応仁の乱

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応仁の乱

戦争:応仁の乱
年月日応仁元年(1467年)- 文明9年(1477年
場所京都
結果:和睦により終息。名目上は東軍の勝利
交戦勢力
東軍 西軍
指導者・指揮官
細川勝元 山名宗全
戦力
160,000(諸説あり) 110,000(諸説あり)
損害
不明 不明

応仁の乱(おうにんのらん)は、室町時代応仁元年(1467年)に発生し、文明9年(1477年)までの約10年間にわたって継続した内乱。8代将軍足利義政の継嗣争い等複数の要因によって発生し、室町幕府管領家の細川勝元と山名持豊(出家して山名宗全)らの有力守護大名が争い、九州など一部の地方を除く全国に拡大した。乱の影響で幕府や守護大名の衰退が加速化し、戦国時代に突入するきっかけとなった[1]。十数年に渡る戦乱によって、主要な戦場となった京都は灰燼と化し、ほぼ全域が壊滅的な被害を受けて荒廃した[2]

応仁元年(1467年)に起きたことから応仁の乱と呼ばれるが、戦乱期間の大半は文明年間であったため応仁・文明の乱(おうにん・ぶんめいのらん)とも呼ばれる。

背景

時代背景

室町時代をつらぬくキーワードは、「旧勢力の没落と新興勢力の台頭」である。鎌倉時代後期から、名門武家・公家を始めとする旧来の支配勢力は、生産力向上に伴い力をつけてきた国人・商人・農民などによって、その既得権益を侵食されつつあった。室町時代の権力者であった守護大名も例外ではなく、その領国支配は万全ではなかった。

また、守護大名による合議制の連合政権であった室町幕府は3代将軍足利義満と6代将軍足利義教の時を除いて成立当初から将軍の権力基盤は脆弱であり、同じように守護大名も台頭する守護代や有力家臣の強い影響を受けていた。

こうした環境は当時、家督相続の方式が定まっていなかったことも相まってしばしば将軍家・守護大名家に後継者争いや「お家騒動」を発生させる原因になった。

義政の怠惰、早い隠居志向

室町幕府は、南北朝時代の混乱や有力守護大名による反乱が収束した3代将軍足利義満・4代将軍足利義持の代に将軍(室町殿)を推戴する有力守護の連合体として宿老政治が確立していた。籤引きによって選ばれた6代将軍足利義教が専制政治をしいて守護大名を抑えつけ将軍の権力を強化するも、嘉吉元年(1441年)に赤松満祐暗殺され(嘉吉の乱)、守護大名が盛り返し政権にほころびが見え始める。7代将軍は義教の嫡子義勝が9歳で継いだが1年足らずのうちに急逝し、義勝の同母弟である義政が管領の畠山持国らに推挙され8歳で将軍職を継承、文安6年(1449年)に正式に将軍職を継承した。

義政は母の日野重子や乳母の今参局らに囲まれ、家宰伊勢貞親季瓊真蘂等の側近の強い影響を受けて気まぐれな文化人に成長した。義政は当初は積極的な政治活動を見せていたが、側近と守護大名の対立などによって政治的混乱が続くようになると、もっぱら茶・作庭・猿楽などに没頭し幕政は実力者である管領家の勝元・四職家の宗全、正室の日野富子らに左右されていた。打続く土一揆や政治的混乱に倦んだ義政は将軍を引退して隠遁生活を送ることを夢見るようになり、それは長禄3年(1459年)から寛正2年(1461年)にかけて日本全国を襲った長禄・寛正の飢饉にも対策を施さない程になっていた。

義政は29歳になって、富子や側室との間に後継男子がないことを理由に将軍職を実弟の浄土寺門跡義尋に譲って隠居することを思い立った。禅譲を持ちかけられた義尋はまだ若い義政に後継男子誕生の可能性があることを考え、将軍職就任の要請を固辞し続けた。しかし、義政が「今後男子が生まれても僧門に入れ、家督を継承させることはない」と起請文まで認めて再三将軍職就任を説得したことから寛正5年11月26日1464年12月24日)、義尋は意を決して還俗し名を足利義視と改めると勝元の後見を得て今出川邸に移った。

勝元と宗全の対立

「応仁の乱勃発地」の石碑(京都市上京区御霊前通烏丸東入、上御霊神社鳥居前)

嘉吉の乱鎮圧に功労のあった宗全は主謀者赤松氏の再興に反対していたが長禄2年(1458年)、勝元が宗全の勢力削減を図って赤松政則加賀守護職に取立てたことから両者は激しく対立し、後に勝元が養子で宗全の末子豊久を廃嫡したことが応仁の乱の要因となったとされている。

しかし、文安4年(1447年)に勝元が宗全の養女を正室として以来、細川・山名の両氏は連携関係にあった。後に述べる畠山氏の家督争いでは両者は協調しており、勝元は宗全の助命活動もしている。両氏が対立関係となるのは寛正6年(1465年)から両氏が和睦する文明6年(1474年)までであり、ことさらに勝元と宗全の対立を乱の要因とする理解は、『応仁記』の叙述によるものであるとの見解が提起されている[3]

寛正6年11月23日(1465年12月11日)、義政と富子との間に足利義尚(後に義煕と改名)が誕生すると実子・義尚の将軍職擁立を切望する富子は宗全に接近し、義視の将軍職就任を阻止しようと暗躍した。義視の後見人である勝元と義尚を押す宗全の対立は激化し将軍家の家督争いは全国の守護大名を勝元派と宗全派に2分する事態となり、衝突は避け難いものになっていった[4]

諸大名家の家督争い

この頃、三管領の1つ・畠山氏では畠山持国の家督継承をめぐる争いが激化していた。持国は弟の持富を養子に迎えていたが、永享9年(1437年)に義就が生まれたため、文安5年(1448年)に持富を廃嫡して義就を家督につけた。翌年には義政にも認められ、偏諱を授けられている[5]

しかし畠山氏の家臣神保氏遊佐氏は納得せず、持国の甥で持富の子弥三郎を擁立するべきと主張していた(持富は宝徳4年(1452年)に死去)。このため享徳3年(1454年4月3日神保国宗は持国に誅殺され、弥三郎・政長兄弟は勝元と宗全の元に逃れた。勝元と宗全、そして畠山氏被官の多くが弥三郎と政長を支持したため、8月21日に弥三郎派が持国の屋敷を襲撃、難を逃れた持国は8月28日に隠居、義就は京都を追われ、義政は弥三郎を家督継承者と認めた。

一方で弥三郎を匿った勝元の被官の処刑も命ぜられ、喧嘩両成敗の形も取られた。しかし宗全はこの命令に激怒し、処刑を命令した義政とそれを受け入れた勝元に対して反発した。義政は宗全追討を命じたが、勝元の嘆願により撤回され、宗全が但馬に隠居することで決着した。12月6日に宗全が但馬に下向すると、13日に義就が軍勢を率いて上洛して弥三郎は逃走、再び義就が家督継承者となった[6]

享徳4年3月26日1455年4月12日)に持国が没し、義就が畠山氏の家督を相続した。義就は弥三郎派の勢力を一掃するため、領国内で活発な弾圧を行った。この最中、義就は義政の上意と称して軍事行動を行ったため、義政の信任を次第に失った。さらに義就は勝元の所領木津を攻撃、勝元は弥三郎を擁立することで義就の追い落としを計画した。一方で宗全は長禄2年に赦免、同年に義就と共に八幡神人討伐に参陣した頃から親義就派となっていった[7]

長禄3年(1459年)には弥三郎が赦免され、上洛を果たした。弥三郎は程無く死去、政長が勝元と弥三郎派の家臣団に擁立され、寛正元年(1460年9月20日には義政によって政長の畠山氏家督が認められ、義就は追放された。義就は河内嶽山城に籠もって徹底抗戦を図ったため義政は追討軍を発し、義就を攻撃させた。しかし義就は寛正4年(1463年4月15日まで攻撃を耐え抜き、嶽山城が落城した後は紀伊、次いで吉野へ逃れた。

寛正4年8月に義政の母日野重子が没し、大赦が行われた。これにより義就、武衛騒動で失脚した斯波義敏ら多数の者が赦免された。この大赦を主導した義政側近の伊勢貞親には、義敏の妾と貞親の妾が姉妹であることや、勝元との対立などの動機があった[8]。この前後の一貫性のない幕府・朝廷の対応を興福寺別当尋尊は「公武御成敗諸事正体無し」と批判している。

一方、頻繁に行われた家督交替には理由があるとする見方もある。関東で幕府に反抗した鎌倉公方(後に古河公方足利成氏を討伐するため義政は長禄元年(1457年)に異母兄の足利政知を新たな鎌倉公方として関東に派遣したが、長禄2年に鎌倉へ下向出来ず伊豆堀越に留まり(堀越公方)、斯波義敏を始めとする成氏追討軍を派遣しようとしたが、義敏が執事の甲斐常治と内乱(長禄合戦)を起こしたため義敏を更迭、息子の松王丸(義寛)を斯波氏当主に替えた。寛正2年(1461年)に松王丸から遠縁の斯波義廉に家督を替えたが、義廉の父渋川義鏡が政知の執事であり、その関係で堀越府の軍事力強化を目指したが、義鏡が関東の幕府方と対立、失脚したため義敏の復権を画策した[9]

畠山氏についても、当初は勝元・宗全支持の弥三郎を避け、義就を引き立てることで畠山氏との提携を狙ったが、義就が上意を詐称した行為を繰り返したため政長に替えたが、寛正4年に義就を赦免した背景には義敏の赦免と合わせて、諸大名に対抗して新たな派閥形成を目論んでいたとされる。しかし、この構想で廃立されることを恐れた義廉が宗全と提携、義就とも結んで義敏の復権阻止に動いた[10]

畠山氏の他にも斯波氏の武衛騒動を始め富樫氏小笠原氏六角氏でもお家騒動が起こっている。幕府はこれらの調停も行ったが、対応が首尾一貫せず、守護家に分裂の火種を残した。

経過

文正の政変

文正元年(1466年7月23日、突然義政は側近の伊勢貞親・季瓊真蘂らの進言で斯波氏宗家・武衛家の家督を斯波義廉から取り上げ斯波義敏に与えた。8月25日には越前尾張遠江守護職も与えている。義廉と縁戚関係にあった宗全は一色義直土岐成頼らと共に義廉を支持し、さらに貞親が謀反の噂を流して義視の追放、暗殺を図ったことから義視の後見人である勝元は宗全と協力して9月6日に貞親を近江に追放(文正の政変)、政変に巻き込まれた真蘂、義敏、赤松政則らも一時失脚して都を追われた。14日に家督は義廉に戻された。

御霊合戦

文正元年12月、宗全の支援をうけた義就は突如大軍を率いて上洛し、千本地蔵院に陣取った。文正2年1月2日1467年2月6日)、宗全に懐柔された義政が、当時管領職にあった政長や勝元に断ることなく、将軍邸の室町亭に義就を招いた。追い討ちをかけるように義政は正月恒例の管領邸への「御成」を中止し、3日後の5日に義就が宗全邸で開いた酒宴に出席した。その席で義政は義就の畠山氏総領を認め、政長に春日万里小路の屋敷の明け渡しを要求させる。政長は反発して管領を辞任したが、後任に山名派の斯波義廉が就任した。勝元は花の御所を占拠して義政から義就追討令を出させようとするが、富子が事前に察知して宗全に情報を漏らしたため失敗した。

政局を有利に運んだ宗全は自邸周辺に同盟守護大名の兵を多数集め、内裏と室町亭を囲み義政に政長や勝元らの追放を願い出た。義政は勝元の追放は認めなかったが、諸大名が一方に加担しないことを条件に義就による政長への攻撃を認めた。1月18日2月22日)、政長は無防備であった自邸に火を放つと兵を率いて上御霊神社(京都市上京区)に陣を敷いた。一方義就は後土御門天皇後花園上皇伏見宮貞常親王を一つ車に押し込んで室町亭に避難させた[11]。義政は畠山の私闘への関わりを禁じるが、宗全や斯波義廉、山名政豊朝倉孝景らは義就に加勢した。一方勝元は義政の命令に従って援軍を出さなかった。このため勝元は「弓矢の道」に背いたと激しい非難を受けた[12]

御霊社は竹林に囲まれ、西には細川が流れ、南には相国寺の堀が位置した。義就側は釈迦堂から出兵して政長を攻撃した。戦いは夕刻まで続いたが、政長は夜半に社に火をかけ、自害を装って逃走した。勝元邸に匿われたと言われる。御霊合戦は畠山の私闘とされたが、宗全が細川派を排斥しようとした事実上のクーデターであった。

室町亭が山名軍に占拠されたために、勝元は形式上は幕府中枢から排除された。だが、勝元は京都に留まり続けただけでなく、非常事態を口実に細川京兆家の当主として独自に軍勢催促状や感状の発給や軍忠状の加判などを自派の大名や国人を行った(これらは本来は管領の職務である)[13]

大乱前夜

御霊合戦の後、勝元は四国など領地9カ国の兵を京都へ集結させるなど緊張が高まった。3月5日には元号が文正から応仁に改元された。4月になると、細川方の兵が山名方の年貢米を略奪する事件が相次いで起き、足利義視が調停を試みている。京都では細川方の兵が宇治や淀など各地の橋を焼き、4門を固めた。5月には勝元派である元播磨守護家の赤松政則が播磨へ侵攻し、山名氏から播磨を奪還した。また武田信賢細川成之らが若狭一色氏の領地へ侵攻し、義敏は越前へ侵攻した。美濃土岐氏一門の世保政康も一色領国の伊勢を攻撃している。

5月26日には室町亭の西隣にある一色義直の屋敷近郊の正実坊を成身院光宣が、実相院を武田信賢を占拠、続いて武田信賢・細川成之の軍が義直の屋敷を襲撃し、義直は直前に脱出、屋敷は焼き払われ京都での戦いが始まった。勝元は匿っていた政長を含む全国の同盟者に呼びかける一方、室町亭を押さえ戦火から保護するという名目で将軍らを確保、勝元は自邸今出川邸に本陣を置いた。室町亭を奪還した勝元らは西軍方に就いた幕府奉行衆の責任を追及し、6月11日には恩賞方を管轄していた飯尾為数が殺され、8月には政所執事代の伊勢貞藤(貞親の弟)が追放された[14]

片や宗全は5月20日に評定を開き、五辻通大宮東に本陣を置いた。西軍は管領斯波義廉の管領下知状により指令を行っていた[15]。両軍の位置関係から細川方を「東軍」、山名方を「西軍」と呼ぶ。兵力は『応仁記』によれば東軍が16万、西軍が11万以上であったと記されているが、誇張があるという指摘もされている。

京都に集結した諸将は北陸信越東海九州筑前豊後豊前が大半であった。地理的には、細川氏一族が畿内と四国の守護を務めていたことに加えその近隣地域にも自派の守護を配置していたため、東軍が優位を占めていた。西軍は山名氏を始め、細川氏とその同盟勢力の台頭に警戒感を強める地方の勢力が参加していた。このため西軍には、義政の側近でありながら武田信賢との確執から西軍に奔った一色義直や六角高頼・土岐成頼のように成り行きで参加したものも多く、その統率には不安が残されていた。

一方、関東や東北九州南部などの地域は既に中央の統制から離れて各地域で有力武家間の大規模な紛争が発生しており、中央の大乱とは別に戦乱状態に突入していた(関東については享徳の乱を参照)。

戦闘の本格化

5月26日、宗全邸の南に位置する一条大宮の細川勝久邸を斯波義廉の配下の朝倉孝景、甲斐氏ら西軍が攻めかかり、応戦した細川軍と激戦を展開、東から援軍に来た京極持清を返り討ちにした。続いて赤松政則が南下して正親町を通り、猪熊に攻め上がって斯波軍を引き上げさせ、細川勝久はこの隙を見て東の細川成之の屋敷に逃亡した。西軍は勝久邸を焼き払い、続いて成之邸に攻め寄せ雲の寺、百万遍の仏殿、革堂にも火を放ち成之邸を攻撃したが、東軍の抵抗で決着が着かず翌27日に両軍は引き上げた。この合戦で起きた火災で北は船岡山、南は二条通りまで延焼した[16]

義政は5月28日に両軍に和睦を命じ、勝元の軍事行動を非難しながら義就の河内下向を命ずる一方、伊勢貞親に軍を率いて上洛させるなど独自の動きを取っていた[17]。しかし、6月3日には勝元が義政に要請して将軍の牙旗が東軍に下され、東軍は官軍の体裁を整えた。義政は義視に西軍攻撃を命じ[18]6月8日には赤松政則が一条大宮で山名教之を破った。さらに義政の降伏勧告により斯波義廉は動揺して自邸に引きこもった。東軍は義廉の館も攻撃し、戦闘の巻き添えで南北は二条から御霊の辻まで、東西は大舎人町から室町までが炎上した。この頃は京都に軍勢を集めていた東軍が優勢であった。

しかし6月14日には大和古市胤栄が、19日に紀伊の畠山政国などの西軍の援軍が到着し始めた。8月23日には周防から大内政弘伊予河野通春ら7か国の軍勢一万と2千艘の水軍[19]を率いて入京したため西軍が勢力を回復した。同日天皇・上皇が室町亭に避難し、一方では義視が出奔し、北畠教具を頼って伊勢に逃亡した。またこの頃から西軍は管領下知状にかわって諸将の連署による下知を行い始めた[15]

大内政弘は8月中に船岡山に陣取り、9月1日に義就・朝倉孝景が攻めかかった武田勢を追い出し、武田勢が逃げ込んだ三宝院に火を放った。6日に義政は再度義就の河内下向を命令したが、義就は従わず戦いを続けた[20]10月3日に発生した相国寺の戦いは激戦となり、両軍に多くの死傷者を出したが、勝敗を決するには至らなかった。しかし、焼亡した相国寺跡に斯波義廉軍が陣取り、義就が山名宗全邸の西に移り東軍は劣勢に立たされた。

朝廷においては10月3日に後花園法皇が興福寺に山名宗全の追討を命じる治罰院宣を発したほか、12月5日12月31日)に正親町三条公躬(公治)・葉室教忠光忠父子・阿野季遠清水谷実久ら西軍派とされた公家の官爵剥奪が決定された。彼らは冨子の実家である日野家と対立関係にあった三条家の一族や縁者が多く、義視を支持していた公家達であった。

応仁2年(1468年3月17日に北大路烏丸で大内政弘と毛利豊元小早川煕平が交戦、5月2日に細川成之が斯波義廉邸を攻めたり、5月8日に勝元が宗全の陣を、8月1日に勝元の兵が相国寺跡の義就の陣を攻めていたが、戦闘は次第に洛外に移り、山科、鳥羽、嵯峨で両軍が交戦した。

応仁2年、斯波義廉が幕府と敵対していた関東の古河公方足利成氏に和睦を提案、宗全と義就の連名の書状を送った。この理由については、義廉は幕府の関東政策の一環として斯波氏の当主に据えられたため、成氏と幕府の和睦という成果を挙げて家督と管領職の確保を狙ったと推定される。しかし、義政は独断で和睦を図った義廉を許さず、7月10日に義廉を解任、勝元を管領に任命した。義廉の家督と3ヶ国守護職も取り上げられ、松王丸に替えられた。書状が出された月は2月から3月と推定され、相国寺の戦いの後に西軍有利の状況で義廉が動いたとされる[21]

応仁2年9月22日、しばらく伊勢に滞在していた義視は勝元や義政に説得されて東軍に帰陣した。帰京した義視は義尚派の日野勝光の排斥を義政に訴えたが、受け入れられなかった。さらに義政は閏10月16日には文正の政変で義視と対立した伊勢貞親を政務に復帰させ、11月10日には義視と親しい有馬元家を殺害するなどはっきりと義尚擁立に動き出した。勝元も義視擁立には動かず、かえって出家をすすめた。こうして義視は再度出奔して比叡山に登った。11月23日12月19日)、西軍は比叡山に使いを出して義視を迎え入れて“新将軍”に奉った。正親町三条公躬、葉室教忠らも西幕府に祗候し、幕府の体裁が整った。以降、西軍では義視が発給する御内書によって命令が行われ、独自に官位の授与も行うようになった[22]

一方で東幕府では日野勝光、伊勢貞親ら義政側近の勢力が拡大し、文正の政変以前の状態に戻りつつあった。勝元には義視をあえて西軍に送り込むことで、親宗全派であった富子を幕府内で孤立させる目論見があったとも推測されている[23]。以降勝元は西軍との戦いをほとんど行わず、対大内氏との戦闘に傾注していく[24]

大内政弘の圧倒的な軍事力によって山城は西軍によって制圧されつつあり、京都内での戦闘は散発的なものとなり、戦場は摂津丹波・山城に移っていった。このため東軍は反大内氏の活動を活発化させた。文明元年(1469年)には大内氏の重臣で文武両道の名将として知られた益田兼堯石見で離反し、九州の大友親繁少弐頼忠と共に政弘の叔父教幸を擁して西軍方の大内領に侵攻、文明2年(1470年)2月には教幸自身が反乱を起こしている。しかしいずれも留守居の陶弘護に撃退されたために政弘は軍を引くことなく、7月頃までには山城の大半が西軍の制圧下となった(教幸は文明3年12月26日1472年2月5日)に豊前で自殺)。

これ以降東西両軍の戦いは膠着状態に陥った。長引く戦乱と盗賊の跋扈によって何度も放火された京都の市街地は焼け野原と化して荒廃した。さらに上洛していた守護大名の領国にまで戦乱が拡大し、諸大名は京都での戦いに専念できなくなった。かつて守護大名達が獲得を目指していたはずの幕府権力そのものも著しく失墜したため、もはや得るものは何もなかったのである。やがて東西両軍の間には厭戦気分が漂うようになった。

戦乱の終息

文明3年(1471年5月21日には斯波義廉の重臣で西軍の主力となっていた朝倉孝景が義政による越前守護職補任をうけて東軍側に寝返った。このことで東軍は決定的に有利となり、東軍幕府には古河公方足利成氏の追討を再開する余裕も生まれた。一方で西軍は擁立を躊躇していた後南朝勢力の小倉宮皇子と称する人物を擁立して西陣南帝としたが、やがて放擲された[25]。同年に関東の幕府軍が単独で成氏を破り、成氏の本拠地古河城を陥落させたことも西軍不利に繋がり、関東政策で地位保全を図った義廉の立場は危うくなった[26]

文明4年(1472年)になると、勝元と宗全の間で和議の話し合いがもたれ始めた。宗全の息子達はかねてから義就支援に否定的であり、山名一族の間にも厭戦感情が生まれていた。しかしこの和平交渉は山名氏と対立する赤松政則の抵抗で失敗した。3月に勝元は猶子勝之を廃嫡して、実子で宗全の外孫に当たる聡明丸(細川政元)を擁立した後、剃髪した。5月には宗全が自殺を図って制止され、隠居する事件が起きた。桜井英治はこれを手打ちの意思を伝えるデモンストレーションであったと見ている[27]

文明5年(1473年)の3月18日4月15日)に宗全が、5月11日6月6日)に勝元が相次いで死去し、12月19日1474年1月7日)には義政が義尚に将軍職を譲って隠居した。幕府では富子の勢力が拡大し、義政の実権は失われていった。翌6年(1474年)3月、義政は小河に建設した新邸に移り、室町邸には富子と義尚が残された。興福寺別当尋尊は「天下公事修り、女中御計(天下の政治は全て女子である富子が計らい)、公方(義政)は大御酒、諸大名は犬笠懸、天下泰平の時の如くなり」と評している[28]

文明6年4月3日4月19日)、宗全の孫・山名政豊と細川政元の間に和睦が成立した。さらにこの頃、西軍の一色義直の子義春が義政の元に出仕し、丹後一色氏が東軍に帰順した。その後も東軍は畠山政長・赤松政則、西軍は畠山義就・大内政弘を中心に惰性的な小競り合いを続けていた。一方で西軍の土岐成頼の家臣で美濃守護代格斎藤妙椿は活発な軍事活動を行い、美濃・近江・伊勢に出兵し、越前では斯波義廉の重臣甲斐敏光と朝倉孝景を和睦させた。甲斐敏光は翌7年(1475年)2月に遠江守護代の任命で東軍に寝返り、孤立した義廉は11月に尾張へ下向、守護代織田敏広に擁立されるも義敏派の又守護代織田敏定と衝突、以降義廉は行方不明となる。

文明7年には和睦の動きが加速した。9月には義政が大内政弘に「世上無為」の御内書を送り、12月には義視が義政に恭順を誓い、義政も義視の罪を不問に付すと返答した。文明9年(1477年9月22日には主戦派の1人畠山義就が政長の追討を名目に河内に下国し、11月11日(1477年12月16日)に大内政弘ら諸大名が撤収したことによって西軍は事実上解体し、京都での戦闘は収束した。義視も土岐成頼と共に美濃に去った。西軍の解体は僅か1日で終わったと伝えられている。その9日後、幕府によって「天下静謐」の祝宴が催され11年に及ぶ大乱の幕が降ろされた。

この戦乱は延べ数十万の兵士が都に集結し、11年にも渡って戦闘が続いた。しかし惰性的に争いを続けてきた挙句、勝敗のつかないまま終わった。主だった将が戦死することもなく、戦後罪に問われる守護もなかった。西軍の最大勢力であった大内政弘も富子へ賄賂を贈り、守護職を安堵された。

乱の終了後も政長と義就は戦い続けていたが、山城では度重なる戦乱に国人が団結し、勝元の後継者であった政元の後ろ盾も得て、文明17年(1485年)に山城国一揆を起して両派を国外に退去させた。また、加賀では東軍に参戦した富樫政親長享2年(1488年)に加賀一向一揆に居城・高尾城を攻め込まれて自害、加賀は一向一揆が領有した。これらは旧体制の支配下にあった新勢力が台頭しつつあることを示すこととなった。

拡大の要因

乱のきっかけは畠山義就を宗全が支援したことであるが、何故ここまで乱の規模が拡大し、長期間継続したのかという問題には様々な解釈が建てられている。多くの大名には陣営を積極的に選ぶ理由はほとんど無かった[29]。富子は義視が西軍に逃亡した後も土御門内裏が炎上しないように西軍の大内政弘と連絡を取り合っているなど、将軍継嗣の問題だけでは説明がつかないという見方もある[30]永原慶二は幕政の中心人物である勝元と宗全が争ったため、結果的に幕政に関与していた諸大名は戦わざるを得なくなったとしており、戦い自体にはさしたる必然性もなく、戦意がない合戦が生み出されたとしている[31]

当時の人間にとっても理解が困難であったらしく、尋尊は「いくら頭をひねっても応仁・文明の大乱が起こった原因がわからない」と「尋尊大僧正記」に記している。

守護大名・豪族の動向

応仁の乱は京都が主戦場であったが、後半になると地方へ戦線が拡大していった。これは勝元による西軍諸大名(大内氏・土岐氏など)に対する後方撹乱策が主な原因であり、その範囲は奥羽・関東・越後甲斐を除くほぼ全国に広がっていった。ここでは東西両軍に参加した守護大名や豪族を列挙するが、時期によっては去就が異なる場合がある。主に応仁4年(1470年)頃の状況に照らした去就を記す(参考資料:『鎌倉・室町人名辞典』・『戦国人名辞典』)。

東軍

守護大名

その他

西軍

守護大名

その他

東西に分裂した家

氏族 東軍 西軍 備考
斯波氏 斯波義敏
斯波義寛
斯波持種
斯波義廉
朝倉孝景
越前・尾張・遠江守護、三管領家
畠山氏 畠山政長 畠山義就
畠山義統
越中・河内・紀伊・能登守護、三管領家
山名氏 山名是豊 山名宗全
山名豊氏
山名教之
山名政清
伯耆・因幡・但馬・石見・山城・備後守護、四職
京極氏 京極孫童子丸
京極政経
多賀高忠
京極高清
京極政光
多賀清直
近江半国・出雲・隠岐・飛騨守護、四職。京極騒乱を参照
六角氏 六角政堯 六角高頼 近江半国守護
土岐氏 世保政康 土岐成頼 美濃・伊勢守護
大内氏 大内教幸 大内政弘 長門・周防・豊前・筑前守護
小笠原氏 小笠原家長 小笠原清宗 信濃守護
富樫氏 富樫政親 富樫幸千代 加賀守護
武田氏 武田信賢
武田国信
武田元綱 若狭・安芸半国守護
河野氏 河野教通 河野通春 伊予守護
吉良氏 吉良義真 吉良義藤 西条家・東条家
小早川氏 小早川煕平
小早川敬平
小早川盛景
小早川弘景
小早川弘平
沼田家・竹原家

※☆は西軍、★は東軍に寝返り

戦術の変化

応仁の乱の戦いで特徴的とされるものは正規の武士身分ではない足軽の活躍である。兵力不足に悩んだ両軍は足軽を大量に雇い入れ、戦力に加えた。東軍の足軽大将骨皮道賢や西軍の御厨子某は後方攪乱としてに足軽によるゲリラ戦を行って名を上げた。

しかし足軽は盗賊や凶悪人を多く含んだ無法者の集団に近く、高い自立性を持っていた。彼らは異形の装いをし、市街の放火や略奪を頻繁に行った。このため一条兼良樵談治要において「洛中洛外の諸社諸寺五山十刹公家門跡の滅亡は彼らが所行なり」と非難している。一方で東寺などの権門寺社も自衛のために足軽を雇用することもあった[32]

戦乱の影響

応仁の乱は古くから幕府権力が崩壊した戦国時代の始まりと言われていたが、近年では幕府の権威は明応の政変頃まで保たれていたという見解もあり、明応の政変以降を戦国時代の始まりととらえる説もある。しかし応仁の乱以降身分や社会の流動化が加速されたことは間違いない。

東洋史学者内藤湖南は講演『応仁の乱に就て』において、応仁の乱前後を「最も肝腎な時代」であると指摘し、「大体今日の日本を知る爲に日本の歴史を研究するには、古代の歴史を研究する必要は殆どありませぬ、応仁の乱以後の歴史を知つて居つたらそれで沢山です」と発言し、古代史学者との間に論争を巻き起こした。

幕府・守護権力の変化

東西両軍は味方を得るために、今までの家格を無視した叙任を行った。西軍は一介の国人であった越智家栄を大和守護に任命し、東軍は西軍の有力武将だったが守護代でもなかった朝倉孝景を越前守護につけた。また義政は「諸国の御沙汰は毎事力法量(諸国の沙汰は力次第である)」と述べ、他国の守護が他国を侵略することも是認していた[33]。このため室町幕府の家格秩序は崩壊し、身分秩序が流動化することになった。また長期にわたる京都での軍事活動により、守護の財政は逼迫した。権威と財政を失った守護は、国人や家臣団に対する支配力を著しく低下させた。国人や家臣は守護の影響を排除して自らの地盤を固め、領主化していった。

これまで在京が原則であった守護は自らの領国を守るため下国し、守護代に任せていた領国経営を自らの権威により行おうとした。これにより守護は幕府の統制を離れ、幕府は段銭などの徴収がままならなくなった。いくつかの守護は領主化を強化することで戦国大名へと成長することが出来たが、既に乱の最中に守護代や家臣に権力を奪われた者もおり、没落した守護も多かった。この従来の家格秩序を破る風潮は下克上と呼ばれ、戦国時代を象徴する言葉となる。

また守護在京制の崩壊により、文明18年(1486年)には京都に残る守護が摂津丹波を基盤とする細川氏一門のみとなった。守護の協力を得られなくなった幕府は将軍近臣の奉公衆奉行衆による運営を余儀なくされ、畿内政権としての道を歩み始めた。その一方で、細川勝元が西軍方に占拠されていた時に始めた細川京兆家当主としての軍勢催促状などの軍事決裁行為が管領復帰後も継続され、勝元没後に管領となった畠山政長も義就との戦いのためにほとんど在京しなかったために、勝元の子政元が細川政国の後見を受けて同様の措置をもって幕府の軍事行動を指揮したため、細川京兆家が本来管領が有していた幕府の軍事的権限を行使するようになった[34]。やがて細川氏と幕府の利害が対立し、明応の政変とその後の京兆専制を招くことになる。

公家の没落

領主化を推進する守護や国人によって一円知行化が進められ、公家や寺社の荘園は横領された。さらに幕府の権威低下により、遠国など幕府の権力が届かない地域の荘園・国衙領支配は絶望的になり、荘園制度の崩壊が加速した。収入を断たれた公家は没落し、朝廷行事や官位昇進への興味も失った。甘露寺親長は日記に「高官無益なり」と書き記し、文明5年には顕官である近衛大将の希望者が現れないという事態が発生している。前関白一条教房のように京都を去る公家や、町広光のように家を意図的に断絶させる公家まで現れた[35]。また朝廷収入も激減し、即位礼大喪の礼などの儀式を行うことも困難となった。このため戦国期には献金による売官が行われることとなったが、一方で京都文化が地方に伝搬する一因ともなった。

京都の被害

文明2年頃には戦火で京都の寺社や公家・武家邸の大半が消失し、罹災を免れたのは土御門内裏などわずかであった。また京都七口関は両軍の争奪戦となり、物資の流入も停滞した。さらに足軽の放火・略奪が追い打ちをかけ、京都の大半の人々は大いに困窮した。また文明5年には疫病が流行し、宗全や勝元も命を落とした[36]

しかし義政はこれを顧みず、日夜酒宴に明け暮れ、小河邸東山山荘を造営した。また富子は困窮した東西軍の守護に金銭を貸し付けるほか、米の投機を行って大いに利益を上げた[37]

なお、京都は応仁の乱で焼け野原となる一方、第二次世界大戦では大規模な爆撃が行われず殆ど無傷だったため、現在京都人が「この前の戦争で」という表現をした場合、その「戦争」とは太平洋戦争ではなく応仁の乱を指すというジョークがある[38]

応仁の乱後の京都復興

応仁の乱によって京都を追われた公家や民衆は京都周辺の山科宇治大津奈良といった周辺都市や地方の所領などに疎開していった。応仁の乱後の文明11年(1479年)に室町殿や内裏の造営が開始されたものの都市の荒廃による環境悪化によって疫病や火災、盗賊、一揆などの発生が頻発したこと、加えて在京していた守護大名やその家臣達(都市消費者として一定の役割を果たしていた)が領国の政情不安のために帰国したまま帰ってこなかったこともあり、京都の再建は順調とは言えなかった。また、こうした災害を理由とした改元長享延徳明応)が相次いだ。

将軍義政は、義教の死後中断していた勘合貿易宝徳3年(1451年)に復活させた。勘合貿易の復活や側近の守護大名及び幕府官僚の財政再建によって、応仁の乱前の幕府財政は比較的安定してはいた。だが、義政は幕府財政を幕府の権威回復や民衆の救済にではなく、趣味の建築や庭園に費やした。結果、応仁の乱後の京都の復興は大幅に遅れることとなった。

一方で、町衆主導によって行われたと評価されてきた明応9年(1500年)の祇園祭の再興も本来祇園祭が疫病平癒の祭りであったことを考えると、逆に当時の社会不安の反映が祇園祭再興を促したという側面も考えられる[39]。また、当時町衆における法華宗受容も社会不安からくる信仰心の高まりと関連づけられる。

それでも明応7年(1498年)頃より京都の住民に対する地子銭徴収が次第に増加していったこと、永正5年(1508年)以後の酒屋役徴収の強化命令が幕府から出されている事からこの時期に京都の人口回復が軌道に乗り出したと考えられ、明応9年の祇園祭の前後数年間が京都の本格的な復興期と考えられている。

脚注

  1. ^ 応仁の乱以後を「戦国時代」とするのが従来の説である。しかし応仁の乱以降、室町幕府が衰退しつつも影響力が一応維持されていたと考えられている。このため、明応の政変明応2年(1493年))以後を戦国時代とするのが現在では有力な説の一つとなっている。
  2. ^ キーン、83ページ
  3. ^ 家永遵嗣「軍記『応仁記』と応仁の乱」、『室町幕府将軍権力の研究』
  4. ^ しかし、義尚が生まれる以前から宗全は諸大名との派閥を形成していた上、義尚ではなく義視と結びついていたとする動きがあるため、後見人の話は応仁記が書いた誤りとの指摘もある。石田晴男『戦争の日本史9 応仁・文明の乱』182p - 190p
  5. ^ 当時の名は義夏
  6. ^ 桜井、277p
  7. ^ 桜井、297p
  8. ^ 桜井、294p
  9. ^ 石田、147p - 157p、165p - 174p、182p - 185p
  10. ^ 石田、160p - 165p、177p - 179p、川岡勉『室町幕府と守護権力』109p - 111p
  11. ^ 永原、261p
  12. ^ 桜井、298p
  13. ^ 吉田、338p
  14. ^ 吉田、336p
  15. ^ a b 桜井、305p - 306p
  16. ^ 石田、209p - 210p
  17. ^ 永原、265p
  18. ^ 永原、266p
  19. ^ 尋尊大僧正記
  20. ^ 義政は大乱の元凶は両畠山氏の騒乱にあるとする姿勢を保ち、5月と9月に義就の河内下向で事態の沈静化を図った。しかし、その義政が家督交替に関与していて、東軍に取り込まれて中立姿勢を取っていない以上停戦命令は無意味であり、戦争の解決に繋がらなかった。石田、210p - 216p、224p - 225p
  21. ^ 石田、240p - 244p
  22. ^ 桜井、309p
  23. ^ 桜井、309p
  24. ^ 桜井、309p
  25. ^ 桜井、312p
  26. ^ 石田、256p
  27. ^ 桜井、313p
  28. ^ 永原、327p
  29. ^ 永原、277p
  30. ^ 桜井、316p - 317p
  31. ^ 永原、278p
  32. ^ 桜井、302p - 303p
  33. ^ 文明7年、能登守護畠山義統と越後守護上杉房定が政長の分国越中を侵略した際の言葉。桜井、312p
  34. ^ 吉田、338p - 341p
  35. ^ 桜井、304p
  36. ^ 永原、320p
  37. ^ 西軍の主将義就に一千貫を貸し付けている。尋尊大僧正記文明9年7月記録。
  38. ^ ただし、規模がはるかに小さいものの幕末に3万戸以上を焼いた武力衝突事件である禁門の変を最後の戦争とみなす意見もある。
  39. ^ また室町幕府も明応9年をはじめ、以後の祇園祭に度々介入して主導権の回復を図り実際に戦国時代初頭には幕府の命令による祇園祭の延期や年2度開催が度々行われた。本当の意味での町衆による祇園祭開催が可能になったのは、天文2年(1533年)の幕府の延期命令に対する町衆の反対運動以後と考えられている。

参考文献

外部リンク

関連項目