スキーブーム

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スキーブームとは、日本において、1960年代以降[1]、遅くとも1970年代後半[2]から1990年代前半にかけてスキー人口が非常に増えた事象のことである。

概要[編集]

初期のブーム[編集]

最初のブームはレジャーブームが到来した1961年であり、この年はスキー客が年間100万人を突破した年である。 やがて、1972年札幌オリンピックをきっかけにスキーブームが到来したとされている。

バブル景気到来[編集]

1987年に映画「私をスキーに連れてって」がヒットし、スキーブームが再来した。 レジャー白書によれば、最盛期であった1993年には1860万人にまで増加した。ちょうど同映画がバブルの時期に重なったこと、週休二日制の一般化、スキー用品の低価格化、企業の多角経営によるスキー産業(不動産、スキー用品)への参入、既存のスキー場の拡張、新規のスキー場の営業開始、各高速道路東北上越新幹線などの交通網の整備等を社会的背景として、スキーがレジャーとして一般市民に広がった。この当時はまだスノーボードは一般化していなかった。

JRのスキー臨時列車シュプール号」が設定されたのもこの頃で、国鉄末期の1986年に運転を開始、関東・中京・近畿から長野県・新潟県をメインに、近畿からは山陰へも、関東からは東北方面へも運行された。寝台特急「北斗星トマムスキー/ニセコスキー」が運行されていたのもこの時期である。同じ時期にJR北海道では札幌や千歳空港からトマム富良野ニセコへのリゾート特急を、東武鉄道では南会津へのスキーヤー向け夜行列車「スノーパル」の運行を開始している。

大都市からスキー場へのツアーバスも多数運行されたが、スキー場へのアクセスは自家用車が多かったため、大都市からスキー場エリアへの高速道路や並行する幹線道路は断続的な渋滞が発生していた[2]。たとえば関越自動車道では、通常の金曜の深夜にかかわらず50km以上の渋滞が生じたり、都内の環八においては、東名高速用賀インターから関越道東京側入口となる練馬まで15km程度の距離であるにもかかわらず、3時間~5時間かかることもよくあったという。

ブームの真っ只中である1990年前後には林間学校修学旅行(特に高校)がスキーという学校もかなりあった。

スキー人口の増加に伴い、当時非常に高価であったスキー用品の低価格化が進みブーム以前は10万円程度だったスキーセットがディスカウントストア等で2万円程度になるなど安価で購入できるようになった。

この当時の人気スキー場ではリフトゴンドラの待ち時間が数十分から1時間というのも珍しくなかった[2]。また宿が取れない、相部屋ですし詰めで食事も貧弱、などといったことも常態化していた[2]。ブームの時期がバブル期に重なっていたこともあり、新スキー場が多数オープンし、既存のスキー場ではゲレンデの拡張や既存リフト・ゴンドラの架け替えなどが相次いだ。1993年には千葉県船橋市に屋内スキー場として日本最大であったららぽーとスキードームSSAWSが開業し、2002年に閉鎖、のちに解体されている。

その頃、各地のスキー場付近の高原エリアにリゾートマンションが急速に建設され、販売されるとすぐに売り切れとなった。新潟の湯沢町は例となる。それらの急なリゾートマンションの建設によってその地域での水不足が心配されることもあった。

スキーブーム下における他産業の対応[編集]

1992年東京ディズニーリゾート(TDL)の客が減ったため、オリエンタルランド側のCMで、「スキーよりミッキー」という宣伝を行った。このCMのストーリーは、スキーに向かう途中の車の中で、渋滞にうんざりする仲間のうちの一人の女性が「スキーよりミッキー」と突然言い出し、スキー板を積んだ車のまま、ディズニーランドの駐車場の入り口に同様の車が向かうというもので、スキー業界の人々に驚きを与えた。事実、 スキーブームには、TDLの入場者数が減っていた。

楽器メーカーでは、ヤマハが音源内蔵シーケンサーQY101990年に発売している。これは、「スキーバスの中に持ち込んで手軽に作曲が楽しめるもの」というコンセプトの下で設計されている。

スキーブームの終焉、衰退[編集]

しかしバブル時代の象徴ともいわれたこのスキーブームも、その崩壊とともに鎮静化に向かった。1980年代以降一貫して増加していたスキー人口は、バブル景気の残り香が漂っていた1993年の1860万人をピークに減少に転じ、スノーボード人口の増加や時代の変化に伴うスキー人気の低迷や1990年代より慢性的に続く暖冬傾向による雪不足も相まって、2000年代前半には800万人を割るなど約10年でピーク時の3分の1にまで減少し、それに伴いスキー場も約2割減少した。市場の多くを占めていた国内のスキー板のメーカーも、1990年のスキー板への輸入関税撤廃と不況の影響で倒産と事業撤退が相次ぎ、1991年ハガスキーが、1996年カザマスキーがそれぞれ倒産、1997年にはヤマハが、長野オリンピックに国内が沸いた1998年には西沢がそれぞれスキー事業から撤退している。2000年代後半以降はスキー人口の減少の度合いは比較的緩やかになっているものの、客層の主体が中高年が多くを占めるようになるなど、若者のスキー離れは依然歯止めがかからない状態が続いている。

その一方で、海外からの訪日客の増加に伴い、外国人客を取り込むことで活気を取り戻そうと試みるスキー場や自治体も増えている。

異業種からのスキー場経営参入企業[編集]

かつてスキー場経営に参入していた異業種企業

本業以外からのスキー用品参入企業[編集]

出典[編集]

  1. ^ 2014年2月18日中日新聞朝刊21面
  2. ^ a b c d 『フィールドライフNo.42』p.032。