ブランドン・ナイト (野球)

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ブランドン・ナイト
Brandon Knight
ネクセン・ヒーローズ #71
ネクソン・ヒーローズ時代(2012年、春季キャンプにて)
基本情報
国籍 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
出身地 カリフォルニア州オックスナード
生年月日 (1975-10-01) 1975年10月1日(48歳)
身長
体重
6' 0" =約182.9 cm
195 lb =約88.5 kg
選手情報
投球・打席 右投左打
ポジション 投手
プロ入り 1995年 ドラフト14巡目でテキサス・レンジャーズから指名
初出場 MLB / 2001年6月5日
NPB / 2003年3月29日
KBO / 2009年8月1日
最終出場 MLB / 2008年9月17日
NPB / 2005年8月31日
KBO / 2014年5月6日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
コーチ歴

  • ネクセン・ヒーローズ (2016 - )
国際大会
代表チーム アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
五輪 2008年
オリンピック
男子 野球
2008 野球

ブランドン・マイケル・ナイトBrandon Michael Knight , 1975年10月1日 - )は、アメリカ合衆国カリフォルニア州オックスナード出身の元プロ野球選手投手)。韓国での登録名は、나이트

来歴・人物

メジャー時代

1994年、MLBドラフト51巡目(全体1366位)でコロラド・ロッキーズから指名されるも拒否。

1995年、MLBドラフト14巡目(全体374位)でテキサス・レンジャーズに指名され、6月3日に入団。

1999年12月13日チャド・カーティスとのトレードでサム・マーソネックと共にニューヨーク・ヤンキースに移籍。

2000年12月11日ルール・ファイブ・ドラフトミネソタ・ツインズに移籍。

2001年3月28日、ヤンキースに再び復帰するも、3月30日に放出される。4月1日、再びヤンキースと契約。6月5日ボルチモア・オリオールズ戦でメジャーデビューを果たした。5点ビハインドの6回表から4回を投げたが、マイク・ボーディックブレイディ・アンダーソンから本塁打を打たれ4失点を喫した。2002年までの2年間に11試合に登板した。しかし、翌年2003年1月3日に放出され、福岡ダイエーホークスに入団した。

日本プロ野球時代

ダイエー時代

来日1年目は6勝4敗防御率4.86と安定感を欠き、登板数は16にとどまり、投球回数も100を超えなかった。阪神タイガースとの日本シリーズでは第4戦に登板。初回に3失点するもその後は無失点に抑え、5回まで投げた。5回3失点の内容では物足りなさが残り、この試合チームは敗れたが、一度同点に追いついているため敗戦投手は免れた。チームはその後日本一を果たした。しかし、オフに故障をし、解雇されると思われたが本人の野球に対する熱意が伝わり残留。

しかし制球力やスタミナが問題となり翌年2004年は6試合の登板に終わり、先発登板はなかった。結局未勝利に終わり、オフに退団。

日本ハム時代

2005年マイナーリーグ時代に監督を務めていたトレイ・ヒルマン監督の推薦もあり、北海道日本ハムファイターズに入団するも、5月4日西武ライオンズ戦に先発し1アウトを取っただけで8失点でノックアウトされるなど振るわず、8試合の登板に終わり、9月3日付で解雇された。

メジャー復帰

2006年2月2日ピッツバーグ・パイレーツに入団。AA級アルトゥーナ・カーブで51試合に登板したが、10月15日にFAとなった。

2007年アトランティックリーグサマセット・ペイトリオッツに入団。

2008年はサマセットで開幕を迎えたが、5月29日ニューヨーク・メッツと契約し、傘下AAA級ニューオーリンズ・ゼファーズでプレー。同年の北京オリンピック野球\アメリカ合衆国代表に選出された。7月26日、父親の死去で帰国していたペドロ・マルティネスの代役として6年ぶりにメジャー復帰。同日のセントルイス・カージナルス戦でメジャー初先発を果たした。5回を投げ4失点で勝利投手の権利を持って降板したが、後続が打たれたためにメジャー初勝利は逃した。翌日の7月27日、戦力外となった。8月の北京五輪ではアメリカ代表に選ばれ、韓国戦、台湾戦の2試合で先発し、台湾戦で勝利投手となり、銅メダル獲得に貢献した。9月になりロースターが拡大されるとメジャーに再昇格し、1勝をあげシーズンを終えた。

2009年はメッツ傘下AAA級バッファロー・バイソンズでプレーしていたが、7月24日に放出され、韓国・三星ライオンズと契約[1]した。

韓国時代

先発として活躍し6勝を挙げた。

2010年シーズンは三星と再契約し残留した。しかし故障と成績不振で、シーズン途中の8月4日に退団した。シーズンオフの12月8日、韓国・ネクセンと契約。

2011年はシーズン通して先発ローテーションを守ったが、15敗と最多敗戦投手となった。しかし最下位に沈んだチームで最多の7勝を記録した。

2012年は韓国4年目で自己最多の16勝を記録し、防御率2.20で最優秀防御率のタイトルも獲得した。

2013年も先発で活躍しチーム最多タイの12勝を記録した。

2014年は開幕からの不振で、5月14日ネクセンからウェーバー公示され退団となった。

現役引退後

2014年6月末、韓国プロ野球・SKワイバーンズの外国人選手のスカウトになった。

2015年11月、ネクセン・ヒーローズの2軍投手コーチに就任。

詳細情報

年度別投手成績





















































W
H
I
P
2001 NYY 4 0 0 0 0 0 0 0 0 ---- 52 10.2 18 5 3 0 0 7 0 0 12 12 10.13 1.97
2002 7 0 0 0 0 0 0 0 0 ---- 41 8.2 11 2 5 0 0 7 1 0 12 11 11.42 1.85
2003 ダイエー 16 16 0 0 0 6 4 0 -- .600 401 87.0 105 9 45 4 3 77 6 2 51 47 4.86 1.72
2004 6 0 0 0 0 0 0 0 -- ---- 36 6.0 11 0 6 0 1 5 2 0 10 8 12.00 2.83
2005 日本ハム 8 2 0 0 0 0 2 0 0 .000 62 11.1 20 3 7 0 1 14 1 0 18 14 11.12 2.38
2008 NYM 4 2 0 0 0 1 0 0 0 1.000 57 12.0 14 0 7 0 2 10 0 0 7 7 5.25 1.75
2009 三星 11 10 0 0 0 6 2 0 0 .750 260 60.2 52 5 28 0 2 51 6 0 26 24 3.56 1.32
2010 21 14 0 0 0 6 5 0 0 .545 375 83.1 87 5 42 2 2 66 6 0 47 42 4.54 1.55
2011 ネクセン 30 30 0 0 0 7 15 0 0 .318 768 172.1 169 12 98 0 12 115 0 0 98 90 3.56 1.55
2012 30 30 2 1 0 16 4 0 0 .800 832 208.2 180 6 53 0 7 102 0 0 60 51 2.20 1.12
2013 30 30 0 0 0 12 10 0 0 .545 769 172.2 192 10 79 1 14 129 2 0 96 85 4.43 1.57
MLB:3年 15 2 0 0 0 1 0 0 0 1.000 150 31.1 43 7 15 0 2 24 1 0 31 30 8.62 1.85
NPB:3年 30 18 0 0 0 6 6 0 0 .500 499 104.1 136 12 58 4 5 96 9 2 79 69 5.95 1.86
KBO:5年 122 114 2 1 0 47 36 0 0 .566 3004 697.2 660 38 300 3 37 463 14 0 463 327 3.77 1.40
  • 2013年度シーズン終了時、太字はリーグ最高

記録

NPB

背番号

  • 62 (2001年)
  • 48 (2002年)
  • 24 (2003年 - 2005年、2013年4月 - 2014年5月)
  • 44 (2008年 - 同年途中)
  • 28 (2008年途中 - 同年終了)
  • 30 (2009年 - 2010年)
  • 54 (2011年 - 2013年4月)
  • 71 (2016年 - )


脚注

  1. ^ 「韓国&台湾プロ野球リポート」 『週刊ベースボール』2009年8月10日号、ベースボール・マガジン社、2009年、雑誌20442-8/10、95頁。

関連項目

外部リンク