ラモン・ディアス
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名前 | ||||||
本名 | ラモン・アンヘル・ディアス | |||||
愛称 | 禿げ (El Pelado) | |||||
ラテン文字 | Ramón Díaz | |||||
基本情報 | ||||||
国籍 | アルゼンチン | |||||
生年月日 | 1959年8月29日(64歳) | |||||
出身地 | ラ・リオハ州ラ・リオハ | |||||
身長 | 172cm | |||||
体重 | 68kg | |||||
選手情報 | ||||||
ポジション | FW | |||||
利き足 | 左足 | |||||
クラブ1 | ||||||
年 | クラブ | 出場 | (得点) | |||
1978-1981 | リーベル・プレート | 123 | (57) | |||
1982-1983 | ナポリ | 25 | (3) | |||
1983-1986 | アヴェッリーノ | 78 | (22) | |||
1986-1988 | フィオレンティーナ | 53 | (17) | |||
1988-1989 | インテル・ミラノ | 33 | (12) | |||
1989-1991 | モナコ | 60 | (24) | |||
1991-1992 | リーベル・プレート | 52 | (27) | |||
1993-1995 | 横浜マリノス | 75 | (52) | |||
代表歴2 | ||||||
1979 | アルゼンチン U-20 | 6 | (8) | |||
1979-1982 | アルゼンチン | 22 | (10) | |||
監督歴 | ||||||
1995-2000 | リーベル・プレート | |||||
2001-2002 | リーベル・プレート | |||||
2004-2005 | オックスフォード・ユナイテッド | |||||
2007-2008 | サン・ロレンソ | |||||
2008-2009 | アメリカ | |||||
2010-2011 | サン・ロレンソ | |||||
2011-2012 | インデペンディエンテ | |||||
2012-2014 | リーベル・プレート | |||||
2014- | パラグアイ | |||||
1. 国内リーグ戦に限る。2014年11月12日現在。 2. 2014年11月12日現在。 ■テンプレート(■ノート ■解説)■サッカー選手pj |
ラモン・アンヘル・ディアス(Ramón Angel Díaz、1959年8月29日-)は、アルゼンチン、ラ・リオハ出身の元同国代表のサッカー選手(FW)、サッカー指導者。
来歴
U-20アルゼンチン代表の一員としてのぞんだ1979年のワールドユース選手権で大会得点王に輝き、最優秀選手に選ばれたディエゴ・マラドーナと共にチームを優勝に導く立役者となる。この活躍が認められ、翌1980年にはフル代表デビューを果たし、レギュラーとして活躍。
1982年にはスペインで行われたワールドカップにも出場し(同大会の開幕戦のキックオフは、ディアスからマラドーナへのパスであった)、ブラジル戦ではゴールを記録。しかし、マラドーナの退場などによりこの試合に敗れ、チームは2次リーグで姿を消すこととなった。
結果的には、これがディアスの最後の代表戦となった。代表の決定力不足が指摘され、ディアスの復帰要望が国民から出たこともあったが、結局復帰することはなかった。当時のアルゼンチン代表は、マラドーナを中心としたチームづくりを行っていたため、確執のあったディアスが外されたという説も根強い(ダニエル・パサレラも、同じ理由から代表を外されたと言われている[要出典])。代表には縁がなくなったディアスだが、クラブでは1982年にSSCナポリへ移籍したのを皮切りにセリエAを中心に活躍、ストライカーとして確固たる地位を築き上げた。インテル・ミラノでは88-89シーズン、ローター・マテウス、アンドレアス・ブレーメらとともにチーム8年ぶりのスクデット獲得に貢献。90-92年にはASモナコにおいてアーセン・ベンゲルのもとでプレーした。
1993年に開幕したJリーグにおいて、横浜マリノスに在籍。ゲーリー・リネカーなどすでにピークを過ぎ活躍できなかったスター選手が多い中で、ディアスはJリーグで初めて2試合連続ハットトリックを決めるなど32試合で28ゴールを挙げ、Jリーグ初代得点王に輝いた。2年目の1994年も主力として活躍。
1995年、ホルヘ・ソラーリ新監督のスタイルに合わないと判断したディアスは、6試合に出場したのみで、シーズン前半にチームを退団、そのまま現役を引退することとなった。ほとんど左足だけでゴールを量産し、当時日本では黄金の左足と呼ばれるほどだったが、現役最後のゴールは右足で決めたものとなった。
引退後にはリーベル・プレートなどで監督経験もあり、指導者としても高く評価されている。ホルヘ・ソラーリとはウマが合わなかったディアスだが、ホルヘの甥であるサンティアゴ・ソラーリは選手として高く評価しており[要出典]、重用していた。
2014年12月4日、パラグアイ代表の監督に就任した[1]。
人物
試合中にほとんど右足を使用しない極端なレフティーである。
性格は同時期に活躍したマラドーナとは対照的に、人格者とされている。両者が引退した後にマラドーナが問題行動を起こし、世間中から批判されていた際には、確執があったとされるにもかかわらず「いつでも助けになる」と発言したこともある[要出典]。
所属クラブ
- CAリーベル・プレート 1978-1981
- SSCナポリ 1982-1983
- USアヴェッリーノ 1983-1986
- ACFフィオレンティーナ 1986-1988
- インテルナツィオナーレ・ミラノ 1988-1989
- ASモナコ 1989-1991
- CAリーベル・プレート 1991-1993
- 横浜マリノス 1993-1995
個人成績
国内大会個人成績 | |||||||||||
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年度 | クラブ | 背番号 | リーグ | リーグ戦 | リーグ杯 | オープン杯 | 期間通算 | ||||
出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | ||||
アルゼンチン | リーグ戦 | リーグ杯 | アルヘンティーナ杯 | 期間通算 | |||||||
1978-79 | リーベル・プレート | 20 | 8 | ||||||||
1979-80 | 43 | 23 | |||||||||
1980-81 | 43 | 22 | |||||||||
1981-82 | 17 | 4 | |||||||||
イタリア | リーグ戦 | イタリア杯 | オープン杯 | 期間通算 | |||||||
1982-83 | ナポリ | セリエA | 25 | 3 | |||||||
1983-84 | アヴェッリーノ | 24 | 7 | ||||||||
1984-85 | 27 | 5 | |||||||||
1985-86 | 27 | 10 | |||||||||
1986-87 | フィオレンティーナ | 29 | 10 | ||||||||
1987-88 | 24 | 7 | |||||||||
1988-89 | インテル・ミラノ | 33 | 12 | ||||||||
フランス | リーグ戦 | F・リーグ杯 | フランス杯 | 期間通算 | |||||||
1989-90 | モナコ | ディヴィジョン・アン | 28 | 15 | |||||||
1990-91 | 32 | 19 | |||||||||
アルゼンチン | リーグ戦 | リーグ杯 | アルヘンティーナ杯 | 期間通算 | |||||||
1991-92 | リーベル・プレート | 31 | 20 | ||||||||
1992-93 | 21 | 7 | |||||||||
日本 | リーグ戦 | リーグ杯 | 天皇杯 | 期間通算 | |||||||
1993 | 横浜M | - | J | 32 | 28 | 5 | 3 | 3 | 0 | 40 | 31 |
1994 | 37 | 23 | 3 | 1 | 4 | 3 | 44 | 27 | |||
1995 | 6 | 1 | - | - | 6 | 1 | |||||
通算 | アルゼンチン | 175 | 84 | ||||||||
イタリア | セリエA | 189 | 54 | ||||||||
フランス | ディヴィジョン・アン | 60 | 34 | ||||||||
日本 | J | 75 | 52 | 8 | 4 | 7 | 3 | 90 | 59 | ||
総通算 | 499 | 224 |
個人タイトル
指導歴
- CAリーベル・プレート 1995-2000
- CAリーベル・プレート 2001-2002
- CAサン・ロレンソ 2007-2008
- クラブ・アメリカ 2008-2009
- CAサン・ロレンソ 2010-2011
- CAインデペンディエンテ 2011-2012
- CAリーベル・プレート 2012-2014
- パラグアイ代表 2014-
代表歴
- アルゼンチン代表 1979-1982
関連項目
脚注
- ^ サッカーキング (2014年12月5日). “Jリーグ初代得点王のラモン・ディアス氏、パラグアイ代表監督就任”. 2014年12月5日閲覧。