カール1世 (オーストリア皇帝)

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カール1世
Karl I.
オーストリア皇帝ハンガリー国王
カール1世
在位 1916年11月21日1918年11月12日
戴冠式 1916年12月30日、於マーチャーシュ聖堂(ハンガリー国王)

全名 Karl Franz Joseph Ludwig Hubert Georg Maria von Habsburg-Lothringen
カール・フランツ・ヨーゼフ・ルートヴィヒ・フーベルト・ゲオルク・マリア・フォン・ハプスブルク=ロートリンゲン
出生 (1887-08-17) 1887年8月17日
オーストリア=ハンガリー帝国の旗 オーストリア=ハンガリー帝国ペルゼンボイク=ゴッツドルフペルゼンボイク城
死去 (1922-04-01) 1922年4月1日(34歳没)
ポルトガルフンシャル
埋葬 ポルトガルフンシャルノッサ・セニョーラ・ド・モンテ教会
スイスの旗 スイスムーリムーリ修道院(心臓)
配偶者 ツィタ・フォン・ブルボン=パルマ
子女
家名 ハプスブルク=ロートリンゲン家
父親 オットー・フランツ・フォン・エスターライヒ
母親 マリア・ヨーゼファ・フォン・ザクセン
宗教 キリスト教カトリック教会
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カール1世ドイツ語: Karl I.1887年8月17日 - 1922年4月1日)は、最後のオーストリア皇帝およびハンガリー国王(在位:1916年11月21日 - 1918年11月12日)。ハンガリー国王としてはカーロイ4世ハンガリー語: IV. Károly)。オーストリア帝国内ベーメン国王としてはカレル3世チェコ語: Karel III.)。

大伯父フランツ・ヨーゼフ1世の後継者としてオーストリア=ハンガリー帝国を統治した。第一次世界大戦に敗戦したことを受けて「国事不関与」を宣言したが、自身の退位は認めなかった。皇室財産をほとんど共和国政府に没収された後、2度にわたってカール1世の復帰運動を企てたが失敗し、ポルトガルマデイラ島に流されて困窮の中で病死した。

カトリック教会への篤い信仰心を持ち、フランス首相クレマンソーからは「中欧における教皇」と、時のローマ教皇ベネディクト15世からは「私のお気に入りの子」と呼ばれ、20世紀国家元首として初めて福者に認定された。

生涯

幼少期

1895年頃のベルゼンボイク城ドイツ語版

1887年8月17日オーストリア=ハンガリー帝国の皇族オットー・フランツ大公ザクセン国王ゲオルクの娘マリア・ヨーゼファの長男として、ドナウ川の河畔に位置するベルゼンボイク城ドイツ語版に生まれる。

当時は、皇帝フランツ・ヨーゼフ1世の長男ルドルフ皇太子や皇帝の弟カール・ルートヴィヒ大公(カールの祖父)が存命であり、誕生した新大公カールは帝位継承とはかけ離れた存在だった[1]。そのため、カール誕生のニュースは、宮廷に関する他の記事といっしょに報告されたに過ぎなかった[1]

1889年1月30日、2歳に満たないときに「マイヤーリンク事件」でルドルフ皇太子が謎の死を遂げた。皇位継承者はしばらく決定されなかったが、皇帝の弟カール・ルートヴィヒ大公かその長男フランツ・フェルディナント大公のどちらかだと目されていた。将来フランツ・フェルディナント大公が身分相応の女性との間に男児を儲けることが当然視されており、フランツ・フェルディナント大公の弟オットー・フランツ大公とその息子カールの出番はないと考えられていた。ルドルフ皇太子の死後も、依然としてカールの立場には変化がなかったのである。

少年期

1900年頃のオットー・フランツ大公一家の写真。左下の少年がカール。母に抱かれているのは弟マクシミリアン・オイゲン

一家の領地であるヴィラ・ヴァルトホルツ英語版や父オットー・フランツ大公が帝国陸軍の司令官を務めていたプラハで、カールは特に母マリア・ヨーゼファの寵愛を受けて育った。父オットー・フランツは素行にやや問題のある大公として知られ、軍帽と剣以外のものを一切身につけずにホテル・ザッハーのロビーを横切るという事件を起こしたこともあった[2]。そのため母マリア・ヨーゼファは、カールたちを父親の悪い影響から避けるために腐心したという。

ドミニコ会士のNorbert Geggerleによって宗教教育が開始され、のちにGottfried Marshall司教が担当を交代した。この宗教教育によってカールは、ローマ・カトリック教会への篤い信仰心を持つようになった。カールは家の礼拝堂での祈りを欠かさず、毎日夕方になると良心の糾明をし、Tafertの聖母マリアの聖堂に行くのを好んだ。ある日、ライヒェナウの領民が火事で家を失って困っていることを知ったカールは、自分の貯金箱を壊して貯めたお金をその家族に渡した。またある日、無造作に投げた木の枝が聖母マリアに捧げられた聖堂に当たってしまい、神の母を傷つけたという思いで泣き出してしまったという。

1896年、祖父カール・ルートヴィヒ大公が他界し、伯父フランツ・フェルディナント大公が皇位継承者に決定した。しかしフランツ・フェルディナント大公は、将来の皇后としては身分不相応の伯爵令嬢ゾフィー・ホテクと恋に落ち、子孫の帝位継承権を放棄することを皇帝フランツ・ヨーゼフ1世に誓ったうえで1900年貴賤結婚した。これによって、将来フランツ・フェルディナント大公からその弟オットー・フランツ大公の血脈に帝位が移ることがほぼ確定的になった。

1903年、16歳のときに帝国陸軍に入隊して大佐となり、同時に金羊毛騎士団に入団した。この騎士団の団員はどこにいても毎日ミサに参加できる特権があり、カールはこれを気に入っていた。カールは、彼らの中で自分の信仰についてためらうことなく公言したという。1906年、不摂生が過ぎたために父オットー・フランツ大公が41歳で早世すると、カールの帝位継承順位は伯父フランツ・フェルディナント大公に次いで第2位となった。

パルマ公女ツィタとの結婚

1911年10月21日ツィタ・フォン・ブルボン=パルマ公女との結婚式。写真右側の老人は皇帝フランツ・ヨーゼフ1世。この日、ハプスブルク=ロートリンゲン家ブルボン=パルマ家のほとんどの人々が一堂に会した[3]

マリア・テレサ・フォン・ポルトゥガルの用意周到な計画によって、1909年ツィタ・フォン・ブルボン=パルマと出会う[4]。マリア・テレサは亡き祖父カール・ルートヴィヒ大公の3度目の妻で、すなわちカールの義理の祖母にあたり[5]、さらにツィタにとっては母の妹であった[4]。カールとツィタは幼少期に何度か会ってはいるが、まともに顔を合わせたのはこの時が初めてだった[5]。カールとツィタはこれ以降、宮廷内のほとんどの人間に気付かれることなく親密な交際をするようになった。

将来の皇帝となるであろうカールに、フランツ・ヨーゼフ1世は自身の孫娘エリーザベト・フランツィスカを嫁がせようと考えたが、血縁関係が近すぎることを心配するカールの母マリア・ヨーゼファの反対に遭った[6]。そこでフランツ・ヨーゼフ1世は、今度はオルレアン家の血を引くデンマーク王女マルグレーテをカールと結婚させようと考えた[6]

1910年秋、カールはフランツ・ヨーゼフ1世に呼び出され、そろそろ自分に合った結婚相手を決定するように命令された[7]。結婚相手とする女性には、「カトリック信者であること」「現在または過去において統治に与った君主の子女」という2つの条件が付けられていた[7]1911年5月中旬、カールはツィタに求婚し、婚約に至った。マリア・ヨーゼファから婚約の報告を受けたフランツ・ヨーゼフ1世は、カールを本気でデンマーク王女と結婚させようと考えており、ツィタと真剣に交際していることを知らなかったため、大いに驚いた[8]。しかし旧パルマ公国の公女でカトリック信者であるツィタに老帝は納得し、この婚約を祝福した[8]

1911年10月21日シュヴァルツアウドイツ語版の城館において、カールとツィタの結婚式が挙行された。皇帝フランツ・ヨーゼフ1世はよほど嬉しかったとみえて、異例なことにカメラマンの注文にも喜んで応えた[3]。翌1912年11月20日、長男オットーが誕生する。

第一次世界大戦、勃発

チロル前線を視察するカール。(1915年)
イゾンツォ川前線のボスニア人部隊を視察するカール。(1915年)

表面的には平穏な日常が続いていたが、1914年6月28日サラエボ事件で皇位継承者フランツ・フェルディナント大公夫妻が暗殺されたのを契機として、第一次世界大戦が勃発した。サラエボ事件当日、食事の時間にいくら待っても主食が出てこないのを不審に思ったカール夫妻は、やがて侍従が電報を持って入ってきたのを見た[9]。その電報に目を通したカールは、顔面蒼白になって「フランツ伯父が暗殺された」と一言ツィタに言ったという[9]

やがてカールのもとには時のローマ教皇ピウス10世からの手紙が届いた。カールは皇帝にこの戦争の危険性を十分に認識させるようにローマ教皇から助言されたが、しかし当時カールはウィーンの政治中枢から一貫して外されており、一度たりとも開戦についての意見を求められたことはなかった。セルビア王国への最後通牒についても、カールはある銀行筋からの電話で知ったありさまだった[10]。カールは新たな皇位継承者になったにも関わらずこのような扱いを受けていることに悲憤したが、のちにこれはカールに開戦責任が全くないことを証明した[10]

参謀本部長フランツ・コンラート・フォン・ヘッツェンドルフは、開戦後もカールに活躍の場を与えようとしなかった[11]。カールの日程は歓迎会、謁見、練兵場への訪問などの実働を伴わない公務で埋められていたが、1915年7月にようやく皇帝の側近に任命され、決済の済んだ報告書を見せられるようになった[11]。カールはオーストリア首相とハンガリー首相から政治の講義を受けるようになったが、この生活は長続きしなかった[12]。若い大公を側近から外すよう求める声に、フランツ・ヨーゼフ1世が屈してしまったのである[12]。そしてカールは新設のイタリア第20部隊に派遣されることになった[12]

イタリア戦線においてカールは、イゾンツォの戦いの際に、皇位継承者でありながら自ら水中に飛び込んで川に溺れかけた男を助けた。また、従軍司祭であったロドルフォ・スピッツルによれば、アシエロへの過酷な行軍の中で、傷のために歩行不可能となった兵士を助けるためにとりなしたという。

老帝の崩御、即位

カプツィーナー納骨堂へのフランツ・ヨーゼフ1世の葬送行列のなかの新皇帝「カール1世」。従来は故皇帝の棺の後ろに立つのは新皇帝のみで、その後に大公・皇后という順序であったが、カールは慣例化した様式を廃止し、皇后ツィタ・皇太子オットーと並んだ[13]

1916年11月12日、イタリア戦線にいたカールは、フランツ・ヨーゼフ1世の体調悪化の報を受けてウィーンに帰還した。同月21日の午前には、老帝は高熱を発しながらも執務室で書類に目を通しており、カール夫妻が面会に来たと聞いて軍服に着替えようとする元気はあった[14]。しかし同日の午後になると、老帝はため息をつきながらこう語ったとされる[14]。「朕は、多事多難な折に帝位に就き、さらに困難を極める時期に帝冠を譲り渡さねばならなくなった……」。同日夜21時5分、老帝フランツ・ヨーゼフ1世は86歳で崩御し、カールはオーストリア皇帝「カール1世」と呼ばれることとなった。

新皇帝となったカールは、ただちに宮廷改革に取りかかった。仰々しい宮廷儀礼を廃止し、電話などの現代機器を採り入れたり、勤務形態や社交形式などを改めさせた[15]ハンガリー人の官吏には母国語で話すことを許し、それまで皇帝との謁見の際に義務付けられていた燕尾服の着用を不要とするなどした[15]。侍従武官アルバート・マルグッティドイツ語版はカール1世の一連の改革について、「移行措置などまったく聞き入れず、ハリケーンのごとし」と述べている[16]

先帝フランツ・ヨーゼフ1世が頑迷なまでに日常生活の形を崩そうとしなかったのに対して、カール1世は「不快である」の一言で計画を中止にすることも多々あった[16]。多くのことを即時即決で行ったため、「思いつきのカール」と宮廷であだ名されるようになった[16]

1916年12月30日、カールはハンガリー国王「カーロイ4世」として即位することとなった[17]聖イシュトヴァーンの王冠を戴かなければ正統なハンガリーの統治者とは認められないため、戦時中にも関わらず荘厳華麗な即位式がブダペストのマーチャーシュ聖堂で挙行された[17]。この即位式においてカールはこう宣誓した。「ハンガリーとその周辺諸国の国境を、我々はこれまで通り存続させ、縮小させることなく、可能な限り拡大していこう」と[18]。カールは皇族時代にひそかに帝国の完全連邦化を構想していたが、この宣誓は明らかにカールが念頭に置いていた新体制を阻害するものだった[18]

ジクストゥス事件

1917年3月23日夜、カールはラクセンブルク城において、皇后ツィタの二人の兄パルマ公子ジクストゥスグザヴィエ公子と密談した。カールが彼らと密談した理由は、あくまで勝利のみを追求する同盟国ドイツ抜きに、オーストリア=ハンガリー帝国と英仏の単独講和を締結するためであった。ドイツ帝国はまだしも、オーストリア=ハンガリー帝国の食糧事情は深刻で、もはや戦争を続行できるほどの国力が残っていなかったのである。

カールは前線の兵士や窮乏生活に忍従している国民のことを気をかけており[19]、証言によれば戦場を訪問した際にカールは思い余って落涙したことが何度もあるという[19]。戦争を終わらせたいという思いからカールは単独講和を試みたのだが、彼らに渡したこの時の手紙が、のちにヨーロッパ中を騒然とさせることになる[20]

といった内容であり、さらに手紙には次のように明記してあった[20]

朕はジクストゥスを通して、フランス大統領レイモン・ポアンカレ氏に内密に通告する。同盟国の皇帝として、アルザス・ロレーヌ地域のフランスへの返還は正当であると認め、あらゆる手段を行使して、これを支援する考えである。

フランス政府は、パルマ公子を仲介としてのオーストリア=ハンガリー帝国との講和を、フランツ・ヨーゼフ1世の存命時から画策していた[21]。パルマ公子に皇位継承者カールと接触させようとフランス政府は考えていたが、当時カールには何の権限もなかったために計画のみで終わった[21]。カールが即位すると、フランスはパルマ公子に交渉の開始を促した[21]。つまり、この単独講和交渉は、フランスとオーストリア=ハンガリーの思惑が一致してのものであった。

しかし、1918年にフランス首相クレマンソーがこの秘密交渉を暴露してしまった。当初カールは手紙を書いたこと自体を否定し[22]、次にその手紙の存在を認め、「フランスの正統な返還要求の支援」については記述がなかったと言ってしまった[22]。ドイツ軍部はこのカールの秘密交渉に激怒し[23]、またオーストリア=ハンガリーでは虚偽の発言を重ねるカールのせいで帝室の信望は失墜した。皇帝夫妻が同盟国ドイツを裏切ったことは、多くのドイツ民族主義者の憤慨を招くことになった[23]。この皇帝の失態を好機と見た反君主制活動家のプロパガンダも広まり、敵国イタリアとフランスの双方にルーツを持つブルボン=パルマ家出身の皇后ツィタを非難する声も高まった。

帝国諸民族の離反

1918年同盟国側の戦線崩壊と共に各民族が相次いで離反(チェコスロバキアポーランドなどが共和国を宣言)し、帝国は崩壊していく。オーストリアの休戦要請に対する協商国からの返答がない中、カール1世は帝国内の諸民族と直接交渉しようと試みた。10月12日、帝室の保養地バーデンにすべての民族の32名の代議士を招き、「諸民族内閣」を発足させようと試みた。しかしチェコ人南スラヴ人は「オーストリア政府内でこれ以上何もすることはない」と答えた[24]ボヘミアクロアチアガリツィアなどで暴動が起きようとしているのを知ったカールは、これを食い止めるため10月16日に連邦制への国家改造の宣言に署名した[25]

オーストリアを、すべての種族がその居住域において独自の国家共同体を形成する連邦国家にすべきである。このことにより、ポーランド独立国家とオーストリアのポーランド地域の統一は、いかなる理由によっても侵害されてはならない。

カールにはもはや、皇帝の認可なしに実施されたものを明文をもって認可することによって、権力の虚像を保持することしかできなかった。また、この宣言を受けてハンガリー王国議会では、1867年アウスグライヒの前提が崩れたので、オーストリアとハンガリーの間にはもはや単なる人的同君連合のほかはいかなる関係も存在しない、との声明が出された[26]。11月3日、カールは正式に帝国連邦化を宣言し、同日イタリア王国とヴィラ・ジュスティ休戦協定を結び無条件降伏した。

「国事不関与」の宣言

シェーンブルン宮殿で署名したオーストリア版「国事不関与」の文書。
エッカルトザウ宮殿ドイツ語版で署名したハンガリー版「国事不関与」の文書。

11月9日、ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世が退位を宣言した。その直後ドイツではドイツ社会民主党の主導する政権が誕生したことを受けて、オーストリア社会民主党はカール1世の退位を要求し始めた[27]キリスト教社会党は王党派であったが、彼らも最終的には皇帝退位に同意した。

11月11日午後3時、シェーンブルン宮殿内の「青磁の間」において、カール1世は次の声明文に署名した[28]

今般の戦争責任は朕の負うところではないが、帝位継承以来、忌まわしい戦禍から国民を救出すべく不断の努力を重ねてきたつもりである。国民が憲法に則った国民生活を確立し、独立国家発展への道を開拓することに対して、これを阻止する考えはない。わが国民を愛する心に変わりはなく、自由にはばたかんとする国民の前途に、朕自身が障害となることは本望ではない。朕はドイツ系オーストリア暫定政府が決定した今後の国家体制を以前から承認してきた。

国民は今後、政府代表者の手に委ねられよう。朕はすべての国事行為の遂行を断念するとともに、現内閣の解散をここに宣言する。 国民が一致融和の精神のもとに、新体制を確立していくことを切に望む。

国民の至福が、朕の当初からの篤い祈願であり、国内の平穏によってのみ、戦禍は癒されよう。

これはハインリッヒ・ラマシュドイツ語版首相と内務大臣ガイヤーの起草によるもので、カールは同日の午前11時頃にこの草稿を見せられた後、「これは退位声明ではないか!朕は退位なぞするつもりはない!」と激高した[29]。ラマシュとガイヤーは「断念」とは国事行為であって帝位ではないことをカールに保証した[29]。続いてこの最終的草稿文は皇后ツィタにも見せられたが、ツィタもカールと同様に「これは退位以外の何物でもありません」と怒った[30]。この際にも、退位宣言ではないことが起草者によって保証された[30]。午後3時にカールが署名を決断した時、すでに街の広告塔から「皇帝退位」は国民に知らされていた[28]

2日後の13日、今度はハンガリーの統治を断念する類似の書類にカールは署名した[31]。この際にもカールは「朕はハンガリー王になることを神に宣誓した。その宣誓を破棄するか否かの決定を下すのは神のみだ」と自身の立場が王権神授説にもとづいていることを述べ、国王退位は明確に否定した[31]

スイス亡命

エッカルトザウ宮殿。「国事不関与」宣言後の4ヵ月間、カール一家はここで過ごした。
共和国の夜明けを描いた絵。中世以来のハプスブルク家の歴代君主がオーストリアから去ってゆく様子。最後尾がカール1世。(1919年)

「国事不関与」宣言を発した皇帝一家は、その日のうちにシェーンブルン宮殿を退去した。皇帝夫妻は、召使いに至るまで、ひとりひとりと握手を交わして別れを告げた。24人の護衛兵の乗る自動車に先導されて、一家はシェーンブルン宮殿からエッカルトザウ宮殿ドイツ語版に移った。

1919年1月、共和国初代首相カール・レンナーがエッカルトザウ城のカールのもとを訪れた[32]。カールは謁見を拒絶し、代理として侍従武官レデコフスキー伯爵に会談させた[32]。レンナーの話の要旨は、「無分別な輩が予測できない暴挙に出る恐れがある」として、できるだけ早期に国外に出るよう勧告するものだった[32]。実際、2月にはエッカルトザウの周辺を300人もの赤軍が徘徊しており、配備された武装警官10人では安全面に相当の不安があった[33]。カールはスイスへの亡命を真剣に考え始めた。

近々オーストリア皇帝一家が虐殺されるとの情報を「確かな筋」から受け取ったイギリス政府は、ロシア革命の際にロマノフ家を英国王室と縁戚関係にあるにも関わらず見殺しにしたと非難されたため、今度のハプスブルク家の出国には積極的に協力せざるをえなかった[33]。イギリスから派遣されてきたストラット大佐は、ハプスブルク家をめぐって共和国首相レンナーと激しく対立した[33]。皇帝の退位がなければ出国させずに逮捕すると激高するレンナーに対し、ストラット大佐は「オーストリア政府が、皇帝の出国を妨害している。バリケードを築くとともにオーストリア向け救援物資の一切の凍結を命令する」という電文をあらかじめ作成しておき、レンナーにちらつかせた[34]。これにランナーは絶句し、無条件で「皇帝」として御召列車で出国するカールを見逃さざるをえなかった[34]

3月23日、皇帝一家はオーストリアを出国した。翌日、オーストリア最西端のフェルトキルヒ駅で、カールはすでに用意してあった次の声明文に署名した[35]

ドイツ・オーストリア共和国政府暫定国民議会は、1918年11月11日以来、朕と朕の家族を無きものとして決議してきた。……戦時の混乱期に、朕は帝位を継承し、国民に平和をもたらすことを切望し続けてきた。彼らにとって、誠実にして情ある国父でありたかった……。

この時期に赤軍を刺激したくはなかったため、カールのこの声明文はローマ教皇やオーストリア首相の手元のみに送付された[35]

カール1世の復帰運動

マデイラ島への配流、崩御

大西洋上のマデイラ島の位置。
フンシャルのノッサ・セニョーラ・ド・モンテ教会に安置されたカール1世の棺。

11月19日午後3時、カール夫妻を乗せた英国軍艦は、大西洋に浮かぶポルトガル領マデイラ島に到着した。カール夫妻は島民に温かく迎えられ、中心都市フンシャルに「ヴィラ・ヴィクトリア」という比較的快適な住居を与えられた[36]。しかし皇帝一家の財産は尽きかけており、翌1922年2月中旬には劣悪な環境の山荘に転居せねばならなかった。ツィタの日記によれば、マデイラ島上陸の数日後に英国領事から「もしカールが正式に退位するならば、旧ハプスブルク諸国に没収されている皇室財産を返還するだけでなく、英国も経済的援助を惜しまない」といった内容の手紙が届いた[37]。しかしカールは「私の帝冠は換金できるものではないと、皆さんにお伝えください」と返事を送ったという[37]

やがてバターも買えないほど皇帝一家は困窮し、ベビーシッターの給料も3ヶ月間未払いだった[38]。当時の随員のひとりは、皇帝一家の困窮した生活を次のように回想している[38]

電気もなく、トイレも一ケ所で住居は非常に手狭だった。暖房用に生木が使われたため、煙がいつも立ち込めていたが、それでも暖房は不可欠だった。太陽もあまり当たらないので、フンシャルの生活が懐かしく思われた。ここでは部屋中がいつもカビだらけだった。(中略)皇帝は夕食にも肉料理を食べることができず、野菜とクヌーデルだけの粗末な食事だった。また皇妃の出産には助産婦も医師もおらず、やってきたのは未経験の保母ひとりだった。

3月9日、四男カール・ルートヴィヒの4歳の誕生日プレゼントを買いたいという子供たちを連れてフンシャルに出かけた[39]。このときカールは風邪をひいてしまったが、医療費が心配で、医者の診察を受けなかった。風邪はしだいに悪化していき、そのうちカールは呼吸困難に陥ってしまった。ツィタは慌てて医者を呼んだが、すでに片肺が侵されているとの診断が下された[39]。治療の甲斐なく、やがてカールは両肺を侵されてしまった。

カールはツィタに「これからはスペイン国王アルフォンソ13世を頼みとしなさい、彼は私の家族を助けてくれると約束してくれた」「11月の私がハンガリー王でないという宣言は無効だ」と弱々しい声で遺言し、1922年4月1日12月23分に崩御した[40]。享年34歳。なお、アルフォンソ13世は、カールが死去した晩にどういうわけかツィタと子供たちの面倒を見なくてはという義務感に突如取りつかれたと後に述べている[40]。カールの篤い信仰心に島民は深い敬意を抱いていたため、その葬儀には3万人が参列したという。

死後

福者カールを描いた教会のステンドグラス
カプツィーナー納骨堂の皇帝カール1世の胸像。

カールの死後、長男オットーが「オーストリア皇帝およびハンガリー王」として亡命オーストリア宮廷の頂点に立った。オットーは1961年にオーストリア帝位請求権の放棄を宣言するまで、自身を正統な君主であるとみなし、帝冠について一貫して父カールと同様の態度を取った。

1982年8月17日、ツィタは国外追放以来63年ぶりにオーストリアへの入国を果たした[41]。ツィタがこの日に帰郷日を決定した理由は、8月17日がカールの誕生日だったからである[41]。もしカールが生きていたとしたとしたら、この日に95歳を迎えるはずだった。

1989年3月14日、ツィタは96歳で崩御。4月1日にシュテファン大聖堂で葬儀が営まれたが、この日もマデイラ島でカールが崩御した1922年4月1日に合わせてのものだった[42]。ツィタの心臓とともにカールの心臓も壺に入れられ、ムーリ修道院に安置されている[42]

2003年10月3日、ローマ教皇ヨハネ・パウロ2世によってカールは列福され、20世紀の国家元首として福者に認定された最初の人物となった。しだいに名誉回復されつつある最後の皇帝カールであるが、その遺骸は心臓以外いまだマデイラ島フンシャルにあり、死してなおウィーンへの帰還を許されていない。皇帝廟カプツィーナー納骨堂の地下室には、棺の代わりとしてカールの胸像が安置されている。

家族

カール1世とその家族。左から右へ、カール・ルートヴィヒフェリックスシャルロッテ英語版とツィタ、ルドルフとカール1世、アーデルハイト英語版、オットー、ローベルト。(1921年スイスにて)

皇后ツィタとの間に5男3女をもうけた。末子のエリーザベトは死後に誕生している。

出典

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  27. ^ ジェラヴィッチ(1994) p.131
  28. ^ a b グリセール=ペカール(1994) p.226
  29. ^ a b グリセール=ペカール(1994) p.222-223
  30. ^ a b グリセール=ペカール(1994) p.224
  31. ^ a b グリセール=ペカール(1994) p.230
  32. ^ a b c グリセール=ペカール(1994) p.232
  33. ^ a b c グリセール=ペカール(1994) p.234
  34. ^ a b グリセール=ペカール(1994) p.238-239
  35. ^ a b グリセール=ペカール(1994) p.242
  36. ^ グリセール=ペカール(1994) p.279
  37. ^ a b グリセール=ペカール(1994) p.280
  38. ^ a b グリセール=ペカール(1994) p.288
  39. ^ a b グリセール=ペカール(1994) p.289
  40. ^ a b グリセール=ペカール(1994) p.293
  41. ^ a b グリセール=ペカール(1994) p.351
  42. ^ a b グリセール=ペカール(1994) p.360

参考文献

  • オットー・バウアー 著、酒井晨史 訳『オーストリア革命』早稲田大学出版部、1989年。ISBN 4-657-89619-9 
  • バーバラ・ジェラヴィッチ英語版 著、矢田俊隆 訳『近代オーストリアの歴史と文化 ハプスブルク帝国とオーストリア共和国』山川出版社、1994年。ISBN 4-634-65600-0 
  • リチャード・リケット 著、青山孝徳 訳『オーストリアの歴史』成文社、1995年。ISBN 4-915730-12-3 
  • タマラ・グリセール=ペカール英語版 著、関田淳子 訳『チタ――ハプスブルク家最後の皇妃』新書館、1995年5月10日。ISBN 4-403-24038-0 
  • 江村洋『フランツ・ヨーゼフ ハプスブルク「最後」の皇帝』東京書籍、2013年12月10日。ISBN 978-4-309-41266-5 
  • ティモシー・スナイダー 著、池田年穂 訳『赤い大公――ハプスブルク家と東欧の20世紀』慶応義塾大学出版会、2014年4月25日。ISBN 978-4-7664-2135-4 
  • ポール・ホフマンドイツ語版 著、持田鋼一郎 訳『ウィーン――栄光・黄昏・亡命』作品社、2014年7月15日。ISBN 978-4-86-182-467-8 

外部リンク