ジェミニ計画

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: 案内検索
マクドネル社製ジェミニ宇宙船
Gemini 6 7.jpg
軌道を周回するジェミニ宇宙船
体積 2.55 m³ 90 ft³
重量
宇宙船部分 591 kg 1,303 ポンド
機械船部分 1,277 kg 2,815 ポンド
総重量 3,851 kg 8,490 ポンド
エンジン・推力
逆噴射用ロケット
(固体燃料)× 4:
1,132.5 kg 11.12 kN
大気圏再突入時
姿勢制御用小型
ロケット

N2O4 / MMH)× 16:
11.325 kg 111 N
姿勢制御用ロケット
(N2O4 / MMH)× 2:
38.5 kg 378 N
姿勢制御用ロケット
(N2O4 / MMH)× 6:
45.3 kg 445 N
姿勢制御用ロケット
(N2O4 / MMH)× 8:
11.3 kg 111 N
性能
最長飛行時間 14日 軌道206周
遠地点 402 km 250マイル
近地点 160 km 100マイル
帰還時減速度 222 m/s 728 ft/s
宇宙船解剖図
Gemini1.png
ジェミニ宇宙船解剖図(NASA)
マクドネル社製ジェミニ宇宙船

ジェミニ計画(ジェミニけいかく)はアメリカ航空宇宙局 (NASA) によって実行された、二度目の有人宇宙飛行計画である。1965年から1966年にかけ、マーキュリー計画アポロ計画の間に、10回の有人飛行が実施された。計画の目的は、月面着陸を目標とするアポロ計画において必要とされる、ランデブーやドッキング、宇宙遊泳などのより発展的な技術を開発することであった。

計画の目的[編集]

ジェミニ計画は、マーキュリーとアポロの間に中間的な段階が必要とされることが明らかになったことにより提案された。主な目的は、

  • 後の月飛行計画や、深宇宙への飛行で要求されるような長期間にわたり、2名の宇宙飛行士および彼らの生命を維持させるために必要な機器を飛行させること。
  • 低軌道上を周回する他の人工衛星とランデブーおよびドッキングを行い、さらに宇宙船あるいは当該衛星の推進装置を使用して軌道変更の操作を行うこと。
  • 大気圏再突入の後、予定した地点に正確に宇宙船を着陸させる手段を確立させること。
  • 長期間の宇宙飛行が飛行士の心理や体重の変化にどのような影響を与えるのか、より多くの情報を得ること。
  • 船外活動 (Extra Vehicular Activity, EVA) を成功させること。

であった。

詳細[編集]

ジェミニ計画が本格開始されたのは、1962年1月であった[1]。 ジェミニ計画は、元々はマーキュリー計画の延長と考えられていたため、初期の頃は「マーキュリー・マークII (Mercury Mark II)」などと呼ばれていた。当初の予定ではアポロを上回るような内容の実験も用意されていたのだが、その中で実際に実現できたものは、マーキュリーの時と同様決して多くはなかった。これはひとえに計画の開始が遅れたことによるもので、いくつかの点ではアポロ計画で得られたノウハウを流用することさえあった(アポロはロケットの発射は遅れたものの、計画がスタートした時期はジェミニよりも前であった)。

マーキュリー宇宙船との主な違いは、マーキュリーではモジュールが一体化されていたが、ジェミニはより多くの電力・推力や燃料、生命維持のために必要な物資の一部などを、分離可能な後部の大きな椀の形をした推進区画の中に搭載したことであった。アポロの司令船機械船でも同様な手法が取られた。

さらに帰還する際は海上に着水するのではなく、パラグライダーを使って飛行士が機体を操縦し、陸上に滑るようにして着陸することを予定していた(最終的にはマーキュリーやアポロと同様、海上に帰還することになった)。そのためパラシュートのひもは機首だけでなく、バランスを取りやすくするために後部の熱遮蔽板の近くにも接続部分が設けられていた。また初期の段階では電源には蓄電池を使用していたが、後期には有人宇宙船としては初めて燃料電池を採用した。

「ジェミニ」の名称は、二人乗りの宇宙船であることから、ラテン語で「双子」を意味する "gemini" にちなんでつけられた。gemini はまた十二宮の三番目の星座であり、カストルポルックスの双子星を中心に構成されるふたご座のことでもある。

マーキュリーは宇宙空間では姿勢を変えることしかできなかったが、ジェミニは軌道を変更することが可能であった。また無人衛星アジェナとドッキングし、そのロケットを使ってさらに高い軌道に乗ることもできた。

ジェミニでは機器の管理や操縦を容易にするため、はじめて船内にコンピューターが搭載された。またマーキュリーやアポロと違い、航空機産業から提供された射出座席や、航法用レーダーや自動水平儀などを搭載していた。帰還する際に射出座席で機体から脱出する方式をはじめて採用したのはソビエト連邦ボストーク宇宙船で、史上初の有人宇宙飛行を達成したユーリィ・ガガーリンは、この方法で地上に帰還した。

ジェミニ計画に要した費用は、総額で54億ドルであった。

組織[編集]

ジェミニ計画のシンボルマーク

ジェミニの設計を担当したのは、かつてアブロ・カナダ CF-105 (Avro Canada CF-105 Arrow) の開発において空気力学的設計の主任を務めたことのある、カナダ人のジム・チェンバリン (Jim Chamberlin) であった。チェンバリンはCF-105の開発が中止された後、25人の技術者を引き連れてNASAに合流し、合衆国宇宙任務グループ (U.S. Space Task Group) におけるジェミニ宇宙船開発担当の責任者に任命された。

宇宙船開発の契約を獲得したのはマクドネル社であったが、同社はアポロ計画においては主な契約をほとんど得ることはできなかった。マ社はジェミニを地球と月の中間圏 (cislunar) まで飛行できるようにし、さらにアポロよりも早く安いコストで月面着陸を達成できるように改良することによってジェミニ計画を拡張することを目論んでいたが、それらの提案はすべて却下された。

またジェミニの開発には、宇宙飛行士ガス・グリソムも深く関わっていた。彼の死後、1968年に出版された「ジェミニ! (Gemini!)」という著書の中で、グリソムは「マーキュリー計画が打ち切られ、同計画の中で自分が再び飛行できる可能性はほとんどなくなったことを知ったことにより、来るべきジェミニ計画に傾倒していった」と述べている。

ジェミニ計画は、ワシントンD.C.に本部を置くNASAの有人宇宙飛行局の指揮の下、テキサス州ヒューストン有人宇宙船センターの管理下において実行された。NASA副長官(当時)のジョージ・E・ミューラー (George E. Mueller) は、現場では実際に管制室長として勤務した。有人宇宙飛行計画本部の本部長代理であるウィリアム・C・シュナイダー (William C. Schneider) は、ジェミニ6号から管制官を務めた。

発展型ジェミニ計画[編集]

軍事目的への応用[編集]

ニール・アームストロング宇宙博物館に展示されているジェミニ宇宙船の模型
宇宙船解剖図

アメリカ空軍は当初からジェミニ宇宙船に関心を持っていた。地上の監視や偵察のために使用したり、あるいは不審な衛星にランデブーして接近するなどの軍事的な目的に応用する意向も持っていて、それらの計画は「ブルー・ジェミニ (Blue Gemini)」と呼ばれていた。また、宇宙ステーションとして独自に有人軌道展開システム(Manned Orbital Development System,MODS)も構想していたが、ブルー・ジェミニとともにこれは1963年に開発中止されている。1963年から有人軌道実験室 (Manned Orbital Laboratory, MOL) を計画し、ジェミニ宇宙船の一部を改造したものを用いることを検討した。最終的には無人のジェミニが補修を施され、MOLの模型とともに試験機として、1966年にタイタンIIICによって打ち上げられたが、これは一度宇宙に行ったことのある機体が再使用された最初の例となった。MOLではジェミニB宇宙船を用いる計画であったが、1969年に開発中止されている。

ウォルター・シラーとトーマス・スタッフォードが乗り込むジェミニ6Aを搭載して第19A発射台から離床するタイタンII GLVロケット

宇宙飛行士[編集]

ジェミニ計画の10回の有人飛行で宇宙に行った飛行士は、以下のとおりである。

第一次選抜飛行士グループから
飛行士名 出身 計画番号
ゴードン・クーパー (Gordon Cooper) 空軍 ジェミニ5号
ガス・グリソム (Gus Grissom) 空軍 ジェミニ3号
ウォーリー・シラー (Wally Schirra) 海軍 ジェミニ6-A号
第二次選抜飛行士グループから
飛行士名 出身 計画番号
ニール・アームストロング (Neil Armstrong) 民間人 ジェミニ8号
フランク・ボーマン (Frank Borman) 空軍 ジェミニ7号
ピート・コンラッド (Pete Conrad) 海軍 ジェミニ5、11号
ジム・ラヴェル (Jim Lovell) 海軍 ジェミニ7、12号
ジェームズ・マクディヴィット (James McDivitt) 空軍 ジェミニ4号
トーマス・スタッフォード (Thomas Patten Stafford) 空軍 ジェミニ6-A、9-A号
エドワード・ホワイト (Edward Higgins White) 空軍 ジェミニ4号
ジョン・ヤング (John Young) 海軍 ジェミニ3、10号
第三次選抜飛行士グループから
飛行士名 出身 計画番号
バズ・オルドリン (Buzz Aldrin) 空軍 ジェミニ12号
ユージン・サーナン (Euggene Cernan) 海軍 ジェミニ9-A号
マイケル・コリンズ (Michael Collins) 空軍 ジェミニ10号
リチャード・ゴードン (Richard Gordon) 海軍 ジェミニ11号
デヴィッド・スコット (David Scott) 空軍 ジェミニ8号

飛行士の選抜[編集]

ジェミニの宇宙飛行士選抜の責任者は、「マーキュリー・セブン」の名で知られる第一次宇宙飛行士選抜グループの一人として有名な、飛行士室の室長であるディーク・スレイトンであった。

ジェミニにおいては、本搭乗員に対して万一のために予備搭乗員を配置しておき、予備搭乗員はその三回後の飛行で本搭乗員になるというのが基本的なローテーションとなった。スレイトンはまたマーキュリー7の中で、実際に飛行を経験したシェパードグリソムクーパーシラーの四人を地上の管制官として起用する意向を持っていた。マーキュリー・セブンの残りのメンバーのうち、ジョン・グレンは1964年にNASAを退官した。マーキュリー・アトラス7号(オーロラ7)の大気圏再突入で致命的な失敗を犯し、NASAの上層部から非難を受けたスコット・カーペンターは、海軍の海底実験室計画に参加するために1964年7月に宇宙飛行士を引退した。ディーク・スレイトン(飛行士室の責任者本人)は、心臓に疾患があるとの理由で地上待機を命ぜられていた。

1963年末、スレイトンはジェミニ3号の飛行士にアラン・シェパードとトーマス・スタッフォード、4号にジェームズ・マクディヴィットとエド・ホワイト、5号(アジェナ衛星との初のランデブーを行う予定)にウォーリー・シラーとジョン・ヤングを任命した。3号の予備搭乗員はガス・グリソムとフランク・ボーマンで、彼らは後にジェミニ6号で飛行した。また、ピート・コンラッドとジェームズ・ラヴェルが4号の予備搭乗員に任命された。

しかしながらアジェナ衛星は開発が遅れたために、搭乗員のローテーションも変更を余儀なくされた。シラーとヤングの飛行時期は6号と重なってしまったため、彼らは3号の予備搭乗員に回された。そして新たにグリソムとボーマンに、5号で長期滞在をする任務が割り当てられた。

ところがその後シェパードが中耳炎を悪化させたため、二度目のメンバーの交代が行われ、3号の船長にはグリソムが選ばれた。スレイトンは、グリソムにはヤングのほうが性格的に相性が良いだろうと判断し、彼をスタッフォードに変えて3号の副操縦士にした。また初の宇宙長期滞在を予定している5号の船長にはクーパー、副操縦士にはコンラッドを任命し、ボーマンは4号の予備搭乗員にした。さらにニール・アームストロングとエリオット・シーを、5号の予備搭乗員にした。

三度目の変更は、スレイトンが「シーは8号で予定されている船外活動の任務に体力的に耐えられないだろう」と判断したことによって行われた。その結果シーは9号の船長になり、デイヴ・スコットが8号の副操縦士に、チャールズ・バセットが9号の副操縦士に任命された。

最後の変更は、シーとバセットがセントルイスで航空機事故によって死亡したことによって行われた。9号の予備搭乗員だったトム・スタッフォードとユージン・サーナンが正規搭乗員に昇格し、10号の予備搭乗員だったジェームズ・ラヴェルとバズ・オルドリンが9号の予備搭乗員となった。またこれにより、ラヴェルとオルドリンはローテーションに従うと12号の正規搭乗員となることが決まった。後にアポロ計画においても、1号の搭乗員が火災事故により死亡したことで同様の交代が行われたが、このことは最初に月面に降り立つ人間を誰にするのかを決定する際においても、大きな影響を与えることとなった。

スレイトンは自伝「ディーク! (Deke!)」の中で、「もし12号で、一度失敗していた船外活動用の移動装置の実験が行われることになったら、おそらくオルドリンをサーナンと交代させていただろう」と述べている。同様のことは、サーナンも自著の中で指摘している。

任務[編集]

ジェミニ計画では2回の無人飛行を含む12回の発射が行われ、そのすべてはタイタンII GLVロケットによって行われた。

無人飛行[編集]

計画名 使用ロケット番号 発射日 発射時間 飛行時間 特記事項
ジェミニ1号 GLV-1 12556 1964年4月12日 16:01 UTC 3日23時間 ジェミニ宇宙船初の試験飛行
ジェミニ2号 GLV-2 12557 1965年1月19日 14:03 UTC 18分16秒 耐熱遮蔽板試験のための弾道飛行

有人飛行[編集]

計画名 使用ロケット番号 船長 副操縦士 発射日 発射時間 飛行時間
ジェミニ3号 GLV-3 12558 グリソム ヤング 1965年3月23日 14:24 UTC 4時間52分31秒
初の有人飛行。地球を3周。
ジェミニ4号 GLV-4 12559 マクディヴィット ホワイト 1965年6月3日 15:15 UTC 4日1時間56分12秒
ホワイト飛行士がアメリカ人初となる22分間の宇宙遊泳を実施。
ジェミニ5号 GLV-5 12560 クーパー コンラッド 1965年8月21日 13:59 UTC 7日22時間55分14秒
初の7日間以上の宇宙滞在。燃料電池を初めて使用。将来的なランデブー飛行のための航法・航行装置の評価。地球を120周。
ジェミニ7号 GLV-7 12562 ボーマン ラヴェル 1965年12月4日 19:30 UTC 13日18時間35分01秒
6号がランデブー・ドッキングを行う予定だったアジェナ衛星の発射が失敗したため、その代替として発射された。当初の目的は14日間の宇宙滞在であった。
ジェミニ6-A号 GLV-6 12561 シラー スタッフォード 1965年12月15日 13:37 UTC 1日1時間51分24秒
7号との初のランデブーを成功させる。90mから最小で30cmまでの距離を保ったまま、5時間以上飛行。
ジェミニ8号 GLV-8 12563 アームストロング スコット 1966年3月16日 16:41 UTC 10時間41分26秒
アジェナとのドッキングに成功したが、直後に宇宙船の姿勢制御用ロケットが故障し、機体が異常回転(最大で1秒間に1回)を始める。
アームストロングが問題を解決することに成功し、アメリカ宇宙開発史上初となる緊急着陸を行った。
ジェミニ9-A号 GLV-9 12564 スタッフォード サーナン 1966年6月3日 13:39 UTC 3日0時間21分50秒
5月に発射される予定だったが、アジェナ衛星が発射に失敗したため延期。新たに打ち上げられたアジェナも、フェアリングが完全に分離できなかったため、
ドッキングには失敗。3種類のランデブーと2時間の船外活動を実施。地球を44周。
ジェミニ10号 GLV-10 12565 ヤング コリンズ 1966年7月18日 22:20 UTC 2日22時間46分39秒
アジェナの推進装置を使用して初の軌道変更を実施。8号で使用したアジェナとのランデブーにも成功。コリンズはハッチの部分に立ったまま49分間、
宇宙船を離れて39分間の船外活動を実施し、アジェナから実験装置を回収した。地球を43周。
ジェミニ11号 GLV-11 12566 コンラッド ゴードン 1966年9月12日 14:42 UTC 2日23時間17分08秒
アジェナとのドッキング後、同衛星の推進装置を使用して高度1,374kmに到達。ゴードンは計2時間33分の船外活動を実施。地球を44周。
ジェミニ12号 GLV-12 12567 ラヴェル オルドリン 1966年11月11日 20:46 UTC 3日22時間34分31秒
最後の飛行。アジェナとドッキングし、オルドリンはそれまでで最長となる5時間30分の船外活動を実施。
それまでに指摘されてきた問題点をすべて克服したことをアピールした。


ジェミニ-タイタンの発射と通し番号[編集]

ジェミニ宇宙船を搭載したタイタンII GLVロケットは、マーキュリー宇宙船を搭載したアトラス・ロケットと同様、元は空軍の大陸間弾道ミサイルだったものをNASAの宇宙計画のために転用したものであった。ジェミニに使用されたタイタンIIロケットにはすべて空軍の通し番号がふられていて、第一段と第二段の表側と裏側、計四箇所に記されている。発射が行われたケープカナベラル空軍基地の第19複合発射施設には空軍のスタッフが常駐していて、タイタンIIの準備や発射にはすべて参加していた。

ジェミニ6Aでタイタンに記された通し番号

空軍によって割り振られた通し番号は、上記の表のとおりである。1962年には15機のタイタンIIが発注されたので番号は「62-12XXX」となっているが、機体に記されるのは「12XXX」の部分だけである。最後の3機の発注は1964年7月30日にキャンセルされたが、GLV13-12568、GLV14-12569、GLV15-12570の番号はすでに与えられていた。

GT-1からGT-12まで、すべてのジェミニの発射

現在の状態[編集]

宇宙船[編集]

練習機[編集]

注釈[編集]

関連項目[編集]

外部リンク[編集]