コンテンツにスキップ

ウォルター・シラー

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ウォルター・シラー
Walter Marty Schirra, Jr.
NASA宇宙飛行士
国籍 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
生誕 Walter Marty Schirra Jr.
(1923-03-12) 1923年3月12日
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国 ニュージャージー州ハッケンサック
死没 2007年5月3日(2007-05-03)(84歳没)
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国 カリフォルニア州サンディエゴ
別名 Wally Schirra
他の職業 アメリカ海軍航空士英語版テストパイロット
出身校 ニューアーク工科大学
海軍兵学校
階級 アメリカ海軍 大佐
宇宙滞在期間 12日 7時間 12分
選抜試験 1959年NASA選抜試験
ミッション マーキュリー・アトラス8号
ジェミニ6-A号
アポロ7号
記章
退役 1969年7月1日
受賞
テンプレートを表示

ウォルター・マーティ・“ウォリー”・シラー・ジュニア(Walter Marty "Wally" Schirra Jr.、1923年3月12日 - 2007年5月3日)は、アメリカ合衆国海軍飛行士英語版テストパイロットNASA宇宙飛行士である。

1959年、アメリカ初の有人飛行計画である「マーキュリー計画」に選ばれた7人の宇宙飛行士(マーキュリー・セブン)の一人となった。1962年10月3日、マーキュリー・アトラス8号で地球を6周する9時間に渡るミッションに参加した。これにより、アメリカ人で5人目、人類で9人目の宇宙旅行者となった。ジェミニ計画では、1965年12月にジェミニ6-A号を姉妹機のジェミニ7号の至近距離に静止させる、世界初のランデブー飛行を達成した。1968年10月には、アポロ7号において船長を務め、3人乗りのアポロ宇宙船による11日間の地球低軌道での飛行の試験を行った。

シラーは、初の3度宇宙に行った宇宙飛行士であり、マーキュリー計画ジェミニ計画アポロ計画の全てに参加した唯一の宇宙飛行士である[1]。アメリカの有人宇宙飛行で3つの異なるプロジェクトでそれぞれ地球周回軌道以上の宇宙飛行を体験した飛行士は、シラーとジョン・ヤング(ジェミニ計画・アポロ計画・スペースシャトル)の2人だけである[注釈 1]。宇宙に滞在した総時間は295時間15分になる。

アポロ7号による飛行の後、シラーは海軍とNASAを退役した。その後、CBSニュースのコンサルタントとして、それ以降のアポロ計画の飛行に関する報道を担当した。シラーは、NASAの7回の月面着陸ミッションの全てで、ウォルター・クロンカイトとともにキャスターを務めた。

若年期と教育

[編集]

シラーは1923年3月12日ニュージャージー州ハッケンサックで生まれた。父のウォルター・M・シラー・シニア(Walter M. Schirra Sr.)はフィラデルフィア出身で、第一次世界大戦中はカナダ空軍に入隊し、ドイツで爆撃や偵察の任務に就いた。戦後は、ニュージャージー州でバーンストーミング英語版(曲芸飛行)をしていた。母のフローレンス・シリト・リーチ(Florence Shillito Leach)は夫の曲芸飛行ツアーに同行し、飛行機の翼の上を歩くスタントをしていた[3]:9–11[4]。父方の祖父母はバイエルンスイスの出身で、元々はサルデーニャ人の家系であった。

シラーはニュージャージー州オラデルで育った。ボーイスカウトに加わり、ニュージャージー州オラデルの第36分団のファースト・クラスとなった[5]。1940年6月にニュージャージー州イングルウッドのドワイト・モロー高校を卒業し、ニューアーク工科大学(現在のニュージャージー工科大学、NJIT)に入学した。大学では予備役将校訓練課程(ROTC)を受講した。1941年12月の真珠湾攻撃を受けて、シラーは士官学校への入学を決意した。父は陸軍士官学校への入学を勧めたが、シラーは海軍兵学校への入学を決めた。海軍兵学校では戦時中は短縮課程が組まれていたため、シラーは入学から3年で1945年に理学士号を取得した[3]:10–13[6][7]

軍歴

[編集]
F3Hデーモン納入時のシラー(右から2人目)とマクドネル・エアクラフトの設計チーフのデービッド・S・ルイス英語版(1958年頃)

海軍兵学校を卒業後、1945年6月6日にアメリカ海軍少尉に任命され、大型巡洋艦「アラスカ」(USS Alaska, CB-1)に配属されたが、シラーが太平洋戦線に向かって出発した翌日に第二次世界大戦は終結した。日本の降伏後、シラーはアメリカに帰還した。その後、中国の青島に駐留し、揚陸指揮艦エステス英語版」(USS Estes, AGC-12)に配属された。中国から帰国した後、シラーはペンサコーラ海軍航空基地英語版で海軍飛行士としての訓練を開始した[3]:16–20

1948年に訓練を終了して海軍飛行士の資格を取得し、ロードアイランド州クオンセット・ポイント英語版の第71戦闘機隊(VF-71)に配属された。VF-71で、シラーはF8Fベアキャットに乗り、数年後にはジェット戦闘機F9Fパンサーへの移行に備えて、F-80シューティングスターのジェット移行訓練に参加した。1950年6月の朝鮮戦争勃発時には、空母「ミッドウェイ」で地中海に派遣された。戦闘経験を積むためにアメリカ空軍との交換プログラムに応募して選ばれ、F-84サンダージェットの飛行訓練を受けた[3]:21–27

シラーは当初、第154戦闘爆撃機飛行隊として日本板付アメリカ空軍基地に配属され、そこから朝鮮半島へ出撃していた。戦線の北上に伴い、この飛行隊は大邱にある基地に再配置された。8か月の派遣期間中に、シラーは90回の戦闘任務をこなし、MiG-15を2機撃墜した[3]:29–32[7]

朝鮮での任務を終えた後、シラーはカリフォルニア州チャイナレイク海軍兵器試験場英語版テストパイロットとなった。チャイナレイクでシラーは様々な兵器システムのテストを行い、初めて空対空ミサイル「サイドワインダー」を発射させた。シラーはミラマー海軍航空基地(現 ミラマー海兵隊航空基地英語版)に配属され、海軍の最新ジェット戦闘機であるF7Uカットラスのテストを行った。その後、モフェット飛行場英語版に移って、F7UカットラスやF3Hデーモンへの移行訓練を行った。空母「レキシントン」でアジアに派遣された後、南カリフォルニア大学(USC)で航空安全訓練を受け、1958年に海軍テストパイロット学校に入学した[3]:33–43

海軍テストパイロット学校では、後に宇宙飛行士となるジム・ラヴェルピート・コンラッドらと同じ20期生として、F4DスカイレイF11FタイガーF8Uクルセイダーなど数多くの航空機の操縦を学んだ。卒業後、シラーはパタクセント・リバー海軍航空基地のテストパイロットとなり、F4Hファントムが空母艦載機として使用できるかどうかを調べるために操縦を学んだ[3]:43–46

NASAでのキャリア

[編集]

マーキュリー計画

[編集]
シラー(右から3番目)とマーキュリー計画の仲間たち(1961年)

1959年2月、シラーは、アメリカ初の有人宇宙飛行計画であるNASAマーキュリー計画の候補者として、アメリカ軍のテストパイロットから選ばれた110人の中にシラー、ラヴェル、コンラッドの3人がいた。数回のテストを経て、シラーは1959年4月に7人の宇宙飛行士「マーキュリー・セブン」の一員に選ばれた[3]:46, 57–63

マーキュリー計画において、シラーは生命維持装置と与圧飛行服を担当した。また、ジョン・グレンと一緒にカプセルの設計にも携わった。アラン・シェパードマーキュリー・レッドストーン3号(フリーダム7)のミッションでは、スコット・カーペンターとシラーがF-106デルタダートで追跡を行った。シラーは当初、マーキュリー計画の第2回軌道飛行にドナルド・スレイトンのバックアップとして参加していたが、スレイトンが病気により宇宙へ行けなくなったため、スコット・カーペンターに交代した。シラーは代わりに第3回軌道飛行に予定された[3]:65, 75–76[8]

1962年10月3日午前7時15分、シラーが乗るマーキュリー・アトラス8号(シグマ7)が打ち上げられた。マーキュリー・アトラス8号は、飛行初期に小さな軌道修正を行った後、軌道に乗った。その後、シラーはリアクションコントロールシステムを使って手動で宇宙船の位置と操縦を行うデモンストレーションを行った。カーペンターのマーキュリー・アトラス7号(オーロラ7)ミッションでナビゲーションの問題が発生したため、NASAとシラーはカプセルを手動で操作する際の工学と人的要因に焦点を当てた。シラーは、宇宙服の温度が上昇し、最高で32℃に達したことを報告した後、宇宙服の冷却システムを手動で調整した。宇宙船でのテストを終えた後、シラーは目の見えない無重力環境での操作能力をテストした。シラーはミッション中、自動制御装置のバックアップとして、手動で宇宙船を操縦する能力を発揮した。6回の周回の後、シラーはアフリカ上空で手動で宇宙船の位置を合わせ、逆推進ロケットに点火した。マーキュリー・アトラス8号は、回収船である航空母艦「キアサージ」から8キロメートル離れた太平洋中央部に着水した。マーキュリー・アトラス8号が回収船に引き上げられた後、シラーは宇宙船から出るための爆薬を使ったハッチを作動させたときに大きな打撲傷を負った。これにより、ガス・グリソムマーキュリー・レッドストーン4号(リバティベル7)のミッションでハッチが吹き飛んだのは、グリソムのミスによるものではないことが証明された。帰還したシラーは、10月16日、家族とともにホワイトハウスに招待され、ケネディ大統領と対面した[3]:85–94[9]

ジェミニ計画

[編集]
ジェミニ6号の訓練を行うシラー(1965年)

当初、ジェミニ3号の乗組員はアラン・シェパードが船長、トーマス・スタッフォードがパイロットの予定だったが、シェパードがメニエール病と診断されたため乗組員から外され、スタッフォードは予備乗組員となった。シェパードの代わりの予備乗組員の船長はシラーとなり、その後、この2人がジェミニ6号の乗組員に予定された。ジェミニ6号は当初、アジェナ標的機との初の軌道上ドッキングを行う予定だった。1965年10月25日、シラーとスタッフォードがジェミニ6号の中で打ち上げを待っていたとき、同日に打ち上げられたアジェナ標的機が軌道上で爆発したため、ジェミニ6号の打ち上げは中断された。プログラムマネージャーは、アジェナの代替機が入手できるのを待つのではなく、ミッションを修正してジェミニ6-A号と名付け、フランク・ボーマンジム・ラヴェルが搭乗するジェミニ7号とのランデブーを試みることにした。1965年12月4日にジェミニ7号が打ち上げられた。

12月12日にジェミニ6-A号の打ち上げが行われることになったが、点火後2秒も経たないうちにエンジンが停止してしまった。エンジンが停止した場合、宇宙飛行士は射出座席を用いて宇宙船から脱出する手順になっていたにもかかわらず、シラーは自分とスタッフォードの射出座席を作動させないことを選択した。これは、それを使用することによりミッションがさらに遅延し、場合によってはキャンセルとなる可能性があるのを避けるためだったが、2人が負傷する可能性も高まるものだった。原因究明と対策の後、ジェミニ6-A号は12月15日に打ち上げられ、5時間の飛行の後、ジェミニ7号とのランデブーに成功した。2つの宇宙船はお互いに最短で1フィート(30センチメートル)の距離まで接近し、5時間にわたって相対的にほぼ静止英語版していた。ランデブーの後、ジェミニ6-A号は12月16日に軌道を脱離して、ケープカナベラルの南東の大西洋上に着水し、空母「ワスプ」によって回収された[3]:157–168[10]:50–76

ジェミニ6-A号のミッション中のシラーは、ミッションがクリスマスが近い時期であることから、管制官に対して色々な悪戯をした。まずサンタクロースを暗示する未確認飛行物体の目撃情報を報告した後、密かに持ち込んだホーナー社製のハーモニカで『ジングルベル』を演奏し、スタッフォードがベルで伴奏した[3]:165[11]

アポロ計画

[編集]
アポロ7号船長の宇宙服を着たシラー(1968年5月)
アポロ7号・8号の乗組員、チャールズ・リンドバーグ、ファーストレディのレディ・バード・ジョンソンジョンソン大統領、ウェッブNASA長官、ハンフリー副大統領と一緒に記念書類にサインするシラー(前列左から3人目)(1968年)

1966年半ば、シラーは、ドン・エイゼルウォルター・カニンガムとでチームを組み、アポロ1号[注釈 2]と同じミッションプロファイルで、アポロ宇宙船の2回目の有人飛行テストを行う際の船長を務めることになった。シラーは同じミッションを2度繰り返すことに反対し、シラーのチームはガス・グリソムエドワード・ホワイトロジャー・チャフィーのアポロ1号の予備乗組員となった。シラーのチームは1967年1月26日にコマンドモジュールでテストを行い、翌日ヒューストンに向かう途中で、グリソムらアポロ1号の乗組員がテスト中の火災で死亡した。シラーのチームは、初の有人飛行のメイン乗組員となった。これは改訂されたミッション番号計画ではアポロ7号となり、司令船の安全性を改善するために1968年秋まで延期された[3]:180–193

シラーは、マクドネル・エアクラフト社の社員であるギュンター・ウェントを、宇宙船の打ち上げ準備を担当するパッドリーダー(発射台責任者)として迎えたことで、安心感を得ていた。しかし、アポロの請負業者がノースアメリカン・エイヴィエーションになったことで、ウェントはパッドリーダーではなくなった。アポロ1号の事故の後、シラーは自分のアポロ飛行のパッドリーダーはウェントでなければならないと強く感じ、ドナルド・スレイトンとノースアメリカン社の打ち上げオペレーションマネージャーであるバスティアン(バズ)・ハローを説得して、ウェントをアポロ7号のパッドリーダーとして採用した。ウェントは、残りのアポロ計画とスカイラブ計画においてパッドリーダーを務め、スペースシャトル計画にも参加した後に引退した[3]:195[12]

アポロ7号は1968年10月11日に打ち上げられ、シラーは3度宇宙に行った初の人間となった。打ち上げ時、ロケット打ち上げ1分以内の初期の段階に問題が発生して飛行を中止するには危険な強風が吹いていることからシラーが打ち上げに反対していたにも関わらず、管制官が発射を強行したことから、管制官とシラーとの間に確執が生まれることとなった。軌道に到達したアポロ7号の宇宙船は、S-IVBとの宇宙ランデブーおよびドッキング訓練を行い、アポロ月着陸船の回収をシミュレートした。ミッションの2日目には、乗組員が宇宙船の中から初めてテレビ生中継を行った[3]:199–203[注釈 3]

ミッション中、シラーは風邪をひいてしまい、それをドン・エイゼルに伝えた。シラーは、密閉された宇宙服の中で鼻づまりを起こすことを想定して、再突入時にヘルメットを被らないことを管制官に提案した。クリス・クラフト英語版とドナルド・スレイトンは再突入時のヘルメット着用を要求したが、アポロ7号の乗組員3人はこれを拒否し、ヘルメットなしで再突入を行った。アポロ7号は1968年10月22日にバミューダの南東に着水した[3]:206–209[7]

シラーはアポロ7号の打ち上げ前に、この飛行を最後に宇宙飛行士を引退することを決めており、1969年7月1日にNASA宇宙飛行士を引退した。シラーの宇宙飛行士としての最後の任務は、ニール・アームストロングの月面着陸調査車の墜落事故の調査だった。シラーは、その原因を機械的な故障とし、同車を使った訓練の中止を勧告した[3]:208,211,216。同日付けでアメリカ海軍も退役した。最終階級は大佐(Captain)だった[7]

退役後

[編集]

テレビ出演

[編集]

鼻づまり薬のプソイドエフェドリンと抗ヒスタミン剤のトリプロリジン英語版を組み合わせた風邪薬航空医官英語版から処方され、アポロ宇宙船に持ち込まれた。数年後、この薬が一般用医薬品アクティフェド英語版」(Actifed)として市販されるようになると、その製薬メーカーは、アポロ7号のミッション中に風邪に悩まされたことが広く知られていたシラーを、テレビコマーシャルに起用した[3]:207[7]

その後のアポロミッションでは、1969年から1975年までCBSニュースのコンサルタントを務めた。アーサー・C・クラークも参加したアポロ11号の中継を皮切りに、アポロ13号を含む7回の月面着陸ミッションを、ウォルター・クロンカイトと共同で放送した[3]:221–223[14]

ビジネス

[編集]

NASAでのキャリアを終えた後、シラーは金融・リース会社であるリージェンシー・インベスターズ社(Regency Investors Incorporated)の社長兼取締役に就任した。その後、リージェンシー・インベスターズ社を離れてエンバイロメンタル・コントロール社(Environmental Control Company)を設立し、1970年から1973年まで同社の会長兼CEOを務めた[15]。同社は1973年にSERNCO社と合併した。シラーは当初は副会長だったが、その年の後半には会長に選ばれた[16]。また、アラスカの石油パイプラインの開発に携わり[3]:218–221[17]、1973年から1985年まで内務省の国立公園諮問委員会の委員を務めた[7][1]

1979年1月、シラーはシラー・エンタープライゼス(Schirra Enterprises)を設立し、1980年までコンサルタントとして活動した。また、1971年から1984年まで、コロラド州とニューメキシコ州のベルギー領事館に勤務し、Electromedics、Finalco、キンバリークラーク英語版、Net Air International、ロッキーマウンテン航空、ジョンズ・マンビルなど複数の企業の役員を務めた[3]:218–221[7][17][18][19][20]。1980年から1981年にかけて、エネルギー開発会社プロメテウス(Prometheus)の社長を務めた[20]。 1984年、マーキュリー計画で生き残った宇宙飛行士の一員として、理工系の学生に大学の奨学金を授与するマーキュリーセブン基金(現在の宇宙飛行士奨学金基金)を設立した[7][21]

著述

[編集]

シラーは、1962年にマーキュリー計画の訓練と開発について詳述した"We Seven"という本をマーキュリー・セブンの他のメンバーと共同執筆した[22]。 1988年、リチャード・N・ビリングスと共同で、自叙伝"Schirra's Space"を出版した[23]

1995年には、バレット・ティルマン英語版、リチャード・L・(ジーク)・コーミエ海軍大佐、フィル・ウッドとの共著"Wildcats to Tomcats: The Tailhook Navy"を出版した。この本には、第二次世界大戦朝鮮戦争ベトナム戦争を含む、50年にわたる海軍航空隊の歴史が記されている[24]

2005年には、エド・バックビーとの共著"The Real Space Cowboys"を出版した。この本は、「マーキュリー・セブン」と呼ばれる宇宙飛行士たちの記録であり、宇宙飛行士選抜の過程、キャリア全体、そして引退までを追っている。

シラーは、2007年に出版された"In the Shadow of the Moon"にも寄稿しており、これが彼の最後の著作となった[25]

私生活

[編集]

海軍に配属されて間もなく、シラーはジョセフィン・クック・"ジョー"・フレイザー(Josephine Cook "Jo" Fraser、1924-2015)と交際を始めた[7]。シラーとフレイザーは1946年2月23日に結婚した[3]:15。2人の間には、ウォルター・M・シラー3世(Walter M. Schirra III、1950年生)とスザンヌ・シラー(Suzanne Schirra、1957年生)という2人の子供がいた[26]。ジョー・シラーは2015年4月27日に91歳で亡くなった[27]

死去

[編集]
シラーの遺灰を撒くリー・アクステル中佐(2008年)

シラーは2007年5月3日カリフォルニア州サンディエゴスクリップス・グリーン病院英語版胃癌の治療を受けている最中に、心筋梗塞で亡くなった。84歳だった[28][29]

同年5月22日、サンディエゴのフォート・ローズクランズ国立墓地英語版でシラーの追悼式が行われた。式典の最後には、弔銃が撃たれ、3機のF/A-18ホーネットによる分列飛行英語版が行われた。シラーの遺体は火葬され、2008年2月11日に遺灰が海に撒かれた。海への散灰はニミッツ級空母ロナルド・レーガン」で行われ、同艦の従軍牧師であるリー・アクステル中佐が遺灰を撒いた[30]

賞歴・献名

[編集]

シラーは軍歴を通じて、3つのエア・メダルと3つのNASA特別功労章英語版を含む、数多くの軍の勲章を受けた(死後に授与されたものも含む)[31]。最初のNASA特別功労章はマーキュリー計画での飛行に対して、2度目はジェミニ計画での飛行に対して与えられた[32]。その他、アメリカ政府から以下の勲章を受章している。

他に、アメリカ政府以外から以下の勲章を受章している。

シラーは民間の航空賞として、以下の賞を受賞している[17][34]

シラーが海軍長官のフレッド・コース英語版から海軍宇宙飛行士徽章英語版を授与されたとき、海軍の制服の手引きには、海軍飛行士徽章と一緒に付けるするのか、それを外して代わりに付けるのかが明記されていなかった。シラーは、宇宙飛行士徽章をリボンの上に、飛行士徽章をリボンの下につけることにした[35]

シラーは、アポロ7号の船長として海軍特別功労章英語版を受章した。また、朝鮮戦争でB-29爆撃機を護衛したことで殊勲飛行十字章を受章し、マーキュリー・アトラス8号の飛行で2つ目、ジェミニ6号の飛行で3つ目を授与されている[36]

また、シラーは実験的テストパイロット協会英語版(SETP)のフェローであり、1963年には、同協会から他の6人のマーキュリー計画の宇宙飛行士とともにアイヴン・C・キンチェロー賞英語版を受賞している[37]。1962年にはマーキュリー・セブンの他のメンバーと共にコリアー・トロフィーを受賞している[38]。この賞は通常、エンジニアや発明家に贈られるものだが、特別に飛行士である彼らに贈られた[39]

シラーに因んで命名されたルイス・アンド・クラーク級貨物弾薬補給艦ウォリー・シラー」(USNS Wally Schirra, T-AKE-8)(2010年撮影)

シラーはフリーメイソンであり、アメリカ航空宇宙学会(AIAA)の会員、アメリカ宇宙学会英語版のフェローである[20]。シラーは、ラファイエット大学(宇宙工学部門)、南カリフォルニア大学、そして母校のニューアーク工科大学(宇宙工学部門)から科学名誉博士号を授与されている[20][40]

国際航空宇宙殿堂英語版(1970年)[41]国際宇宙殿堂英語版(1981年)[42][43]全米航空殿堂英語版(1986年)[44][45][46]アメリカ宇宙飛行士殿堂英語版(1990年)、ニュージャージー殿堂英語版[47]などに殿堂入りしている。

2009年3月8日ルイス・アンド・クラーク級貨物弾薬補給艦8番艦がシラーに因んで「ウォリー・シラー」(USNS Wally Schirra, T-AKE-8)と命名され[48]、未亡人のジョー・シラーが命名・進水式に参加した。

1996年に発見された小惑星(小惑星番号8722番)は、シラーに因んで「シラー」と命名された[49]

大衆文化において

[編集]

関連項目

[編集]

脚注

[編集]

注釈

[編集]
  1. ^ アメリカ以外の宇宙船を含む場合は野口聡一も3種類(スペースシャトル・ソユーズTMAクルードラゴン)に搭乗している[2]
  2. ^ 「アポロ1号」は当時は非公式の名称であり、公式の名称になったのは事故後のことであるが、本項目では「アポロ1号」の呼称で統一する。
  3. ^ 1963年のゴードン・クーパーマーキュリー・アトラス9号のミッションでも、実験的にテレビ中継が行われたが、これは一般には放送されなかった[13]

出典

[編集]
  1. ^ a b Walter M. Schirra: NASA Astronauts” (英語). U.S. Naval Academy. August 25, 2018閲覧。
  2. ^ “「『全集中』で臨む」 野口さん、3回目の宇宙船飛行前に抱負”. 毎日新聞. (2020年11月10日). https://mainichi.jp/articles/20201110/k00/00m/040/184000c 2023年12月24日閲覧。 
  3. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v Schirra, Wally; Billings, Richard (1988). Schirra's Space. Annapolis, MD: Naval Institute Press. ISBN 1-55750-792-9 
  4. ^ Astronaut Bio: Wally Schirra”. Space Educator's Handbook. Lyndon B. Johnson Space Center. March 13, 2018閲覧。
  5. ^ Astronauts and the BSA”. Fact sheet. Boy Scouts of America. 2007年5月2日閲覧。
  6. ^ Astronauts and the BSA”. Fact sheet. Boy Scouts of America. April 14, 2009時点のオリジナルよりアーカイブ。May 2, 2007閲覧。
  7. ^ a b c d e f g h i Gray, Tara (November 2, 2009). “40th Anniversary of Mercury 7: Walter Marty Schirra, Jr.”. NASA History. August 25, 2018閲覧。
  8. ^ Schirra, Walter (1962). “Our Cozy Cocoon”. We Seven. New York: Simon and Schuster. pp. 142–155. ISBN 978-1-4391-8103-4 
  9. ^ Hodge, John; Kranz, Eugene; Stonesifer, John (1962). “Mission Operations”. Results of the third U.S. manned orbital space flight, October 3, 1962. NASA. hdl:2060/19630002114. https://history.nasa.gov/SP-12/ch.2.htm March 17, 2018閲覧。 
  10. ^ Stafford, Thomas; Cassutt, Michael (2002). We Have Capture. Washington, DC: Smithsonian Institution Press. ISBN 1-58834-070-8. https://books.google.com/books?id=BqdqBgAAQBAJ&q=We+Have+Capture 
  11. ^ Edwards, Owen (December 2005). “The Day Two Astronauts Said They Saw a UFO Wearing a Red Suit”. Smithsonian Magazine. http://www.smithsonianmag.com/history/christmas-cards-109444898/?no-ist July 13, 2015閲覧。. 
  12. ^ Farmer, Gene; Dora Jane Hamblin (1970). First On the Moon: A Voyage With Neil Armstrong, Michael Collins and Edwin E. Aldrin Jr.. Boston: Little, Brown and Co.. pp. 51–54. ISBN 978-3-550-07660-2. Library of Congress 76-103950 
  13. ^ Grahn, Sven. “The Mercury-Atlas-9 slow-scan TV experiment”. Space Radio Notes. March 18, 2018閲覧。
  14. ^ Walter Schirra, 1923–2007”. NASA (May 3, 2007). December 3, 2017閲覧。
  15. ^ “Ex-Astronaut Leaves Firm”. Detroit Free Press: p. 20. (November 4, 1970). https://www.newspapers.com/clip/19391211/detroit_free_press/ 
  16. ^ “People in Business”. The Raleigh Register (Beckley, West Virginia): p. 20. (August 22, 1973). https://www.newspapers.com/clip/19391288/the_raleigh_register/ 
  17. ^ a b c Walter M Schirra”. NASA. December 3, 2017閲覧。
  18. ^ Burgess, Colin (May 28, 2016) (英語). Sigma 7: The Six Mercury Orbits of Walter M. Schirra, Jr.. Springer. pp. 284. ISBN 978-3-319-27983-1. https://books.google.com/books?id=v2VBDAAAQBAJ&pg=PA284 
  19. ^ Grey, Dave (October 7, 1983). “Schirra feels space program experience will help K-C”. The Oshkosh Northwestern (Oshkosh, Wisconsin): p. 3. https://www.newspapers.com/clip/19397877/the_oshkosh_northwestern/ 
  20. ^ a b c d About Wally”. WallySchirra.com (2018年). March 18, 2018閲覧。
  21. ^ History”. Astronaut Scholarship Foundation (2013年). March 17, 2018閲覧。
  22. ^ “U.S. Space Pioneers Speak for Themselves”. The Times (Shreveport, Louisiana): p. 62. (November 18, 1962). https://www.newspapers.com/clip/19398094/the_times/ 
  23. ^ Ridgeway, Karen (September 25, 1988). “Allen, astronauts and an anniversary”. Rapid City Journal (Rapid City, South Dakota): p. 82. https://www.newspapers.com/clip/19398364/rapid_city_journal/ 
  24. ^ Wildcats to Tomcats: the Tailhook Navy. WorldCat. OCLC 34004795 
  25. ^ Schirra's Space”. Wally Schirra. December 3, 2017閲覧。
  26. ^ About Wally”. WallySchirra.com (2018年). March 13, 2018閲覧。
  27. ^ Stone, Ken (May 3, 2015). “'Astronaut Wives Club' Member Jo Schirra Dies at 91; Widow of Wally”. Times of San Diego. http://timesofsandiego.com/life/2015/05/03/jo-schirra-dies-at-91-widow-of-mercury-7-astronaut-wally-schirra/ July 12, 2015閲覧。 
  28. ^ Burgess, Colin (2011). Selecting the Mercury Seven. New York: Springer. p. 336. ISBN 978-1-4419-8405-0 
  29. ^ Goldstein, Richard (May 4, 2007). “Walter M. Schirra Jr., Astronaut, Dies at 84”. The New York Times. https://www.nytimes.com/2007/05/04/us/04schirra.html March 18, 2018閲覧。 
  30. ^ 080211-N-3659B-085”. US Navy (February 11, 2008). March 18, 2018閲覧。
  31. ^ Walter M. Schirra, NASA Astronaut”. United States Naval Academy. April 21, 2018閲覧。
  32. ^ “Medal Winners”. The Palm Beach Post (Palm Beach, Florida): p. 72. (August 25, 1966). https://www.newspapers.com/clip/31059610/the_palm_beach_post/ 
  33. ^ “4 Gemini Astronauts Agree Man Can Survive in Space”. The Tampa Tribune (Tampa, Florida): p. 3–B. (December 31, 1965). https://www.newspapers.com/clip/39739763/the_tampa_tribune/ 
  34. ^ First Apollo flight crew last to be honored”. collectSPACE (October 20, 2008). March 17, 2018閲覧。
  35. ^ Edson, Peter (November 16, 1962). “Washington...”. Shamokin News-Dispatch (Shamokin, Pennsylvania): p. 6. https://www.newspapers.com/clip/19459387/shamokin_newsdispatch/ 
  36. ^ Walter Marty Schirra”. The Hall of Valor Project. April 22, 2018閲覧。
  37. ^ Wolfe, Tom (October 25, 1979). “Cooper the Cool jockeys Faith 7—between naps”. Chicago Tribune: p. 22. https://www.newspapers.com/clip/26948748/chicago_tribune/ 
  38. ^ “Astronauts Have Their Day at the White House”. Chicago Tribune (Chicago, Illinois): p. 3. (October 11, 1963). https://www.newspapers.com/clip/26947987/chicago_tribune/ 
  39. ^ Warren-Findley, Jannelle (1998). “The Collier as Commemoration: The Project Mercury Astronauts and the Collier Trophy”. In Mack, Pamela E.. From Engineering Science to Big Science: The NACA and NASA Collier Trophy Research Project Winners. The NASA History Series. Washington, D.C.: NASA History Office, Office of Policy and Plans. p. 165. ISBN 0-16-049640-3. LCCN 97-27899. OCLC 37451762. NASA SP-4219. https://history.nasa.gov/SP-4219/Chapter7.html#Chapt7-5 March 26, 2018閲覧。 
  40. ^ Walter "Wally" Marty Schirra, Jr.”. Naval History and Heritage Command. December 3, 2017閲覧。
  41. ^ Sprekelmeyer, Linda, editor. These We Honor: The International Aerospace Hall of Fame. Donning Co. Publishers, 2006. ISBN 978-1-57864-397-4.
  42. ^ Commanded Apollo 7, first manned Apollo flight; only man to fly Mercury, Gemini, and Apollo spacecraft.”. New Mexico Museum of Space History. October 3, 2016閲覧。
  43. ^ Harbert, Nancy (September 27, 1981). “Hall to Induct Seven Space Pioneers”. Albuquerque Journal (Albuquerque, New Mexico): p. 53. https://www.newspapers.com/clip/29986892/albuquerque_journal/ 
  44. ^ William [sic Marty Schirra Jr.]”. National Aviation Hall of Fame. February 10, 2011閲覧。
  45. ^ Walter M. Schirra”. Astronaut Scholarship Foundation (2013年). March 18, 2018閲覧。
  46. ^ “Mercury Astronauts Dedicate Hall of Fame at Florida Site”. Victoria Advocate. Associated Press (Victoria, Texas): p. 38. (May 12, 1990). https://www.newspapers.com/clip/33222502/victoria_advocate/ 
  47. ^ Alloway, Kristen (May 2, 2010). “Jack Nicholson, Susan Sarandon are among 15 inducted into N.J. Hall of Fame”. The Star Ledger. http://www.nj.com/news/index.ssf/2010/05/jack_nicholson_susan_sarandon.html May 3, 2010閲覧。 
  48. ^ "Navy To Christen USNS Wally Schirra" (Press release). United States Department of Defense. 2009年3月12日閲覧
  49. ^ (8722) Schirra = 1996 QU1 = 1948 RC = 1985 TV3”. MPC. 2021年9月8日閲覧。
  50. ^ King, Susan (May 18, 1991). “Change of Character for Henriksen” (英語). Los Angeles Times. ISSN 0458-3035. http://articles.latimes.com/1991-05-18/entertainment/ca-1829_1_henriksen-character-plays August 24, 2018閲覧。 
  51. ^ Richmond, Ray (April 1, 1998). “From the Earth to the Moon” (英語). Variety. https://variety.com/1998/film/reviews/from-the-earth-to-the-moon-2-1200453500/ August 24, 2018閲覧。 
  52. ^ Shattuck, Kathryn (August 13, 2015). “What's On TV Thursday” (英語). The New York Times. https://www.nytimes.com/2015/08/13/arts/television/whats-on-tv-thursday.html August 24, 2018閲覧。 

参考文献

[編集]

外部リンク

[編集]