ジャンヌ・ダルク

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ジャンヌ・ダルク
ドミニク・アングルシャルル7世の戴冠
式におけるジャンヌ・ダルク』(1854年)
他言語表記 : Jeanne d'Arc
: Joan of Arc
西: Juana de Arco
: Giovanna d'Arco
生誕 1412年1月6日
フランス王国 ドンレミ
死没 1431年5月30日(満19歳没)
フランス王国 ルーアン
列福日 1909年4月18日
列福場所 フランスの旗 フランス ノートルダム大聖堂 (パリ)
列福決定者 ピウス10世
列聖日 1920年5月16日
列聖場所 バチカンの旗 バチカン サン・ピエトロ大聖堂
列聖決定者 ベネディクトゥス15世
記念日 5月30日
守護対象 フランスの旗 フランス

ジャンヌ・ダルク: Jeanne d'Arc、過去:Jehanne Darc[1]: Joan of Arcジョーン・オブ・アーク)、ユリウス暦 1412年1月6日 - 1431年5月30日)は、「オルレアンの乙女」(: la Pucelle d'Orléans[2]/: The Maid of Orléans[3])とも呼ばれる中世後期フランスの国民的英雄で、カトリック教会における聖人

百年戦争で活躍してオルレアン解放に貢献したが、コンピエーニュで捕虜となり、ルーアン刑死した。

目次

生涯[編集]

現在は博物館として残るジャンヌ・ダルクの生家

生い立ちと時代背景[編集]

ジャンヌ・ダルクは、後の復権裁判でのある証言によると、1412年1月6日にフランスのロレーヌ地方にあるドンレミ(ドムレミーとも。現在のドンレミ=ラ=ピュセル)村の農家に父ジャック・ダルクと母イザベル・ロメとの間に生まれた。ジャンヌにはジャックマン、ピエール、ジャンという3人の兄と、妹が1人いた。村の教会はフランスの守護聖人である聖レミギウスメロヴィング朝初代フランク国王クロヴィス1世カトリックに改宗させたことで知られる)に献じられていた。聖カトリーヌの彫像もあった。

そのころフランス北部(ノルマンディー)は、ブルゴーニュ派と連合したイングランドに占領されていた。フランスには1422年シャルル6世が亡くなって以来、国王が不在だった。

シャルル6世は跡継ぎとして王太子シャルル(後のシャルル7世)を残したが、フランスの王位はイングランドのまだ幼いヘンリー6世に相続された。これは、百年戦争、およびアジャンクールの戦いで生じた血で血を洗う攻防戦を終了しようと、1420年にシャルル6世およびイングランドのヘンリー5世によって署名されたトロワ条約の結果だった。

条約の文言には「ヘンリー(5世)はシャルル6世の娘キャサリンと結婚し、シャルル6世の死に際して王位はヘンリー(5世)および彼らの子に継承され、2つの王国を統合する」とあり、これは実質的に王位継承のラインからシャルル6世の男子を外すことを意味し、多くのフランス貴族によって反対された。とはいえ、ヘンリー6世は幼いため、フランス王としての正式な戴冠式を行えなかった。 実はここに、追い詰められたシャルル7世側の形勢逆転の可能性も存在していたのである。[要出典]

神の啓示と使命[編集]

ジュール・バスティアン=ルパージュフランス語版「声」を聞くジャンヌ・ダルク』(1879年ニューヨークメトロポリタン美術館蔵)
背後の森の中に大天使ミカエル、聖女カトリーヌ、マルグリットが見える
Jules Eugène Lenepveu, 『オルレアン攻囲のジャンヌ・ダルク』(1886 - 1890年)

ジャンヌは1425年、初めて「声」を聞いたとされる。後の処刑裁判での答弁によると、聖女カトリーヌマルグリット、そして大天使ミカエルの声であったという。「声」はジャンヌにヴォークルールの守備隊長ロベール・ド・ボードリクールに会い、オルレアンの包囲を解いてフランスを救うよう告げた。ジャンヌは「声」に従い、1428年5月にボードリクールの元を訪れたが追い返された。

到着直前に伝令使は、ジャンヌの手紙を持って一足先にシノンに入った。その知らせを聞いた王太子シャルルは、ジャンヌと会う際にちょっとした芝居をしたと言われている。側近たちの中に紛れて王太子らしくない服装でジャンヌを呼んだが、ジャンヌはすぐに本物のシャルルを見抜いた。ジャンヌとシャルルは幕僚たちから離れ、2人きりで話をすることになった。そしてジャンヌはシャルルに、「声」から授かったシャルルの王としての正統性を証明する秘密の話をしたと言われている。これは王太子の兆候(シーニュ)に関する話であったと伝えられている。[要出典]ジャンヌは後の処刑裁判でも、この時の秘密の話についての内容を証言することを頑なに拒み続けたため、どのような内容だったのかは不明である。いずれにせよ、王太子であったシャルルはこの話を聞き、ジャンヌを信じることになった。ジャンヌを疑っていた聖職者たちも、ポワティエでの3週間にわたる審理の結果、ジャンヌを認めた。

1429年4月、ジャンヌは「乙女」(: la Pucelle ラ・ピュセル)と呼ばれることになり、ロワール川沿いの都市オルレアンに向けて出発した。当時オルレアンはイングランド軍に包囲されていた。ジャンヌはオルレアンの総司令官であった「オルレアンの私生児」ジャン(後のデュノワ伯)、後に熱心な支持者となるアランソン公、オルレアンの隊長「ラ・イール」、一説には[誰?]シャルル・ペローの『青ひげ』のモデルとも言われるジル・ド・レイたちと共に、イングランド軍と戦った。ジャンヌは勇猛果敢に突撃したが、左肩に矢を受けた。命に別状はない外傷だったが、この時は未だ年若い10代後半の少女であるに過ぎず、不安のあまり泣き出す始末だった。ジャンヌは人を殺したくないという理由から、旗持ちを好んでいたが、仲間の兵隊たちを鼓舞する役目を堂々と果たし、戦闘では進んで危険な突撃を敢行した。無論、ジャンヌの鼓舞により、オルレアンの兵隊たちの士気はいやが上にも上がった。翌月、イングランド軍は撤退しオルレアンは7ヶ月以上にわたる包囲網から解放された。

その後、ジャンヌはロシュ城にいた王太子シャルルの下に馳せ参じ、ランスにてシャルル7世として正式な戴冠式を挙げることを強く主張した。ランスはフランク王国メロヴィング朝の王クロヴィス1世洗礼を受けた町で、歴代のフランス王がこの地で戴冠式を挙げていた。そのため、シャルルの王位継承権の正統性を世に知らしめるためには何としてでもランスで戴冠式を挙げる必要があった。だが、ランスまで行くにはイングランド軍を打ち破らねばならなかった。そのため反対する者もいたが、最終的にはジャンヌの提案が受け入れられ、シャルルはランスへと向かった。途中にあった都市を次々と傘下に入れ、途中に宮廷筆頭侍従のドゥ・ラ・トレムイユと犬猿の仲であったリッシュモン元帥の救援を受け入れ、1429年6月18日のパテーの戦いで勝利を収めた。これによってランスへの道が開け、7月17日にシャルルはノートルダム大聖堂で戴冠式を挙げ、正式なフランス国王シャルル7世となった。これによって、ジャンヌの神託であるオルレアンの解放とランスでの戴冠式の両方が成し遂げられたことになる。

この戴冠式には、本質的には敵対勢力であるはずの、北部フランスのブルゴーニュ派の人々も招かれていた。シャルル7世の顧問官たちは、この時すでに新たなる外交政策の布石を打ち始めていた。あくまでも戦闘と武力によるフランスの解放を主張するアランソン公らジャンヌの属するタカ派勢力は徐々に邪魔者になり始めていたといえる。[要出典]ジャンヌが誰よりも頼りにしようとしたリッシュモン大元帥はランスでの戴冠式にさえ参加できず、これはシャルルの義母ヨランド・ダラゴンらによるラ・トレムイユの排除まで続くことになる。ジャンヌはすでに役目(神託の達成)を終えていたのであるが、シャルル7世としてはカリスマ的な人気を得ていたジャンヌを放り出すわけにもいかず[要出典]、引き続き従軍を命じた。こうして、ジャンヌは複雑な政治情勢や王と顧問官達の思惑の犠牲になった。

捕縛と裁判[編集]

ルーアンのブーヴルイユ城にある通称「ジャンヌ・ダルクの塔」
ポール・ドラローシュ『牢の中でウィンチェスター枢機卿に尋問されるジャンヌ・ダルク』(ルーアン美術館蔵)

その後、ジャンヌは次第に宮廷内で孤立してしまう。首都であるパリを奪還することなくしてシャルル7世の地位は磐石にはならないと考えるジャンヌ、およびアランソン公などのタカ派に対して、国王側近は現状の成果に甘んじてこの方針に反対したため、ジャンヌは孤独な戦いを強いられるようになった。

1430年5月23日、ジャンヌはコンピエーニュの戦いでフィリップ善良公のブルゴーニュ軍に捕えられる。その後、1万リーブルの身代金と引き替えにブルゴーニュ軍からイングランド軍に身柄が引き渡され、同年12月24日ルーアンのブーヴルイユ城に監禁される。

1431年2月21日、ルーアンで異端審問裁判が始まる。名義上の裁判長はジャン・ル・メイトスだが、彼は裁判の正当性に疑問を感じ、予審のほとんどを欠席し、正式な裁判でも沈黙を続けた。実際に裁判を指揮したのはイングランド側の意向を強く受けた代理裁判長ピエール・コーションだった。その他60名を超える聖職者たちが裁判にたずさわったが、イングランドの強引な介入に反発を示す者も少なからずいた。[誰によって?]

審理の大きな争点はジャンヌが聞いたとする声の正体だった。ジャンヌは声の主を天使である聖カトリーヌ(カタリナ)聖マルグリット(マルガリタ)、及び聖ミシェル(ミカエル)だと主張したが、審理の結果それは森の精霊であり、ジャンヌは悪魔崇拝や神の冒涜を犯した異端者であると結論づけられた。また男装も異端の証とされたが、魔女は悪魔との交わりで処女を失うと考えられていたことから裁判に先立って行われる処女検査では処女であることが確認された。

5月24日サン=トゥアン修道院フランス語版の仮設法廷で判決が言い渡され、ジャンヌは火刑に処されるはずだったが、判決読み上げの途中でジャンヌは異端であることを認め、教会の指示に従って改宗することを告げた。この時ジャンヌが署名した誓約書は読み聞かされた内容とラテン語の正式な文面は大きく違っていたと言われる。ジャンヌは改宗に応じて悔悛したため極刑は免れ、永久入牢とされた。

しかし5月28日、女性の服装に戻っていたはずのジャンヌは再び男装に戻る。ジャンヌは教会の牢ではなくイングランド軍の牢に監禁されていたため、看守らの性的脅迫にさらされていたと思われる。[要出典]一度改宗した者が再び異端に戻る「異端再犯」はもはや説得し救済することはできないとして、極刑を免れることはなかった。

火刑[編集]

Hermann Stilke, 『火刑に処されるジャンヌ・ダルク』(1843年)

5月30日、ジャンヌは異端者として教会から破門とイングランド軍による即時死刑を宣告され、ルーアン市内のヴィエ・マルシェ広場で火刑に処された。

火刑は中世ヨーロッパのキリスト教的世界において、処刑される者にとっても最も苛烈な刑罰だった。その残虐な刑罰方法もさることながら、重要なのは死体が灰になってしまうという点にある。当時の埋葬方法は土葬が基本だった。キリスト教カトリックであれば誰もが死後には土葬を望んだのである。その理由というのは、遺体が燃やされて灰になってしまっては最後の審判の際に復活すべき体がなくなってしまうから、という宗教的なものだった。火刑は肉体的・身体的な恐怖感のみならず、精神的・宗教的な絶望感をも与えたのである。近代に入り、欧米でも国によっては火葬は公衆衛生学的な視点から伝染病対策などとして積極的に勧められるようになったが、熱心なキリスト教の信者たちは火葬に対して強い抵抗を感じていた。[要出典]

点火されるまでのジャンヌは「神様、神様」と泣き叫んでいたが、火の勢いが強くなると「全てを委ねます」といって無反応になったと記録されている。[要出典]

イングランド側は彼女が逃げうせたと証言されるのを防ぐため、ジャンヌが息絶えた後に一度石炭を掻きならして火を遠ざけ、炭化した死体を見物人にさらした。その後、遺物の収集を阻止するため、灰になるまで焼却した。ジャンヌの亡骸の灰は、セーヌ川に流された。(Joan_of_Arc#Execution 参照)

このように灰さえも残さず決して土に返さないという遺体の取り扱いにおいても、ジャンヌが受けた取り扱いは当時としては最も苛烈なものだった。[要出典]1449年11月10日、シャルル7世がイングランド軍を打ち破り、ルーアンに入城した。1450年2月15日、シャルル7世の命令でジャンヌの裁判の調査が行われた。調査の結果、ローマ教皇カリストゥス3世は裁判のやり直しを命じ、1455年11月7日、ジャンヌの母イザベル・ロメの訴えによりジャンヌの復権裁判が行われた。かつてジャンヌと共に戦ったデュノワ伯ジャンや、オルレアンの市民たちを含めた115名の証人が呼ばれた。1456年7月7日、ジャンヌが火刑にされた地であるルーアンにて、処刑裁判の破棄が宣告された。

偽ジャンヌ・ダルクと私生児説[編集]

ジャンヌが処刑されてから5年後の1436年5月30日、ジャンヌを名乗る女性がロレーヌ地方のメスに現れた。ジャンヌの兄ピエールとジャンはこの女性をジャンヌと認めたため、近隣の領主たちの歓迎を受けることになった。同年秋、彼女は当時ルクセンブルク公領だったアルロンで、ロレーヌ地方の領主ロベール・デ・ザルモアーズと結婚した。そのため、彼女はジャンヌ・デ・ザルモアーズの名で後世に知られることになった。1439年8月、オルレアンにて町を救った功績として金銭を贈られた。1440年、パリの国王裁判所に出頭させられて説諭を受けたが、制裁を受けることもなく姿を消した。1457年、ジャンヌの名を騙ったことについての赦免状を求めるためにアンジューに現れたという記録が残されている。

ジャンヌは実は王家の私生児であったという説もある。この説によると、ジャンヌはシャルル6世の妃イザボー・ド・バヴィエールとシャルル6世の弟オルレアン公ルイとの間に生まれた、シャルル7世の異父妹とされる。イザボー王妃の息子フィリップは1407年11月10日に死去し、ルイ・オルレアンは同年11月23日に暗殺されているが、このフィリップこそがジャンヌのことであり、男の子が生まれたが死産した、ということにして密かにジャック・ダルクの元に預けられた、というのである。[要出典]ジャンヌ私生児説を主張する者たちの中には、この女性こそ王家の私生児であった本物のジャンヌであり、処刑されたのはジャンヌの身代わりであるというジャンヌ生存説を唱える者もいる[誰?]。だが、研究家たち[誰?]にはこれらの説は否定的に見られている。[要出典]

なお、シャルル7世の「王太子の兆候(シーニュ)」とは、シャルル7世が王妃イザボーの不義の子であるという噂を否定するものであり、ジャンヌこそがイザボーの不義の子だということを示したものであるという説もあるが、この説も研究家たちには否定的に見られている。[誰によって?]

後世の評価[編集]

ジャンヌ・ダルク自筆の署名。
1430年3月28日付ランス住民宛書簡。マレーシー家蔵

ジャンヌ・ダルクは、フランス軍内や直接関わりのあった都市の住人には人気があったものの、フランス全土での知名度はさほど高くなかった。[要出典]ナポレオン・ボナパルトは、フランス人として初めてジャンヌ・ダルクを評価し、フランスの救世主として大々的に紹介した。ただし、これはナポレオン自身の皇帝の地位の正当化のためであった。その後フランスのナショナリズムの高まりと共に、ジャンヌについての史料の編纂・研究が行われ、多くの文学・芸術作品のモチーフとなった。最近ではフランスの右翼政治家ジャン=マリー・ル・ペンなどフランス国民の愛国主義・国民統合のシンボルとして祭りあげる動きもある。

このようにフランス人としての国民意識形成に役割を果たしたジャンヌであったが、その出生地ロレーヌは東西フランク王国の分裂以来伝統的にドイツの政治的・文化的影響が強い土地である。ロレーヌがフランス王領に編入されたのは、1737年にロレーヌ公フランツ・シュテファンフランツの祖先であるロレーヌ公シャルル2世はジャンヌを歴史の表舞台へと出す役割を担っている[要出典])が神聖ローマ帝位を得るのと引き換えに譲渡した時であった。近代になってジャンヌがナショナリズムの象徴として持ち上げられるようになるころには、ロレーヌはアルザス地方とともにドイツとの間で帰属を巡って問題となった(アルザス=ロレーヌ)。ロレーヌが正式にフランスに帰属したのは第二次世界大戦後である。

一方、敗北したイングランド側では、ジャンヌに対して長く「魔女」としてのレッテルを貼り続けていた。王家の腐敗が描かれる一方で愛国的姿勢も見受けられるシェイクスピアの史劇『ヘンリー六世・第一部』(Henry VI, Part 1, 1592年)でのジャンヌの描き方はその典型例である。[要出典]

しかし、近代以後にはシャルル7世との抗争にイングランド勢が勝利した暁には、ヘンリー6世らイングランド王族が豊かなフランス側を本拠とするため、結果的にはイングランドがフランス側に事実上併合される可能性があったため「もしイングランドが百年戦争に勝利してフランスを併合していたら、イングランド=フランスに絶対王政が成立して、今日の自由主義はイギリスに存在しなかったかも知れない。結果的にはジャンヌはイギリスをも救った」という見方も現れるようになったという[要出典]。さらには、ジョージ・バーナード・ショーの戯曲『聖女ジョーン』(ジョーンはジャンヌの英語名)で表されるように、プロテスタント殉教者として評価する者まで出た。

ジャンヌ・ダルクは1909年4月18日ローマ教皇ピウス10世によって列福された。次いで1920年5月16日ベネディクトゥス15世によって列聖され、聖人となった。

ルーブル美術館前に設置されているジャンヌ・ダルクの金張りの騎馬像
1429年5月10日にパリ高等法院書記クレマン・ド・フォーカンベルグが描いた素描(フランス国民議会図書館蔵)

てんかん説[編集]

ジャンヌ・ダルクの神がかり的な言動については、発作を伴わない幻覚症状のみの側頭葉てんかんによるものだとする見解がある。癲癇(てんかん)によるエクスタシー体験はフョードル・ドストエフスキーのものが有名で、ジャンヌは過剰に道徳的・自律的だが、時として攻撃的になるという典型的な癲癇気質であったことがこの説を支持する要素となる[4]。国際癲癇学会(International Epilepsy Congress、IEC)の1991年の論文では、当時の証言や裁判記録を踏まえ、左側頭葉に発作焦点を持つ音楽原性癲癇であると考察されている。

癲癇と宗教・神秘的体験の関連性については、元々側頭葉の一部には「神の回路」が存在していて、その部位が過度に刺激された癲癇患者が神懸かりになるという事例が報告されている[5]

また、癲癇の原因としては教会などが原因となる音楽原性、あるいはなどから感染した結核が原因とみられ、これについては

などが結核の傍証として挙げられる[4]

脚注[編集]

  1. ^ D'Arc という綴りは近世になって変化してできたもので、15世紀当時には姓にアポストロフをつける習慣は無かった。公式の記録などでは Darc, Dars, Day, Darx, Dare, Tarc, Tart, Dart などと書かれる。
  2. ^ アカデミー・フランセーズ国語辞典([[1]])(Dictionnaire de l'Académie française, 仏語)
  3. ^ 新グローバル英和辞典([[2]])
  4. ^ a b 早川智「ジャンヌ・ダルクと神の声」『産科と婦人科』、71巻6号、診断と治療社、P.794-798、2004年
  5. ^ ラマチャンドラン『脳のなかの幽霊』山下篤子訳、角川書店、1999年。

参考文献[編集]

関連項目[編集]

ジャンヌ・ダルクが登場する作品[編集]

小説[編集]

  • マーク・トウェイン『ジャンヌ・ダルクについての個人的回想』"Personal Recollections of Joan of Arc", 1895年

訳書は「マーク・トウェインのジャンヌ・ダルク」(大久保博角川書店1996年

音楽[編集]

漫画[編集]

愛蔵版,2002年 ISBN 4140053860

絵本[編集]

戯曲[編集]

映画[編集]

外部リンク[編集]