花山天皇

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花山天皇
月岡芳年画『月百姿  花山寺の月』より

元号 永観
寛和
時代 平安時代
先代 円融天皇
次代 一条天皇

誕生 968年11月29日
崩御 1008年3月17日
陵所 紙屋川上陵
別称 花山院
華山院
入覚
父親 冷泉天皇
母親 藤原懐子
女御 藤原忯子
藤原姚子
藤原諟子
婉子女王
子女 昭登親王
清仁親王
深観
覚源
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花山天皇(かざんてんのう[1]安和元年10月26日968年11月29日) - 寛弘5年2月8日1008年3月17日)、在位:永観2年10月10日984年11月5日) - 寛和2年6月23日986年7月31日))は、日本平安時代中期)の第65代天皇。師貞(もろさだ)。かつては花山院華山院とも書いた。

系譜

冷泉天皇の第一皇子。母は、摂政太政大臣藤原伊尹の娘・女御懐子三条天皇の異母兄。子には花山源氏(神祇伯を世襲した伯王家)の祖となった清仁親王がいる。

系図

 
 
 
60 醍醐天皇
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
61 朱雀天皇
 
62 村上天皇
 
兼明親王
 
源高明
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
広平親王
 
63 冷泉天皇
 
致平親王
 
為平親王
 
64 円融天皇
 
昭平親王
 
具平親王
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
65 花山天皇
 
67 三条天皇
 
 
 
 
 
66 一条天皇
 
 
 
 
 
源師房
村上源氏へ〕
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
敦明親王
(小一条院)
 
禎子内親王
(陽明門院)
 
68 後一条天皇
 
69 後朱雀天皇
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
70 後冷泉天皇
 
71 後三条天皇
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

略歴

安和2年(969年)、叔父円融天皇の即位と共に皇太子になり、永観2年(984年)、同帝の譲位を受けて即位。生後10ヶ月足らずで立太子したのは、摂政であった外祖父伊尹の威光によるものだが、17歳で即位時には既に伊尹は亡くなっており、有力な外戚をもたなかったことは、2年足らずの在位という後果を招いた。

関白には先代に引き続いて藤原頼忠が着任したが、実権を握ったのは、帝の外舅義懐と乳母子藤原惟成であった。義懐と惟成は荘園整理令の発布、貨幣流通の活性化など革新的な政治を行ったが、ほどなくして天皇が退位したのに殉じて遁世した。

19歳で宮中を出て、剃髪して仏門に入り退位した。突然の出家について、『栄花物語』『大鏡』などは寵愛した女御藤原忯子が妊娠中に死亡したことを素因とするが、『大鏡』ではさらに、藤原兼家が、外孫の懐仁親王(一条天皇)を即位させるために陰謀を巡らしたことを伝えている。蔵人として仕えていた兼家の三男道兼は、悲しみにくれる天皇と一緒に出家するとそそのかし、内裏から元慶寺(花山寺)に連れ出した。 このとき邪魔が入らぬように鴨川の堤から警護したのが兼家の命を受けた清和源氏源満仲とその郎党たちである。安倍晴明の屋敷の前を通ったとき、中から「帝が退位なさるとの天変があった。もうすでに…式神一人、内裏へ参れ」と言う声が聞こえ、目に見えないものが晴明の家の戸を開けて出てきて一行を目撃し「たったいま当の天皇が家の前を通り過ぎていきました」と答えたとある。

月岡芳年「花山寺の月」(明治23年)

元慶寺へ着き、天皇落飾すると、道兼は親の兼家に事情を説明してくると寺を抜け出してそのまま逃げてしまい、天皇は欺かれたことを知った。内裏から行方不明になった天皇を捜し回った義懐と惟成は元慶寺で天皇を見つけ、そこでともども出家したと伝える。この事件は寛和の変とも称されている。 この事件は親王時代に学問を教え、当時式部丞になっていた紫式部の父藤原為時や、尾張国郡司百姓等解文で有名な藤原元命の運命にも影を落とした。

花山天皇は当世から「内劣りの外めでた」等と評され、乱心の振る舞いを記した説話は『大鏡』『古事談』に多い。その一方で、彼は絵画・建築・和歌など多岐にわたる芸術的才能に恵まれ、ユニークな発想に基づく創造はたびたび人の意表を突いた。『拾遺和歌集』を親撰したともいわれる。

出家し法皇となった後には、奈良時代初期に徳道が観音霊場三十三ヶ所の宝印を石棺に納めたという伝承があった摂津国の中山寺兵庫県宝塚市)でこの宝印を探し出し、紀伊国熊野から宝印の三十三の観音霊場を巡礼し修行に勤め、大きな法力を身につけたという。この花山法皇の観音巡礼が西国三十三箇所巡礼として現在でも継承されており、各霊場で詠んだ御製和歌御詠歌となっている。この巡礼の後、晩年に帰京するまでの十数年間は巡礼途中に気に入った場所である摂津国の東光山(兵庫県三田市)で隠棲生活を送っていたとされ、この地には御廟所があり花山院菩提寺として西国三十三箇所巡礼の番外霊場となっている。

出家後の有名な事件としては、長徳2年(996年)花山法皇29歳のとき、中関白家内大臣藤原伊周隆家に矢で射られた花山法皇襲撃事件がある。伊周が通っていた故太政大臣藤原為光の娘三の君と同じ屋敷に住む四の君(かつて寵愛した女御藤原忯子の妹)に花山法皇が通いだしたところ、それを伊周は自分の相手の三の君に通っているのだと誤解し、弟の隆家に相談する。隆家は従者の武士を連れて法皇の一行を襲い、法皇の衣の袖を弓で射抜く(さらに『百錬抄』では、花山法皇の従者の童子2人を殺して首を持ち去ったという話も伝わっている)。花山法皇は体裁の悪さと恐怖のあまり口をつぐんで閉じこもっていたが、この事件の噂が広がり伊周・隆家はそれぞれ大宰府出雲国に流罪となった(長徳の変)。

寛弘5年(1008年)2月花山院の東対にて崩御、紙屋上陵(現在の京都市北区衣笠北高橋町)に葬られた。死因ははっきりしないが悪性腫瘍によるものと考えられている。

乳母は橘則光の母右近尼である。

正式な后妃

皇子女

正式な后妃との間に子はなく、出家後、乳母子の中務とその娘平平子を同時に寵愛して子を産ませたため、世の人は中務の腹に儲けた清仁親王を「母腹宮」、平子の腹に儲けた昭登親王を「女腹宮」と称した。二人の皇子はのちに、それぞれ冷泉院五宮・六宮として親王宣下。

  • 母:中務(平祐之女)
  • 母:平平子(平祐忠女、母は中務)
  • その他

なお『栄花物語』によれば皇女四人のうち、平子腹の皇女一人のみ成長したという。しかし万寿元年(1024年)12月6日にこの皇女(上東門院彰子の女房)は夜中の路上で殺され、翌朝、野犬に食われた酷たらしい姿で発見された(『小右記』)。この事件は京の公家達を震撼させ、検非違使が捜査にあたり、翌万寿2年(1025年)7月25日に容疑者として法師隆範を捕縛、その法師隆範が藤原道雅の命で皇女を殺害したと自白する。藤原道雅の父は花山法皇に矢を射掛けた藤原伊周である。

在位中の元号

諡号・追号・異名

退位後の御在所に因んで「花山院」と呼ばれた。すべての天皇は皇居宮中三殿の一つの皇霊殿に祀られている。

陵墓・霊廟

京都市北区衣笠北高橋町にある紙屋川上陵(かみやかわのほとりのみささぎ)。『日本紀略』に葬所は「紙屋川の上、法音寺の北」とあり、法音寺北陵とも称したので、幕末に法音寺の旧跡にもとづいて現在地に比定された。

  1. ^ 古くは「かさん」と清音で読んだ。

関連項目