坂田利夫

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アホの坂田から転送)
坂田さかた 利夫としお
戎橋南詰戎舞台にて
2015年1月10日、今宮戎神社十日戎
(左からシャーロット・ケイト・フォックス
坂田、近藤光史
本名 地神 利夫
(じがみ としお)
ニックネーム アホの坂田、坂田師匠
生年月日 (1941-10-07) 1941年10月7日
没年月日 (2023-12-29) 2023年12月29日(82歳没)
大阪府大阪市
出身地 大阪府大阪市港区
血液型 B型
身長 159 cm
言語 日本語
方言 大阪弁
最終学歴 此花商業高等学校(現・大阪偕星学園高等学校)卒業
出身 吉本新喜劇研究生
コンビ名 コメディNo.1(1967年 - 2009年)
相方 前田五郎
芸風 漫才
漫談
コント
立ち位置
事務所 吉本興業大阪本部
活動時期 1967年 - 2022年
過去の代表番組 バラエティー生活笑百科(不定期出演)
あっちこっち丁稚
めちゃ2イケてるッ!(不定期出演)
配偶者 独身(未婚)
弟子 げんしじん
公式サイト 公式プロフィール
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坂田 利夫(さかた としお、1941年昭和16年〉10月7日 - 2023年令和5年〉12月29日[1])は、日本お笑いタレント漫才コンビコメディNo.1の元メンバー。大阪府大阪市港区出身。吉本興業所属。

本名は地神 利夫(じがみ としお)。通称はアホの坂田、坂田師匠。芸名は将棋棋士坂田三吉に由来するが[2]将棋は苦手である。

私立此花商業高等学校(現・大阪偕星学園高等学校)卒業。漫才コンビ時代にリリースしたキダ・タロー作曲の「アホの坂田」がイメージソングとして定着しており、舞台登壇時などには恒例のお約束として出囃子に使用される。

来歴[編集]

生い立ち[編集]

1941年10月、大阪府大阪市港区に生まれる。弟、妹がいる。実家は地神ワイヤーロープ製造業(家内工業)を営んでいた。

1955年台風の被害により家が壊れ、大阪市西区にあった製綱会社工場に一家で住み込む。

吉本入りする直前に勤めていたのは、大阪ガスの関連会社であった[3]

吉本新喜劇[編集]

1961年、高校卒業後に職を転々とした後に[4]吉本新喜劇の研究生として吉本入り。このオーディションでは最初は不合格だったが、花菱アチャコから「あの子は何か持っている」と推挙されて、一転して入ることが出来た[5]

1967年、前田邦弘(前田五郎)と漫才コンビ『コメディNo.1』を結成する。西川きよしから「漫才は儲かるで」と勧められて喜劇俳優から転向した[6]

1970年、第5回 上方漫才大賞ラジオ大阪) 新人賞受賞。

1971年、昭和45年度 第1回 NHK上方漫才コンテスト 最優秀話術賞受賞。この2度の栄冠が、坂田(地神)にお笑いの道への専心を決意させることになる。

1972年、第1回 上方お笑い大賞読売テレビ)金賞受賞。

1972年8月、テイチクより7インチシングルレコード『アホの坂田』(作詞:竹本浩三、作・編曲:キダ・タロー)が発売される。この楽曲は坂田の登場シーンにかかることが多く、代名詞的な曲となる。

1979年、第14回 上方漫才大賞(ラジオ大阪)大賞受賞。

近年の活動[編集]

2009年8月31日をもってコメディNo.1を解散(経緯)し、以降はピンで活動する。

2015年、 映画『0.5ミリ』において、第10回おおさかシネマフェスティバル 助演男優賞を受賞[7][8]

最晩年は高齢者施設に入居し、出演機会が減少していた。親交のあった間寛平のSNS投稿などで近況は伝えられており、2022年4月にはなんばグランド花月で行われた吉本興業創業110周年特別公演「伝説の一日」に出演した。後述の死去により、同7月30日にYES THEATERで開催された「さざなみ寄席」への出演が生前最後の舞台出演となった[9][10]

死去[編集]

2023年12月29日老衰のため、大阪市内で死去した[9][1]。82歳没。臨終は晩年も親交のあった間寛平夫妻が看取った[9]。生涯独身を通す形となった(理由については後述)[11]。葬儀・告別式は翌2024年1月5日に大阪市内の斎場で営まれた。斎場では自身のテーマソングであった『アホの坂田』が流され、棺には「アホ」と書かれた衣装、マントなどが納められた[12]。同日、BSよしもとでは追悼番組『坂田利夫師匠へ感謝のメッセージ あ~りが~とさ~ん!』が放映された[13]

人物[編集]

  • 1950年のジェーン台風の被害を受けて家が流されたため、幼少時の写真はほとんどない[14]。同じ境遇の芸人に、6代桂文枝がいる。
  • 子供の頃にはたびたび知らない人やチンドン屋に付いていったりしたため、よく迷子になっていた。そのため、ついには「この子は病気です、どうか家にお届けください」と書かれた札を付けさせられたこともある[15]
  • 芸人になったきっかけとなったのは、大ファンだった大村崑で、『番頭はんと丁稚どん』(毎日放送)も欠かさず観ていたという[16]
  • レコード「アホの坂田」が大ヒットした際、大阪の教育委員会から「サカタ姓の小中学生がからかわれたり、いじめに遭っている」との指摘を受け、放送局は一時この曲の演奏を自粛したり、レコード店もレコードの販売を一時見合わせる事態になり、坂田自身もいわれのないバッシングを受けた。また、選抜高等学校野球大会の入場行進曲にも採用が検討されていたが、これらの事情により取り消しになったとの説もある[17](代わりに選ばれたのが水前寺清子の「365歩のマーチ」だった)。
  • 妹の結婚式で「ふつつかな妹ですが」と言うべきところを「ふしだらな妹ですが」と言っていた[18]
  • 愛するペットはイグアナで、爬虫類全般が好き。爬虫類以外の動物も好きであり、特に大きな動物が好き。一方、小さい動物はあまり好きではない[19]
  • 歩くことが大の苦手である。
  • ウナギが大好物である。自宅で食する時には何故か裸で食べる。他に好物は卵焼き。逆に苦手な食べ物は鶏肉。鶏肉嫌いの原因は、子供の頃近所でニワトリを食用で飼っていて、それを捌くところも見たからという[20]
  • 家では裸で過ごすことが多い。その理由は怖がりなため、もし家に幽霊が出ても自分が裸でいれば「幽霊も恥ずかしがるかも」と思ったからだという。電灯やテレビを一晩中点けっ放しにすることもある[21]
  • 釣りが趣味。よしもとの芸人同士で組んだ「釣り協会」の会長を務めていたことがある[22]
  • 若手時代、先輩芸人から「ゆで卵を水なしで一気食いしたら小遣いをやる」と言われて実行し、黄身が喉に絡まって窒息死寸前になったことがある[23]
  • 1975年から1983年まで朝日放送他で放送されていた『あっちこっち丁稚』では、木村進、間寛平とともに、木金堂というカステラ店の丁稚役で出演していた(相方の前田五郎は、木金堂の主人役であった)。なお、デビュー当初から数年間は、相方の前田五郎とともに、吉本新喜劇でも活躍していた。
  • ひょうきんベストテンで田原俊彦君に薔薇薔薇…という感じ」をモノマネで歌った際、島田紳助に「君に薔薇薔薇というより歌も踊りもバラバラ。何なんでしょうアレは?」とボヤかれて「田原トシ彦じゃい!」と返したことがある。
  • かつて富士通パソコンFMVシリーズのCMキャラクター“タッチおじさん”の声を担当していた際、富士通からパソコン一式を贈られた。
  • 航空機が大の苦手であり、遠方での仕事がある際には航空機に乗らずに鉄道などの交通機関を使用して現地へ移動する。北海道旭川市での仕事があった際にも23時間かけて陸路で現地へ向かったという[24]
  • 小豆島で仕事と言われて小豆島へ行ったが、相方の前田が見当たらなかったために自分が聞き間違えたと思い込んで淡路島へ行ってしまったことがある。結局その日の仕事は前田一人で務めた。この他にも、香櫨園西宮市)と香里園寝屋川市)を間違えたことがある[25]
  • 好きな言葉は「地球は舞台であり、人間は全て役者である」。みんな裸で生まれ、ゼロから出発して成長し、様々な人間が出来上がるが、職業や肩書はみんな違い、幸不幸の差も出て、なぜこうなるかと思ったら不思議ですごいという[26]
  • 結婚をしなかった理由について「母が『アホ生んだ子や』と言われるのは、親やから仕方がないと言ってくれた。けれど自分が結婚して子供ができたら『アホの子や』と言われるかもしらんから」と取材に答えている[11]

交友[編集]

  • 西川きよしヘレン夫妻とは、仲が良いことで有名。芸人として食べられなかった頃、坂田ときよしは、吉本新喜劇でマドンナとして活動していたヘレンに養ってもらっており、彼等が結婚した後も、しばらく西川家に居候していたことがある。また、夫妻の長男・西川忠志誕生の際、仕事で駆け付けられなかったきよしに代わり父親役として立ち会った。夫妻とも坂田より年下であるが、芸歴はきよし夫妻の方が長いので西川夫妻は坂田のことを「坂田君」と呼び、坂田は二人のことを「きよっさん」「ヘレンさん」と呼んでいる。
    • きよし夫妻が生活に困窮していた際、一家心中をしようと思い詰めたきよしは「友達やないか」と坂田も誘った(死ぬのはまず坂田から)、というエピソードがある。坂田を漫才に誘ったのもきよしで、きよしが「やす・きよ」で人気が出始めた頃、当時吉本新喜劇の役者だった坂田に対し、きよしが「漫才は儲かるでぇ〜!」と言ったのが漫才転向のきっかけだった。
  • 上岡龍太郎とは同い年[注 1]の芸人仲間で、上岡は坂田のことを「とっちゃん」と呼んでいた(芸歴では上岡が先輩)。
  • 間寛平とも仲が良く、寛平の子供達は坂田のことをパパと呼んでいた。一緒に住んでいたこともある[27]
    • 坂田、寛平の若手芸人時代は他の先輩芸人と3人でラブホテルを間借りし、3年間過ごしていたこともあったという。毎朝朝食に出される焼鮭が塩辛く、坂田の血圧が上昇し死にかけたと、寛平が逸話で述懐している[28]
    • 坂田の晩年も寛平夫妻は交流を続け、坂田が高齢者施設に入居後も10日に1回ほどのペースで訪問していたとされ[29]、入院した時にも頻繁に見舞いに来ており[30]、上述の通り、坂田の臨終を夫妻で看取った[9]
    • 坂田が亡くなる3日前に容体急変の報を聞いた寛平夫妻は病院に駆けつけ、今際の際には寛平のギャグである『アーメマ!!』と声をかけたところ、そこから3日間は持ち直したという[31]
  • 大木ひびきとは、無二の飲み友達である(互いに独身者だったが、ひびきは2015年6月1日に結婚した[32])。
  • ナインティナイン岡村隆史を、独身(岡村は2020年10月に結婚した)・気が弱い・女性との交流が苦手という共通点があることから非常に可愛がっており、『ナインティナインのオールナイトニッポン』で、岡村が数々のエピソードを話している。岡村いわく「坂田師匠は女性とキスすらしたことない」。さらに番組が岡村単独になってから、エンディングのあいさつに「歯食いしばって屁こいて寝ましょう」と付け加えられているが、これは坂田が岡村に言った言葉である。

持ちネタ・芸風[編集]

「アホ」[編集]

  • 自らをアホ(阿呆)と称し、他人に軽蔑されても意に介さず、また明石家さんまなど後輩から「もう『師匠』なんですから仕事を選んで」といさめられてもアホに徹する芸が代表的。アホのキャラクターを演じ始めるようになったきっかけは、ある日の舞台で相方・前田に「お前はアホか」と振られた時に「そうやアホや」と返しただけという掛け合いだったが、その時に客がドッとうけ、「これや!と思った」という[33]。また、吉本によって坂田が「一番アホそうやから」としてアホキャラで売り出すことになったということもあった[17]。「ギャグの多くは偶然の産物。ウケようと思うて作れるものではない」と語っている。
  • しかし「アホ」はあくまでも芸風で、プライベートでは決して周りの人(弟子や付き人達など)にそう呼ばせない。見知らぬ人に「アホ」といわれるとムキになって怒り、舞台でも観客に「アホ」などと言われて喧嘩したこともあった。また、「バカ」と言われると相当不機嫌になる[注 2]
  • 母親は息子がアホと言われることにひどく抵抗があったらしく、レストランで二人で食事をしていた時、そこに来ていた学生に利夫がアホと言われた際には、泣きながら止めようとした[34]。その後、坂田は自分の芸風に悩むことになる。
  • アホを演じるのが嫌になってこれまでの芸風をやめようとしたこともあったが、藤山寛美から「アホは心の優しい者しかできんのやで」と諭され思い直した[35]

鈴木宗男のそっくりさん[編集]

  • 「2004年時点での坂田の容姿は、衆議院議員鈴木宗男(現・新党大地代表)の容姿と似ている」と言われ、本人も悪ノリしてよくモノマネをしていた。
  • 一時期人気は凋落傾向にあったが、2002年、鈴木宗男の一連の疑惑に絡み、鈴木のそっくりさんとしてマスコミへの露出度を高めるにつれ人気が復活、本人もギャグとして大いに利用。鈴木があっせん収賄政治資金規正法違反等で逮捕され437日間拘置される間、鈴木に取って代わりさらに露出度を高める。その後、2005年、鈴木は衆議院議員に復活し、それ以降は鈴木のほうが熱心に坂田を利用しタレント活動に力を入れるなど、お互いに持ちつ持たれつの良好な関係を築いている。
  • 2006年、『めちゃ2イケてるッ!』の「濱口だましシリーズ」で鈴木のそっくりさんとして登場するはずだったが、大阪での仕事があったために鈴木宗男のそっくりさんの代役として新党大地結党後の鈴木本人が登場した。

代表的なギャグ[編集]

  • あ、よいとせのこらせのよいとせのこらせ
  • アッホ! - フジテレビオールスター爆笑ものまね紅白歌合戦スペシャル!!』で清水アキラが坂田利夫のマネとして、ピンク・レディーの扮装で「UFO」を歌った際、「ご本人登場」として坂田も共演。そのギャグを逆パクリしたもの。
  • アホウドリの歌 - 朝日放送テレビなにわ人情コメディ 横丁へよ〜こちょ!』などに出演した際に、番組の終盤近くなどで披露する歌。
  • あ〜りが〜とさ〜ん(当たりギャグである、山本正から5000円で買い取ったギャグ)
  • あんたバカね、オホホ〜(ルーキー新一の「あんた知らないの? ホホホン」の流用または盗用ともいえる[独自研究?]
  • いえす、あいどぅー
  • 恋のマイアホ - これまた、ものまね番組で清水アキラが坂田利夫のマネとして「恋のマイアヒ」を歌った際、「ご本人登場」として坂田も共演。そのギャグを逆パクリしたもの。
  • サンキュー、便所マッチ
  • ジョンジョロリ〜ン、ジョンジョロリ〜ン、ジョンジョロリンの、ぱっぱ(冒頭に「みみずもカエルも皆ごめん」と言う場合もある。)
  • G・N・Pは国民総生産、G・D・Pは国内総生産Y・K・Kチャックの会社(オチ)
  • 手足をくねらせながらの独特の横歩き。吉本の舞台では、時に「アホ」と大きく書かれた赤い腹巻きを着けていることがある。
  • ファーホーファアーホー(椅子などに座り、両手両足で交互に拍手をしながら)通称「とっちゃん叩き」。
  • まいっちゃったよたまんないね
  • (両手を肩の高さで縮めた状態から、手首を交互に突き出しながら)アホアホミサイル発射!アホアホアホアホ…

弟子[編集]

  • 坂田まさお・きみお坂田きみおは廃業して現在は本名の吉本興業の社員、坂田まさおは不明)
  • げんしじん(1989年4月入門。芸名は「坂田さる」。その後、「おまえは進化した」と言われ、「げんしじん」となる)
  • ライト坂田(ライム中田(別所清一)と「ライムライト」として活躍)
  • 坂ペン太(廃業)
  • 2003年、「坂田利夫の一番弟子・坂田勝(52)」を騙り、18年間も徒歩で日本一周をしているという男性が、北海道帯広市長を表敬訪問し、地元の新聞に紹介されたが、坂田にはそのような名前の弟子がいなかったことが明らかになっている[36]

出演[編集]

映画[編集]

バラエティ[編集]

CM[編集]

テレビドラマ[編集]

教育番組[編集]

ラジオ[編集]

Vシネマ[編集]

吹替[編集]

その他[編集]

著書[編集]

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 坂田は1941年10月、上岡は早生まれの1942年3月生まれ。
  2. ^ これは坂田に限ったことではなく、関西での「アホ」は親しみや愛情、優しさを込めて言われることが多い傾向にあるため。

出典[編集]

  1. ^ a b 坂田利夫さん死去 「アローン会」名誉会長も ナイナイ岡村の結婚祝福「ワシはまだ諦めてへんからな!」」『Sponichi Annex』(スポーツニッポン新聞社)、2023年12月30日。2023年12月31日閲覧。
  2. ^ 『国宝阿呆―人類初の世界遺産?』88ページ
  3. ^ 地神サカエ・著『息子はアホやあらへん』(ネスコ)81ページ
  4. ^ 真剣に貫く笑いの道…坂田利夫 読売新聞 オンリーワン 2015年1月4日 日曜版3面
  5. ^ 坂田利夫さん、“アホ”演じ貫いた芸人人生 理想の女性はヘレンさん 生涯独身で「誰のために働くのか」と寂しさも”. スポーツ報知 (2023年12月31日). 2023年12月31日閲覧。
  6. ^ 坂田利夫さん死去、82歳 誰からも愛された「アホの坂田」 耳から離れぬ「あ~りが~とさ~ん」”. スポーツニッポン (2023年12月31日). 2023年12月31日閲覧。
  7. ^ “「そこのみにて光輝く」6部門制す おおさかシネフェス”. 大阪日日新聞. (2015年1月31日). オリジナルの2015年2月3日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20150203093835/http://www.nnn.co.jp/dainichi/news/150131/20150131035.html 2015年2月4日閲覧。 
  8. ^ 第10回おおさかシネマフェスティバル受賞者決定!!”. おおさかシネマフェスティバル実行委員会. 2015年1月4日閲覧。
  9. ^ a b c d “坂田利夫さん死去、82歳 老衰のため大阪市内で…最期は間寛平夫妻に見守られ、息を引き取る”. 報知新聞. (2023年12月30日). https://hochi.news/articles/20231230-OHT1T51132.html?page=1 2023年12月30日閲覧。 
  10. ^ 坂田利夫さん死去 数年前から高齢者施設に入所 昨年7月が最後の仕事 結婚「しない」理由は… - Sponichi Annex 2023年12月31日
  11. ^ a b “「アホ」「独身」貫いた坂田利夫さん 生前、取材に残した「その理由」”. 日刊スポーツ. (2023年12月31日). https://www.nikkansports.com/entertainment/news/202312310000264.html 2023年12月31日閲覧。 
  12. ^ 坂田利夫さん告別式 「アホ」衣装にマント姿で荼毘に付される 斎場ではテーマソング「アホの坂田」も - Sponichi Annex 2024年1月6日
  13. ^ 坂田利夫さん葬儀、無事に終了 きよし夫妻、八方、オール巨人ら約100人に参列 5日特番も - 日刊スポーツ 2024年1月5日
  14. ^ 『息子はアホやあらへん』47ページ
  15. ^ 『アホの坂田のアホだらけ』193-196ページ
  16. ^ 『国宝阿呆―人類初の世界遺産?』26ページ
  17. ^ a b 「アホの坂田」バカ売れだったが1本の電話で…、2009年4月1日、スポーツニッポン。
  18. ^ 『アホの坂田のアホだらけ』84ページ
  19. ^ 『国宝阿呆―人類初の世界遺産?』112-115ページ
  20. ^ 『息子はアホやあらへん』41ページ
  21. ^ 『国宝阿呆―人類初の世界遺産?』112、118-120ページ
  22. ^ 『アホの坂田のアホだらけ』92-93ページ
  23. ^ 『アホの坂田のアホだらけ』80-82ページ
  24. ^ ペンギン坂田利夫 旭川行き片道23時間 帰りは嫌いな飛行機「怖かったわさ」 スポーツニッポン 2013年4月11日閲覧
  25. ^ 『アホの坂田のアホだらけ』179-181ページ
  26. ^ 『国宝阿呆―人類初の世界遺産?』194ページ
  27. ^ 『息子はアホやあらへん』194ページ
  28. ^ ラブホに住んでた若手の頃の坂田利夫さん 朝ご飯で食べる鮭が辛すぎて高血圧で死にかけた!? - Sponichi Annex 2024年1月5日
  29. ^ 坂田利夫さん死去 看取った間寛平は憔悴 親交54年、最期まで“大先生”に寄り添い続け… - Sponichi Annex 2023年12月31日
  30. ^ 「アホの坂田」坂田利夫さん82歳死去 22年7月の寄席が最後の出演に お別れ会は予定せず”. 日刊スポーツ (2023年12月31日). 2024年1月7日閲覧。
  31. ^ 間寛平GMが大先輩・坂田利夫さんの最期語る こん身の「アーメマ!」で「生き返りました」 - スポーツ報知 2024年1月10日
  32. ^ 大木ひびき、還暦を目前の“ケジメ婚”ニッカンスポーツ、2015年6月1日記事。ただし、ひびきは吉本所属前にも一度結婚している。
  33. ^ 『国宝阿呆―人類初の世界遺産?』57ページ
  34. ^ 『息子はアホやあらへん』14-15ページ
  35. ^ 『国宝阿呆―人類初の世界遺産?』193ページ
  36. ^ 「そんなアホな」と苦笑い/吉本芸人かたり市長訪問四国新聞社、2003年7月26日 00:20。
  37. ^ シネロケット 作品紹介
  38. ^ 「今月の広告批評」『広告批評』第144号、マドラ出版、1991年11月1日、90頁、NDLJP:1853110/47 
  39. ^ 「CF撮影余話(富士通・『タッチおじさん』-コケ篇)」『近代企業リサーチ 4月10日』第748号、中小企業経営管理センター事業部、1996年4月10日、77頁、NDLJP:2652249/39 

外部リンク[編集]