尹晶煥
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名前 | ||||||
カタカナ | ユン・ジョンファン | |||||
ラテン文字 | YOON Jung Hwan | |||||
ハングル | 윤정환 | |||||
基本情報 | ||||||
国籍 |
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生年月日 | 1973年2月16日(51歳) | |||||
出身地 |
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身長 | 173cm | |||||
体重 | 69kg | |||||
選手情報 | ||||||
ポジション | MF | |||||
利き足 | 右足 | |||||
クラブ1 | ||||||
年 | クラブ | 出場 (得点) | ||||
1995-1999 2000-2002 2003 2004-2005 2006-2007 |
油公コッキリ / 富川SK セレッソ大阪 城南一和天馬 全北現代モータース サガン鳥栖 |
68 (8) 81 (9) 30 (1) 42 (3) 67 (3) | ||||
代表歴2 | ||||||
1994-2002 |
![]() | 38 (3) | ||||
監督歴 | ||||||
2011- | サガン鳥栖 | |||||
1. 国内リーグ戦に限る。2008年7月26日現在。 2. 2008年7月26日現在。 ■テンプレート(■ノート ■解説)■サッカー選手pj |
尹 晶煥(ユン・ジョンファン、윤정환、Yoon Jung-Hwan、1973年2月16日-) は、大韓民国・光州市出身の元サッカー選手で、サッカー指導者。現役時代のポジションはミッドフィールダー。元サッカー韓国代表選手で、現在はJリーグ・サガン鳥栖の監督を務める。
来歴
選手時代
東亜大学校在籍時の1994年に韓国代表デビューを果たすなど、中盤のプレーメーカーとして早くから将来を嘱望された。1995年にKリーグ・油公コッキリ(現済州ユナイテッドFC)でプロデビュー。1年目から出場機会を得る。
2000年にJリーグ(J1)・セレッソ大阪と契約し、C大阪のJ1ファーストステージでの優勝争いの原動力となった。2001年にはJOMO CUPのメンバーにも選出され、MVPを受賞。日韓共催の2002 FIFAワールドカップを控えていたため、当初はこの年限りで韓国に復帰するつもりだったが、C大阪がJ2へ降格した悔しさを晴らすために残留し、2002年はJ2でプレー。C大阪を1年でJ1へ復帰させた。日韓ワールドカップの韓国代表メンバーにもJ2から選出されたが、出場機会はなかった[1]。
2003年に韓国に帰国し[2]、この年は城南一和天馬、翌年からの2年間は全北現代モータースでプレーした。
2006年、「再び日本でプレーしたい」という本人の強い希望によりJ2のサガン鳥栖に移籍[3]。この年は当時鳥栖のクラブ史上最高成績となる4位躍進に大きく貢献し、チームを支えた。2007年は先発出場の機会は減ったものの、スーパーサブとして活躍した。同年オフ、鳥栖との契約満了とともに現役を引退。
指導者時代
引退後の2008年はテクニカルアドバイザーとして引き続き鳥栖に残り、鳥栖のユースチームやサッカースクールでの指導のほか、地域の子どもたちを対象にサッカーの普及活動に取り組んだ。
2009年、鳥栖のトップチームコーチとして指導者として現場に復帰。クラブは当初から尹を将来の監督候補として期待しており、この年限りで監督の岸野靖之が辞任した際には、尹が監督に昇格する予定であったが、尹の所持するAFCのA級ライセンスではJリーグクラブの監督就任条件を満たさないと判断された。そこで、クラブスタッフで監督就任に必要なJFA S級ライセンスを唯一所持していた、元監督でGMを務めていた松本育夫が監督に復帰し(GMは解職)、尹はヘッドコーチに昇格して松本と尹の二頭体制を取ることとなった[4]。なお、実際の指導は尹が中心として執るが、松本は鳥栖での前回の監督最終年(2006年)にも実際の指導を当時ヘッドコーチだった岸野に任せていた前例がある。
2010年にS級ライセンスを取得したのを受けて、2011年1月より鳥栖監督に正式に就任[5]。この年の開幕時におけるJリーグ38クラブの監督の中では最年少であった。2010年は選手の大半が入れ替わった影響もあり9位に終わったが、主力選手の大半を残すことが出来た2011年は後半戦で16試合連続負けなしの快進撃を見せ、チームを過去最高の2位に導き、同時にクラブ初のJ1昇格を果たした[6]。
2012年4月4日、ヤマザキナビスコ・カップベガルタ仙台戦で副審に執拗な抗議をしたため退席を命じられ、その後4月7日リーグ第5節名古屋戦のベンチ入り禁止処分を受けた[7]。
人物
視野が広く、優れたパス能力を持っていたが[8]、守備には消極的だったこと[9]、所属していたセレッソが2001年にJ2に降格したことから2002年日韓ワールドカップ韓国代表監督、フース・ヒディンクの信頼を得ることができなかった[10]。
![]() | この元選手の人物像に関する文献や情報源が必要です。(2012年4月) |
リーダーシップのある選手で、鳥栖時代はベテランとして全幅の信頼を寄せられ、尹を慕う若手選手は多かった。鳥栖時代には韓国人の通訳がいなかったが、チームメイトとの会話では日本語を流暢に話すなど、コミュニケーション等にも問題は全く無かった。
所属クラブ
ユース経歴
パンリム小学校
プクソン中学校
錦湖高等学校
東亜大学校
プロ経歴
- 1995年 - 1999年
油公コッキリ/富川油公/富川SK
- 2000年 - 2002年
セレッソ大阪
- 2003年
城南一和天馬
- 2004年 - 2005年
全北現代モータース
- 2006年 - 2007年
サガン鳥栖
個人成績
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国内大会個人成績 | |||||||||||
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年度 | クラブ | 背番号 | リーグ | リーグ戦 | リーグ杯 | オープン杯 | 期間通算 | ||||
出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | ||||
韓国 | リーグ戦 | リーグ杯 | FA杯 | 期間通算 | |||||||
1995年 | 油公コッキリ | Kリーグ | 19 | 3 | 5 | 0 | - | 24 | 3 | ||
1996年 | 富川油公 | 15 | 0 | 7 | 2 | ? | ? | ||||
1997年 | 富川SK | 7 | 2 | 9 | 1 | ? | ? | ||||
1998年 | 16 | 1 | 12 | 3 | ? | ? | |||||
1999年 | 8 | 11 | 2 | 7 | 1 | ? | ? | 18 | 3 | ||
日本 | リーグ戦 | ナビスコ杯 | 天皇杯 | 期間通算 | |||||||
2000年 | C大阪 | 6 | J1 | 29 | 3 | 3 | 0 | 3 | 3 | 35 | 6 |
2001年 | 26 | 4 | 1 | 0 | 5 | 6 | 32 | 10 | |||
2002年 | J2 | 26 | 4 | - | 3 | 0 | 29 | 4 | |||
韓国 | リーグ戦 | リーグ杯 | FA杯 | 期間通算 | |||||||
2003年 | 城南一和 | 6 | Kリーグ | 30 | 1 | - | 0 | 0 | 30 | 1 | |
2004年 | 全北現代 | 8 | 23 | 2 | 11 | 0 | 2 | 0 | 36 | 2 | |
2005年 | 19 | 1 | 12 | 1 | 5 | 0 | 36 | 2 | |||
日本 | リーグ戦 | ナビスコ杯 | 天皇杯 | 期間通算 | |||||||
2006年 | 鳥栖 | 8 | J2 | 41 | 2 | - | 2 | 0 | 43 | 2 | |
2007年 | 26 | 1 | - | 0 | 0 | 26 | 1 | ||||
通算 | 韓国 | Kリーグ | 203 | 20 | 63 | 8 | |||||
日本 | J1 | 55 | 7 | 4 | 0 | 8 | 9 | 67 | 16 | ||
日本 | J2 | 93 | 5 | - | 5 | 0 | 98 | 5 | |||
総通算 | 351 | 32 | 67 | 8 |
タイトル
- 2001年 JOMOカップ MVP
代表歴
出場大会
- U-23韓国代表
- 1996年 アトランタオリンピック
- 韓国代表
- 1998年 アジア大会
- 2000年 AFCアジアカップ
- 2001年 FIFAコンフェデレーションズカップ
- 2002年 FIFAワールドカップ
試合数
- 国際Aマッチ38試合3得点
指導歴
- 2008年-現在
サガン鳥栖
- 2008年 テクニカルアドバイザー
- 2009年 コーチ
- 2010年 ヘッドコーチ
- 2011年- 監督
監督成績
年度 | 所属 | クラブ | リーグ戦 | カップ戦 | ||||||
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順位 | 試合 | 勝点 | 勝 | 分 | 敗 | ナビスコ杯 | 天皇杯 | |||
2011 | J2 | 鳥栖 | 2位 | 38 | 69 | 19 | 12 | 7 | - | 2回戦敗退 (初戦敗退) |
2012 | J1 | |||||||||
J1通算 | - | - | - | - | - | - | ||||
J2通算 | - | 38 | - | 19 | 12 | 7 |
関連項目
参照
- ^ “崔竜洙、尹晶煥、金秉址「明日はピッチに立ちたい」”. 中央日報 (2002年6月28日). 2012年4月6日閲覧。
- ^ “中央日報 latest newsJリーグの尹晶煥、Kリーグに復帰 ”. 中央日報 (2002年12月26日). 2012年4月6日閲覧。
- ^ “尹晶煥、日本2部リーグサガン鳥栖へ”. 中央日報 (2006年1月20日). 2012年4月6日閲覧。
- ^ 【鳥栖:松本育夫監督、尹晶煥ヘッドコーチ就任会見】会見での出席者コメント(09.12.08) J's GOAL 2009年12月9日閲覧
- ^ “尹晶煥、サガン鳥栖の監督に”. 中央日報 (2011年1月14日). 2012年4月6日閲覧。
- ^ “尹晶煥監督のサガン鳥栖、“韓国式サッカー”で旋風”. 中央日報 (2012年4月4日). 2012年4月6日閲覧。
- ^ “尹晶煥監督ベンチ入り停止”. MSN産経ニュース (2012年4月6日). 2012年4月6日閲覧。
- ^ “トルコ戦、「解決者」尹晶煥がリード”. 中央日報 (2002年6月28日). 2012年4月6日閲覧。
- ^ “<変わる韓国サッカー>③「スターは要らない」実力第一主義に”. 中央日報 (2001年12月20日). 2012年4月6日閲覧。
- ^ “ヒディンク監督「最終エントリー選抜に苦悩」”. 中央日報 (2002年2月8日). 2012年4月6日閲覧。