長谷川路可

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

これはこのページの過去の版です。いいすく (会話 | 投稿記録) による 2016年1月30日 (土) 07:44個人設定で未設定ならUTC)時点の版であり、現在の版とは大きく異なる場合があります。

長谷川 路可
本名 長谷川 龍三
誕生日 (1897-07-09) 1897年7月9日
出生地 日本の旗 日本 東京府
死没年 (1967-07-03) 1967年7月3日(69歳没)
死没地 イタリアの旗 イタリア ローマ
墓地 カトリック府中墓地
国籍 日本の旗 日本
流派 フレスコ画
教育 東京美術学校
テンプレートを表示

長谷川 路可(はせがわ ろか、1897年7月9日 - 1967年7月3日)は、大正昭和にかけて活動した日本画家カトリック美術家として宗教画制作に取り組んだ。日本におけるフレスコモザイク壁画のパイオニアとして知られ、文化服装学院をはじめ、いくつかの教育機関で服飾史を講じた。本名は龍三

生涯

  • 1897年 7月9日 - 東京府に生れる。本名・龍三。 父=杉村清吉 母=たか
  • 1904年 - 暁星小学校(東京・麹町)に入学。寄宿舎に入る。
  • 1907年 - 両親の協議離婚により母方に入籍。長谷川姓になる。
    たか、妹を頼って神奈川県鵠沼へ転居。龍三の籍も鵠沼となる。
  • 1910年 - 暁星中学校に進学。
  • 1914年 - 函館のトラピスト修道院で夏を過ごし同宿の詩人・三木露風との交友が始まる
    同年 - 暁星学校にてカトリックに入信。洗礼名:ルカ。(雅号の路可はこの洗礼名に因む)
  • 1915年 - 暁星中学校を卒業。渡邊華石に師事し南画を習得。
  • 1916年 - 東京美術学校日本画科に入学。松岡映丘に師事。
  • 1921年 - 東京美術学校日本画科を卒業。卒業制作『流さるる教徒』(日本画)
    同年 - フランスへ留学。船中で徳川義親侯爵と知り合う。
    同年 - シヤルル・ゲランの門下として洋画技法を修得。肖像画を専攻。
  • 1923年 -アンデパンダン展,サロン・ナショナル展、サロン・ドートンヌ展 等に入選。
  • 1924年 - 松本亦太郎教授等から西域壁画の模写を依頼される。
    同年 - 7月からドイツのフェルケルクンデ博物館、11月から英国の大英博物館の西域壁画を模写。
  • 1925年 - 5月まで フランスのルーヴル美術館ギメ東洋美術館における模写。続いて再びドイツとイギリスで摸写。
    同年 - パリで開催の現代産業装飾芸術国際博覧会(通称=アール・デコ)の日本館の展示に参与。
    同年 - ブリュッセル文化美術博覧会の日本美術館建設と陳列に参与、勲章を受ける。
    同年 - ベルリンの日本美術展開催に小室翆雲代表と参与
  • 1926年 - 2月、摸写の作業を大方完了しパリに戻る。
    同年 - ポール・アルベール・ブードワン主宰のフォンテーヌブロー研究所でカルロ・ザノンにフレスコ画の技法を学ぶ。
    同年 - サロン・ドートンヌ会員推挙。
    同年 - エコール・ドゥ・ルーヴルの西洋服装史専科修了。
  • 1927年 - 外遊より帰国し、現・藤沢市鵠沼海岸2-9-12にアトリエを構える。
    同年- 新興大和絵会に加わり、第7回・同展覧会にフレスコ画『アンレブマン・ヨーロッパ』などを出品。
  • 1928年 1月15日 - 菊池登茂と結婚。
    同年 - 狛江の伊東家聖堂(後にカトリック喜多見教会となる)(東京)に日本で最初のフレスコ壁画を制作。
    同年11月3日 - 長女・百世、誕生。
    同年 - 黒澤武之輔、木村圭三、佐々木松次郎、近藤啓二、小倉和一郎らと「カトリック美術協会」を結成
  • 1929年 - 国民新聞に連載の大佛次郎『からす組』の挿絵を担当。
    同年 - 大和学園高等女学校で美術を担当する。
  • 1930年 - ローマで開催の日本美術展覧會に横山大観、松岡映丘、平福百穂などの随員として派遣、勲章を受賞。
    この期にピウス11世 (ローマ教皇)に拝謁、欧州各地を周り映丘と共にアメリカ、ハワイ経由で帰国。
  • 1931年 - 《新興大和絵会》解散
    同年 - 早稲田大学で講演。理工学部建築学科の研究室の壁にフレスコ画を描く。壁は塗り込められたが再発見され、修復後、會津八一博物館に展示。
  • 1932年 - 第1回《カトリック美術協会展》出品。
    同年 - ジャワ、バリ島など南方の島々を廻る。
    同年8月1日 - 次女・百合子、誕生。
  • 1933年 - 徳川義親邸(東京)にフレスコ画を制作。
  • 1935年 - 徳川生物研究所(現・徳川黎明会)(東京)の建築装飾に従事
    同年 - 台湾を廻る。台北教育会館にて個展
    同年 - 4月16日 三女・清子、誕生
    同年 - 松岡映丘を中心とする《国画院》結成に参加。
  • 1937年 - 鵠沼より東京目白へ転居。
    同年 - 文化服装学院に出講し、服装美学・服装史を担当。
  • 1938年 - 狩野光雅、遠藤教三と《三人展》結成
    同年 - 尾張徳川家納骨堂(愛知県瀬戸市定光寺)にフレスコ壁画制作
  • 1939年 - カトリック片瀬教会献堂。内部装飾および『十字架の道行き』等を制作。
    同年 - 日本大学専門部芸術科(現・芸術学部)へ出講。日本画、フレスコを担当。
    同年 - 共立女子専門学校(現・共立女子大学)に出講
    同年 - 藤山工業図書館にフレスコ壁画を制作。
  • 1940年 - 東京家政専門学校(現・東京家政学院大学)に出講。服飾史を担当。
    同年11月22日 - 妻・登茂、東京市療養所にて死去。
  • 1941年 《三人展》を《翔鳥会》と改称。出品。
  • 1942年9月11日 - 金子ヨシノと結婚
  • 1944年8月24日 - 長男・巌、誕生
  • 1945年 - 山形の妻の実家に疎開
  • 1946年 - 文化服装学院へ出講(再任) 11月 恵泉女学園高等部に出講。服飾史を担当
  • 1948年 2月13日 - 次男・路夫、誕生
  • 1949年 - 鹿児島カテドラル・ザビエル教会にザビエル渡来400年記念絵画を制作。
  • 1950年 - 徳川義親を初代学長とする文化女子短期大学創立、教授に就任。
    同年 - 聖年に際しサイゴン経由のフランス船でイタリアに渡る。
  • 1951年 - 。ピウス12世 (ローマ教皇) に拝謁、『切支丹絵巻』を献呈。
    同年ー金山政英在バチカン代理公使宅で下絵を制作、日本聖殉教者教会(チヴィタヴェッキア市)の壁画制作に着手。
    以後の制作過程については日本聖殉教者教会を参照。

活動

長谷川路可は美術家として極めて多角的な活動を見せた。

日本画家として

路可の父・杉村清吉は、東京・芝で糸組物を生業とし、1873年メダイユ取調御用掛に任ぜられた大給恒の許で綬(じゅ、勲章の布の部分)の製造販売に当たっていた。明確に美術に関心を持ち、作品が残っているのは中学校時代からで、カトリック入信時の洗礼名画家守護聖人ルカであることも偶然ではなかろう。この時代の作品は水彩油絵が中心だが、中学校卒業後、渡邊華石に師事し、南画を習得している。東京美術学校日本画科に入学し、大和絵松岡映丘に師事してからは、大和絵(国画)に専心する。

東京美術学校卒業直後にフランスに留学、西洋絵画を学ぶことになるが、これは日本画を捨てたわけではなく、彼の地でも日本画制作は続けられた。1926年のサロン・ドートンヌ展入選作品『南仏海岸風景』は水墨画である。

フランスから帰国後直ちに師・松岡映丘らが結成していた「新興大和絵会」に加盟、その年の展覧会から1931年の解散まで毎年積極的に出展した。1927年、フランス留学帰国後間もなく開かれた第7回新興大和絵会展に『アンレブマン・ヨーロッパ(ギリシャ神話)』をはじめ持ち帰った3点のフレスコ画を出品しており、その後もフレスコという新しい分野の開拓に挑戦した。1935年帝展の改組で画壇が大きく揺れ、松岡映丘は長年勤めた母校東京美術學校を辞し、同年9月に門下を合わせ《国画院》を結成し、長谷川路可も結成メンバーの一員となった。国画の創造を目指し、大和絵を中心としながら展覧会は洋画、彫刻にも門戸を開いたが、1937年第1回展を開催したのみで、翌年の映丘の死去により展覧会活動を休止、研究団体として存続し、1943年解散した。映丘の没後、新興大和絵会の東京美術学校時代の仲間だった遠藤教三・狩野光雅と「三人展」(後に「翔鳥会」と改称)を組織したが、戦前で活動は終了した。戦後、カトリック美術協会展や日展に出品するが、1950年にイタリアに渡るまでの路可の展覧会出品作は、絹本や紙本に岩絵具で彩色する伝統的な日本画の技法で描かれたものが中心であった。しかし、1957年、イタリアから帰国後の展覧会出品作は、ほとんど全部がフレスコで描いた作品となる。

壁画の模写

19世紀末から20世紀初頭にかけて、ヨーロッパ諸国の探検家東洋学者たちが中央アジアの遺跡を調査し、多くの遺物を持ち帰った。中には壁画などを剥ぎ取るような例も見られた。これに心を傷めた日本の美術史研究家、東京帝国大学の松本亦太郎教授、京都帝国大学の沢村専太郎助教授らは、せめてこれらを模写できないものかと考えていた。そこで白羽の矢が立ったのがフランス留学中の長谷川路可である。その経緯については諸説がある。路可自身の書いたものによれば、1924年ブリュッセルで開かれた国際学術会議で松本が渡欧した際、大使館から依頼されて路可が通訳を務めたことにより、松本から信頼され、模写を依頼されたという。路可は留学中の身だからと固辞したが、西域の壁画こそ日本美術の源流という指摘が路可を決断させた。路可がルーヴル美術館ドラクロワの『タンジールの舞女』を模写をしていたところに結城素明東京美術学校教授が通りかかり、路可に西域壁画の模写を打診し、ちょうど来仏した沢村専太郎助教授を紹介したという話も伝わっている。沢村は、路可の模写期間中、作業に付き添って交渉その他のマネージメントを引き受けた。一般の画家が練習用に模写するのと違い、考古学的な資料として模写するのであるから、「重ね描き」といって直に作品に和紙を重ね、ときにめくって確かめながら写し取るという方法で正確に模写が行われた。美術研鑽や制作を中断し、足掛け3年,折衝期間などを除いた正味約1年8ヶ月の歳月をかけて、記録されたものだけで80数点に及ぶ模写が行われた。これらの模写作品は、現在東京国立博物館東京大学京都大学東京芸術大学に分割所蔵されており、特に東京国立博物館では東洋館で定期的に架け替えながら常設展示されている。

路可が模写を行った場所は次の施設である。

もう一つのケースは、石橋正二郎の依頼によるものである。チヴィタヴェッキアでの路可の仕事ぶりに感銘した彼は、バチカン美術館所蔵のポンペイ壁画や名画のいくつかを模写することを条件に、多額の寄付を申し出た。これらの模写作品は、石橋美術館ブリヂストン美術館に分けて収蔵され、ブリヂストン美術館の4作品は、館内のティールーム「ジョルジェット」に常掲されている。

カトリック画家

長谷川龍三は1914年、暁星中学5年生の夏休みに北海道函館郊外当別のトラピスト修道院に滞在、同宿した三木露風から信仰と美術の道に進むことについて助言を受け、その年のクリスマスを前に受洗した。洗礼名は画家の守護聖人「ルカ(明治訳の聖書は路加と表記)」である。その後、露風に『聖ドミニコ像』(水墨画)を贈り、この作品は現在遺族から三鷹市に寄託され、同市の山本有三記念館に収蔵されている。現存する最古の路可の宗教画である。東京美術学校日本画科に入学すると、3年で『南蛮寺』を制作、翌年第2回帝展に『エロニモ次郎祐信』を出品し、入選。これらの作品の落款は長谷川龍三だが、卒業制作は『流さるる教徒』で、この作品から洗礼名に因んで路可という雅号を名乗るようになる。現在上記『南蛮寺』と共に東京藝術大学大学美術館に収蔵されている。

東京美術学校卒業後、直ちにフランスに留学した。これは、何をおいても憧れのパリに行って、念願だった西洋絵画の技法を学ぶつもりではいたが、当初はそれ以上の、キリスト教美術の伝統的な技法であるフレスコモザイクステンドグラスなどを身につけようという目的があったわけではない。渡仏した1921年秋、暁星中学校の先輩岩下壮一に在欧中の戸塚文郷、小倉信太郎と共に呼び寄せられ、ロンドン郊外のチェルシーにカリエスで寝たきりの生活を送るヴァイオレットという少女を囲んで、アイルランド人修道女やイタリア人の司祭などと修道の生活をおくるなかでカトリックの青年伝道団を組織することを目論んだ。これが「ボンサマリタン」である。小坂井 澄は、中でも最も若い路可は、聖職者になることを強く望んでいたという。他の3人が一高、帝大という経歴の中でラテン語、ギリシャ語といった古典を既に身につけていることに接し、挫折感を抱いたらしいと述べているが、路可の動機は高邁なものではなく、機会があればヨーロッパの何処にでも行き何でもやってみようと考えていた路可は、料理の腕をみこまれて先輩についていっただけであった。結局、岩下や修道女からカトリック美術の道を勧められ、その道に進むことになった。岩下壮一、戸塚文郷の2名が神父として日本カトリック史に名を遺すことになるのである。パリに戻った路可は洋画技法を磨き、サロン・ナショナルやサロン・ドートンヌに入選するほどに腕を上げ、西域壁画の模写の後、フレスコの技法までもフォンテーヌブローのポール・アルベール・ボードワンおよびカルロ・ザノンについて修得する[1]

路可の帰国した1927年は、小田急小田原線の開通した年である。小田急電鉄創設者利光鶴松が、長女(伊東)静江の意を受けて北多摩郡狛江町に私的聖堂を建設した。その壁画制作を路可が依頼されたのである。会堂は1928年7月に竣工し、長谷川路可による日本最初のフレスコ壁画が壁面を飾った。この日本初のフレスコ壁画は、1978年、聖堂の移転改築の際に路可の弟子の宮内淳吉の手によりストラッポされて保存されていたが、正面壁の聖母子像だけが喜多見駅前に建てられたカトリック喜多見教会小聖堂に10年後に復元されたが、左右の壁面部分は復元されていない。壁画完成後、路可は大和絵画家らしく『喜多見教会縁起絵巻』という長尺の絵巻物も制作し、1929年の第9回《新興大和絵会展》に出品後、同教会に納められその後東京カテドラルの収蔵となった。このことがきっかけで、1929年、小田急江ノ島線開通に際して南林間駅前に伊東静江が開いたミッション・スクール大和学園高等女学校の美術担当講師に招聘された。2013年7月、カトリック喜多見教会の閉鎖に際し、聖母子像と『喜多見教会縁起絵巻』は学校法人大和学園聖セシリア(神奈川県大和市南林間)に寄贈され、現在同学園が所蔵している。

1928年に黒澤武之輔、木村圭三、佐々木松次郎、近藤啓二、小倉和一郎とともに理事として「カトリック美術協会」を結成。1932年の第1回「カトリック美術協会展」より、渡伊前年の第10回展までほぼ連続して(第7回だけ記録が見あたらない)日本画を出品し、中心的な役割を果たした。イタリアから帰国後は、なぜか遠ざかっていたようである。1965年の第24回展まで出品の記録がない。このときの出品作『耳をそがれた聖三木パウロ』(フレスコ)は大阪市の「南蛮文化館」に収蔵展示されている。

鵠沼時代の路可は、鎌倉の天主公教会大町教会(現・カトリック由比ガ浜教会)に在籍し、片瀬の山本家の仮聖堂でのミサにも出席した記録がある。1937年、この地にカトリック片瀬教会が建設されることになった。聖堂の建物は純日本風の建築様式にすることになった。一見寺社風の聖堂が1939年の「聖ヨゼフの祝日(3月19日)」に献堂された。この時点で路可は既に目白へ移っていたが、計画段階に依頼されていたのであろう。聖壇両脇の床の間を飾る『エジプト避行』、『ルルドの聖母』(これは1946年路可筆の『聖家族』に架け替えられた)の掛け軸と、礼拝室両側に『十字架の道行き』の14面の色紙、さらに司教館玄関に飾られている扇面『宣教師』を描いている。この他、教会のために描かれた日本画の作品には1940年、名古屋市の南山教会に『信徒』、1949年、鹿児島カテドラル・ザビエル教会にザビエル渡来400年記念絵画として『臨終の聖フランシスコ=ザビエル』、『少女ベルナデッタに御出現のルルドのマリア』、『聖ザビエル日本布教図』が知られており、他にもかなりありそうである。

カトリック画家、長谷川路可の生涯最大の仕事はイタリアチヴィタヴェッキア市の日本聖殉教者教会聖堂の内装である。1950年、聖年に際してバチカンを訪れた路可は、同年の8月、既に金山政英駐バチカン代理公使の紹介で、松風誠人を介して、日本聖殉教者教会の壁画制作を依頼されており、翌年の年頭から下絵の制作に取りかかった。夏には現地入りし、フレスコ壁画制作に着手する。清貧を重んじる修道院の中の生活である。「朝は未明の鐘とともに起き、スパゲッティの繰り返される貧しい食卓に長い祈りの後のイタリア語の談話に耐え、心おきなく語り合う友人もないただひとりの日本人として、この長い期間を身にしみて異郷にある思いをした。(朝日新聞昭和32年9月15日)」こうした環境の中で、足場組みや壁の下塗りなどは現地の職人に手伝わせたが、壁画、天井画の制作は独力で進められた。こうして聖壇周辺と礼拝室両脇の小祭壇が出来上がったところで、1954年10月、コンスタンティーニ枢機卿を迎えて、壁画完成の祝別式が挙行され、路可はチヴィタヴェッキア市名誉市民に列せられた。その後、先述の石橋正二郎から依頼されたバチカン美術館所蔵のポンペイ壁画や名画のいくつかを模写し、ウルバノ大学(ローマ)に『聖ザヴェリオ』と題するフレスコ壁画を制作し、帰国したのは1957年8月だった。

カトリック画家、長谷川路可の生涯最後の仕事は、長崎市の西山刑場跡に建てられた日本二十六聖人記念館における制作である。1966年に小品『ザヴィエル像』を制作したところで心臓病で東京女子医大病院へ入院、翌年、フレスコ壁画『長崎への道』を制作、これが遺作となった。

フレスコ、モザイク壁画のパイオニア

長谷川路可は日本におけるフレスコ、モザイク壁画のパイオニアとして活躍した画家である。フランス留学によりその技法を身につけ、帰国後間もない1928年、現在のカトリック喜多見教会の前身に当たる聖堂に日本初のフレスコ壁画を制作した。以来、路可の制作した壁画・床絵・天井画などの動かせない次の作品が記録に残る。

  • 1928年 - 狛江町の伊東家聖堂(東京、狛江市=後にカトリック喜多見教会旧聖堂となる)。『聖母子像』他(フレスコ・建物解体により一部をカトリック喜多見教会小聖堂に移設、一部ストラッポ保存)
  • 1931年 - 早稲田大学理工学部建築学科の研究室(東京、新宿区)。『アフロディーテ』(フレスコ・建物解体により一部を修復後早稲田大学會津八一記念博物館に移設保存)
  • 1933年 - 徳川義親邸(東京、豊島区)。『狩猟図』、『静物画』(フレスコ・長野県野辺山に移設し、一部ストラッポ保存)
  • 1933年 - 東京府養正館(東京、港区)。『旭日冨嶽圖』(フレスコ・建物解体、ストラッポ保存)
  • 1935年 - 徳川生物研究所(現・徳川黎明会)(東京、豊島区)。『財団法人徳川黎明会天井画』(板絵・現存)
  • 1938年 - 尾張徳川家納骨堂(瀬戸市定光寺)。(フレスコ・現存)
  • 1938年 - 文化服装学院大講堂(東京、渋谷区)。『西洋服装史』(フレスコ・戦災で焼失)
  • 1939年 - 藤山工業図書館(東京、港区)。『啓示と創造』、『科学と芸術』(フレスコ・建物解体により遺失)
  • 1941年 - 日本大学江古田校舎講堂(東京、練馬区)。『題名不詳(天平時代の壁画を題材)』(フレスコ・建物解体により遺失)
  • 1942年 - 所在不明。『星港陥落記念』。(フレスコ・戦災で焼失)
  • 1950年 - 夢想山 本眞寺(藤沢市)。『歩む釈迦像』(水墨板絵・現存)
  • 1951年 - 1954年 日本聖殉教者教会(イタリア、チヴィタヴェッキア)。『日本二十六聖人壁画』他(フレスコ・現存。損傷が心配される)
  • 1955年 - ウルバノ大学(イタリア、ローマ)。『聖ザヴェリオ』(フレスコ・現存)
  • 1958年 - 岩国市庁舎壁画。『繁栄』(モザイク・建物解体により一部を移設保存)
  • 1959年 - 古屋旅館大浴場(熱海市)。『星座の神話』(フレスコ・建物解体により遺失)
  • 1960年 - 武蔵野美術大学3号館(東京、武蔵野市)。『題名不詳(壁画集団F.M.練習用習作)』(フレスコ・現存)
  • 1961年 - 早稲田大学33号館1階エレベータホール床(東京、新宿区)。『杜のモザイク』(モザイク・建物解体により新校舎に移設計画)
  • 1962年 - 船橋ヘルスセンターホテル(船橋市)。『人魚』(フレスコ・建物解体により遺失)、『四季のモザイク』(モザイク・建物解体により遺失)
  • 1963年 - 東松山カントリークラブ(東松山市)。『彩雲』(モザイク・建物解体により遺失)
  • 1963年 - 日生劇場(東京、千代田区)ピロティ床。『大理石モザイク』(モザイク・現存)
  • 1964年 - 国立霞ヶ丘陸上競技場正面玄関床(東京、新宿区)。『悠久(宇宙)』(モザイク・ケーブル増設工事により遺失)
  • 1964年 - 国立霞ヶ丘陸上競技場メインスタンドエレベーター棟(東京、新宿区)。『栄光』『勝利』(モザイク・現存)
  • 1964年 - 大成化学相模原中央研究所(相模原市)。『幽玄』(モザイク・建物解体により遺失)
  • 1964年 - 国際仏教会館(浜松市鴨江寺)。『樹林図』(フレスコ・現存)
  • 1964年 - シャンソンビル(静岡市)。『香の華』(フレスコ・損傷により遺失)
  • 1965年 - 日本二十六聖人記念館(長崎市)。『ザヴィエル像』(フレスコ・現存)
  • 1967年 - 日本二十六聖人記念館(長崎市)。『長崎への道』(フレスコ・現存)

これらは、動かせない、すなわち展覧会などに出品することができない上、作家自身の自由意志で制作できない。建造物の一部であるから、建築主および建築家との連携、信頼関係が必要となる。その点で路可は極めて恵まれていた。

イタリアから帰国する1957年までのこれら動かせない作品を、路可はほとんど独力で制作したようだ。帰国した時、路可は60歳を迎えていた。伝統的な日本画はせいぜい障壁画、屏風絵といったもので、制作時には水平に置いて、座って制作できる。しかし、壁画となると数メートルの櫓を組み、立ったままの制作となり、天井画ともなればさらに無理な姿勢を強いられる。体力的にも独力での制作に限界を感じていたのであろう。帰国当初はブリヂストン美術館に出品したフレスコ画の類のように専らアトリエでの制作であった。1958年、武蔵野美術学校本科芸能デザイン科講師となった路可は、服装史を担当するだけでは厭きたらず、1960年、油絵科などの学生にも呼びかけて「壁画集団F.M.」を結成した。F.M.とはフレスコ、モザイクを意味する。以後の壁画制作のほとんどは「壁画集団F.M.」の学生を指導しながらの共同制作となった。現在、フレスコ、モザイクの分野で活躍する画家の多くがここから育っていった。彼らは春陽会に属する者が多い。これはイタリア時代にヴェネツィアに遊び、旧交を温めた中川一政の口利きがあったと中川自身が記している。

フレスコといい、モザイクといい、千年以上の耐久性を期待して開発された技法である。ところが、上記一覧を見ても、既に遺失してしまった作品が相当数にのぼる。戦災は致し方ないにしても、建物解体によるものがかなり多い。路可がイタリア時代に新技法として学び、日本に伝えた「ストラッポ」というフレスコ画面の剥ぎ取り補修技術によって保管されている作品もあるが、恐らく絹や紙の作品より多くが既に失われてしまった。

服飾史教育者

路可はフランス留学時代、エコール・ドゥ・ルーヴルの西洋服装史専科でも研修している。有職故実を重んじる大和絵画家の心得からであろう。ファッションの中心地、パリで本格的な西洋服装史を学んだ日本人は当時希有な存在だった。鵠沼から目白に居を移すのと相前後して財団法人並木学園が開設した文化服装学院から招聘を受けた。これには壁画模写を依頼した松本亦太郎教授の口利きがあったともいわれている。以後、文化服装学院とは終生関係の深い存在だった。1950年、財団法人並木学園が文化女子短期大学を開設した際、初代学長に徳川義親が就任したことも、路可の存在なしには考えられない。チヴィタヴェッキアでの制作期間、当然、休職にはなったが、路可の勤務先、文化服装学院の対応は寛大だった。イタリアはファッションの先進国である。想定を超える長期欠勤となった路可を学院の発行する『装苑』、『すみれ』の特派記者という扱いで、定期的に記事を送稿することを条件に、留守宅に給料を届けたのである。

長谷川路可の教職歴

これらを見ても、下記の著作を見ても、長谷川路可は服飾・服装史の教育者としての活動がかなり重要な割合を占めていたという側面を持つ画家である。

エピソード

長谷川路可が出会ったビッグネーム

拝謁したローマ教皇

日本のカトリック平信徒で4人のローマ教皇に拝謁した人物は稀であろう。

鵠沼での出会い

路可の実家ともいえる旅館東屋は「文士宿」の異名を持つ。

  • 谷崎潤一郎 「谷崎先生が長い間あづまやの離れ座敷に滞在して小説を書いていた。わんぱく盛りの私は、よくのぞきにいってお菓子を貰った。(『随筆サンケイ』昭和39年3月)」
  • 久米正雄芥川龍之介 「久米さんや芥川さんもよく来ていた。(同上書)」芥川は渡仏前、久米は帰国後に出会ったはずである。
  • 岸田劉生 「岸田劉生先生が来ておられるころ、写生に出かける時、ついていって叱られたことがあった。それでも強情に仕事ぶりを見ていた。帰りには絵の具箱を持たされて得々としたものである。(同上書)」
  • 大佛次郎 路可は、1929年の1月から12月まで大佛が國民新聞に連載した時代小説『からす組』295回分の挿絵を担当し、前後篇に分けて出版された単行本の装幀・口絵も路可が手がけている。

フランス留学時代の出会い

  • 朝香宮鳩彦王安達峰一郎三浦環 1921年摂政宮(後の昭和天皇)訪欧の返礼として、ブラッセル日本大使館大晩餐会にベルギー王室を招待した折に随行。三浦環はアリアを歌い、マリー=アンリエット王妃から「藤の花を」と注文を受けた路可は、たちまち幾房かの藤の花に飛び去る燕を添えて描き上げた。
  • ヒンデンブルク大統領・小室翠雲 1925年「ベルリン日本美術展」開会式にて。 
  • フォッシュ元帥・田中舘愛橘 1926年「パリ国際航空委員会議」にて。

パトロン

  • 徳川義親 路可との関係のきっかけは、1921年フランス留学の往路、加茂丸の船上に乗り合わせたことだといわれる。1933年、目白に英国風の邸宅を新築した際、階段室と食堂にフレスコ画を描かせた他、インテリアのデザインを任せた。続いて1935年には徳川生物学研究所に天井画を描くことになる。同年、路可が東京に初めはアトリエを、後に住居を建築することになる土地を求めた際、造成していた分譲地のなかで、かねて保留していた、自己の屋敷への通路にあたる隣接区画を譲っている。1938年には瀬戸市定光寺にある尾張徳川家納骨堂の壁画としてフレスコの仏画を描くことを任せた。1950年、財団法人並木学園が文化女子短期大学を開設した際、初代学長に就任し、イタリアに長期滞在することになった路可を支援し、留守家族への配慮をはかった。
  • 藤山雷太 一説によると路可の母=たかの独身時代からの知己ともいう。路可の作品を多数買い上げたのみならず、1939年に藤山工業図書館を建築したとき、その内壁に壁画を制作させた。
  • 石橋正二郎 チヴィタヴェッキアでの路可の仕事ぶりに感銘し、バチカン美術館所蔵のポンペイ壁画や名画のいくつかを模写することを条件に、多額の寄付を申し出た。
  • 渋沢敬三 1952年の夏にチヴィタヴェッキアを訪れ、帰国後多くの財界人に呼びかけて「長谷川路可に金を送る会」を開催した。イタリアへの送金の一方、留守宅への配慮も忘れなかったという。

イタリア時代に交流した人々

彫刻家
  • ペリクレ・ファッツィーニ 路可の死の床に真っ先に駆けつけ、夫人を慰めると共に葬儀の手配の陣頭に立った。路可の死を悼み、『長谷川路可のためのキリスト像』を制作して贈った。この像のレプリカは、府中カトリック墓地の長谷川路可墓所にたてられている。
映画人

黒澤明の『羅生門』が1951年のヴェネツィア国際映画祭で「金獅子賞」を受賞し、その試写会がローマで開かれた時、名監督ヴィツトリオ・デ・シーカと隣席になり、話を交わしたことをきっかけにイタリア映画人との交流が深まった。

チヴィタヴェッキアでの制作見学者

長谷川路可の制作期間中、作業場の足許には下絵が置かれていた。この作業を見学に訪れた人々は、下絵の余白に感想や激励の言葉や署名を残すのが慣例になっていた。すなわち、下絵が芳名録になっていたわけである。漢字で書かれた日本人の名だけを拾い上げても200名を越す。時は1950年代である。1ドルが360円で、外貨持ち出しが厳しく制限されていた。ローマを訪れる日本人は限られていた。さらにローマから1時間近くかけてチヴィタヴェッキアまでやってくる日本人は今でもそう多くない。判読できる記名者のうちWikipediaに項目がある人物だけをリストアップしてみた。

代表作

著作

  • 『服装の美學 デザインの仕方』 東京生活社 1947年初版 
  • 『図解服装史』 草美社 1948年
  • 『服装の移り変り』(中田満雄と共著)  東海書房 1958年
  • 『デザイン講座』 文化服装学院出版局 1962年
  • 『図解 服装の移り変り 西洋篇・日本篇』長谷川路可/中田満雄共著 東海書房 1967年
  • 『長谷川路可画文集』(没後、遺族らが編纂) (株)求龍堂 1989年

脚注

  1. ^ 「フレスコはとくにアメリカで多く用いられていますが、フランスではプチバレーのフレスコ壁画をえがいたボードアン教授を招へいして1923年にはパリー郊外のフォンテンブローに、ひじょうに大きな完備したフレスコの研究所が建てられました。たまたま私はそのころフランスに遊学していましたので、機会を得て、フォンテンブローの研究所に通うことができました。そこは全く古典的な伝統をうけついだフレスコ技法を教えるところでした。私はそこでイタリア人の画家カルロ・ザノン先生についてフレスコの技法を研究しました。(「壁画のはなし」『女性と教養』昭和33年9月号)」 有田巧:『長谷川路可のフレスコ画〈1〉』會津八一記念博物館研究紀要 第4号(2004年)p86

参考文献

  • 長谷川路可:『長谷川路可画文集』(株)求龍堂(1989年)
  • 高三啓輔:『鵠沼・東屋旅館物語』博文館新社(1997年)
  • 喜井豊治:『戦後日本のモザイク』モザイク会議広報誌「Mosaic」vol.4(1999年)
  • 有田巧:『長谷川路可・フレスコ画「アフロディーテ」の移設』會津八一記念博物館研究紀要 第1号(2000年)
  • 臺信祐爾:『東京国立博物館保管中央亞細亞画模写と長谷川路可』東京国立博物館『MUSEUM』第572号(2001年)
  • 有田巧:『長谷川路可のフレスコ画〈1〉〈2〉』會津八一記念博物館研究紀要 第4~5号(2003年~2004年)

関連項目

外部リンク