鳥栖フューチャーズ
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鳥栖フューチャーズ | |||
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原語表記 | 鳥栖フューチャーズ | ||
愛称 | フューチャーズ | ||
クラブカラー | ピンク | ||
創設年 | 1987年 | ||
解散年 | 1997年 | ||
所属リーグ | ジャパンフットボールリーグ | ||
ホームタウン | 佐賀県鳥栖市 | ||
ホームスタジアム |
鳥栖スタジアム 佐賀県総合運動場陸上競技場 | ||
収容人数 | 24,490 | ||
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■テンプレート(■ノート)■サッカークラブPJ |
鳥栖フューチャーズ(とすフューチャーズ、Tosu Futures)は、かつて存在したプロサッカークラブ。Jリーグ準会員クラブの一つで、ジャパンフットボールリーグ(旧JFL)などで活動していた。
歴史・概要
1987年に静岡県浜松市を本拠にPJMジャパンの設立したサッカークラブ『PJMフューチャーズ』として結成された。静岡県西部3部リーグからスタートし、森下仁之、ウーゴ・マラドーナ(ディエゴ・マラドーナの実弟)らの活躍で順調に昇格、発足から91連勝で1992年に東海社会人リーグで優勝して、1993年からジャパンフットボールリーグ2部に昇格。この年は元アルゼンチン代表のセルヒオ・バティスタ(アルゼンチン代表元監督)が加入し、準優勝。1993年9月にJリーグ準会員申請を行ったが、審査で運営会社の経営基盤、またホームスタジアムの整備の問題などから、11月の理事会・実行委員会では準会員承認を保留された。
1994年、ホームタウンを佐賀県鳥栖市に移転。運営法人の佐賀スポーツクラブ株式会社を設立し、1994年7月に経営基盤改善と、鳥栖スタジアム完成までの暫定本拠地で、1976年開催の第31回国民体育大会(若楠国体)の主会場としての整備を行っていた佐賀県総合運動場陸上競技場の整備が進んでいることを受けてようやく承認され、Jリーグ準会員となった。ただし、当時は準会員チームも参加可能だった同年のJリーグカップ・Jサテライトリーグへは参加できなかった。
1995年、鳥栖フューチャーズと改称し、元日本代表GKの松永成立や元カメルーン代表主将のステファン・タタウなどを大型補強した。1996年も選手の大量補強が行われ、6月に鳥栖スタジアムがオープンすると平均入場者数は1万人を越えた。しかし、3年連続4位にとどまり、Jリーグ昇格は叶わなかった。そんな中、静岡県藤枝市を拠点としていた中央防犯FC藤枝ブルックスがJリーグ参入を目指して福岡市に本拠地を移転し、福岡ブルックス(現在のアビスパ福岡の前身)が誕生。地理的に競合することとなった上に、鳥栖移転時にスポンサーになるはずだった福岡の企業がスポンサーを辞退。更に1996年11月にメインスポンサーのPJMジャパンが撤退した。
1997年1月に12億円の累積赤字を抱えて経営難に陥った佐賀スポーツクラブは臨時株主総会を開いて解散を決議。鳥栖Fは解散となり、Jリーグ準会員も取消された。Jリーグ初期の準会員でJリーグに参加できなかったのは、当チームと本田技研工業サッカー部を母体にする予定で設立された「浜松FC」のみである。なお、浜松FCにはリーグ戦活動期間はなく、活動していたのに参加できなかったのは当チームが唯一である。なお、佐賀スポーツクラブは1998年3月に佐賀地方裁判所より破産宣告を受けた。
PJM撤退後、チーム存続を求める5万人を超える署名があった事などを受け、1997年2月、解散した鳥栖Fの受け皿として任意団体「サガン鳥栖」が設立され、チームへの救済措置として引き続き、鳥栖Fが所属していたジャパンフットボールリーグと、同年のナビスコカップの2大会への特例参加が認められた。サガンは1998年に法人化し、1999年からJリーグ ディビジョン2(J2)に参加している。
また実現しなかった補強だが、当時のPJMフューチャーズ監督桑原勝義が協会にプロリーグ入りを要請しに行ったところ「ディエゴ・マラドーナを連れてきたら考えなくもない」と言われ、本気になった桑原はイタリアまで飛んで本人を追い掛け回して直談判まで持ち込んだ。マラドーナ本人もイタリア生活に疲れていた上に、1990 FIFAワールドカップでアルゼンチンがイタリアを下したために苛烈なバッシングに遭っており、「日本でプレーする」という言質まで取るが、マラドーナの麻薬スキャンダルが発覚し、マラドーナのJリーグ入りは消滅した。
戦績・歴代監督
年度 | 所属 | 順位 | 試合 | 勝点 | 勝利 | 引分 | 敗戦 | 得点 | 失点 | 監督 |
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1987 | 静岡県西部3部 | 優勝 | 10 | - | 10 | - | - | 133 | 1 | 桑原勝義 |
1988 | 静岡県西部2部 | 優勝 | 14 | - | 14 | - | - | 192 | 2 | |
1989 | 静岡県西部1部 | 優勝 | 15 | - | 15 | - | - | 168 | 7 | |
1990 | 静岡県2部 | 優勝 | 15 | - | 15 | - | - | 135 | 2 | |
1991 | 静岡県1部 | 優勝 | 19 | - | 19 | - | - | 123 | 2 | |
1992 | 東海 | 優勝 | 16 | - | 13 | 2 | 1 | 48 | 9 | |
1993 | JFL2部 | 2位 | 18 | - | 15(0延長 1PK) | - | 3(0延長 0PK) | 46 | 9 | 桑原隆 |
1994 | JFL | 4位 | 30 | - | 22(1延長 1PK) | - | 8(0延長 0PK) | 70 | 47 | 桑原隆/セルヒオ・バティスタ |
1995 | 4位 | 30 | 60 | 19(2延長 4PK) | - | 11(2延長 3PK) | 47 | 37 | イヴァン・チャブリノヴィッチ/張外龍 | |
1996 | 4位 | 30 | 62 | 20(2延長 1PK) | - | 10(1延長 2PK) | 68 | 44 | ネルソン・アグレスタ(en)/セルヒオ・バティスタ |
下部組織
高校生のユースや中学生のジュニアユースなどのほかに大学生や社会人を対象とした実質的なサテライト(2軍)の組織として、『フューチャーズジュニオール』チームを結成しており、浜松時代には東京Vや名古屋の下部組織を指揮して日本一に輝き、育成年代屈指の名指導者として知られる菅澤大我が在籍していた。なお、鳥栖に移転後は九州サッカーリーグ入りを目標に佐賀県社会人サッカーリーグに参戦していた。鳥栖移転後の活動期間が短かったためトップチーム昇格を果たしたのは96年の平田靖彦のみだが、女子日本代表や浦和・川崎などの下部組織でコーチを歴任した澤村公康やアルゼンチン人のアンドレス・レッテラなどが選手として在籍していた。
トップチームの解散とともにこれら下部組織も解散し、古川隆志などユースの一部選手は新しく編成されたサガン鳥栖の下部組織に移籍したほか、大部分は新たに結成されたクラブチーム『ヴァレンティアFC 』に所属した。ヴァレンティアFC はその後も鳥栖地区の強豪クラブとして存続している。
タイトル
- 全国社会人サッカー選手権大会
- 優勝(2回):1991年、1992年
- 東海社会人リーグ
- 優勝(1回):1992年
- ジャパンフットボールリーグ2部
- 準優勝(1回):1993年
ユニフォームスポンサー
ユニフォームサプライの遍歴
- 1994 - 1996年(Jリーグ準会員) ennerre
ユニフォームスポンサー
チーム名変遷
- 1987年 - 1994年 PJMフューチャーズ
- 1995年 - 1996年 鳥栖フューチャーズ
サガン鳥栖との関係
現在、日本プロサッカーリーグ(Jリーグ)に加盟するサガン鳥栖(サガン)は鳥栖フューチャーズ(鳥栖F)解散後に鳥栖Fの実質的な受け皿として設立されたクラブであり、鳥栖Fが持っていた参加資格を引き継いで旧JFLに参戦しているため、鳥栖Fをサガンの実質的な前身と見なすことはできる。新聞やテレビでも鳥栖Fを「現在のサガン鳥栖の前身」と表記、紹介することがしばしば見受けられる[1]。ただし、サガンの設立はあくまでも鳥栖Fの解散後であり、サガンが鳥栖Fの組織を譲り受けたわけではなく、組織として鳥栖Fとサガン鳥栖の間に直接的な連続性は無いため、単に前身とすることは厳密には正しくない。Jリーグのクラブ情報でもサガンの創設年は1997年としており[2]、PJM設立の1987年とはなっていない。公式記録でも、基本的に鳥栖Fとサガンは別組織として扱われ、サガンの通算成績に鳥栖F時代のものは含まれていない。天皇杯全日本サッカー選手権大会の出場回数のみ鳥栖F時代との合計となっているものの、天皇杯パンフレットでのサガン鳥栖メンバーリストではフューチャーズからサガンに参加した選手の「前登録チーム」欄は鳥栖フューチャーズと記載されており、天皇杯でもフューチャーズとサガンは別の組織とみなされている。
脚注
- ^ サガン鳥栖 - Jリーグチーム情報 : nikkansports.com 日刊スポーツ。
- ^ “サガン鳥栖”. 日本プロサッカーリーグ. 2014年6月22日閲覧。
関連項目
- 鳥栖フューチャーズの選手一覧
- 永井隆幸:鳥栖F時代から唯一残るサガン鳥栖のチームスタッフ(現・強化部長)
- YUYA:鳥栖F時代からホームゲームのスタジアムDJを担当。