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| EAN = {{Collapsible list |title = EAN一覧 |1 = {{EAN|4988009239422}}(1992年・CD)<br />{{EAN|4988009709369}}(1992年・MD)<br />{{EAN|4988009516691}}(2001年・CD)<br />{{EAN|4988009042237}}(2009年・CD)<br />{{EAN|4988009086101}}(2013年・CD)}}
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『'''放熱への証'''』(ほうねつへのあかし)は、[[日本]]の[[シンガーソングライター]]である[[尾崎豊]]の6作目のアルバム。英題は『''CONFESSION FOR EXIST''』(コンフェッション・フォー・イグジスト)。尾崎の死後間もなくリリースされ[[遺作]]となった作品である
『'''放熱への証'''』(ほうねつへのあかし)は、[[日本]]の[[シンガーソングライター]]である[[尾崎豊]]の6作目の[[スタジオ・アルバム|オリジナル・アルバム]]。英題は『''CONFESSION FOR EXIST''』(コンフェッション・フォー・イグジスト)。

[[1992年]][[5月10日]]に[[ソニー・ミュージックレコーズ|Sony Records]]からリリースされた。前作『[[誕生 (尾崎豊のアルバム)|誕生]]』([[1990年]])よりおよそ1年半ぶりにリリースされた作品であり、作詞・作曲・プロデュースを全て尾崎自身が担当した個人事務所「[[アイソトープ (事務所)|アイソトープ]]」設立後初となるオリジナルアルバムであり、尾崎の死後間もなくリリースされ[[遺作]]となった作品である。

レコーディングは日本国内で行われ、前作とは異なり日本人ミュージシャンの演奏で構成されている。前作までに共同作業を行った音楽プロデューサーである[[須藤晃]]や[[月刊カドカワ]]編集長である[[見城徹]]と決別し、ほぼ全てのプロデュースワークを尾崎単独で行った他、デザイナーである[[田島照久 (デザイナー)|田島照久]]がアートワークを担当したものの、最終的に田島とも決別する事となった。音楽性としてはオーソドックスなバンド編成とシンプルなアレンジによって構成されており、原点回帰とも言えるサウンドとなっている。

本作と同時にシングル「[[汚れた絆]]」がリリースされている。本作は[[オリコンチャート]]にて2週連続で1位を獲得。累計109.8万枚を売り上げ、[[ミリオンセラー]]を達成した。原点回帰を目指したサウンドに関して批評家たちからは肯定的な意見も挙げられたが、死去後すぐのリリースであった事もあり一部では正当な評価が困難であるとの意見も挙げられた。


== 背景 ==
== 背景 ==
1990年に入り音楽事務所マザーエンタープライズと別し、新たな事務所である「ROAD&SKY」、新たなレコード会社として「CBSソニー」へと移籍し、11月に2年2か月ぶりとなるアルバム『[[誕生 (尾崎豊のアルバム)|誕生]]』をリリースした尾崎であったが、アルバムリリースの直後に「[[ロード&スカイ]]」を退所する事となる。原因は、周囲の人間が金儲けのために自分に近づいているという猜疑心から来るものであった{{Sfn|地球音楽ライブラリー|1999|p=157|ps= - 「THE HISTORY OF YUTAKA OZAKI PART 3」より}}。
1990年に入り音楽事務所マザーエンタープライズと別し、新たな事務所である「[[ロード&スカイ]]」、新たなレコード会社として「CBSソニー」へと移籍し、11月に2年2か月ぶりとなるアルバム『[[誕生 (尾崎豊のアルバム)|誕生]]』をリリースした尾崎であったが、アルバムリリースの直後に「[[ロード&スカイ]]」を退所する事となる{{Sfn|地球音楽ライブラリー|1999|p=157|ps= - 「THE HISTORY OF YUTAKA OZAKI PART 3」より}}。原因は、周囲の人間が金儲けのために自分に近づいているという猜疑心から来るものであった{{Sfn|地球音楽ライブラリー|1999|p=157|ps= - 「THE HISTORY OF YUTAKA OZAKI PART 3」より}}。代表取締役社長である高橋信彦は、「業界に対して、非常に不信感を持っているなと思いました。だから、僕としては、彼がこの先、ひとり立ちをしてもいいように、音楽業界というもののシステムや、人間とのつながりの大切さなどを身につけていってほしいと思ったんです。疑ってかかるよりも、まず、知ることを」と述べている{{Sfn|地球音楽ライブラリー|1999|p=157|ps= - 「THE HISTORY OF YUTAKA OZAKI PART 3」より}}。しかし、尾崎はマスコミ不信を顕にし、雑誌の取材などでも突然怒り出すことや、難解な言葉を多用してインタビューが成立しない事などが多々あったため、高橋は全てのインタビューを音楽プロデューサーである[[須藤晃]]が行うように要請する事となった{{Sfn|地球音楽ライブラリー|1999|p=157|ps= - 「THE HISTORY OF YUTAKA OZAKI PART 3」より}}。ある日『週刊プレイボーイ』の取材当日に尾崎が現れず、確認したところ手に怪我をし、病院に向かったためであると判明した{{Sfn|地球音楽ライブラリー|1999|p=158|ps= - 「THE HISTORY OF YUTAKA OZAKI PART 3」より}}。尾崎は手を9針縫っており、手には包帯が巻かれていた{{Efn|この傷は自殺を図ったものであり、後にコンサートツアー「TOUR 1991 BIRTH ARENA TOUR 約束の日 THE DAY」のパンフレットにもその事が記載されている{{Sfn|地球音楽ライブラリー|1999|p=159|ps= - 「THE HISTORY OF YUTAKA OZAKI PART 3」より}}。}}。取材を終えた尾崎は、その足で「ロード&スカイ」に赴き、事務所を退所する意向を伝えると共に、高橋と一緒に事務所を作りたいという要請をする{{Sfn|地球音楽ライブラリー|1999|p=158|ps= - 「THE HISTORY OF YUTAKA OZAKI PART 3」より}}。しかし、高橋は取材などの仕事でしか尾崎と接触していなかったため、疑心暗鬼の対象となっておらず、状況が変われば自分にも疑いの目が向けられると悟り、その要請を断った{{Sfn|地球音楽ライブラリー|1999|p=158|ps= - 「THE HISTORY OF YUTAKA OZAKI PART 3」より}}。


{{Quote box|width=230px|align=right|quote=自分の事務所を設立したのは、ひとつには、純粋に音楽に打ちこめる環境が欲しかったということ。|source=尾崎豊, <br />{{Small2|R&Rニューズメーカー1992年6月号}}{{Sfn|尾崎豊の残した言葉|1997|p=91|ps= - 「第2章“VEIN” BUSINESS&MONEY 仕事・カネ」より}}}}
代表取締役社長である高橋信彦は、「業界に対して、非常に不信感を持っているなと思いました。だから、僕としては、彼がこの先、ひとり立ちをしてもいいように、音楽業界というもののシステムや、人間とのつながりの大切さなどを身につけていってほしいと思ったんです。疑ってかかるよりも、まず、知ることを」と語っている。しかし、尾崎はマスコミ不信を顕にし、雑誌の取材などでも突然怒り出すことや、難解な言葉を多用してインタビューが成立しない事などが多々あったため、高橋は全てのインタビューを須藤晃が行うように要請する事となった{{Sfn|地球音楽ライブラリー|1999|p=157|ps= - 「THE HISTORY OF YUTAKA OZAKI PART 3」より}}。
1990年末、「ロード&スカイ」を離脱した尾崎は、自らが社長となり音楽事務所「[[アイソトープ (事務所)|アイソトープ]]」を設立{{Sfn|地球音楽ライブラリー|1999|p=160|ps= - 「THE HISTORY OF YUTAKA OZAKI PART 3」より}}。経営には家族が参加する事となった{{Sfn|地球音楽ライブラリー|1999|p=160|ps= - 「THE HISTORY OF YUTAKA OZAKI PART 3」より}}。また同事務所の設立には『[[月刊カドカワ]]』編集長であった[[見城徹]]も深く関与しており、雑誌の編集長としての範疇を超えて協力していたため編集部に発覚すれば立場を追われるほどの協力体制となっていた{{Sfn|文藝別冊|2001|p=135|ps= - 「Special Talks 傘をなくした少年」より}}。「代表取締役 尾崎豊」という名刺を作成し、[[ヴェルサーチ]]のスーツを着用して[[トラサルディ]]のセカンドバッグを持ち、コンサートツアーのブッキングやバンドメンバーの招集を自ら行う事となった{{Sfn|地球音楽ライブラリー|1999|p=160|ps= - 「THE HISTORY OF YUTAKA OZAKI PART 3」より}}。また尾崎は事務所スタッフが郵便局に封書を出しに行く際もアルバイトに同行し、不審に思った見城が「そんなのアルバイトに任せておけばいいじゃない」と問うと、尾崎は真顔で「郵便切手代を誤魔化すかもしれない」と述べ事務所スタッフに対する不信感を顕わにしていたという{{Sfn|文藝別冊|2001|p=136|ps= - 「Special Talks 傘をなくした少年」より}}。また尾崎は家庭も崩壊寸前となっており、1991年1月には妻である尾崎繁美に離婚を切り出し、当時居住していたマンションから荷物を運び出し別居を開始、同時期には女優の[[斉藤由貴]]との不倫も発覚した{{Sfn|見崎鉄|2018|p=307|ps= - 「第三部 尾崎豊という事件(尾崎論のためのノート)」より}}。その後、「ロード&スカイ」在籍時に仮決定していた「BIRTH」ツアーが事務所を辞めた事で白紙に戻されたため、再度イベンターへと掛け合うものの、度重なる中止やキャンセルによって信頼されておらず{{Efn|1984年の「[[アトミック・カフェ|アトミック・カフェ・ミュージック・フェスティバル'84]]」における骨折事故により「FIRST LIVE CONCERT TOUR」が9月から12月開始に延期、1987年の「TREES LINING A STREET」ツアーでは急病のため9月に倒れその後約半分の本数を残したままツアー中止となった事などから、各地のイベンターからは要注意人物とされていた{{Sfn|吉岡忍|2001|p=241|ps= - 「84」より}}。}}、また経営に不慣れなミュージシャンが取り仕切っている事もあり、理解を得るまでに時間を要する事となった{{Sfn|地球音楽ライブラリー|1999|p=161|ps= - 「THE HISTORY OF YUTAKA OZAKI PART 3」より}}。結果として[[1991年]][[5月20日]]の横浜アリーナ公演を皮切りに、コンサートツアー「TOUR 1991 BIRTH」が34都市全48公演行われる事となった{{Sfn|地球音楽ライブラリー|1999|p=163|ps= - 「THE HISTORY OF YUTAKA OZAKI PART 3」より}}。公演の中止やキャンセルの許されない状況で、尾崎は必ずツアー先のホテルではスポーツクラブとサウナがある所を選定し、体力作りを行っていた{{Sfn|地球音楽ライブラリー|1999|p=163|ps= - 「THE HISTORY OF YUTAKA OZAKI PART 3」より}}。その甲斐もあってか、ツアーは1本も中止される事なく大成功に終わった{{Sfn|地球音楽ライブラリー|1999|p=163|ps= - 「THE HISTORY OF YUTAKA OZAKI PART 3」より}}。しかし、ステージを降りると、スタッフの些細な言動に腹を立てる事も多くなっており、ツアーが終る頃には事務所のスタッフが総入れ替えとなっていた{{Sfn|地球音楽ライブラリー|1999|p=163|ps= - 「THE HISTORY OF YUTAKA OZAKI PART 3」より}}。


{{Quote box|width=230px|align=right|quote=馬鹿げてるかもしれないが。自分に嘘をつきたくはない。母の命に誓って会社を守ろうときめた。|source=尾崎豊, <br />{{Small2|エッジ オブ ストリート3℃ 1992年}}{{Sfn|尾崎豊の残した言葉|1997|p=91|ps= - 「第2章“VEIN” BUSINESS&MONEY 仕事・カネ」より}}}}
ある日『週刊プレイボーイ』の取材当日に尾崎が現れず、確認したところ手に怪我をし、病院に向かったためであると判明した。尾崎は手を9針縫っており、手には包帯が巻かれていた<ref group="注釈">この傷は自殺を図ったものであり、後にコンサートツアー「TOUR 1991 BIRTH ARENA TOUR 約束の日 THE DAY」のパンフレットにもその事が記載されている。</ref>。取材を終えた尾崎は、その足で「ロード&スカイ」に赴き、事務所を退所する意向を伝えると共に、高橋と一緒に事務所を作りたいという要請をする。しかし、高橋は取材などの仕事でしか尾崎と接触していなかったため、疑心暗鬼の対象となっておらず、状況が変われば自分にも疑いの目が向けられると悟り、その要請を断った{{Sfn|地球音楽ライブラリー|1999|p=158|ps= - 「THE HISTORY OF YUTAKA OZAKI PART 3」より}}。
またこのツアーにおいて尾崎は見城に全日程同行するよう要請、見城は5日目の大阪厚生年金会館公演後に仕事の都合で東京に戻った所、尾崎から電話で連絡があり「どうして帰ったんだ」と問い詰められる事となった{{Sfn|文藝別冊|2001|p=137|ps= - 「Special Talks 傘をなくした少年」より}}。尾崎は見城に対し「俺は見城さんの愛情が俺ひとりに向くまで、もう一回俺に向くまで、『黄昏ゆく街で』の連載を書かない」、「最終回を人質にとります」と述べ電話を切り、結果として小説『黄昏ゆく街で』は未完のまま終了する事となった{{Sfn|文藝別冊|2001|p=137|ps= - 「Special Talks 傘をなくした少年」より}}。それ以外にも尾崎から角川書店を退所するよう要請されるなど様々な要求によって悩まされていた見城は、ついに耐え切れなくなり「お前とは二度と付き合わない」と尾崎に告げ決別する事となった{{Sfn|文藝別冊|2001|p=138|ps= - 「Special Talks 傘をなくした少年」より}}。また1991年10月には、尾崎は不倫相手であった斉藤と別れ、再び繁美夫人と同居する事となった{{Sfn|見崎鉄|2018|p=308|ps= - 「第三部 尾崎豊という事件(尾崎論のためのノート)」より}}。ツアー終了後、辞めたスタッフの代わりに全ての事務を引き継いでいた母親が、疲労から来る心筋梗塞で死去(享年61){{Sfn|地球音楽ライブラリー|1999|p=164|ps= - 「THE HISTORY OF YUTAKA OZAKI PART 3」より}}。その後の尾崎は真面目に事務所に出勤するようになり、周囲の人間に対して気を遣うようになるなど人間性に変化が表れたが、一方でストレス発散のための飲酒は止められずまた肝臓の衰弱から嘔吐が続き、妻から病院へ行くよう要請されたが病院嫌いのため病院には行かなかった{{Sfn|吉岡忍|2001|pp=310 - 312|ps= - 「106」より}}。翌1992年、本作が完成したばかりの[[4月25日]]に、東京都足立区千住河原町の民家の庭で泥酔状態で発見され、妻と兄と共に自宅マンションに帰宅するも、突如危篤状態となり、救急車で[[日本医科大学]]の緊急病棟に収容される{{Sfn|地球音楽ライブラリー|1999|p=164|ps= - 「THE HISTORY OF YUTAKA OZAKI PART 3」より}}。蘇生措置がされるが午後0時6分死亡が確認された(享年27){{Sfn|地球音楽ライブラリー|1999|p=164|ps= - 「THE HISTORY OF YUTAKA OZAKI PART 3」より}}。[[4月30日]]には東京都文京区の護国寺で追悼式が行われ、3万7500人ものファンが詰め掛ける事となった{{Sfn|地球音楽ライブラリー|1999|p=164|ps= - 「THE HISTORY OF YUTAKA OZAKI PART 3」より}}。


== 録音、制作 ==
1990年末、「ROAD&SKY」を離脱した尾崎は、自らが社長となり音楽事務所「[[アイソトープ (事務所)|アイソトープ]]」を設立。経営には家族が参加する事となった。「代表取締役 尾崎豊」という名刺を作成し、[[ヴェルサーチ]]のスーツを着用して[[トラサルディ]]のセカンドバッグを持ち、コンサートツアーのブッキングやバンドメンバーの招集を自ら行う事となった。その後、「ROAD&SKY」在籍時に仮決定していた「BIRTH」ツアーが事務所を辞めた事で白紙に戻されたため、再度イベンターへと掛け合うものの、度重なる中止やキャンセルによって信頼されておらず、また経営に不慣れなミュージシャンが取り仕切っている事もあり、理解を得るまでに時間を要する事となった{{Sfn|地球音楽ライブラリー|1999|p=161|ps= - 「THE HISTORY OF YUTAKA OZAKI PART 3」より}}。
本アルバムでは作詞、作曲だけでなく、プロデュース、ディレクション、アレンジ全てを尾崎自身が行っている{{Sfn|文藝別冊|2001|p=180|ps= - 「オリジナルアルバム紹介」より}}。レコーディングは1991年末から準備が進められ、1992年1月から3月にかけて行われた{{Sfn|地球音楽ライブラリー|1999|p=59|ps= - 「YUTAKA OZAKI ALBUM GUIDE」より}}{{Sfn|吉岡忍|2001|p=312|ps= - 「106」より}}。


尾崎はディレクターとして前作に参加していた[[須藤晃]]との本作制作前の対談の中で、「ステージにしてもレコーディングにしても、僕は闘う兵士という感じでのぞんでいる」、「いつどんな時でも僕は独りぼっちだ」と述べていた{{Sfn|須藤晃|1998|p=210|ps= - 「第四章 尾崎豊 同行」より}}。また須藤は「僕は一人で闘っているんだ」という言葉が特に印象に残っていると述べている{{Sfn|須藤晃|1998|p=210|ps= - 「第四章 尾崎豊 同行」より}}。須藤は本作の制作に当たり、「十代のことに話したことじゃなくて、最近の言葉をうまくまとめてみようか」と提案、それに対し尾崎は「時間がなければ、自由がない」という意味の『NO TIME, NO LICENSE』というアルバムタイトルを提案していた{{Sfn|須藤晃|1998|p=212|ps= - 「第四章 尾崎豊 同行」より}}。
結局、1991年5月20日の横浜アリーナ公演を皮切りに、コンサートツアー「TOUR 1991 BIRTH」が34都市全48公演行われる事となった。公演の中止やキャンセルの許されない状況で、尾崎は必ずツアー先のホテルではスポーツクラブとサウナがある所を選定し、体力作りを行っていた。その甲斐もあってか、ツアーは1本も中止される事なく大成功に終わった。しかし、ステージを降りると、スタッフの些細な言動に腹を立てる事も多くなっており、ツアーが終る頃には事務所のスタッフが総入れ替えとなっていた{{Sfn|地球音楽ライブラリー|1999|p=163|ps= - 「THE HISTORY OF YUTAKA OZAKI PART 3」より}}。


当時の尾崎は[[Macintosh]]を購入し、[[コンピュータグラフィックス]]の制作に没頭していた{{Sfn|須藤晃|1998|p=216|ps= - 「第四章 尾崎豊 同行」より}}。須藤は尾崎に対して「あまり閉じこもっていると、精神世界を彷徨いすぎて迷子になってしまうよ」と忠告したが、尾崎は「大丈夫です」と回答した上で、コンビニに買い物に行った際に前作で[[サクソフォーン|サックス]]担当であった[[古村敏比古]]と出逢い、サックスソロを気に入っていると告げると大変喜んでいたと述べた{{Sfn|須藤晃|1998|p=242|ps= - 「第四章 尾崎豊 同行」より}}。また須藤が尾崎に「最近いちばん驚いたことは?」と尋ねた所、尾崎は「共産国家が次から次へと崩壊してゆくことかな」と述べ、さらに何故興味があるのかと尋ねた所、「自分の国が壊されていったときの国民の精神かな」と回答したという{{Sfn|須藤晃|1998|p=244|ps= - 「第四章 尾崎豊 同行」より}}。
ツアー終了後、辞めたスタッフの代わりに、全ての事務を引き継いでいた母親が、疲労から来る心筋梗塞で死去(享年61)。その後の尾崎は以前にも増して酒の量が増え、自暴自棄になっていたという。翌1992年、本作が完成したばかりの4月25日に、東京都足立区千住河原町の民家の庭で泥酔状態で発見され、妻と兄と共に自宅マンションに帰宅するも、突如危篤状態となり、救急車で[[日本医科大学]]の緊急病棟に収容される。蘇生措置がされるが午後0時6分死亡が確認された(享年27){{Sfn|地球音楽ライブラリー|1999|p=164|ps= - 「THE HISTORY OF YUTAKA OZAKI PART 3」より}}。


尾崎は須藤に対し、度々ソニーを退所してアイソトープ専属となるよう要請していたが、マネージメントに関心がなかった須藤はこれを拒否し続けた{{Sfn|吉岡忍|2001|p=284|ps= - 「98」より}}。その後、尾崎は須藤と電話で連絡と取っていた際に「俺の金で家まで建てやがって」と突然言いがかりを付け決別、結果として須藤は本作に不参加となった。共同作業に当たったスタッフは極僅かであり、そのスタッフとも連携が取れなかった事から本作は尾崎一人の手によってレコーディングが進められた{{Sfn|地球音楽ライブラリー|1999|p=59|ps= - 「YUTAKA OZAKI ALBUM GUIDE」より}}。
4月30日には東京都文京区の護国寺で追悼式が行われ、3万7500人ものファンが詰め掛ける事となった{{Sfn|地球音楽ライブラリー|1999|p=164|ps= - 「THE HISTORY OF YUTAKA OZAKI PART 3」より}}。その後、本作は遺作としてリリースされた。


== 音楽性とテーマ ==
[[オリコンチャート]]では2週連続で1位を獲得。累計109.8万枚を売り上げ、[[ミリオンセラー]]を達成した。
アルバムタイトルの『放熱への証』の意味は、「放熱」は生きる事であり「証」とは[[キリスト教]]における[[告解|告白]]の事である{{Sfn|吉岡忍|2001|p=315|ps= - 「108」より}}。本作の[[ライナーノーツ]]には「'''生きること。それは日々を告白してゆくことだろう。 尾崎豊'''」という一文が記載されており、本作のテーマとなっている。[[ノンフィクション作家]]の[[吉岡忍 (作家)|吉岡忍]]は著書『放熱の行方』にて、本作に収録された11曲はメロディーもリズムも異なるが、全ての曲が組み合わって一つのメッセージを発していると述べ、その内容は「人は、いつか一人になり、一人で生きていかなければならない」という事であると主張している{{Sfn|吉岡忍|2001|p=315|ps= - 「108」より}}。


また尾崎は、本作のコンセプトに関して以下の文章を残している。
== 録音 ==
{{Quote|「放熱への証 Confession for Exist」尾崎 豊<br />シングルカットされた『汚れた絆』から始まる今回のアルバムは「生きること。それは日々を告白することである」と言うテーマで産み出された。人は結局、人と関わることでしか生きてゆけない、たとえそれが喜びであれ、痛みだとしても。その日々を彩るありとあらゆる希望と対極にあるどうしようも無い絶望と、今は未だそのどちらとも決められず、自分自身の中に閉じ込めて置くしかない現実。それら全てを自分の生きている証として受け入れる為に彼は告白する。奇跡とは人を癒やすことでも、空中に浮くことでも無い。例えて見ればそれは道標の一つ一つである。尾崎豊は我々にまた一つ『放熱への証』と言う名の可能性を方向として指し示したのである。|source=尾崎豊, <br />{{Small2|尾崎豊 約束の日}}{{Sfn|尾崎豊|1998|p=76|ps= - 「§3 放熱への証」より}}}}
本アルバムでは作詞、作曲だけでなく、プロデュース、ディレクション、アレンジ全てを尾崎自身が行っている{{Sfn|文藝別冊|2001|p=180|ps= - 「オリジナルアルバム紹介」より}}。


『[[KAWADE夢ムック]] 尾崎豊』にて音楽ライターの松井巧は、本作を「きわめてストレートな作りのポップ・ロックという印象」と述べ、[[ギター]]、[[ベース (弦楽器)|ベース]]、[[ドラムセット|ドラムス]]、[[キーボード (楽器)|キーボード]]というオーソドックスなバンド編成を基調にアレンジやサウンドのバランス、音色も「安定した構造のなかにコンパクトにまとめ上げられている」と述べた他、相対的にボーカルが際立つサウンド配分となっている事から、「初期の頃のサウンドへの回帰をねらっているという印象をもっても、さほど不思議はないだろう」と述べている{{Sfn|文藝別冊|2001|p=180|ps= - 「オリジナルアルバム紹介」より}}。また同書にて詩人の[[和合亮一]]は、「汚れた絆」や「ふたつの心」などの歌詞を取り上げた上で、「世界の深遠から流れてくるかのような透明な語感に満ちてゆく前半」と述べ、また「原色の孤独」や「太陽の瞳」の歌詞を取り上げた上で、「あたかも私小説作家のような感情の破滅が、黒々と書き殴られてゆく」と述べている{{Sfn|文藝別冊|2001|p=181|ps= - 「オリジナルアルバム紹介」より}}。音楽誌『別冊宝島1009 音楽誌が書かないJポップ批評35 尾崎豊 FOREVER YOUNG』においてフリーライターの河田拓也は、歌詞に関して前作において顕著であった[[ナルシシズム]]や猜疑心から来る毒々しさが「力を失って虚ろ」であると述べた他、「消費社会の充実の中で、感覚と生理を自信を持って深めていく新世代の動向に全く逆行する」内容であり、「現実から乖離した恐ろしく単純化した『意味』と『物語』への執着だけを、呪文のように繰り返している」と述べている{{Sfn|別冊宝島|2004|p=87|ps= - 河田拓也「オリジナル・アルバム完全燃焼レビュー」より}}。音楽誌『別冊宝島2559 尾崎豊 Forget Me Not』において著述業の宝泉薫は、「汚れた絆」に関して「尾崎と関わった人たちが自分とのことを歌っていると思ってしまうような、一種の魔力を持った曲」であると述べ、「Mama, say good-bye」に関しては「彼の4カ月前に先だった母の安らかな眠りを願う曲で、どこか自らも死へと魅入られている気配が漂う」と述べている{{Sfn|別冊宝島|2017|p=114|ps= - 宝泉薫「Chapter3 尾崎豊主要作品 完全保存版レビュー」より}}。
レコーディングは1991年末から準備が進められ、1992年1月から3月にかけて行われた{{Sfn|地球音楽ライブラリー|1999|p=59|ps= - 「YUTAKA OZAKI ALBUM GUIDE」より}}。


== リリース ==
演奏はギター、ベース、ドラムス、キーボードというオーソドックスなバンド編成を基調とし、アレンジ的にもサウンドのバランスにおいても、音色面においても安定した構造のなかにコンパクトにまとめあげられており、相対的にボーカルが際立つサウンド配分となっている{{Sfn|文藝別冊|2001|p=180|ps= - 「オリジナルアルバム紹介」より}}。
[[1992年]][[5月10日]]に[[ソニー・ミュージックレコーズ]]より[[コンパクトディスク|CD]]および[[カセットテープ]]の2形態でリリースされた。本作から「[[汚れた絆]]」が[[シングルカット]]されており、「闇の告白」もシングル候補としてスタッフからも後押しされていたが、内容が暗く「ニュー尾崎」をアピールしていく狙いがあったために「希望をストレートに歌った曲の方がいいと思う。明るい曲にしよう」と尾崎は述べ「汚れた絆」をシングルカットする事が決定した{{Sfn|尾崎豊|1998|p=72|ps= - 「§3 放熱への証」より}}。

[[1992年]][[11月1日]]には[[ミニディスク|MD]]で再リリースされ、[[2001年]][[9月27日]]には限定生産品として[[ディスクジャケット|紙ジャケット]]仕様で、[[2007年]][[4月25日]]には[[CD-BOX]]『[[71/71]]』に収録され<ref>{{Cite web |author= |date=2007-02-13 |url=https://tower.jp/article/news/2007/02/13/100009132 |title=尾崎豊が生前残した計71曲を収録したボックスセットが、完全限定生産で発売 |website=TOWER RECORDS ONLINE |publisher=[[タワーレコード]] |accessdate=2021-08-29}}</ref>、[[2009年]][[4月22日]]には限定生産品として24ビット・デジタルリマスタリングされ[[ブルースペックCD]]で<ref>{{Cite web |author= |date=2009-04-02 |url=https://www.cdjournal.com/main/news/ozaki-yutaka/23389 |title=尾崎豊の名作群がリマスターBlu-spec CD仕様で再登場!ラスト・ライヴの初DVD化も決定 |website=CDジャーナル |publisher=音楽出版 |accessdate=2021-09-04}}</ref><ref>{{Cite web |author= |date= 2009-04-17 |url=https://natalie.mu/music/news/15594 |title= 尾崎豊、命日に着うたフル解禁&貴重映像初配信 |website= [[ナタリー (ニュースサイト)|音楽ナタリー]] |publisher= ナターシャ |accessdate=2021-08-29}}</ref>、[[2013年]][[9月11日]]にはブルースペックCD2として再リリースされた。その後も[[2015年]][[11月25日]]には[[ボックス・セット]]『RECORDS : YUTAKA OZAKI』に収録される形でLP盤として再リリースされた<ref>{{Cite web |author= |date= 2015-09-01 |url=https://natalie.mu/music/news/158727 |title= 尾崎豊、代表曲満載の1stアルバム「十七歳の地図」がカセットで復刻 |website= [[ナタリー (ニュースサイト)|音楽ナタリー]] |publisher= ナターシャ |accessdate=2021-08-29}}</ref><ref>{{Cite web |author= |date= 2015-09-29 |url= https://realsound.jp/2015/09/post-4696.html |title= 尾崎豊、カセット版『十七歳の地図』ジャケ公開 「あの尾崎豊出現の衝撃をもう一度味わおう」 |website= [[リアルサウンド (ニュースサイト)|リアルサウンド]] |publisher= blueprint |accessdate=2021-09-04}}</ref>。


== アートワーク ==
== アートワーク ==
歌詞カードには「'''生きること。それは日々を告白してゆくことだろう。 尾崎豊'''」という一文が添えられており、狭山湖畔霊園にある尾崎の墓石にも同じ一文が刻まれている{{Sfn|地球音楽ライブラリー|1999|p=164|ps= - 「THE HISTORY OF YUTAKA OZAKI PART 3」より}}{{Sfn|吉岡忍|2001|p=328|ps= - 「111」より}}。
アート・ディレクションは[[田島照久 (デザイナー)|田島照久]]が担当している。


アート・ディレクションは[[田島照久 (デザイナー)|田島照久]]が担当している。ジャケット写真は草むらに描かれた[[十字架]]の上に尾崎自身が横たわり、胸にはひび割れた板が載ったものとなっている{{Sfn|吉岡忍|2001|p=313|ps= - 「107」より}}。[[ノンフィクション作家]]である[[吉岡忍 (作家)|吉岡忍]]は著書『放熱の行方』において本作のジャケットが不吉なデザインであると指摘し、「板はまるで棺桶の蓋のように見える」と述べている{{Sfn|吉岡忍|2001|pp=312 - 313|ps= - 「107」より}}。写真撮影と[[コンピュータグラフィックス]]によってデザインを手掛けた田島は、全て自身によるアイデアであったと述べ、尾崎がその後死去するという予感は全くなかったものの、「結果的に見ると、死を予告したような内容なっている。ぼくも驚いているんです」と述べている{{Sfn|吉岡忍|2001|p=313|ps= - 「107」より}}。
ジャケット写真は[[十字架]]の上に尾崎自身が横たわったものとなっている。


田島は尾崎のデビュー以来一定の距離間を保った関係を維持していたが、田島が他のミュージシャンを手掛ける事に尾崎が不快感を示した事から関係が悪化していた{{Sfn|吉岡忍|2001|p=285|ps= - 「97」より}}。田島は本作ジャケットの見本が完成した1992年3月中旬に尾崎に見本版を送り、変更があれば1週間以内に連絡するよう要請した{{Sfn|吉岡忍|2001|p=313|ps= - 「107」より}}。1週間経過しても連絡がなかったため田島は印刷所に印刷開始の要請を行ったが、さらにその1週間後に尾崎は田島の事務所に突然現れてジャケットに記載された「Yutaka Ozaki Confession For Exist」という緑色の文字を赤色に変更したいと要求した{{Sfn|吉岡忍|2001|p=313|ps= - 「107」より}}。田島は発売日が迫っているため変更が不可能である事を告げると、尾崎は「もうあんたとは仕事をやりたくない」と述べ田島と決別する事となった{{Sfn|吉岡忍|2001|p=314|ps= - 「107」より}}。田島は後に色の変更は問題ではなく、尾崎は田島の愛情を試すためにそのような発言をしたのではないかと推測し、また色の変更は作業日程上実際に不可能であった事も述べている{{Sfn|吉岡忍|2001|p=314|ps= - 「107」より}}。
また、歌詞カードには「'''生きること。それは日々を告白してゆくことだろう。 尾崎豊'''」という一文が添えられており、狭山湖畔霊園にある尾崎の墓石にも同じ一文が刻まれている{{Sfn|地球音楽ライブラリー|1999|p=164|ps= - 「THE HISTORY OF YUTAKA OZAKI PART 3」より}}。


== ツアー ==
== ツアー ==
本作を受けての全国ツアーは、「TOUR 1992 “放熱への証” Confession for Exist」と題し、13都市16公演がすでに決定していたが、尾崎本人の急死により全て公演中止となった。尾崎は高校生の時に[[日本武道館]]に[[剣道]]の試合で出場した際、3階の壁に「いつかここでコンサートをやる」と刻み込んでおり、このツアーには初の日本武道館公演が含まれていたが、急死により達成できなくなった<ref group="注釈">1987年に敢行された「TREES LINING A STREET TOUR」においても日本武道館公演は予定されていたが、尾崎本人の急病によりツアーが中断されたため、日本武道館での公演を果たせなかった。</ref>
本作を受けての全国ツアーは、「TOUR 1992 “放熱への証” Confession for Exist」と題し、13都市16公演がすでに決定していたが、尾崎本人の急死により全て公演中止となった。尾崎は高校生の時に[[日本武道館]]に[[剣道]]の試合で出場した際、3階の壁に「いつかここでコンサートをやる」と刻み込んでおり、このツアーには初の日本武道館公演が含まれていたが、急死により達成できなくなった{{Efn|1987年に敢行された「TREES LINING A STREET TOUR」においても日本武道館公演は予定されていたが、尾崎本人の急病によりツアーが中断されたため、日本武道館での公演を果たせなかった。}}


== 批評 ==
== 批評 ==
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| rev4 =音楽誌が書かないJポップ批評 尾崎豊
| rev4 =音楽誌が書かないJポップ批評 尾崎豊
| rev4Score =否定的{{Sfn|別冊宝島|2004|p=87|ps= - 河田拓也「オリジナル・アルバム完全燃焼レビュー」より}}
| rev4Score =否定的{{Sfn|別冊宝島|2004|p=87|ps= - 河田拓也「オリジナル・アルバム完全燃焼レビュー」より}}
| rev5 = 尾崎豊 Forget Me Not
| rev5Score =肯定的{{Sfn|別冊宝島|2017|p=114|ps= - 宝泉薫「Chapter3 尾崎豊主要作品 完全保存版レビュー」より}}
}}
}}
本作の歌詞やメッセージ性に対する批評家たちからの評価は賛否両論となっており、書籍『文藝別冊 KAWADE夢ムック 尾崎豊』において音楽評論家の松井巧は、本作が「原点回帰をめざしたサウンド構成」であると指摘、オーソドックスなバンド編成によって構成されたサウンドが原点回帰的であるが、回帰できない点として「10代の心情を青く切実な言葉にして吐き出す荒削りな鋭利さ」があるとした上で、「自らのイメージを最大限正確に描いた作品集と捉えれば、ファンにとっても興味深いことだろう」と肯定的に評価した{{Sfn|文藝別冊|2001|p=180|ps= - 「オリジナルアルバム紹介」より}}。また同書にて詩人の[[和合亮一]]は、尾崎の生涯が[[ジャンヌ・ダルク]]のようであったと例えた上で、「生きることに真っすぐに向かい続けた尾崎のエネルギーの放熱の『証』を永遠のものとさせてゆく術を、私たちは手にすることとなったのは、皮肉にも『尾崎豊』を失ってからであった」と述べ肯定的に評価した{{Sfn|文藝別冊|2001|p=181|ps= - 「オリジナルアルバム紹介」より}}。さらに同書にて映画評論家の[[北小路隆志]]は、前作で「尾崎豊節」が確立されたと主張し、アルバム制作においてかつてのような困難は介在しなくなったと推測した上で「尾崎豊はアーティストとしてある種の完成形態に到達した時点で急逝した」と述べ肯定的に評価した{{Sfn|文藝別冊|2001|p=181|ps= - 「オリジナルアルバム紹介」より}}。音楽誌『別冊宝島1009 音楽誌が書かないJポップ批評35 尾崎豊 FOREVER YOUNG』においてフリーライターの河田拓也は、「霧がかかったように散漫な印象のアルバム」と本作を酷評し、「具体的な他者や現場をなくし、戸惑いながら深く知ろうとするような謙虚さが生む風通しの良さや世界の広がりもなくなって、性急な一人合点を繰り返すうちに、彼の思考や言葉はことごとく散文性を失って、著しく退化してしまっている」と述べた他、「ありのままの自他を受け入れることに耐え、明るい諦念を前提にしたタフな世界観を身につける過程を踏み損ねた」と述べ否定的に評価した{{Sfn|別冊宝島|2004|p=87|ps= - 河田拓也「オリジナル・アルバム完全燃焼レビュー」より}}。音楽誌『別冊宝島2559 尾崎豊 Forget Me Not』において著述業の宝泉薫は、死後わずか半月ほどでリリースされた作品のため正当な評価が困難であると述べた上で、「自由への扉」や「太陽の瞳」の歌詞に関して「共鳴する人はやはり少数派だろう」と述べ、尾崎は嘘の告白は出来ず、また他者からの作品提供を受ける事や自らのフェイバリットソングをカバーする手段が出来なかったと推測し、「それができないバカ正直さこそが、彼の突出した美質だった」と評した上で、[[ジャニス・ジョプリン]]のアルバムが急死によって1曲[[器楽曲|インストゥルメンタル]]での収録になった事と比較して「完成後の死はせめてもの幸いだ」と述べた他に「音楽史上稀有なアルバムであることは間違いない」と肯定的に評価した{{Sfn|別冊宝島|2017|p=114|ps= - 宝泉薫「Chapter3 尾崎豊主要作品 完全保存版レビュー」より}}。
音楽評論家の松井巧は「4〜5曲目を聴いたあとでは、このアルバムが初期の頃のサウンドへの回帰を狙っているという印象を持っても、さほど不思議はないだろう」、「回帰できないところがあるとすれば、10代の心情を青く切実な言葉にして吐き出す荒削りな鋭利さである」と述べている{{Sfn|文藝別冊|2001|p=180|ps= - 「オリジナルアルバム紹介」より}}。

詩人の[[和合亮一]]は「世界の深遠から流れてくるかのような透明な語感に満ちてゆく前半、しかし後半になると『原色の孤独』や『太陽の瞳』などのあたかも私小説作家のような感情の破滅が、黒々と書き殴られてゆく」と述べている{{Sfn|文藝別冊|2001|p=181|ps= - 「オリジナルアルバム紹介」より}}。


== チャート成績 ==
評論家の北小路隆志は「前作で"尾崎豊節"が確立された以上、彼のアルバム作りに以前のような困難は介在しなくなっただろう。尾崎はアーティストとしてある種の完成形態に到達した時点で急逝したのだ」と述べている{{Sfn|文藝別冊|2001|p=181|ps= - 「オリジナルアルバム紹介」より}}。
本作は[[オリコンチャート]]において初登場1位を獲得、登場回数は18回となり売り上げ枚数は109.8万枚と[[ミリオンセラー]]となった。リリース後の初回出荷分は即日完売した{{Sfn|石田伸也|2021|p=192|ps= - 「第八章 聖地」より}}。


尾崎の死去直後である1992年[[5月25日]]付けのオリコンアルバムランキングでは本作が1位を獲得、同日のランキングでは4位が『[[回帰線 (尾崎豊のアルバム)|回帰線]]』([[1985年]])、5位が『[[十七歳の地図 (アルバム)|十七歳の地図]]』([[1983年]])、6位が『[[LAST TEENAGE APPEARANCE]]』([[1987年]])、7位が『[[壊れた扉から]]』(1985年)、9位が『[[誕生 (尾崎豊のアルバム)|誕生]]』([[1990年]])と過去作が次々にランクインし、ベスト10内の6作を尾崎の作品が占める事となった{{Sfn|石田伸也|2021|pp=192 - 193|ps= - 「第八章 聖地」より}}。また、『[[街路樹 (アルバム)|街路樹]]』([[1988年]])は14位となった{{Sfn|石田伸也|2021|p=193|ps= - 「第八章 聖地」より}}。
フリーライターの河田拓也は、「『誕生』に顕著だった、あからさまな[[ナルシシズム]]や猜疑心をまきちらす毒々しささえ、力を失って虚ろだ。具体的な他者や現場をなくし、戸惑いながら深く知ろうとするような謙虚さが生む風通しの良さや世界の広がりもなくなって、性急な一人合点を繰り返すうちに、彼の思考や言葉はことごとく根や散文性を失って、著しく退化してしまっている。消費社会の充実の中で、感覚と生理を自信を持って深めていく新世代の動向に全く逆行するように、ここでの尾崎の言葉は、現実から乖離し恐ろしく単純化した『意味』と『物語』への執着だけを、呪文のように繰り返している」と評している{{Sfn|別冊宝島|2004|p=87|ps= - 河田拓也「オリジナル・アルバム完全燃焼レビュー」より}}。


== 収録曲 ==
== 収録曲 ==
=== 一覧 ===
=== 一覧 ===
全作詞・作曲: [[尾崎豊]]。
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| title2 = '''自由への扉'''
| title2 = '''自由への扉'''
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| title3 = '''Get it down'''
| title3 = '''Get it down'''
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| title4 = '''優しい陽射し'''
| title4 = '''優しい陽射し'''
| note4 = IN YOUR HEART
| note4 = IN YOUR HEART
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| title5 = '''贖罪'''
| title5 = '''贖罪'''
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| title7 = '''原色の孤独'''
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| note8 = LAST CHRISTMAS
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# 「'''Get it down'''」
# 「'''Get it down'''」
# 「'''優しい陽射し'''」 - ''IN YOUR HEART''
# 「'''優しい陽射し'''」 - ''IN YOUR HEART''
#:「汚れた絆」のc/w曲。
#:「汚れた絆」の[[A面/B面|カップリング]]
# 「'''贖罪'''」 - ''ATONEMENT''
# 「'''贖罪'''」 - ''ATONEMENT''
# 「'''ふたつの心'''」 - ''TWO HEARTS''
# 「'''ふたつの心'''」 - ''TWO HEARTS''
#:後にベストアルバム『[[愛すべきものすべてに]]』([[1996年]])に収録された。[[EXILE]]の元メンバー[[清木場俊介]]がトリビュートアルバム『[["GREEN" A TRIBUTE TO YUTAKA OZAKI]]』にカバーている。
#:後にベストアルバム『[[愛すべきものすべてに]]』([[1996年]])に収録された。トリビュートアルバム『[["GREEN" A TRIBUTE TO YUTAKA OZAKI]]』([[2004年]])は[[EXILE]]の元メンバー[[清木場俊介]]による[[カバー]]が収録されている<ref name="tower20040316">{{Cite web |author= |date=2004-03-16 |url=https://tower.jp/article/news/2004/03/16/100002770 |title=尾崎豊トリビュート、公式ページにて特典映像ほか |website=TOWER RECORDS ONLINE |publisher=[[タワーレコード]] |accessdate=2021-10-10}}</ref>
# 「'''原色の孤独'''」 - ''PRIMARY''
# 「'''原色の孤独'''」 - ''PRIMARY''
# 「'''太陽の瞳'''」 - ''LAST CHRISTMAS''
# 「'''太陽の瞳'''」 - ''LAST CHRISTMAS''
#:原題は「僕の知らない僕」。英題にもある通り[[クリスマス]]を意識して作られた。尾崎はこの曲が完成すると真っ先に母親の[[尾崎健一#親族|尾崎絹枝]]に聴かせた。その際絹枝は一言だけ「しい歌ね」と呟いたという<ref name="shitteru">日本テレビ系列[[知ってるつもり!?]]1997年4月13日放送分より</ref>。その翌日の1991年12月29日に絹枝は亡くなった<ref name="shitteru"></ref>
#:原題は「僕の知らない僕」。英題にもある通り[[クリスマス]]を意識して作られた。尾崎はこの曲が完成すると真っ先に母親の[[尾崎健一#親族|尾崎絹枝]]に聴かせその際絹枝は一言だけ「しい歌ね」と呟いたという{{Sfn|吉岡忍|2001|p=318|ps= - 109」より}}。その翌日の1991年12月29日に絹枝は死去したため、尾崎が母に聴かせた最後の曲となった{{Sfn|吉岡忍|2001|p=318|ps= - 「109」より}}
# 「'''Monday morning'''」
# 「'''Monday morning'''」
# 「'''闇の告白'''」 - ''EXIST IN THE DARK''
# 「'''闇の告白'''」 - ''EXIST IN THE DARK''
#:トリビュートアルバム『[["BLUE" A TRIBUTE TO YUTAKA OZAKI]]』[[斉藤和義]]アコースティックギターによる弾き語りカバーている。この曲について斎藤は「普通の人の普通の悩みだと思った」とコメントし共感している。
#:トリビュートアルバム『[["BLUE" A TRIBUTE TO YUTAKA OZAKI]]』には[[斉藤和義]]アコースティックギターによる弾き語りカバーが収録されている<ref name="tower20040316"/>。この曲について斎藤は「普通の人の普通の悩みだと思った」とコメントし共感している。
# 「'''Mama, say good-bye'''」
# 「'''Mama, say good-bye'''」
#:1991年末に亡くなった母に向けて贈った曲。そのため、この曲が尾崎が最後に制作した曲となった。尾崎はこの曲の完成後にファンクラブの会報に母親へのメッセージを残している<ref group="注釈">''『お母さん疲れさせてごめんね。お母さん、世界中の全ての疲れた心が癒されるように、歌い続けていくからね』''(1992年、「Edge Of Street 3℃」より)</ref>
#:1991年末に亡くなった母に向けて贈った曲。そのため、この曲が尾崎が最後に制作した曲となった。尾崎はこの曲の完成後にファンクラブの会報に母親へのメッセージを残している{{Efn|''『お母さん疲れさせてごめんね。お母さん、世界中の全ての疲れた心が癒されるように、歌い続けていくからね』''(1992年、「Edge Of Street 3℃」より)}}


== スタッフ・クレジット ==
== スタッフ・クレジット ==
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=== 出典 ===
=== 出典 ===
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== 参考文献 ==
== 参考文献 ==
* {{Cite book|和書 |author = |title = ―366の真実―尾崎 豊の残した言葉 OZAKI "WORDS" |date = 1997-05-15 |publisher = [[シンコーミュージック・エンタテイメント|シンコー・ミュージック]] |page = 91 |isbn = 9784401615759 |ref = {{SfnRef|尾崎豊の残した言葉|1997}}}}
* {{Cite book|和書 |author = 須藤晃 |authorlink = 須藤晃 |title = 尾崎豊 覚え書き |edition = 書籍『時間がなければ自由もない―尾崎豊覚書―』(ISBN 9784789707497) 文庫版 |date = 1998-01-01 |publisher = [[小学館文庫]] |origdate = 1994-05-17 |pages = 212 - 244 |isbn = 9784094021011 |ref = harv}}
* {{Cite book|和書 |author = 尾崎豊 |authorlink = 尾崎豊 |title = 尾崎豊 約束の日 |date = 1998-01-28 |publisher = [[ケイエスエス]] |pages = 72 - 76 |isbn = 9784877091989 |ref = harv}}
* {{Cite book|和書 |author = |title = 地球音楽ライブラリー 尾崎豊 |date = 1999-11-29 |publisher = [[エフエム東京|TOKYO FM出版]] |pages = 59 - 164 |isbn = 9784887450417 |ref = {{SfnRef|地球音楽ライブラリー|1999}}}}
* {{Cite book|和書 |author = |title = 地球音楽ライブラリー 尾崎豊 |date = 1999-11-29 |publisher = [[エフエム東京|TOKYO FM出版]] |pages = 59 - 164 |isbn = 9784887450417 |ref = {{SfnRef|地球音楽ライブラリー|1999}}}}
* {{Cite journal|和書 |title = [[KAWADE夢ムック]] 尾崎豊 |journal = [[文藝|文藝別冊]] |date = 2001-04-20 |publisher = [[河出書房新社]] |isbn = 9784309976068 |pages = 180 - 181 |ref = {{SfnRef|文藝別冊|2001}}}}
* {{Cite journal|和書 |title = [[KAWADE夢ムック]] 尾崎豊 |journal = [[文藝|文藝別冊]] |date = 2001-04-20 |publisher = [[河出書房新社]] |isbn = 9784309976068 |pages = 135 - 181 |ref = {{SfnRef|文藝別冊|2001}}}}
* {{Cite book|和書 |author = 吉岡忍 |authorlink = 吉岡忍 (作家) |title = 放熱の行方 尾崎豊の3600日 |edition = 書籍『放熱の行方』(ISBN 9784062063593) 文庫版 |date = 2001-11-15 |publisher = [[講談社文庫]] |origdate = 1993-08-25 |pages = 241 - 328 |isbn = 9784062733038 |ref = harv}}
* {{Cite journal|和書 |title = 音楽誌が書かないJポップ批評35 尾崎豊 FOREVER YOUNG |journal = [[別冊宝島]] |volume = |number = 1009 |date = 2004-05-19 |publisher = [[宝島社]] |page = 87 |isbn = 9784796640688 |ref = {{SfnRef|別冊宝島|2004}}}}
* {{Cite journal|和書 |title = 音楽誌が書かないJポップ批評35 尾崎豊 FOREVER YOUNG |journal = [[別冊宝島]] |volume = |number = 1009 |date = 2004-05-19 |publisher = [[宝島社]] |page = 87 |isbn = 9784796640688 |ref = {{SfnRef|別冊宝島|2004}}}}
* {{Cite journal|和書 |title = 尾崎豊 Forget Me Not 語り継がれる伝説のロッカー、26年の生き様 |journal = [[別冊宝島]] |volume = |number = 2559 |date = 2017-05-07 |publisher = [[宝島社]] |page = 114 |isbn = 9784800266811 |ref = {{SfnRef|別冊宝島|2017}}}}
* {{Cite book|和書 |author = 見崎鉄 |title = 盗んだバイクと壊れたガラス 尾崎豊の歌詞論 |date = 2018-06-10 |publisher = アルファベータブックス |pages = 307 - 308 |isbn = 9784865980554 |ref = harv}}
* {{Cite book|和書 |author = 石田伸也 |title = 評伝 1985年の尾崎豊 |date = 2021-06-30 |publisher = [[徳間書店]] |pages = 192 - 193 |isbn = 9784198652968 |ref = harv}}


== 外部リンク ==
== 外部リンク ==

2021年10月17日 (日) 08:02時点における版

尾崎豊 > 尾崎豊の作品 > 放熱への証
放熱への証
(CONFESSION FOR EXIST)
尾崎豊スタジオ・アルバム
リリース
録音 1992年1月 - 3月
セディックスタジオ
ソニー信濃町スタジオ
スタジオジャイヴ
ジャンル ロック
ポップス
時間
レーベル Sony Records
プロデュース 尾崎豊
チャート最高順位
  • 週間1位(2週連続、オリコン
  • 1992年度年間13位(オリコン)
ゴールドディスク
  • ミリオン(日本レコード協会
  • 尾崎豊 アルバム 年表
    誕生
    1990年
    放熱への証
    (1992年)
    約束の日
    Vol.1

    約束の日
    Vol.2

    1993年
    EANコード
    『放熱への証』収録のシングル
    1. 汚れた絆
      リリース: 1992年5月10日
    テンプレートを表示

    放熱への証』(ほうねつへのあかし)は、日本シンガーソングライターである尾崎豊の6作目のオリジナル・アルバム。英題は『CONFESSION FOR EXIST』(コンフェッション・フォー・イグジスト)。

    1992年5月10日Sony Recordsからリリースされた。前作『誕生』(1990年)よりおよそ1年半ぶりにリリースされた作品であり、作詞・作曲・プロデュースを全て尾崎自身が担当した個人事務所「アイソトープ」設立後初となるオリジナルアルバムであり、尾崎の死後間もなくリリースされ遺作となった作品である。

    レコーディングは日本国内で行われ、前作とは異なり日本人ミュージシャンの演奏で構成されている。前作までに共同作業を行った音楽プロデューサーである須藤晃月刊カドカワ編集長である見城徹と決別し、ほぼ全てのプロデュースワークを尾崎単独で行った他、デザイナーである田島照久がアートワークを担当したものの、最終的に田島とも決別する事となった。音楽性としてはオーソドックスなバンド編成とシンプルなアレンジによって構成されており、原点回帰とも言えるサウンドとなっている。

    本作と同時にシングル「汚れた絆」がリリースされている。本作はオリコンチャートにて2週連続で1位を獲得。累計109.8万枚を売り上げ、ミリオンセラーを達成した。原点回帰を目指したサウンドに関して批評家たちからは肯定的な意見も挙げられたが、死去後すぐのリリースであった事もあり一部では正当な評価が困難であるとの意見も挙げられた。

    背景

    1990年に入り音楽事務所マザーエンタープライズと決別し、新たな事務所である「ロード&スカイ」、新たなレコード会社として「CBSソニー」へと移籍し、11月に2年2か月ぶりとなるアルバム『誕生』をリリースした尾崎であったが、アルバムリリースの直後に「ロード&スカイ」を退所する事となる[1]。原因は、周囲の人間が金儲けのために自分に近づいているという猜疑心から来るものであった[1]。代表取締役社長である高橋信彦は、「業界に対して、非常に不信感を持っているなと思いました。だから、僕としては、彼がこの先、ひとり立ちをしてもいいように、音楽業界というもののシステムや、人間とのつながりの大切さなどを身につけていってほしいと思ったんです。疑ってかかるよりも、まず、知ることを」と述べている[1]。しかし、尾崎はマスコミ不信を顕にし、雑誌の取材などでも突然怒り出すことや、難解な言葉を多用してインタビューが成立しない事などが多々あったため、高橋は全てのインタビューを音楽プロデューサーである須藤晃が行うように要請する事となった[1]。ある日『週刊プレイボーイ』の取材当日に尾崎が現れず、確認したところ手に怪我をし、病院に向かったためであると判明した[2]。尾崎は手を9針縫っており、手には包帯が巻かれていた[注釈 1]。取材を終えた尾崎は、その足で「ロード&スカイ」に赴き、事務所を退所する意向を伝えると共に、高橋と一緒に事務所を作りたいという要請をする[2]。しかし、高橋は取材などの仕事でしか尾崎と接触していなかったため、疑心暗鬼の対象となっておらず、状況が変われば自分にも疑いの目が向けられると悟り、その要請を断った[2]

    自分の事務所を設立したのは、ひとつには、純粋に音楽に打ちこめる環境が欲しかったということ。
    尾崎豊,
    R&Rニューズメーカー1992年6月号[4]

    1990年末、「ロード&スカイ」を離脱した尾崎は、自らが社長となり音楽事務所「アイソトープ」を設立[5]。経営には家族が参加する事となった[5]。また同事務所の設立には『月刊カドカワ』編集長であった見城徹も深く関与しており、雑誌の編集長としての範疇を超えて協力していたため編集部に発覚すれば立場を追われるほどの協力体制となっていた[6]。「代表取締役 尾崎豊」という名刺を作成し、ヴェルサーチのスーツを着用してトラサルディのセカンドバッグを持ち、コンサートツアーのブッキングやバンドメンバーの招集を自ら行う事となった[5]。また尾崎は事務所スタッフが郵便局に封書を出しに行く際もアルバイトに同行し、不審に思った見城が「そんなのアルバイトに任せておけばいいじゃない」と問うと、尾崎は真顔で「郵便切手代を誤魔化すかもしれない」と述べ事務所スタッフに対する不信感を顕わにしていたという[7]。また尾崎は家庭も崩壊寸前となっており、1991年1月には妻である尾崎繁美に離婚を切り出し、当時居住していたマンションから荷物を運び出し別居を開始、同時期には女優の斉藤由貴との不倫も発覚した[8]。その後、「ロード&スカイ」在籍時に仮決定していた「BIRTH」ツアーが事務所を辞めた事で白紙に戻されたため、再度イベンターへと掛け合うものの、度重なる中止やキャンセルによって信頼されておらず[注釈 2]、また経営に不慣れなミュージシャンが取り仕切っている事もあり、理解を得るまでに時間を要する事となった[10]。結果として1991年5月20日の横浜アリーナ公演を皮切りに、コンサートツアー「TOUR 1991 BIRTH」が34都市全48公演行われる事となった[11]。公演の中止やキャンセルの許されない状況で、尾崎は必ずツアー先のホテルではスポーツクラブとサウナがある所を選定し、体力作りを行っていた[11]。その甲斐もあってか、ツアーは1本も中止される事なく大成功に終わった[11]。しかし、ステージを降りると、スタッフの些細な言動に腹を立てる事も多くなっており、ツアーが終る頃には事務所のスタッフが総入れ替えとなっていた[11]

    馬鹿げてるかもしれないが。自分に嘘をつきたくはない。母の命に誓って会社を守ろうときめた。
    尾崎豊,
    エッジ オブ ストリート3℃ 1992年[4]

    またこのツアーにおいて尾崎は見城に全日程同行するよう要請、見城は5日目の大阪厚生年金会館公演後に仕事の都合で東京に戻った所、尾崎から電話で連絡があり「どうして帰ったんだ」と問い詰められる事となった[12]。尾崎は見城に対し「俺は見城さんの愛情が俺ひとりに向くまで、もう一回俺に向くまで、『黄昏ゆく街で』の連載を書かない」、「最終回を人質にとります」と述べ電話を切り、結果として小説『黄昏ゆく街で』は未完のまま終了する事となった[12]。それ以外にも尾崎から角川書店を退所するよう要請されるなど様々な要求によって悩まされていた見城は、ついに耐え切れなくなり「お前とは二度と付き合わない」と尾崎に告げ決別する事となった[13]。また1991年10月には、尾崎は不倫相手であった斉藤と別れ、再び繁美夫人と同居する事となった[14]。ツアー終了後、辞めたスタッフの代わりに全ての事務を引き継いでいた母親が、疲労から来る心筋梗塞で死去(享年61)[15]。その後の尾崎は真面目に事務所に出勤するようになり、周囲の人間に対して気を遣うようになるなど人間性に変化が表れたが、一方でストレス発散のための飲酒は止められずまた肝臓の衰弱から嘔吐が続き、妻から病院へ行くよう要請されたが病院嫌いのため病院には行かなかった[16]。翌1992年、本作が完成したばかりの4月25日に、東京都足立区千住河原町の民家の庭で泥酔状態で発見され、妻と兄と共に自宅マンションに帰宅するも、突如危篤状態となり、救急車で日本医科大学の緊急病棟に収容される[15]。蘇生措置がされるが午後0時6分死亡が確認された(享年27)[15]4月30日には東京都文京区の護国寺で追悼式が行われ、3万7500人ものファンが詰め掛ける事となった[15]

    録音、制作

    本アルバムでは作詞、作曲だけでなく、プロデュース、ディレクション、アレンジ全てを尾崎自身が行っている[17]。レコーディングは1991年末から準備が進められ、1992年1月から3月にかけて行われた[18][19]

    尾崎はディレクターとして前作に参加していた須藤晃との本作制作前の対談の中で、「ステージにしてもレコーディングにしても、僕は闘う兵士という感じでのぞんでいる」、「いつどんな時でも僕は独りぼっちだ」と述べていた[20]。また須藤は「僕は一人で闘っているんだ」という言葉が特に印象に残っていると述べている[20]。須藤は本作の制作に当たり、「十代のことに話したことじゃなくて、最近の言葉をうまくまとめてみようか」と提案、それに対し尾崎は「時間がなければ、自由がない」という意味の『NO TIME, NO LICENSE』というアルバムタイトルを提案していた[21]

    当時の尾崎はMacintoshを購入し、コンピュータグラフィックスの制作に没頭していた[22]。須藤は尾崎に対して「あまり閉じこもっていると、精神世界を彷徨いすぎて迷子になってしまうよ」と忠告したが、尾崎は「大丈夫です」と回答した上で、コンビニに買い物に行った際に前作でサックス担当であった古村敏比古と出逢い、サックスソロを気に入っていると告げると大変喜んでいたと述べた[23]。また須藤が尾崎に「最近いちばん驚いたことは?」と尋ねた所、尾崎は「共産国家が次から次へと崩壊してゆくことかな」と述べ、さらに何故興味があるのかと尋ねた所、「自分の国が壊されていったときの国民の精神かな」と回答したという[24]

    尾崎は須藤に対し、度々ソニーを退所してアイソトープ専属となるよう要請していたが、マネージメントに関心がなかった須藤はこれを拒否し続けた[25]。その後、尾崎は須藤と電話で連絡と取っていた際に「俺の金で家まで建てやがって」と突然言いがかりを付け決別、結果として須藤は本作に不参加となった。共同作業に当たったスタッフは極僅かであり、そのスタッフとも連携が取れなかった事から本作は尾崎一人の手によってレコーディングが進められた[18]

    音楽性とテーマ

    アルバムタイトルの『放熱への証』の意味は、「放熱」は生きる事であり「証」とはキリスト教における告白の事である[26]。本作のライナーノーツには「生きること。それは日々を告白してゆくことだろう。 尾崎豊」という一文が記載されており、本作のテーマとなっている。ノンフィクション作家吉岡忍は著書『放熱の行方』にて、本作に収録された11曲はメロディーもリズムも異なるが、全ての曲が組み合わって一つのメッセージを発していると述べ、その内容は「人は、いつか一人になり、一人で生きていかなければならない」という事であると主張している[26]

    また尾崎は、本作のコンセプトに関して以下の文章を残している。

    「放熱への証 Confession for Exist」尾崎 豊
    シングルカットされた『汚れた絆』から始まる今回のアルバムは「生きること。それは日々を告白することである」と言うテーマで産み出された。人は結局、人と関わることでしか生きてゆけない、たとえそれが喜びであれ、痛みだとしても。その日々を彩るありとあらゆる希望と対極にあるどうしようも無い絶望と、今は未だそのどちらとも決められず、自分自身の中に閉じ込めて置くしかない現実。それら全てを自分の生きている証として受け入れる為に彼は告白する。奇跡とは人を癒やすことでも、空中に浮くことでも無い。例えて見ればそれは道標の一つ一つである。尾崎豊は我々にまた一つ『放熱への証』と言う名の可能性を方向として指し示したのである。
    尾崎豊,
    尾崎豊 約束の日[27]

    KAWADE夢ムック 尾崎豊』にて音楽ライターの松井巧は、本作を「きわめてストレートな作りのポップ・ロックという印象」と述べ、ギターベースドラムスキーボードというオーソドックスなバンド編成を基調にアレンジやサウンドのバランス、音色も「安定した構造のなかにコンパクトにまとめ上げられている」と述べた他、相対的にボーカルが際立つサウンド配分となっている事から、「初期の頃のサウンドへの回帰をねらっているという印象をもっても、さほど不思議はないだろう」と述べている[17]。また同書にて詩人の和合亮一は、「汚れた絆」や「ふたつの心」などの歌詞を取り上げた上で、「世界の深遠から流れてくるかのような透明な語感に満ちてゆく前半」と述べ、また「原色の孤独」や「太陽の瞳」の歌詞を取り上げた上で、「あたかも私小説作家のような感情の破滅が、黒々と書き殴られてゆく」と述べている[28]。音楽誌『別冊宝島1009 音楽誌が書かないJポップ批評35 尾崎豊 FOREVER YOUNG』においてフリーライターの河田拓也は、歌詞に関して前作において顕著であったナルシシズムや猜疑心から来る毒々しさが「力を失って虚ろ」であると述べた他、「消費社会の充実の中で、感覚と生理を自信を持って深めていく新世代の動向に全く逆行する」内容であり、「現実から乖離した恐ろしく単純化した『意味』と『物語』への執着だけを、呪文のように繰り返している」と述べている[29]。音楽誌『別冊宝島2559 尾崎豊 Forget Me Not』において著述業の宝泉薫は、「汚れた絆」に関して「尾崎と関わった人たちが自分とのことを歌っていると思ってしまうような、一種の魔力を持った曲」であると述べ、「Mama, say good-bye」に関しては「彼の4カ月前に先だった母の安らかな眠りを願う曲で、どこか自らも死へと魅入られている気配が漂う」と述べている[30]

    リリース

    1992年5月10日ソニー・ミュージックレコーズよりCDおよびカセットテープの2形態でリリースされた。本作から「汚れた絆」がシングルカットされており、「闇の告白」もシングル候補としてスタッフからも後押しされていたが、内容が暗く「ニュー尾崎」をアピールしていく狙いがあったために「希望をストレートに歌った曲の方がいいと思う。明るい曲にしよう」と尾崎は述べ「汚れた絆」をシングルカットする事が決定した[31]

    1992年11月1日にはMDで再リリースされ、2001年9月27日には限定生産品として紙ジャケット仕様で、2007年4月25日にはCD-BOX71/71』に収録され[32]2009年4月22日には限定生産品として24ビット・デジタルリマスタリングされブルースペックCD[33][34]2013年9月11日にはブルースペックCD2として再リリースされた。その後も2015年11月25日にはボックス・セット『RECORDS : YUTAKA OZAKI』に収録される形でLP盤として再リリースされた[35][36]

    アートワーク

    歌詞カードには「生きること。それは日々を告白してゆくことだろう。 尾崎豊」という一文が添えられており、狭山湖畔霊園にある尾崎の墓石にも同じ一文が刻まれている[15][37]

    アート・ディレクションは田島照久が担当している。ジャケット写真は草むらに描かれた十字架の上に尾崎自身が横たわり、胸にはひび割れた板が載ったものとなっている[38]ノンフィクション作家である吉岡忍は著書『放熱の行方』において本作のジャケットが不吉なデザインであると指摘し、「板はまるで棺桶の蓋のように見える」と述べている[39]。写真撮影とコンピュータグラフィックスによってデザインを手掛けた田島は、全て自身によるアイデアであったと述べ、尾崎がその後死去するという予感は全くなかったものの、「結果的に見ると、死を予告したような内容なっている。ぼくも驚いているんです」と述べている[38]

    田島は尾崎のデビュー以来一定の距離間を保った関係を維持していたが、田島が他のミュージシャンを手掛ける事に尾崎が不快感を示した事から関係が悪化していた[40]。田島は本作ジャケットの見本が完成した1992年3月中旬に尾崎に見本版を送り、変更があれば1週間以内に連絡するよう要請した[38]。1週間経過しても連絡がなかったため田島は印刷所に印刷開始の要請を行ったが、さらにその1週間後に尾崎は田島の事務所に突然現れてジャケットに記載された「Yutaka Ozaki Confession For Exist」という緑色の文字を赤色に変更したいと要求した[38]。田島は発売日が迫っているため変更が不可能である事を告げると、尾崎は「もうあんたとは仕事をやりたくない」と述べ田島と決別する事となった[41]。田島は後に色の変更は問題ではなく、尾崎は田島の愛情を試すためにそのような発言をしたのではないかと推測し、また色の変更は作業日程上実際に不可能であった事も述べている[41]

    ツアー

    本作を受けての全国ツアーは、「TOUR 1992 “放熱への証” Confession for Exist」と題し、13都市16公演がすでに決定していたが、尾崎本人の急死により全て公演中止となった。尾崎は高校生の時に日本武道館剣道の試合で出場した際、3階の壁に「いつかここでコンサートをやる」と刻み込んでおり、このツアーには初の日本武道館公演が含まれていたが、急死により達成できなくなった[注釈 3]

    批評

    専門評論家によるレビュー
    レビュー・スコア
    出典評価
    文藝別冊 尾崎豊
    (松井巧)
    肯定的[17]
    文藝別冊 尾崎豊
    和合亮一
    肯定的[28]
    文藝別冊 尾崎豊
    (北小路隆志)
    肯定的[28]
    音楽誌が書かないJポップ批評 尾崎豊否定的[29]
    尾崎豊 Forget Me Not肯定的[30]

    本作の歌詞やメッセージ性に対する批評家たちからの評価は賛否両論となっており、書籍『文藝別冊 KAWADE夢ムック 尾崎豊』において音楽評論家の松井巧は、本作が「原点回帰をめざしたサウンド構成」であると指摘、オーソドックスなバンド編成によって構成されたサウンドが原点回帰的であるが、回帰できない点として「10代の心情を青く切実な言葉にして吐き出す荒削りな鋭利さ」があるとした上で、「自らのイメージを最大限正確に描いた作品集と捉えれば、ファンにとっても興味深いことだろう」と肯定的に評価した[17]。また同書にて詩人の和合亮一は、尾崎の生涯がジャンヌ・ダルクのようであったと例えた上で、「生きることに真っすぐに向かい続けた尾崎のエネルギーの放熱の『証』を永遠のものとさせてゆく術を、私たちは手にすることとなったのは、皮肉にも『尾崎豊』を失ってからであった」と述べ肯定的に評価した[28]。さらに同書にて映画評論家の北小路隆志は、前作で「尾崎豊節」が確立されたと主張し、アルバム制作においてかつてのような困難は介在しなくなったと推測した上で「尾崎豊はアーティストとしてある種の完成形態に到達した時点で急逝した」と述べ肯定的に評価した[28]。音楽誌『別冊宝島1009 音楽誌が書かないJポップ批評35 尾崎豊 FOREVER YOUNG』においてフリーライターの河田拓也は、「霧がかかったように散漫な印象のアルバム」と本作を酷評し、「具体的な他者や現場をなくし、戸惑いながら深く知ろうとするような謙虚さが生む風通しの良さや世界の広がりもなくなって、性急な一人合点を繰り返すうちに、彼の思考や言葉はことごとく散文性を失って、著しく退化してしまっている」と述べた他、「ありのままの自他を受け入れることに耐え、明るい諦念を前提にしたタフな世界観を身につける過程を踏み損ねた」と述べ否定的に評価した[29]。音楽誌『別冊宝島2559 尾崎豊 Forget Me Not』において著述業の宝泉薫は、死後わずか半月ほどでリリースされた作品のため正当な評価が困難であると述べた上で、「自由への扉」や「太陽の瞳」の歌詞に関して「共鳴する人はやはり少数派だろう」と述べ、尾崎は嘘の告白は出来ず、また他者からの作品提供を受ける事や自らのフェイバリットソングをカバーする手段が出来なかったと推測し、「それができないバカ正直さこそが、彼の突出した美質だった」と評した上で、ジャニス・ジョプリンのアルバムが急死によって1曲インストゥルメンタルでの収録になった事と比較して「完成後の死はせめてもの幸いだ」と述べた他に「音楽史上稀有なアルバムであることは間違いない」と肯定的に評価した[30]

    チャート成績

    本作はオリコンチャートにおいて初登場1位を獲得、登場回数は18回となり売り上げ枚数は109.8万枚とミリオンセラーとなった。リリース後の初回出荷分は即日完売した[42]

    尾崎の死去直後である1992年5月25日付けのオリコンアルバムランキングでは本作が1位を獲得、同日のランキングでは4位が『回帰線』(1985年)、5位が『十七歳の地図』(1983年)、6位が『LAST TEENAGE APPEARANCE』(1987年)、7位が『壊れた扉から』(1985年)、9位が『誕生』(1990年)と過去作が次々にランクインし、ベスト10内の6作を尾崎の作品が占める事となった[43]。また、『街路樹』(1988年)は14位となった[44]

    収録曲

    一覧

    全作詞・作曲: 尾崎豊

    A面
    #タイトル作詞作曲・編曲編曲時間
    1.汚れた絆(BOND)  尾崎豊、西本明
    2.自由への扉(ALL HARMONIES WE MADE)  尾崎豊、西本明
    3.Get it down  尾崎豊、西本明
    4.優しい陽射し(IN YOUR HEART)  尾崎豊、今泉洋
    5.贖罪(ATONEMENT)  尾崎豊、西本明
    6.ふたつの心(TWO HEARTS)  尾崎豊、今泉洋
    合計時間:
    B面
    #タイトル作詞作曲・編曲編曲時間
    7.原色の孤独(PRIMARY)  尾崎豊、今泉洋
    8.太陽の瞳(LAST CHRISTMAS)  尾崎豊、今泉洋
    9.Monday morning  尾崎豊、今泉洋
    10.闇の告白(EXIST IN THE DARK)  尾崎豊、今泉洋
    11.Mama, say good-bye  尾崎豊、西本明
    合計時間:

    曲解説

    1. 汚れた絆」 - BOND
      アルバムと同時発売されたシングル。詳細は「汚れた絆」の項を参照。
    2. 自由への扉」 - ALL HARMONIES WE MADE
    3. Get it down
    4. 優しい陽射し」 - IN YOUR HEART
      「汚れた絆」のカップリング曲
    5. 贖罪」 - ATONEMENT
    6. ふたつの心」 - TWO HEARTS
      後にベストアルバム『愛すべきものすべてに』(1996年)に収録された。トリビュートアルバム『"GREEN" A TRIBUTE TO YUTAKA OZAKI』(2004年)にはEXILEの元メンバー清木場俊介によるカバーが収録されている[45]
    7. 原色の孤独」 - PRIMARY
    8. 太陽の瞳」 - LAST CHRISTMAS
      原題は「僕の知らない僕」。英題にもある通りクリスマスを意識して作られた。尾崎はこの曲が完成すると真っ先に母親の尾崎絹枝に聴かせ、その際絹枝は一言だけ「寂しい歌ね」と呟いたという[46]。その翌日の1991年12月29日に絹枝は死去したため、尾崎が母に聴かせた最後の曲となった[46]
    9. Monday morning
    10. 闇の告白」 - EXIST IN THE DARK
      トリビュートアルバム『"BLUE" A TRIBUTE TO YUTAKA OZAKI』には斉藤和義のアコースティックギターによる弾き語りカバーが収録されている[45]。この曲について斎藤は「普通の人の普通の悩みだと思った」とコメントし共感している。
    11. Mama, say good-bye
      1991年末に亡くなった母に向けて贈った曲。そのため、この曲が尾崎が最後に制作した曲となった。尾崎はこの曲の完成後にファンクラブの会報に母親へのメッセージを残している[注釈 4]

    スタッフ・クレジット

    参加ミュージシャン

    スタッフ

    • 尾崎豊 - プロデューサーディレクター
    • 諸鍛治辰也 - レコーディング・エンジニア、ミックス・ダウン・エンジニア
    • 飯泉俊之 - レコーディング・エンジニア
    • 杉森浩二 - レコーディング・エンジニア
    • 徳永陽一 - アシスタント・エンジニア、ミックス・ダウン・アシスタント・エンジニア
    • 田中邦明 - アシスタント・エンジニア
    • 工藤雅史 - アシスタント・エンジニア
    • 玉井玄太 - アシスタント・エンジニア
    • 原剛 - アシスタント・エンジニア
    • 中村昭子 - アシスタント・エンジニア
    • 笠井満 - マスタリング・エンジニア
    • MUSIC LAND - ミュージシャン・コーディネーター
    • 横尾隆 - ミュージシャン・コーディネーター
    • 二階堂さとる - ミュージシャン・コーディネーター
    • 田島照久(田島デザイン) - アート・ディレクション、デザイン、写真撮影
    • 飯島れいこ - スタイリスト
    • 木島ジュン - ヘアー、メイク・アップ
    • アイソトープ - エグゼクティブ・プロデューサー

    リリース履歴

    No. 日付 レーベル 規格 規格品番 最高順位 備考
    1 1992年5月10日 ソニー・ミュージックレコーズ CD
    CT
    SRCL2394
    SRTL1813
    1位
    2 1992年11月1日 ソニー・ミュージックレコーズ MD SRYL7093 -
    3 2001年9月27日 ソニー・ミュージックレコーズ CD SRCL5166 - 紙ジャケット仕様(限定生産品)
    4 2007年4月25日 ソニー・ミュージックレコーズ CD SRCL6537 80位 CD-BOX71/71』収録
    5 2009年4月22日 ソニー・ミュージックレコーズ ブルースペックCD SRCL20006 - 24ビット・デジタル・リマスタリング(限定生産品)
    6 2013年9月11日 ソニー・ミュージックレコーズ ブルースペックCD2 SRCL-30006 -
    7 2015年11月25日 ソニー・ミュージックレコーズ LP SRJL-1107~8 189位 LP-BOX『RECORDS : YUTAKA OZAKI』収録

    脚注

    注釈

    1. ^ この傷は自殺を図ったものであり、後にコンサートツアー「TOUR 1991 BIRTH ARENA TOUR 約束の日 THE DAY」のパンフレットにもその事が記載されている[3]
    2. ^ 1984年の「アトミック・カフェ・ミュージック・フェスティバル'84」における骨折事故により「FIRST LIVE CONCERT TOUR」が9月から12月開始に延期、1987年の「TREES LINING A STREET」ツアーでは急病のため9月に倒れその後約半分の本数を残したままツアー中止となった事などから、各地のイベンターからは要注意人物とされていた[9]
    3. ^ 1987年に敢行された「TREES LINING A STREET TOUR」においても日本武道館公演は予定されていたが、尾崎本人の急病によりツアーが中断されたため、日本武道館での公演を果たせなかった。
    4. ^ 『お母さん疲れさせてごめんね。お母さん、世界中の全ての疲れた心が癒されるように、歌い続けていくからね』(1992年、「Edge Of Street 3℃」より)

    出典

    1. ^ a b c d 地球音楽ライブラリー 1999, p. 157- 「THE HISTORY OF YUTAKA OZAKI PART 3」より
    2. ^ a b c 地球音楽ライブラリー 1999, p. 158- 「THE HISTORY OF YUTAKA OZAKI PART 3」より
    3. ^ 地球音楽ライブラリー 1999, p. 159- 「THE HISTORY OF YUTAKA OZAKI PART 3」より
    4. ^ a b 尾崎豊の残した言葉 1997, p. 91- 「第2章“VEIN” BUSINESS&MONEY 仕事・カネ」より
    5. ^ a b c 地球音楽ライブラリー 1999, p. 160- 「THE HISTORY OF YUTAKA OZAKI PART 3」より
    6. ^ 文藝別冊 2001, p. 135- 「Special Talks 傘をなくした少年」より
    7. ^ 文藝別冊 2001, p. 136- 「Special Talks 傘をなくした少年」より
    8. ^ 見崎鉄 2018, p. 307- 「第三部 尾崎豊という事件(尾崎論のためのノート)」より
    9. ^ 吉岡忍 2001, p. 241- 「84」より
    10. ^ 地球音楽ライブラリー 1999, p. 161- 「THE HISTORY OF YUTAKA OZAKI PART 3」より
    11. ^ a b c d 地球音楽ライブラリー 1999, p. 163- 「THE HISTORY OF YUTAKA OZAKI PART 3」より
    12. ^ a b 文藝別冊 2001, p. 137- 「Special Talks 傘をなくした少年」より
    13. ^ 文藝別冊 2001, p. 138- 「Special Talks 傘をなくした少年」より
    14. ^ 見崎鉄 2018, p. 308- 「第三部 尾崎豊という事件(尾崎論のためのノート)」より
    15. ^ a b c d e 地球音楽ライブラリー 1999, p. 164- 「THE HISTORY OF YUTAKA OZAKI PART 3」より
    16. ^ 吉岡忍 2001, pp. 310–312- 「106」より
    17. ^ a b c d 文藝別冊 2001, p. 180- 「オリジナルアルバム紹介」より
    18. ^ a b 地球音楽ライブラリー 1999, p. 59- 「YUTAKA OZAKI ALBUM GUIDE」より
    19. ^ 吉岡忍 2001, p. 312- 「106」より
    20. ^ a b 須藤晃 1998, p. 210- 「第四章 尾崎豊 同行」より
    21. ^ 須藤晃 1998, p. 212- 「第四章 尾崎豊 同行」より
    22. ^ 須藤晃 1998, p. 216- 「第四章 尾崎豊 同行」より
    23. ^ 須藤晃 1998, p. 242- 「第四章 尾崎豊 同行」より
    24. ^ 須藤晃 1998, p. 244- 「第四章 尾崎豊 同行」より
    25. ^ 吉岡忍 2001, p. 284- 「98」より
    26. ^ a b 吉岡忍 2001, p. 315- 「108」より
    27. ^ 尾崎豊 1998, p. 76- 「§3 放熱への証」より
    28. ^ a b c d e 文藝別冊 2001, p. 181- 「オリジナルアルバム紹介」より
    29. ^ a b c 別冊宝島 2004, p. 87- 河田拓也「オリジナル・アルバム完全燃焼レビュー」より
    30. ^ a b c 別冊宝島 2017, p. 114- 宝泉薫「Chapter3 尾崎豊主要作品 完全保存版レビュー」より
    31. ^ 尾崎豊 1998, p. 72- 「§3 放熱への証」より
    32. ^ 尾崎豊が生前残した計71曲を収録したボックスセットが、完全限定生産で発売”. TOWER RECORDS ONLINE. タワーレコード (2007年2月13日). 2021年8月29日閲覧。
    33. ^ 尾崎豊の名作群がリマスターBlu-spec CD仕様で再登場!ラスト・ライヴの初DVD化も決定”. CDジャーナル. 音楽出版 (2009年4月2日). 2021年9月4日閲覧。
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    参考文献

    外部リンク