ロベルト・ロッセリーニ

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ロベルト・ロッセリーニ
Roberto Rossellini
ロベルト・ロッセリーニRoberto Rossellini
イングリッド・バーグマン
生年月日 1906年5月8日
没年月日 1977年6月4日(満71歳没)
出生地 ローマ
国籍 イタリアの旗 イタリア
配偶者 Assia Noris (1934-1936)
Marcella De Marchis (1936-1950)
イングリッド・バーグマン (1950-1957)
Sonali Senroy DasGupta (1957-1977)


ロベルト・ロッセリーニ(Roberto Rossellini, 1906年5月8日 - 1977年6月4日)は、イタリア映画監督ローマ生まれ。

イタリア映画界でのネオレアリズモ運動の先駆的な人物の一人である。代表作は『無防備都市』、『戦火のかなた』、『ドイツ零年』、『ストロンボリ、神の土地』、『神の道化師、フランチェスコ』、『ヨーロッパ一九五一年』、『イタリア旅行』などがある。『無防備都市』ではカンヌ国際映画祭パルム・ドールを受賞した。

一家の歴史[編集]

ローマの大手建設業者の父アンジェロ・ジュゼッペ・ロッセリーニと母エレットラ・ベランとの間の長男。兄弟は後に作曲家になった弟のレンツォ(1908年生まれ)、妹のマルチェルラ(1909年生まれ)とミカエラ(1922年生まれ)。

ロッセリーニ家の祖はトスカーナ地方の農業ブルジョワでゼッフィーロという姓であった。イタリア王国の首都がローマになった頃(1871年)、一族はローマへ出てきた。彼はイタリアを統一したジュゼッペ・ガリバルディとその息子らの後援者として知られていた。ゆえにゼッフィーロ家にはガリバルディ死後の遺品、手紙や献辞入りの写真、将軍のヒゲの毛房さえ保管されていた。ゼッフィーロは一から財をなした人物だったが子に恵まれず、弟ルイジの息子で甥のアンジェロ・ジュゼッペを溺愛した。この甥っ子アンジェロが、ロベルトの父親である。

アンジェロ・ジュゼッペ・ロッセリーニには芸能の才があり、音楽愛好家で根っからのワグネリアンでテノール歌手として舞台に立ったこともあるという。また、後には著作に打ち込み、"Sie vos non vobis"という題名の小説を残した。ゼッフィーロの事業は、このアンジェロに引き継がれた。そしてアンジェロは事業家としても才覚を発揮、ローマ有数の建設業者となった。彼が手がけた仕事にはローマの商業銀行の本店、ローマで最も美しい映画館の一つと言われるチーネマ・バルベリーニ、最初の開閉式の丸屋根のついたコルソ・チーネマ(現在のエトワール館)の建設、そしてバルベリーニ宮のファザードの修復などがある。

一方、ロベルトの母、エレットラ・ベランはヴェネツィアの出身で、遥か祖先はフランスであったという。

ロベルトは、こうした上流家庭で何不自由なく成育した。ロベルトたち兄弟には当時の金持ちの慣例でフランス人の養育係がつき、自然とフランス語を習得。ロッセリーニ家には様々な芸術家が出入りしており、この中にはピエトロ・マスカーニもいた。

初期の経歴[編集]

ロベールは空想好きの少年だったようである。父親のアンジェロ・ジュゼッペは家の近くのコルソ通りとバルベリーニ通りの映画館の出入りを子供たちに自由にさせ、ロベルトはサイレント時代の人気映画スター、パール・ホワイトの連続物に夢中になった。また、サイレント時代の大作史劇『カビリア』(1914)を見て、弟や妹、従兄弟のレンツォ・アヴァンツォ(彼は後に『戦火のかなた』に出演することになる)たちとごっこ遊びをしてあそんだ。しかし、子供時代のロベルトが一番熱中したのは機械いじりだった。彼は邸の一室を実験室にしてもらい、機械を組み立て、実験をした。

ロベルトは第一次世界大戦中にヨーロッパで猛威を振るったスペイン風邪に罹患し、冬の間中ベッドで過ごした。そのため、後期中学では弟のレンツォのクラスへ編入した。次いでノービレ・コッレッジョ・ナザレーノへ進学。『無防備都市』の出演者マルチェロ・パリエーロはこの時の学友である。

ロベルトは読書家でピエール・ロティジュール・ベルヌレマルクの小説、そしてダンテ神曲(特に地獄篇)が彼の愛読書だった。また、彼は速度に魅せられ、早くも9歳で車の運転をさせてもらう。驚いたことに当時は車の運転に法的な年齢制限がなかった。

ロベルトは虚弱だった上に肋膜炎を患っており、兵役不合格者とされて軍隊は免除となった。1932年にロベルトの父アンジェロ・ジュゼッペが死去。当時のロッセリーニ家の財政状態は1929年の経済恐慌の打撃を受け、極度に悪化した。その結果、ロッセリーニ家は多くの地所を売却せざるを得なかった。しかし、ロベルトはこれまでと変わらず同じような生活を送る。

1936年にロベルトはローマの宝石商の娘マルチェッラ・デ・マルキスと結婚。彼女との間には後に2人の男子ができる。結婚前にはロベルトは人気女優のアッシャ・ノリスが恋人で、彼は彼女を通じ映画に興味を抱き、スカレラ・フィルムのスタジオに通い詰めた。そして、ようやく脚本家としての仕事を始める。ただし、脚本に彼の名前は掲載されず、脚本料は1本3000リラにしかならなかった。後にロッセリーニの名が正式に載るのは、ゴッフレード・アレッサンドリーニ監督の『空征かば』(1938年)からである。

1936年に自主制作で2本のアマチュア短編映画『ダフネ』、『牧神の午後への前奏曲』を撮る。後者は当時ドビュッシーに心酔していた弟のレンツォのアイディアに基づいたもので、タイツ姿で着衣のないように見せた男女が神話風に田園を彷徨うというもの。1939年には『海底の幻想』『横柄な七面鳥』『元気なテレーザ』の3本の短編を発表。『海底の幻想』は冷凍食品会社のジュネペスカから委託された魚類の短編ドキュメンタリー映画。『横柄な七面鳥』と『元気なテレーザ』の2本の短編のキャメラマンは、後に『血ぬられた墓標』(1960年)や『白い肌に狂う鞭』(1963年)などのホラー映画で知られるマリオ・バーヴァである。

ロッセリーニが脚本と助監督として参加した『空征かば』は政治家ムッソリーニの息子ヴィットリオ・ムッソリーニが監修。彼は後にネオレアリズモの母体となる映画批評誌「チネマ」の編集部を訪れることもあったが、映画批評には興味がなかったようである。

1941年、海軍省の映画センターの責任者で海軍司令官のフランチェスコ・デ・ロベルティスはロッセリーニに病院船の活動を描いたドキュメンタリーを委託した。こうして生まれたのがロッセリーニの長編第1作『白い船』(1941年)である。『白い船』は、ヴェネツィア国際映画祭に出品され、ファシスト党杯を授与され、大成功をおさめた。続く第2作は、ギリシャ戦線でのイタリア空軍パイロットの活躍を描いた『ギリシャからの帰還(パイロット帰還ス)』(1942年)。この作品では「チネマ」の同人、ミケランジェロ・アントニオーニとマッシモ・ミーダ(後に彼は『戦火のかなた』の助監督になる)が脚本に参加し、ヴィスコンティのネオリアリズモ映画『郵便配達は二度ベルを鳴らす』のマッシモ・ジロッティが主役のパイロットを演じた。『ギリシャからの帰還(パイロット帰還ス)』は1942年4月、ファシスト指導者、閣僚、次官たちが出席してローマのスペルチネマで盛大なプレミア上映会が行われた。

1942年6月、チネチッタ撮影所で『L'uomo dalla crose(十字架の男)』(1943年)がクランク・イン。この作品は、ロシア戦線で英雄的な死を遂げた従軍司祭、レジナルド・ジュリアーニの姿を描いたものである。主演のアルヴェルト・タヴァッツィはプロの俳優でなく装置家で、ロシア娘役のドイツ人女優ロスヴィタ・シュミットはロッセリーニの愛人であった。

6つの作家活動期[編集]

ロベルト・ロッセリーニは、30年以上に及ぶ監督生活で30本以上の長編映画を撮った。そうした彼の作家活動を辿ってみると、何度かの転換期があったことに気づく。その転換期を1つの節目とすると、ロッセリーニの作家活動は6つの時期に分けることができる。

第1の時期は出世作『白い船』から『十字架の男』までの戦争国策映画の時期。『白い船』では海軍の病院船、『ギリシャからの帰還』では空軍パイロット、そして『十字架の男』では陸軍の従軍司祭というように、イタリアの陸・海・空軍の活躍を描いたこの3本はもう一つの「戦争三部作」でもある。戦時下の3作でロッセリーニは監督として早くも注目されるようになった。

第2の時期は『無防備都市』(1945年)から『殺人カメラ』(1948年)までのネオレアリズモ映画の時期。この時期は、ロッセリーニの作家活動で最も充実した時期でもある。この後の『ストロンボリ、神の土地』、『神の道化師、フランチェスコ』(1950年)は、便宜上、バーグマンの時代に分類するが、どちらかというと、ネオレアリズモの時期の延長線上にある作品と言える。

第3の時期は、イングリッド・バーグマンが主役を演じた『ストロンボリ、神の土地』(1950年)から『不安』(1954年)までのバーグマンの時代。この時期ロッセリーニは、これまでの戦争をテーマとした作品やカトリシズムへの傾倒が明白な作品から一転して離婚の危機、夫婦間の人間関係の断絶といった主題に目を向けている。この時期の作品は、公開当時はイタリアでも全く理解されないばかりか不人気で興行的にも失敗し、ロッセリーニはもはや映画を撮ることができないほど追いつめられた(だが、例えば『ヨーロッパ一九五一年』(1952年)、『イタリア旅行』(1953年)といった作品はロッセリーニの最良の作品として近年では高く評価されている)。

バーグマンと組んだ最後の作品『不安』の後4年間の沈黙を余儀なくされ、4年ぶりの公開映画『インディア』(1958年)が好意的に迎えられ、ロッセリーニの第4の時期が始まる。これは『インディア』からオムニバス映画『ロゴパグ』(1962年)まで。『ロベレ将軍』(1959年)、『ローマで夜だった』(1960)も国際的に高く評価された。この時期はロッセリーニの復活の時期でもある。そして「戦争3部作」にも通じる2本の戦争ものの後、ロッセリーニは、19世紀イタリアのリソルジメント時代を背景としたコスチューム映画『Viva l'Italia(イタリア万歳)』(1960年)『ヴァニナ・ヴァニニ』(1961年)で歴史映画に興味を向ける。

ロッセリーニ、ゴダール、パゾリーニ、グレゴレッティの頭文字からとった『ロゴパク』というオムニバス映画の後、ロッセリーニは、完全に劇映画の世界から離れる。そして、ロッセリーニ原案・脚本・監督の『L'età del ferro(鉄の時代)』(1964年)から『Cartesius(デカルト)』(1973年)までの10年間、ロッセリーニは専らテレビ放送用の歴史映画に情熱を傾ける。5番目の時期が、このテレビ映画の時期である。従来、この時期のロッセリーニは、映画の第一線から離脱したことで過小評価されてきたようだが『不安』の撮影後、ロッセリーニの助手だったフランソワ・トリュフォーは、10年も前にこの時期の監督ロッセリーニの行動を予見している。

「(ロッセリーニは)いわゆる読書のために書物のページを開くことは決してしないが、いつも資料調べや考証に余念がない。歴史や社会学の本や、科学書などを幾夜も夜を徹して読みふける。知識欲が旺盛で知ることの歓びに生き、もう劇映画を作ることなんかやめて、いよいよ、ますます<教育映画>や<文化映画>に挺身することを熱望しているのである。」(トリュフォー『わが人生わが映画』山田宏一・蓮實重彦訳)

とすれば、テレビ用の歴史映画は当然の帰結であり、ロッセリーニの本質に根ざしたものですらある。

1974年、ロッセリーニは再度、劇映画に復帰する。戦後キリスト教民主党の党首として1945年から1953年までの長期間イタリア首相を務めた政治家アルチーデ・デ・ガスペリについての映画である。ロッセリーニの映画復帰作『元年』は戦後初の内閣を組閣したデ・ガスペリ首相のナチス占領下の1944年から1954年の死までの姿を描く。次いで翌年には聖書を題材としたキリスト教映画『救世主』を撮る。テレビ用の歴史映画から劇映画への10年ぶりの復帰をロッセリーニの新たな時期の始まりとすればこの2本の作品は、6番目の時期の作品とすることができるかも知れない。しかし、この最後の時期はロッセリーニの死によってピリオドが打たれる。

『救世主』のあと、ロッセリーニは『人間性のために生きる』と題されたカール・マルクスの思想と人生についての映画を準備していた。この他にも毛沢東マルコ・ポーロ百科全書派についての映画、あるいは『銀の道』と題された企画が、ロッセリーニの脳裏にあった。明らかにこれらはテレビ用歴史映画の延長上の企画であり。ここには、かつてのネオレアリズモの巨匠とは別の道を歩むロッセリーニの姿が見られる。

ヌーヴェル・ヴァーグの父として[編集]

ロッセリーニ作品の多くは、公開当時、イタリアでは正当な評価が得られなかった。後にネオレアリズモ映画の金字塔として崇められている『無防備都市』ですら初めはイタリアでは無視され、アメリカやフランスで熱狂的に迎えられてから、ようやくイタリアでも評価されだしたのだ。そうした意味では『無防備都市』や『イタリア旅行』はまさに「カルト映画中のカルト」だと言える。

『無防備都市』と『戦火のかなた』はアメリカで大成功を収めた。(『戦火のかなた』はメジャーのメトロ・ゴールドウィン・メイヤーが配給)。だが、次の『ドイツ零年』を伝説的なプロデューサー、サミュエル・ゴールドウィンに見せるが、試写が終わった後、「居心地の悪い沈黙ができた」だけだった。その後、バーグマン初のロッセリーニ映画『ストロンボリ、神の土地』は、当時、ハワード・ヒューズが買収したRKOの資金援助で製作された。だが、1950年2月5日、全米300館で公開された『ストロンボリ、神の土地』は興行的に大失敗となった。こうして、ロッセリーニの後ろでハリウッドの扉は閉ざされた。

カイエ・デュ・シネマ」の初代編集長アンドレ・バザンの「ロッセリーニの擁護」という文章によると、イタリアの批評家たちは、ネオレアリズモの退化は、すでに『ドイツ零年』に現れ、『ストロンボリ』と『神の道化師、フランチェスコ』から決定的になり、『ヨーロッパ一九五一年』と『イタリア旅行』で破局に達したと見なしたらしい。しかし、フランスではバザンを始めとするトリュフォーら後にヌーヴェル・ヴァーグの作家となる若い批評家たちは、『ストロンボリ』や『神の道化師、フランチェスコ』『イタリア旅行』といった「呪われた映画」を断固支持した。そして、ロッセリーニは「フランスのヌーヴェル・ヴァーグの父」と呼ばれた。一つの例としてジャン=リュック・ゴダールは『イタリア旅行』を見て、1台の車と、男と女がいれば映画が出来ることということを学び、『勝手にしやがれ』(1960年)を撮ったと証言している。また、トリュフォーは、子供の世界を描いた『大人は判ってくれない』は『ドイツ零年』に負うところが大きいと、明言している。

ヌーヴェル・ヴァーグの作家たちのロッセリーニ擁護は、ヌーヴェル・ヴァーグに夢中になった若き日のベルナルド・ベルトルッチの作品にも投影されている。ベルトリッチの初期の自伝的な作品『革命前夜』(1964年)で一人の映画狂の青年が登場し、主人公に「君はロッセリーニなしに生きられるか」と問いかけるのだ。そして、この青年は『イタリア旅行』を15回も見たと言う。

イタリアでのロッセリーニの真の後継者は、たぶんエルマンノ・オルミタヴィアーニ兄弟であろう。1977年のカンヌ国際映画祭はタヴィアーニ兄弟の『父 パードレ・パドローネ』にグランプリを与えた。その時の審査委員長はロベルト・ロッセリーニだった。そのすぐの後の6月3日、ロッセリーニは心臓発作で死去した。

その他[編集]

イングリッド・バーグマンと結婚したことがあり、彼女とのあいだには双子の娘がいる。そのうちの一人はイザベラ・ロッセリーニ

主な監督作品[編集]

製作年の後ろに*が付いているのは日本未公開作品。

外部リンク[編集]