鈴木武幸

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鈴木 武幸(すずき たけゆき、1945年1月26日[1] - )は、日本のテレビドラマ映画プロデューサー東映株式会社専務取締役テレビ事業部門担当[1]東京都出身[2]

来歴・人物

大学卒業後、1968年東映に入社し、希望していたテレビ部に配属される[2]。当時、テレビは映画に比べて低い扱いを受けていたこともあり、テレビ部を希望した時には人事部長から変わり者扱いを受けたと言う[2]。鈴木自身はテレビ部配属を希望したことについて「実家で兄がテレビを作っていたことから、幼少時から家にテレビがあり、それを食い入るように見る人々を見ながら育った為、テレビ関係の仕事に就きたいと思った」と述べている[2]

実写、アニメ作品問わずプロデュース作品は多岐にわたり、膨大。『がんばれ!!ロボコン』からは特撮作品にも関わりはじめ[2]、なかでも15作品でプロデュースを手掛けたスーパー戦隊シリーズでは、何度か打ち切り寸前になるピンチもあったが、さまざまな趣向やアイデアを凝らすことで、その局面を乗り越えて長期シリーズに育て上げた[2]。同シリーズについて、東映ヒーローネットの「想い出に残る戦隊シリーズのベストエピソードは?」という質問には、非常に悩んだ結果『電撃戦隊チェンジマン』の第53話「炎のアハメス!」を挙げていた[3]。同エピソードは『チェンジマン』の最高視聴率16.1%を獲得している[3]また後輩の日笠淳プロデューサーが雑誌にて構想を語った「いずれ『秘密戦隊ゴレンジャー』から最新の戦隊まで全ての戦隊ヒーローが揃った映画を作りたい」というテーマについて、鈴木は「今の子供たちは『チェンジマン』なんて知らないだろうし、作ったってヒットするかどうか分からないから…」と否定的なニュアンスで語っていた。[要出典]

スーパー戦隊シリーズの作劇方針としては、常にミニチェアを使った特撮が必要不可欠である事を持論としている。これは、近年CGを多様化した特撮が増えた事に「余りにもCGに頼りすぎるとリアリティーを感じなくなってしまう」と危機感を募らせているが故[4]、「特撮をやらずにCGのみですますなら、アニメーションでやればいいので、俳優たちの芝居を含む実写映像に馴染むミニチェア特撮を捨てるという選択を私はしたくない」、「特撮は一日に数カットしか撮影できないことが多く、時間とお金がかかって大変ですが、出来上がりの〝手作り感″〝温もり感″が何といっても大切です。」と語っている[4]

超力戦隊オーレンジャー』終了後の1996年以降、吉川進の後任としてテレビ第二営業推進部長に就任し[5]、テレビ部の総責任者となる。以降は営業に専念していたが、スケジュールが苦しくなった『仮面ライダークウガ』では第13話から急遽プロデューサーを務めたほか、『特捜戦隊デカレンジャー』『魔法戦隊マジレンジャー』では制作総括として、塚田英明を補佐する形で戦隊に再び復帰した時期もあった。

その後も2003年10月にテレビ第二営業部長[1]、2004年6月に取締役テレビ営業部門担当[1]、2008年6月に常務取締役[1]、翌月からテレビ管理部長を兼任[1]。2010年6月に専務取締役[1]、2014年6月から現職に就任[1]。シリーズを問わず東映特撮路線を統括的な立場で見守り続けている。

快傑ズバット』のスタッフクレジットに鈴木の名はないが、番組の企画書を最初に起こしたのは鈴木で、第1・2話のホン直しまではかかわっていたが、多忙の為、降板している[2][6]

よく組んだスタッフ

脚本家

  • がんばれ!!ロボコン』や『太陽戦隊サンバルカン』などで組んだ上原正三にはかなり信頼を置いていたらしく、だからこそ上原が宇宙刑事シリーズ執筆のために戦隊を離れるときは相当に悔しい思いをしたと後年雑誌のインタビューで語っている。
  • その後は上原に代わり戦隊のメインライターに就任した曽田博久と2人3脚でシリーズの繁栄を築いた。9作連続で曽田はメインを務め、その後は井上敏樹杉村升にメインライターを託し戦隊シリーズを継続させた。井上を『鳥人戦隊ジェットマン』のメインライターとして起用しようとした際は「あんな生意気な奴に」とテレビ朝日の宇都宮恭三プロデューサーは反対してきたが、「井上君も悪い奴じゃないですから」と井上を囲んだ飲み会を企画することによりその反対を凌いだ事もある。
  • その他のライターでは長坂秀佳藤井邦夫鷺山京子荒川稔久などをかつて重用していた。『特捜最前線』でとあるエピソードを執筆する際に助言を求めてきた長坂に対し、アマチュア無線への造詣が深い鈴木は無線の知識を話すなどしてシナリオ作りをサポートしたこともあった[2]

監督

  • スーパー戦隊シリーズでは『超電子バイオマン』『電撃戦隊チェンジマン』を除いて東條昭平が全てメイン格の監督として登板している。また『チェンジマン』以降監督した長石多可男を『光戦隊マスクマン』以降4年連続メイン&パイロット監督として起用するなど、特にこの2人には信頼を置いていたようである。因みに鈴木と長石は同じ1945年1月生まれである。また長石と東條以外では山田稔と組むことも多かった。
  • 科学戦隊ダイナマン』から『超新星フラッシュマン』まで戦隊の監督をした堀長文を起用したのは鈴木であった。『ダイナマン』のとき、最初は「なぜ僕が?」と思い一度は依頼を断わっている。「じゃあ、長石(長石多可男)君と一緒にやってもらいます」と鈴木から言われて依頼を受諾した。堀と長石は『Gメン'75』シリーズで同じ演出グループにいたため旧知の仲であった。長石の戦隊の参加は『チェンジマン』まで待つことになる。鈴木は堀を『バイオマン』から『フラッシュマン』まで3作続けてパイロット監督として起用している。
  • 鳥人戦隊ジェットマン』でメインスタッフの刷新を試みたとき、鈴木は若手の雨宮慶太をメイン監督に起用することを決断する。後に雨宮が雑誌「宇宙船」インタビューで語ったことによると『地球戦隊ファイブマン』の視聴率不振から「戦隊はこれ(『ジェットマン』)が最後になるかもしれないから」と鈴木は不断の覚悟を持って依頼をしてきたという。ただ当時31歳の雨宮のパイロット起用については社内でも反対の声がいくつかあったため、鈴木はパイロット版以前に雨宮に何分かのショートフィルムを撮影させたり、第1話の絵コンテを全て書かせてそれを基に説得工作に務めるといった逸話が残っている。鈴木はこの時のスタッフ刷新について2011年のインタビューにおいて「一部のスタッフに『慣れ』と『マンネリ』を感じたんです。このままではいけないので新しい血を入れようと。旧スタッフには辛い決断でしたけど、後々のことを考えたらこの時の判断は間違っていなかった」と述懐している。
  • 雨宮は鈴木に「若手でも全然大丈夫ですよ」と助監督の監督昇進を度々進言したという。鈴木はどちらかといえば生え抜き助監督の監督昇進には慎重な態度をとる人間だったが、『恐竜戦隊ジュウレンジャー』にて当時26歳の渡辺勝也を監督として起用。これは当時として大胆な人事登用だった。また田﨑竜太のデビューは鈴木がプロデューサーとして最後に携わった『超力戦隊オーレンジャー』である。その後、渡辺と田﨑は東映特撮作品の中核を担う監督に成長している。

撮影監督

  • 殆どの作品において、いのくままさおがチーフとして携わった。戦隊シリーズもメインだった石橋英敏よりいのくまに交代させている。

キャラクターデザイナー

主な作品

実写作品

◎が付記されたものは東映側チーフプロデューサー作品。

アニメ作品

オリジナルビデオ

  • 前項に属する作品のビデオ化タイトルは除く。

映画

その他

特記の無いものを除き、いずれも日本語版監修として参加。

脚注

  1. ^ a b c d e f g h 東映[9605 - 役員]”. Ullet(株式会社メディネットグローバル). 2015年8月13日閲覧。
  2. ^ a b c d e f g h i 「東映ヒーロー偉人伝 第1回 鈴木武幸」『東映ヒーローMAX』Vol.1、辰巳出版、2002年、46 - 48頁、ISBN 978-4886417312 
  3. ^ a b 東映ヒーローネット”. 2014年6月24日閲覧。
  4. ^ a b 東映マイスター 特撮マイスター:鈴木武幸 常務取締役「東映特撮番組を語る!」
  5. ^ 大前京太郎(構成・文)、NIRDY(構成・文)、ヤス(構成・文)「ガオレン&パワレンインタビュー 鈴木武幸プロデューサー」『フィギュア王』No.44、ワールドフォトプレス、2001年、31頁、ISBN 978-4846523183 
  6. ^ 鈴木自身は続けたい意向だったが、他から「やり過ぎている」と言われた為、交代となった[2]
  7. ^ a b c d 「DESIGNER'S INTERVIEW07 出渕裕」『東映スーパー戦隊シリーズ35作品記念公式図録 百化繚乱 [上之巻] 戦隊怪人デザイン大鑑 1975-1995』グライドメディア、2011年12月15日、228-230頁。ISBN 978-4813021636