存在する農地を示す[102]。これによれば本田としては田がほとんどであり、畑はごくわずかしか見られない[53]
  54. ^ 尾張藩は版籍奉還時(1869年7月25日(明治2年6月17日))に「名古屋藩」と改名している[238]
  55. ^ 岡崎県豊橋県重原県西尾県半原県西大平県西瑞県田原県刈谷県挙母県の10県、伊那県の三河管轄地、三河国内にあった国外諸県の飛地など[240]
  56. ^ 明治4年4月4日太政官布告第170号第1則[241]
  57. ^ 額田県は、知多郡を第1大区、碧海郡を第2大区、幡豆郡を第3大区、加茂郡を第4大区、渥美郡を第5大区、宝飯郡を第6大区、額田郡を第7大区、設楽郡を第8大区、八名郡を第9大区としている。
  58. ^ 名古屋県は当初、大小の区別を持たない90の「区」を置いている[244]
  59. ^ 明治5年4月9日太政官布告第117号[246]
  60. ^ 「名古屋県 愛知県ト改称相成候事 壬申四月二日 太政官」(『公文録』明治五年第九七巻、国立公文書館所蔵)[249]
  61. ^ 「愛知県布達第百八十一号 明治九年八月廿一日此度従来ノ大小区ヲ廃シ更ニ十八区ヲ置キ郡治職制其外諸規則左ノ通定立候条、此段布達候事」[256]
  62. ^ 共和村本村は分村にあくまで反対であり、その旨を記した誓約書を総代宛てに提出している[25]。共和村では長草村との合併に際しても紆余曲折を経験しており[92]、「共和村」という名も連帯意識を高め相互協調をはかるための人為的な命名であったという[257]
  63. ^ このときに「おけはざま」の漢字表記が「桶狭間」に統一される[16]
  64. ^ 町村制第116条「數町村ノ事務ヲ共同処分處分スル爲メ其協議ニ依リ監督官廰ノ許可ヲ得テ其町村ノ組合ヲ設クルコトヲ得 法律上ノ義務ヲ負擔スルニ堪フ可キ資力ヲ有セサル町村ニシテ他ノ町村ト合併(第四條)スルノ協議整ハス又ハ其事情ニ依リ合併ヲ不便ト爲ストキハ郡参事會ノ議決ヲ以テ數町村ノ組合ヲ設ケシムルコトヲ得」[259]
  65. ^ 部分林とは、民間の資本を用いて官有林に造林を行い、その利益を官民で分け合うことをいう。桶狭間村では、1886年(明治19年)から1900年(明治33年)までの期限を設けて契約が交わされ、66町3反2畝9歩(約65.77ヘクタール)の禁裏御料に996,997本を松苗を植え、その資本金額および費用は364円46銭余であったという[265]
  66. ^ 「有松町立有松尋常小学校桶狭間分校」は1910年(明治43年)4月に廃止される[268]。はるか後年の1975年(昭和50年)9月1日名古屋市立有松小学校桶狭間分校が名古屋市緑区有松町大字桶狭間字巻山に開校するが[269]、これと直接のつながりは無い。
  67. ^ 大池の裏手にあることからこの名で呼ばれたと考えられる[82]
  68. ^ 現知多郡東浦町。村木郷と呼ばれた戦国時代には今川方の支配下にあり、近隣の織田方武将であり緒川・刈谷両城主でもあった水野信元を牽制する目的で「村木ノ城」が築かれたが[290]、『信長公記』によれば1554年2月25日(天文23年1月24日)に織田方がこれを猛攻の末陥落させている(村木砦の戦い)[175]
  69. ^ [308]
  70. ^ 現在の名古屋市緑区太子・大将ケ根付近。
  71. ^ 『日本戦役 桶狭間役』は執筆されるにあたり、江戸時代の関連文書338点が引用されているといわれる。しかしその初稿からは、これら膨大な数の史料から必要な箇所を随意に取り出してをつなぎ合わせただけのような印象も受けるという[312]
  72. ^ 大脇鄕 畠拾町六段三百歩 除 以上 貳町四段大 定捌町貳段六十歩」[319]。ただしこの「愛智郡大脇鄕」は「大秋(おおあき)」(現名古屋市中村区付近)を指したものではないかとする見解もある(『尾張志』(1843年(天保14年)))[320]
  73. ^ 「□□(一五)百拾貫文 百廿貫 大わきの郷 御加増 矢野弥右衛門」(『織田信雄分限帳』、国立国会図書館蔵)[325]
  74. ^ なお、1840年(天保11年)に作成された『大脇村絵図』にあっても、この付近一帯は「御林」であるばかりで人家の形跡が見られない。ただし江戸時代を通じて大脇村村域であったことは確かである[329]
  75. ^ 『今川氏真判物』(1560年7月1日(永禄3年6月8日)、『岡部文書』)[332]
  76. ^ 『今川氏真判物写』(1560年12月25日(永禄3年12月9日)、『土佐国蠧簡集残編三』)[333]
  77. ^ 『今川氏真感状写』(1560年7月5日(永禄3年6月12日)、『鵜殿系図伝巻一』)[334]
  78. ^ 『今川氏真判物写』(1560年9月20日(永禄3年9月1日)、『土佐国蠧簡集残編三』)[335]
  79. ^ 『今川氏真判物写』(1560年12月18日(永禄3年12月2日)、『土佐国蠧簡集残編三』)[336]
  80. ^ 「義元帷幄(本陣)ノ内ニ座シテ退カス敗軍ノ士ヲ指揮シテ戦カハシメント欲ス、于時信長カ従士服部小平太進ミ来テ鎗ヲ以テ義元ヲ突ク」[348]
  81. ^ 「義元幕を打廻して御座けるが、軍中の騒動を見て静まれ静まれと下知し玉ふ、服部小平太名乗懸打てかかる」[349]
  82. ^ 「(信長、)彼(義元)カ陣取シ上ナル山ニテ旗ヲ張せ各ヲリ立テカゝレト下知シ給ヘハ」[351]
  83. ^ 「上の山よりも百余人程突て下り、服部小平太と云者長身の鑓にて義元を突申候」[352]
  84. ^ すでに三角点は廃止され、現在では泉団地と呼ばれる住宅地となっている[355]
  85. ^ 陸地測量部『名古屋二號 熱田町』による[29][72]。後年の測量により、「64.7メートル」とされている場合も多い[356]
  86. ^ 高田徹 『中世城郭研究』14、「桶狭間合戦時の織田氏城郭」 中世城郭研究会、2000年(平成12年)[359]
  87. ^ 「道より馬手(右手)にあたりて小高き古塚有そのかミ織田の信長公、駿河義基と夜軍有しに義基たたかひまけて此所にて果給ひし古墳なりと聞て」[368]
  88. ^ 「義元は山上に幕を張て酒宴せしを、織田氏の兵襲ふて山下(即碑の立る所)に追ひ下す」[370]
  89. ^ ただし、義元が「おけはざま山」一帯のいかなる地点に陣を張ったにしろ、桶狭間古戦場伝説地は真東にはならず、だいたい北北東から北東方面になる。
  90. ^ 小和田哲男 『桶狭間の戦い 歴史群像ドキュメント③』 学習研究社、1989年[371]
  91. ^ 「桶峡ノ内田楽ケ坪ト云処ニ昼弁当遣ヒ…」[376]
  92. ^ 「尾張国でんがくがくほと云所にて、永禄三年庚申五月十九日、義元は信長のためにほろひ…」[376]
  93. ^ 「桶峡山ノ内、田楽峡ニ至ル」[376]
  94. ^ 「義元ハ桶狭間田楽か坪といふ所に陣取」(『改正三河後風土記』)[377]、「(義元、)桶廻間田楽が久保へ御着陣」(『知多郡桶廻間合戦申伝之記』)[378]、「(義元、)沓掛を出陣し桶狭間山の中、田楽狭間に至る」(『桶狭間合戦記』)[364]
  95. ^ 「あぶれたる山だちどもが出てあひて串刺やせん田がくがくぼ」(尊海、『あづまの道の記』)[382]
  96. ^ 長さおよそ180メートル、横およそ90メートル。
  97. ^ 「由有松曁桶峡田楽注回道八九里、山上曰総州所苃処、其下則大府峡、南西松山環列、総州丘負焉、一簣之凷益惨矣、双松左右于丘、西近山垠三尋、北距今之駅道百歩而近、五隊将冢在総州丘東三十武艸野中、各有樹植焉、其境幽邃悄愴、不可状也、松井冢有在総州丘西南七十余武山畔、所謂苃所之側、皆莫表之為恨、…」(『遊桶峡記』)[402]
  98. ^ 義元の墓が桶狭間にあり、その周辺の山上山下に家臣の墓があるとする記述は『尾張国名蹟略志考』(1745年延享2年))などによっても知られる[403]
  99. ^ 幅×奥行×地上高、単位はセンチメートル。
  100. ^ 「戦人塚」は正確には国の史跡「桶狭間古戦場伝説地」の附(つけたり)指定である。
  101. ^ 桶狭間の戦いが勃発したのは旧暦の5月19日であるが、現在では日付をそのまま新暦の5月19日にスライドさせ、その直前の日曜日としているようである。
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  • 大府市誌編さん刊行委員会 『大府市誌』 愛知県大府市、1986年(昭和61年)3月25日
  • 「角川日本地名大辞典」編纂委員会 『角川日本地名大辞典 23 愛知県』 株式会社角川書店、1989年(平成元年)3月8日 ISBN 4040012305
  • 株式会社角川書店 『なごやの町名』 名古屋市計画局、1992年(平成4年)3月31日
  • 豊明市文化財保護委員会 『文化財保護委員会発足二十周年記念 豊明文化財保護の歩み』 豊明市教育委員会、1992年(平成4年)3月31日。
  • 豊明市史編さん委員会 『豊明市史 本文編』 豊明市役所、1993年(平成5年)3月31日
  • 名古屋市教育委員会 『名古屋市文化財調査報告33 有松まつり 布袋車・唐子車・神功皇后車』 名古屋市教育委員会、1997年(平成9年)
  • 新修名古屋市史編集委員会 『新修名古屋市史 第8巻 自然編』 名古屋市、1997年(平成9年)3月31日
  • 愛知県総務部地方課 『市町村沿革史 -地方自治法施行50周年記念-』 愛知県・愛知県市長会・愛知県町村会、1997年(平成9年)11月1日(再訂版)
  • 新修名古屋市史編集委員会 『新修名古屋市史 第2巻』 名古屋市、1998年(平成10年)3月31日
  • 榊原邦彦 『緑区の史蹟』 鳴海土風会、2000年(平成12年)10月
  • 豊明市史編集委員会 『豊明市史 資料編補一 原始・古代・中世』 豊明市、2001年(平成13年)3月31日
  • 豊明市史編集委員会 『豊明市史 資料編補二 桶狭間の戦い』 豊明市、2002年(平成14年)3月31日
  • 豊明市史編集委員会 『豊明市史 資料編補二 桶狭間の戦い 付録』 豊明市、2002年(平成14年)3月31日
  • 産業技術総合研究所 『地質ニュース 第579号』 株式会社実業広報社、2002年(平成14年)11月1日
  • 「大脇の歴史」編集委員会 『大脇の歴史』 豊明市大脇区「大脇の歴史」発刊実行委員会、2003年(平成15年)3月31日
  • 加納誠 『旧街道のなぞに迫る 緑区(1)』 2005年(平成17年)
  • 山口輝雄 『天保の村絵図 緑区域 解読版』、2006年(平成18年)11月
  • 愛知県史編さん委員会 『愛知県史 資料編12 織豊2』 愛知県、2007年(平成19年)3月31日
  • 豊明市史編集委員会 『豊明市史 総集編』 豊明市、2007年(平成19年)3月31日
  • 梶野渡 『地元の古老が語る桶狭間合戦始末記』 “桶狭間の戦い”を学ぶ会、2007年(平成19年)12月20日
  • 『会報おけはざま 2009年5月号』 桶狭間古戦場保存会、2009年(平成21年)5月
  • 尾畑太三 『証義・桶狭間の戦い』 舟橋武志、2010年(平成22年)11月1日 ISBN 9784938341770
  • 梶野渡 『新説桶狭間合戦』 名古屋市清水山土地区画整理組合、2010年(平成22年)12月
  • 緑区ルネッサンスフォーラム 『緑区のあゆみ(新版)』 緑区ルネッサンスフォーラム、2012年(平成24年)3月30日
  • 愛知県史編さん委員会 『愛知県史 資料編24 近代1 政治・行政1』 愛知県、2013年(平成25年)3月31日

外部リンク[編集]