ジョー・デュマース

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ジョー・デュマース
Joe Dumars
2004年、ホワイトハウスでのデュマース
サクラメント・キングス
ポジション SG/PG
役職 スペシャル・アドバイザー
基本情報
国籍 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
生年月日 (1963-05-24) 1963年5月24日(60歳)
出身地 ルイジアナ州シュリーブポート
身長(現役時) 191cm (6 ft 3 in)
体重(現役時) 86kg (190 lb)
キャリア情報
出身 マクニース州立大学 (ルイジアナ州)
ドラフト 1985年 18位
永久欠番 ピストンズ  4 
選手経歴
1985-1999 デトロイト・ピストンズ
受賞歴

選手時代

エグゼクティブ部門

Stats Basketball-Reference.com
Stats ウィキデータを編集 NBA.com 選手情報 NBA.Rakuten

ジョー・デュマース3世(Joe Dumars Ⅲ、1963年5月24日 - )はアメリカ合衆国の元バスケットボール選手。選手時代にはNBAデトロイト・ピストンズのガードとして活躍し、ピストンズの"バッドボーイズ"時代の一員として優勝に貢献した。また、2014年まではピストンズのエグゼクティブマネージャーとして敏腕を振るっていた。2006年にはバスケットボール殿堂入りを果した。ルイジアナ州シュリーブポート出身。

経歴[編集]

学生時代[編集]

デュマースはマクニーズステート大学でプレーをし、卒業後は1985年ドラフト18位指名でデトロイト・ピストンズに入団する。彼の憧れの選手はアイザイア・トーマスであった。

選手時代[編集]

ピストンズは80年代後半から90年代初め、チャック・デイリーヘッドコーチの元で黄金期を迎えていた。デュマースはアイザイア・トーマスビル・レインビアデニス・ロドマンらとともにチームの中核として1989年1990年の2度の優勝に貢献した。特に1989年NBAファイナルではマジック・ジョンソンを中心としたロサンゼルス・レイカーズを相手にピストンズは4連勝で優勝したが、デュマースは平均27.3ポイントを上げてファイナルMVPに選出される。

当時のピストンズは「バッドボーイズ」と呼称されるように気性の激しいトラブルメーカーの選手が多かったが、デュマースは数少ない紳士的で聡明な選手であった。そのため相手チームの中にも「ダーティなピストンズは嫌いだがデュマースは尊敬している」という選手も多く、ジョーダン・ルールの要として対戦したデュマースについてマイケル・ジョーダンはNBAで自分が対戦した選手の中で最も優れたディフェンダーだと彼を評している。

デュマースは選手時代に6回のオールスター選出、オールディフェンシブ・ファーストチーム選出4回を数え、通算成績は16,401ポイント、2,203リバウンド、4,612アシスト、902スティールを記録した。

引退後[編集]

デュマースは選手時代にも名選手として名を馳せたが、引退後の2000年からエグゼクティブマネージャーとしてピストンズのチームつくりに参画しており、その方面でも才能を発揮する事になる。2002-03シーズンにはエグゼクティブ・オブ・ザ・イヤーにも選出された。ピストンズはラリー・ブラウン指揮の下、2004年に優勝、2005年にカンファレンス優勝を果すがこの好成績にデュマースが果した功績は少なくない。特にラシード・ウォレスを入団させたことがピストンズの成績向上につながった。ラシードはポートランド・トレイルブレイザーズ在籍時代は、『ミスター・テクニカルファウル』と称されるほど感情の抑えが出来ない選手であり、NBA関係者の間で"問題児"と評価されていた。このトレードはマスコミはじめ多くの関係者が首を捻ったが、結果はラリー・ブラウンの下で上手くチームに溶け込み優勝の大きな原動力となった。

他にもリチャード・ハミルトンワシントン・ウィザーズからトレードで獲得した際、マイケル・ジョーダンに嫌われウィザーズから捨てられた事がショックで落ち込んでいるハミルトンに対し、自分が現役時代にマイケル・ジョーダンのダンクをブロックした写真を見せ「神様にだって間違いがある。君はうちで神様を見返せば良い。」と言って口説き、ピストンズ移籍後のハミルトンはチームの得点源として大活躍し、NBAを代表するシューティング・ガードとなりアイザイア・トーマスの持つプレイオフでの総得点数を超えてピストンズ歴代1位となる選手まで成長した。

著名な補強[編集]

トレードでの獲得[編集]

ドラフトでの獲得[編集]

FAでの獲得[編集]

ヘッドコーチの招聘[編集]

関連項目[編集]

外部リンク[編集]