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|説 = ローズステークス出走時<br /><small>(1987年10月25日 阪神競馬場)</small>
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'''マックスビューティ'''([[1984年]][[5月3日]] - [[2002年]][[2月27日]])は[[日本]]の[[競走馬]]、[[繁殖牝馬]]。
'''マックスビューティ'''は[[日本]]の[[競走馬]]、[[繁殖牝馬]]。[[1987年]]の[[中央競馬クラシック三冠|中央競馬牝馬クラシック]]において[[桜花賞]]・[[優駿牝馬|優駿牝馬(オークス)]]の[[二冠馬|二冠]]を達成した名牝。同年の最優秀4歳牝馬にも選ばれた。[[主戦騎手]]は[[田原成貴]]が務めた。頑健さとしなやかさを兼ね備えた好馬体、全盛期の圧倒的な強さから「究極の美女」の異名を持つ。


1986年に中央競馬でデビュー。1987年初頭より連勝をはじめ、牝馬[[中央競馬クラシック三冠|クラシック競走]]の[[桜花賞]]、[[優駿牝馬|優駿牝馬(オークス)]]を含む8連勝を遂げる。秋には史上2頭目の牝馬三冠達成が確実視されたが2着と敗れ、三冠を逃した。以後は低迷し、1勝を加えたのみで引退。通算19戦10勝。その馬名から「究極の美女<ref>『優駿』1987年8月号、p.7</ref><ref name="yushun9212" />」とも称された。その後は繁殖牝馬となり、日本と[[アイルランド]]で供用。産駒は全て日本で走り、重賞勝利馬は生まれなかったが、桜花賞、オークス各3着の[[マックスジョリー]]ほか2頭のオープン馬を輩出した。[[日本中央競馬会]]の広報誌『[[優駿]]』が2000年に選定した「20世紀のベストホース100」に名を連ねる<ref>『優駿』2000年11月号、p.26</ref>。
==デビュー前==
当初、母であるフジタカレディの交配相手には[[マルゼンスキー]]を予定していた。しかし、フジタカレディの発情が予定より早く来てしまい、急遽[[ブレイヴェストローマン]]に配合相手が変更された<ref name="yusyun"/>。


== 経歴 ==
生産者の酒井は、生まれた馬の立ち姿から見た期待度を記録する癖があり、ABCの三段階評価方式だったが、マックスビューティにだけは「S」をつけた。後にも先にも、酒井が「S」をつけたのはマックスビューティただ一頭であるとのこと。
=== 生い立ち ===
1984年、[[北海道]][[浦河町]]の[[酒井牧場]]に生まれる。父[[ブレイヴェストローマン]]はアメリカからの輸入馬で、当年、日本における初年度産駒の[[トウカイローマン]]が[[優駿牝馬|優駿牝馬(オークス)]]に優勝することになる。母フジタカレディは競走馬時代4戦0勝という成績だったが、その母系は1900年代に輸入された俗に[[小岩井農場の基礎輸入牝馬|小岩井牝馬]]と呼ばれる1頭・[[タイランツクヰーン]]に遡り、近親には[[ゼンマツ]]、[[フジマドンナ]]といった[[重賞]]勝利馬がいた。当初、フジタカレディの交配相手には[[マルゼンスキー]]が予定されていたが、発情が早く来てしまい、その日予定が埋まっていたマルゼンスキーとの交配を断られた。このため同じ浦河町に繋養されていたブレイヴェストローマンに相手が急遽変更されたものだった<ref name="yushun9212">『優駿』1992年12月号、pp.62-64</ref>。


場主の酒井公平が「なぜブレイヴェストローマンを選んだのか自分でも分からない」と語る偶然の交配であったが、誕生した牝馬は柔らかい筋肉を備え、均整のとれた好馬体をもっていた<ref name="yushun9212" />。酒井は生産した仔馬に対して「A=走りそう、B=普通、C=駄目そう」という三段階の評価を付けていたが、本馬には唯一例外的に「超A」がつけられた<ref>『優駿』1994年3月号、p.57</ref>。誕生の翌週、中央競馬調教師・[[伊藤雄二]]が牧場を訪れ「どこにも欠点のない馬」と高く評価し、その場で購買を打診。フジタカレディの調教師であった[[松山吉三郎]]の了承を得て伊藤が管理することに決まり、彼と親交が深かった[[田所祐]]の所有馬とされた<ref name="yushun9212" />。田所は伊藤に預ける馬に「マックス」という[[冠名]]を用いており、写真を見せられた際に「美しい馬」と感じたことから「マックスビューティ」と命名した<ref name="yushun9212" />。
幼駒の品評会で優秀賞を受賞している<ref name="yusyun"/>。


その後も幼駒の品評会で優秀賞を受賞するなど順調に成長<ref name="yushun9212" />。2歳秋から[[荻伏牧場]]で育成調教を積まれたのち、競走年齢の3歳となった1986年6月より伊藤の管理下に入った<ref name="yushun9212" />。
==戦績==
[[札幌競馬場|札幌]]でデビューする予定だったが、左前蹄球炎のため出走を取り消し<ref name="yusyun">『優駿』(日本中央競馬会)2008年5月号 </ref>、3週間後の[[函館競馬場|函館]]の新馬戦出走圧倒的1番人気応えて勝利た。その後は[[函館2歳ステークス|函館3歳ステークス]]に出走するが、[[ホクトヘリオス]]の4着に敗れた。年末まで休養し、[[ラジオNIKKEI杯2歳ステークス|ラジオたんぱ杯3歳牝馬ステークス]]に出走も2着わった。これまでに騎乗した騎手はスピードを評価する反面、ダッシュの遅さや若さを指摘していた<ref name="yusyun"/>。


=== 戦績 ===
4歳(旧表記)になり、紅梅賞を5馬身差で勝利した。その後バイオレットステークス、[[チューリップ賞]]とオープン特別を2連勝して臨んだ桜花賞では、1番人気に支持された。前2走で田原はマックスビューティが「疲れがたまりやすい馬」と感じていたため、一杯に追わない競走をしていたが、今後の経験のためにと、この競走では後続に差をつけたあとも追い続け8馬身差で勝利した<ref name="yusyun"/>。桜花賞後はオークスに直行せず[[フローラステークス|4歳牝馬特別]]に出走することになった。これはマックスビューティの調教の動きから左回りの競走に不安があった点と、馬体、走法、血統から1600メートルから2000メートルの距離が向くと考え、1600メートルの桜花賞からいきなり2400メートルのオークスでは距離延長が厳しいのではないかという点を考慮した選択だった<ref name="yusyun"/>。この競走では、主戦の田原が春の[[天皇賞]]で[[ニシノライデン]]に乗って失格、[[騎乗停止]]となっていたため、[[柴田政人]]が代打で騎乗していたが勝利し、迎えた優駿牝馬でも[[投票券 (公営競技)|単勝]]1.8倍の1番人気になり、道中コーセイと接触するアクシデントがありながら、人気に応えて牝馬クラシック二冠を達成した。
==== クラシックまで ====
7月13日に[[札幌競馬場|札幌開催]]でデビューする予定だったが、左前脚の蹄球炎のため出走を取り消し<ref name="yusyun">『優駿』(日本中央競馬会)2008年5月号 </ref><ref name="yushun9212" />、8月3の[[函館競馬場|函館開催]]で改めてデビュー。[[柴田政人]]を鞍上に、2着4馬身差をつけ逃げきっての初勝利を挙げ<ref name="yushun9212" />。その後は[[函館2歳ステークス|函館3歳ステークス]]に出走するが、不良馬場もあり[[ホクトヘリオス]]に大きく離されての4着に敗れた<ref name="yushun9212" />その後一時休養し、[[ラジオNIKKEI杯2歳ステークス|ラジオたんぱ杯3歳牝馬ステークス]]に出走。当初は柴田が騎乗を続け予定だったが、柴田側の事情より騎手が[[南井克巳]]に替り<ref name="yushun8704" />、[[ドウカンジョー]]から1馬身差4分の1差の2着となった。これまでに騎乗した騎手はスピードを評価する反面、ダッシュの遅さや若さを指摘していた<ref name="yusyun"/>。一方で伊藤は敗れた2戦について、函館では重馬場という明確な敗因があり、また翌年のクラシックより短い1200メートルの競走であったこと、ラジオたんぱ杯では最後にしっかりと追い込んできていたことから、いずれも悲観していなかったという<ref name="meiba" />。


翌1987年1月、条件戦の紅梅賞ではスタートで出遅れるも最後の直線で先行勢を一気にかわし、2着に2馬身差を付けて2勝目を挙げる。続くバイオレットステークスから[[田原成貴]]が騎乗。田原は前年6月に落馬事故に遭い[[腎臓]]の片方を摘出し、当年1月に復帰後初の重賞勝利を挙げていた。南井が[[服部正利]]厩舎のホウエイソブリンに騎乗するため再び騎手が替わったものだったが、田原をデビュー当初から起用していた伊藤は、その復調を待って騎乗させる機会を窺っていたという側面もあった<ref name="yushun8704">『優駿』1987年4月号、p.69</ref>。この競走は3番手追走から2着に5馬身差をつけて勝利。クラシック初戦・桜花賞への前哨戦とした[[チューリップ賞]]では、田原が全く追う動作を見せないまま<ref>『優駿』1987年4月号、p.12</ref>2馬身差で勝利した。
秋は[[神戸新聞杯]]、[[ローズステークス]]をいずれも勝利して8連勝となり、前年の[[メジロラモーヌ]]に続く2年連続の牝馬[[三冠 (競馬)|三冠]]を目指して[[エリザベス女王杯]]に出走した。単勝1.2倍の1番人気に支持され、正攻法の競馬を進めていたが、最後の直線でずっとマークされ続けた優駿牝馬3着の[[タレンティドガール]]に差され2着に敗れた。


==== 春二冠 ====
エリザベス女王杯の敗戦以降、マックスビューティは勝ち星に見放されてしまった。5歳秋にオープン特別であるオパールステークス([[武豊]]鞍上)で1年ぶりの勝利をあげるも、次走の[[スワンステークス]]で9着に敗れ、これを最後に引退した。
4月12日の桜花賞は、前年の[[JRA賞最優秀2歳牝馬|最優秀3歳牝馬]]で前哨戦・[[フィリーズレビュー|報知杯4歳牝馬特別]]を制してきた[[コーセイ]]と人気を分け合い、マックスビューティが単勝オッズ3.1倍の1番人気、コーセイが3.6倍の2番人気となった。マックスビューティは好スタートから道中では先行勢の直後につけた<ref name="yushun9212" />。最後の直線半ばで先頭に立ったあとは後続を離す一方となり、2着コーセイに8馬身差をつけての優勝を果たした<ref name="yushun92122">『優駿』1992年12月号、pp.65-67</ref>。走破タイム1分35秒1は、1975年の優勝馬[[テスコガビー]]のレースレコードに0秒2差の史上2番目の記録であった<ref name="yushun8706">『優駿』1987年6月号、pp.136-137</ref>。8馬身差という着差もテスコガビーに次ぐ2位の記録であったが、田原はマックスビューティについて「疲れがたまりやすい馬」であると感じていたため、一杯に追わない競走を続けていたものの、今後の経験のためにと本競走では後続に差をつけたあとも追い続けたのだという<ref name="yusyun"/>。他方、伊藤は戦前に他馬の陣営が「マックスの5馬身後ろにいたら差しきれる」と話していたのを見て「ちぎってやろう」と思い立ち、田原に「今日は追ってみてくれ」と指示していたと述べている<ref name="yushun8706" />。


この時点で、前年に史上初の牝馬三冠を達成した[[メジロラモーヌ]]以上、テスコガビーに匹敵する牝馬ではないかとの評も生まれていった<ref name="yushun87071">『優駿』1987年7月号、p.144</ref>。
また、[[大阪杯]]を最後に田原は降板させられている。これを不服とした田原は引退まで伊藤雄二厩舎の競走馬にはどんな有力馬であろうと騎乗しなくなった<ref>ただしオーナーの田所とは関係が悪くなったわけではなく、後にマヤノペトリュースや[[マヤノトップガン]]の主戦騎手を務めている。また田原本人の談によるとこの後も引退までに何回か伊藤雄二からの騎乗依頼はあったとのことである。</ref>。

次走には牝馬クラシック二冠目である優駿牝馬(オークス)の前哨戦・[[フローラステークス|サンケイスポーツ賞4歳牝馬特別]]に出走。これはマックスビューティの調教の動きから左回りの競走に不安があった点と、馬体、走法、血統からみて、1600メートルから2000メートルの距離が向くと考え、1600メートルの桜花賞からいきなり2400メートルのオークスでは距離延長が厳しいのではないかという点を考慮した選択だった<ref name="yusyun"/>。この競走では、田原が春の[[天皇賞]]で[[ニシノライデン]]に乗り失格、[[騎乗停止]]となっていたため、3歳時の函館以来で[[柴田政人]]が騎乗。道中3~4番手から最後の直線で楽に抜け出し、2着に1馬身半差で勝利を挙げた<ref name="yushun92122" />。柴田は「3歳時に比べると腰がぐんと強くなったという印象を持ちました。レース経験を積んでいけばこうなるんじゃないかと思っていましたけど、予想以上に良くなっていましたね」と感想を述べた<ref name="yushun87071" />。

5月24日に迎えたオークスでは、2400メートルの距離、重馬場というふたつの不安要素<ref name="yushun8707">『優駿』1987年7月号、pp.134-135</ref>が重なりながらも、オッズ1.8倍の1番人気となった。スタートが切られると、速いペースとなった前半は後方に控える形で進んだ。1000メートル通過後にペースが緩んだ際、コーセイと接触してマックスビューティが先へ行きたがったため、田原はそれに任せて一気に先団へ進出。最終コーナーで再びペースを緩めてからスパートを掛けると、逃げ粘るクリロータリーを残り100メートルで捕らえ、同馬に2馬身差をつけて勝利した<ref name="yushun8707" />。桜花賞、オークスの二冠は史上8頭目の記録となった<ref>『優駿』1987年7月号、p.129</ref>。伊藤は田原の騎乗について「二段構えの仕掛けはさすがだ。百点満点の騎乗」と称え、また田原は「ほかの馬とはエンジンが違う。ほかが1500ccならマックスは3000ccの[[排気量]]だ」と語った<ref name="yushun8707" />。史上2頭目の「牝馬三冠」への展望を問われると、伊藤は「二つ取って三つ取れなければ笑われてしまう」と述べ、田原は「目標というより使命でしょう」と断言した<ref name="yushun8707" />。

夏の休養を経て、秋は[[神戸新聞杯]]から始動。ニホンピロマーチ、[[ゴールドシチー]]、チョウカイデュールと[[東京優駿|東京優駿(日本ダービー)]]の3~5着馬と顔を合わせたが、これらを難なく退け楽勝した<ref>『優駿』1987年11月号、p.146</ref>。続いて出走したエリザベス女王杯への[[トライアル競走]]・[[ローズステークス]]では、2着に半馬身まで迫られながらも、田原がほとんど追うことなく勝利した<ref>『優駿』1987年11月号</ref>。

==== 牝馬三冠ならず - 引退まで ====
牝馬三冠最終戦・エリザベス女王杯(11月15日)は、前年のメジロラモーヌに続く牝馬三冠達成が確実視され、単勝オッズ1.2倍の1番人気、単勝支持率では同馬の58.3パーセントを上回る61.5パーセントを記録した<ref name="yushun93122">『優駿』1993年12月号、pp.65-67</ref>。スタートが切られると道中は中団を進んだが、第3コーナーから田原との折り合いを欠いて先へ行きたがり、やむなく田原は残り600メートルからスパートを掛け、直線入口で先頭に立った<ref name="yushun93122" />。そのまま後続を突き放したが、中団から差し込んできた[[タレンティドガール]]に残り100メートルでかわされ、同馬から2馬身差の2着に終わり、三冠を逃した<ref>『優駿』1987年12月号、p.12</ref>。田原は「直線では自分の馬も伸びている。でも2400メートルであんな脚を使われるとは」と敗戦の弁を述べた<ref name="yushun93122" />。田原は後年「夏を越してから、レースに行って掛かる<ref group="注">掛かる=抑えようとする騎手の手綱に反し、ペース配分ができないこと。</ref>ようになっていたのが響いての負け」であったと述べている<ref name="tabara">田原(1998)pp.132-133</ref>。

三冠はならなかったものの、年末のグランプリ競走・[[有馬記念]]のファン投票では13万6665票を集め、同期牡馬のクラシック二冠馬[[サクラスターオー]]に次ぐ第2位選出で出走<ref>『優駿』1988年2月号、p.137</ref>。当日は4番人気の支持を受けたが、同期馬[[メリーナイス]]の落馬、サクラスターオーの故障とアクシデントが相次いだなかで見せ場なく、10着と大敗してシーズンを終えた。

5歳となった1988年以降は勝利から遠ざかり、8着と敗れた4月の大阪杯のあとには、競走内容について田原と伊藤が対立し、田原が降板<ref name="tabara" />。これ以降、田原は引退まで伊藤厩舎の馬に騎乗することはなかった<ref name="tabara" />。以後も連敗を続けたが、10月のオープン特別競走・オパールステークスで約1年ぶりの通算10勝目を挙げた。その次走・[[スワンステークス]]で7着となったのを最後に引退。12月5日に[[阪神競馬場]]で引退式が行われた<ref name="yushun93122" />。

伊藤によればマックスビューティはエリザベス女王杯の後から闘志が失われていったといい、「走る牝馬がこうなったらもう終わりを意味するのだが、この馬になんとか二桁を勝たせてやりたいと思い、もう1年置くことになった。9勝と10勝では肩書が全然違ってくるからなのだが、これも人間の欲望ということなのだろう。馬には可哀想なことをしたと思う」と述懐している<ref name="meiba">『忘れられない名馬100』pp.198-199</ref>。

=== 繁殖牝馬として ===
故郷・酒井牧場で繁殖牝馬となったマックスビューティは、1990年に初年度産駒として父[[リアルシャダイ]]の牝馬を出産。[[マックスジョリー]]と命名された同馬は1993年の桜花賞、オークスでそれぞれ3着と活躍した。同年12月、酒井公平はかねて計画のあったマックスビューティの渡欧を実行に移す。日本の在来血統馬が欧米の牝馬に劣らないことを示したい、また牧場の長期的見地から、欧米の最高級種牡馬の血を持つ牝馬を残しておきたいという考えによるものであった<ref name="yushun0206">『優駿』2002年6月号、pp.99-104</ref>。

1994年には[[カーリアン]]、1995年には前年不受胎だった[[サドラーズウェルズ]]との交配に成功したが、いずれも誕生したのは牡馬であった。マックスビューティはさらにアメリカへ移される計画があったが、このころ日本では[[サンデーサイレンス]]、[[トニービン]]、[[ブライアンズタイム]]という欧米からの輸入種牡馬3頭の産駒が高いレベルで競馬界を席巻しており、もはやアメリカに移す意味がなくなったとして予定を変更し日本に戻された<ref name="yushun0206" />。

帰国後のマックスビューティは受胎率が低下し、1996年度はサンデーサイレンスと交配され不受胎、1998年には同馬との間に牡馬(プラチナサンデー)を産んだが、その後は2年連続で不受胎となり、2001年に[[コマンダーインチーフ]]との牡馬を出産したのち[[蹄葉炎]]を発症する<ref name="yushun0206" />。獣医学部出身の酒井は予後が悪いことを予見しつつ、一縷の望みを託して国内最高の設備とスタッフをもつ社台ホースクリニックにマックスビューティを預託したが、そこでも病状の進行は止められず、2002年2月27日に安楽死の措置が取られた<ref name="yushun0206" />。18歳没。マックスジョリー以外には、第3仔マックスウィンザー(父[[ノーザンテースト]])が5勝、1994年に史上6番目の高額(当時)となる1億100万円で取引された<ref>『優駿』1994年9月号、p.76</ref>第4仔チョウカイライジン(父[[ダンシングブレーヴ]])が8勝を挙げ、いずれも重賞勝利はなかったが、中央競馬のオープンクラスまで昇った。

酒井牧場に残った唯一の後継牝馬・マックスジョリーは初産駒出産の際に子宮大動脈破裂で死亡<ref name="yushun0206" />。遺された父[[デインヒル]]の牝駒・ビューティソングは大事をとって競走馬としては使われず<ref name="yushun0206" />、同馬が第8仔として産んだココロノアイがマックスビューティの子孫から初の重賞勝利馬となっている。


== 競走成績 ==
== 競走成績 ==
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|6
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|芝1200m(良)
|芝1200m(良)
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96行目: 123行目:
|函館
|函館
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|[[阪神競馬場|阪神]]
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|[[ラジオNIKKEI杯2歳ステークス|ラジオたんぱ杯3歳牝馬S]]
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|芝1600m(良)
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|[[東京競馬場|東京]]
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|芝2000m(良)
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|芝1200m(良)
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==引退後==
[[繁殖牝馬]]としては、初年度産駒から桜花賞・優駿牝馬でともに3着に入ったマックスジョリーを送り出し、一時はイギリスに渡って繁殖生活を送り、[[カーリアン]]や[[サドラーズウェルズ]]といった世界的種牡馬と交配され、大変期待されていたが、ついに重賞勝ち馬を送り出すことのないまま[[蹄葉炎]]により4か月の治療の後、安楽死の処置がとられ[[2002年]][[2月27日]]に死亡した。また、生涯で牝馬は[[マックスジョリー]]しか生まなかった上に、マックスジョリーも初仔の牝馬(ビューティソング:父[[デインヒル]])を出産してすぐに死亡したため、[[ファミリーライン|牝系]]の存続が危ぶまれている。

なお、ビューティソングは競走馬登録されないまま繁殖入りし、[[2014年]]現在デビューしていない馬を含め5頭の牝駒を産んでいる。そのうちクリムゾンフレア(中央未勝利、父[[サンデーサイレンス]])ら3頭が繁殖牝馬となっている。また2014年の[[アルテミスステークス]]を産駒の[[ココロノアイ]](父[[ステイゴールド]])が制し、牝系初の中央重賞制覇を遂げている。


== 繁殖成績 ==
== 繁殖成績 ==
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!生年||馬名||性||nowrap|毛色||父||厩舎||馬主||戦績・用途
!生年||馬名||性||nowrap|毛色||父||厩舎||馬主||戦績・用途
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|1990||マックスジョリー||牝||nowrap|鹿毛||[[リアルシャダイ]]||nowrap|栗東・伊藤雄二||rowspan="3"|田所祐||6戦2勝<br />優駿牝馬-GI 3着、桜花賞-GI 3着、アネモネステークス2着<br />[[繁殖牝馬]](1997年死亡)
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父ブレイヴェストローマンはダートでの活躍馬も数多く輩出するパワー型の種牡馬としても知られていたが、田原成貴はマックスビューティの優れた瞬発力について祖母の父パーソロンからの影響を指摘している<ref name="yushun8706" />。既述の通り母系の日本における祖はタイランツクヰーンであるが、この血統は10戦無敗のまま死亡し「幻の馬」と称された[[トキノミノル]]を生んだ血統として知られる。マックスビューティはその姉・イヅタダの6代孫である<ref>『書斎の競馬(6)』p.111</ref>。
* 半弟のランフォーエバー(父[[トウショウボーイ]])は種牡馬。

* 牝系は[[トキノミノル]]・[[グリーングラス]]らを輩出し、現在まで発展を続けているタイランツクヰーンの一族。
'''主な近親'''※直系子孫は省く。
* 曾祖母オートトツプの仔にフジマドンナ([[カブトヤマ記念]]・[[福島記念]]・[[中日新聞杯]])、4代母フジリユウの仔にゼンマツ([[アルゼンチン共和国杯|アルゼンチンジョッキークラブカップ]]、種牡馬)がいる。
*大叔母(祖母の妹):[[フジマドンナ]]([[中日新聞杯]]、[[カブトヤマ記念]]、[[福島記念]])
* [[青葉賞]]2着のマイネルアラバンサは姪の仔。
*曾祖叔父(曾祖母の弟):[[ゼンマツ]]([[アルゼンチン共和国杯]])


== 脚注 ==
== 脚注 ==
=== 注釈 ===
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=== 出典 ===
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== 参考文献 ==
*『忘れられない名馬100 - 関係者の証言で綴る、ターフを去った100頭の名馬』(学研、1997年)ISBN 978-4056013924
*田原成貴『いつも土壇場だった覚悟』(講談社、1998年)ISBN 978-4063300581
*『[[優駿]]』(日本中央競馬会)各号


== 外部リンク ==
== 外部リンク ==

2015年4月12日 (日) 02:42時点における版

マックスビューティ
ファイル:Max beauty.jpg
ローズステークス出走時
(1987年10月25日 阪神競馬場)
欧字表記 Max Beauty
品種 サラブレッド
性別
毛色 鹿毛
生誕 1984年5月3日
死没 2002年2月27日(18歳没)
ブレイヴェストローマン
フジタカレディ
母の父 バーバー
生国 日本の旗 日本北海道浦河町
生産者 酒井牧場
馬主 田所祐
調教師 伊藤雄二栗東
厩務員 大當清治
競走成績
生涯成績 19戦10勝
獲得賞金 3億4150万4300円
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マックスビューティ1984年5月3日 - 2002年2月27日)は日本競走馬繁殖牝馬

1986年に中央競馬でデビュー。1987年初頭より連勝をはじめ、牝馬クラシック競走桜花賞優駿牝馬(オークス)を含む8連勝を遂げる。秋には史上2頭目の牝馬三冠達成が確実視されたが2着と敗れ、三冠を逃した。以後は低迷し、1勝を加えたのみで引退。通算19戦10勝。その馬名から「究極の美女[1][2]」とも称された。その後は繁殖牝馬となり、日本とアイルランドで供用。産駒は全て日本で走り、重賞勝利馬は生まれなかったが、桜花賞、オークス各3着のマックスジョリーほか2頭のオープン馬を輩出した。日本中央競馬会の広報誌『優駿』が2000年に選定した「20世紀のベストホース100」に名を連ねる[3]

経歴

生い立ち

1984年、北海道浦河町酒井牧場に生まれる。父ブレイヴェストローマンはアメリカからの輸入馬で、当年、日本における初年度産駒のトウカイローマン優駿牝馬(オークス)に優勝することになる。母フジタカレディは競走馬時代4戦0勝という成績だったが、その母系は1900年代に輸入された俗に小岩井牝馬と呼ばれる1頭・タイランツクヰーンに遡り、近親にはゼンマツフジマドンナといった重賞勝利馬がいた。当初、フジタカレディの交配相手にはマルゼンスキーが予定されていたが、発情が早く来てしまい、その日予定が埋まっていたマルゼンスキーとの交配を断られた。このため同じ浦河町に繋養されていたブレイヴェストローマンに相手が急遽変更されたものだった[2]

場主の酒井公平が「なぜブレイヴェストローマンを選んだのか自分でも分からない」と語る偶然の交配であったが、誕生した牝馬は柔らかい筋肉を備え、均整のとれた好馬体をもっていた[2]。酒井は生産した仔馬に対して「A=走りそう、B=普通、C=駄目そう」という三段階の評価を付けていたが、本馬には唯一例外的に「超A」がつけられた[4]。誕生の翌週、中央競馬調教師・伊藤雄二が牧場を訪れ「どこにも欠点のない馬」と高く評価し、その場で購買を打診。フジタカレディの調教師であった松山吉三郎の了承を得て伊藤が管理することに決まり、彼と親交が深かった田所祐の所有馬とされた[2]。田所は伊藤に預ける馬に「マックス」という冠名を用いており、写真を見せられた際に「美しい馬」と感じたことから「マックスビューティ」と命名した[2]

その後も幼駒の品評会で優秀賞を受賞するなど順調に成長[2]。2歳秋から荻伏牧場で育成調教を積まれたのち、競走年齢の3歳となった1986年6月より伊藤の管理下に入った[2]

戦績

クラシックまで

7月13日に札幌開催でデビューする予定だったが、左前脚の蹄球炎のため出走を取り消し[5][2]、8月3日の函館開催で改めてデビュー。柴田政人を鞍上に、2着に4馬身差をつけて逃げきっての初勝利を挙げた[2]。その後は函館3歳ステークスに出走するが、不良馬場もありホクトヘリオスに大きく離されての4着に敗れた[2]。その後一時休養し、ラジオたんぱ杯3歳牝馬ステークスに出走。当初は柴田が騎乗を続ける予定だったが、柴田側の事情により騎手が南井克巳に替わり[6]ドウカンジョーから1馬身差4分の1差の2着となった。これまでに騎乗した騎手はスピードを評価する反面、ダッシュの遅さや若さを指摘していた[5]。一方で伊藤は敗れた2戦について、函館では重馬場という明確な敗因があり、また翌年のクラシックより短い1200メートルの競走であったこと、ラジオたんぱ杯では最後にしっかりと追い込んできていたことから、いずれも悲観していなかったという[7]

翌1987年1月、条件戦の紅梅賞ではスタートで出遅れるも最後の直線で先行勢を一気にかわし、2着に2馬身差を付けて2勝目を挙げる。続くバイオレットステークスから田原成貴が騎乗。田原は前年6月に落馬事故に遭い腎臓の片方を摘出し、当年1月に復帰後初の重賞勝利を挙げていた。南井が服部正利厩舎のホウエイソブリンに騎乗するため再び騎手が替わったものだったが、田原をデビュー当初から起用していた伊藤は、その復調を待って騎乗させる機会を窺っていたという側面もあった[6]。この競走は3番手追走から2着に5馬身差をつけて勝利。クラシック初戦・桜花賞への前哨戦としたチューリップ賞では、田原が全く追う動作を見せないまま[8]2馬身差で勝利した。

春二冠

4月12日の桜花賞は、前年の最優秀3歳牝馬で前哨戦・報知杯4歳牝馬特別を制してきたコーセイと人気を分け合い、マックスビューティが単勝オッズ3.1倍の1番人気、コーセイが3.6倍の2番人気となった。マックスビューティは好スタートから道中では先行勢の直後につけた[2]。最後の直線半ばで先頭に立ったあとは後続を離す一方となり、2着コーセイに8馬身差をつけての優勝を果たした[9]。走破タイム1分35秒1は、1975年の優勝馬テスコガビーのレースレコードに0秒2差の史上2番目の記録であった[10]。8馬身差という着差もテスコガビーに次ぐ2位の記録であったが、田原はマックスビューティについて「疲れがたまりやすい馬」であると感じていたため、一杯に追わない競走を続けていたものの、今後の経験のためにと本競走では後続に差をつけたあとも追い続けたのだという[5]。他方、伊藤は戦前に他馬の陣営が「マックスの5馬身後ろにいたら差しきれる」と話していたのを見て「ちぎってやろう」と思い立ち、田原に「今日は追ってみてくれ」と指示していたと述べている[10]

この時点で、前年に史上初の牝馬三冠を達成したメジロラモーヌ以上、テスコガビーに匹敵する牝馬ではないかとの評も生まれていった[11]

次走には牝馬クラシック二冠目である優駿牝馬(オークス)の前哨戦・サンケイスポーツ賞4歳牝馬特別に出走。これはマックスビューティの調教の動きから左回りの競走に不安があった点と、馬体、走法、血統からみて、1600メートルから2000メートルの距離が向くと考え、1600メートルの桜花賞からいきなり2400メートルのオークスでは距離延長が厳しいのではないかという点を考慮した選択だった[5]。この競走では、田原が春の天皇賞ニシノライデンに乗り失格、騎乗停止となっていたため、3歳時の函館以来で柴田政人が騎乗。道中3~4番手から最後の直線で楽に抜け出し、2着に1馬身半差で勝利を挙げた[9]。柴田は「3歳時に比べると腰がぐんと強くなったという印象を持ちました。レース経験を積んでいけばこうなるんじゃないかと思っていましたけど、予想以上に良くなっていましたね」と感想を述べた[11]

5月24日に迎えたオークスでは、2400メートルの距離、重馬場というふたつの不安要素[12]が重なりながらも、オッズ1.8倍の1番人気となった。スタートが切られると、速いペースとなった前半は後方に控える形で進んだ。1000メートル通過後にペースが緩んだ際、コーセイと接触してマックスビューティが先へ行きたがったため、田原はそれに任せて一気に先団へ進出。最終コーナーで再びペースを緩めてからスパートを掛けると、逃げ粘るクリロータリーを残り100メートルで捕らえ、同馬に2馬身差をつけて勝利した[12]。桜花賞、オークスの二冠は史上8頭目の記録となった[13]。伊藤は田原の騎乗について「二段構えの仕掛けはさすがだ。百点満点の騎乗」と称え、また田原は「ほかの馬とはエンジンが違う。ほかが1500ccならマックスは3000ccの排気量だ」と語った[12]。史上2頭目の「牝馬三冠」への展望を問われると、伊藤は「二つ取って三つ取れなければ笑われてしまう」と述べ、田原は「目標というより使命でしょう」と断言した[12]

夏の休養を経て、秋は神戸新聞杯から始動。ニホンピロマーチ、ゴールドシチー、チョウカイデュールと東京優駿(日本ダービー)の3~5着馬と顔を合わせたが、これらを難なく退け楽勝した[14]。続いて出走したエリザベス女王杯へのトライアル競走ローズステークスでは、2着に半馬身まで迫られながらも、田原がほとんど追うことなく勝利した[15]

牝馬三冠ならず - 引退まで

牝馬三冠最終戦・エリザベス女王杯(11月15日)は、前年のメジロラモーヌに続く牝馬三冠達成が確実視され、単勝オッズ1.2倍の1番人気、単勝支持率では同馬の58.3パーセントを上回る61.5パーセントを記録した[16]。スタートが切られると道中は中団を進んだが、第3コーナーから田原との折り合いを欠いて先へ行きたがり、やむなく田原は残り600メートルからスパートを掛け、直線入口で先頭に立った[16]。そのまま後続を突き放したが、中団から差し込んできたタレンティドガールに残り100メートルでかわされ、同馬から2馬身差の2着に終わり、三冠を逃した[17]。田原は「直線では自分の馬も伸びている。でも2400メートルであんな脚を使われるとは」と敗戦の弁を述べた[16]。田原は後年「夏を越してから、レースに行って掛かる[注 1]ようになっていたのが響いての負け」であったと述べている[18]

三冠はならなかったものの、年末のグランプリ競走・有馬記念のファン投票では13万6665票を集め、同期牡馬のクラシック二冠馬サクラスターオーに次ぐ第2位選出で出走[19]。当日は4番人気の支持を受けたが、同期馬メリーナイスの落馬、サクラスターオーの故障とアクシデントが相次いだなかで見せ場なく、10着と大敗してシーズンを終えた。

5歳となった1988年以降は勝利から遠ざかり、8着と敗れた4月の大阪杯のあとには、競走内容について田原と伊藤が対立し、田原が降板[18]。これ以降、田原は引退まで伊藤厩舎の馬に騎乗することはなかった[18]。以後も連敗を続けたが、10月のオープン特別競走・オパールステークスで約1年ぶりの通算10勝目を挙げた。その次走・スワンステークスで7着となったのを最後に引退。12月5日に阪神競馬場で引退式が行われた[16]

伊藤によればマックスビューティはエリザベス女王杯の後から闘志が失われていったといい、「走る牝馬がこうなったらもう終わりを意味するのだが、この馬になんとか二桁を勝たせてやりたいと思い、もう1年置くことになった。9勝と10勝では肩書が全然違ってくるからなのだが、これも人間の欲望ということなのだろう。馬には可哀想なことをしたと思う」と述懐している[7]

繁殖牝馬として

故郷・酒井牧場で繁殖牝馬となったマックスビューティは、1990年に初年度産駒として父リアルシャダイの牝馬を出産。マックスジョリーと命名された同馬は1993年の桜花賞、オークスでそれぞれ3着と活躍した。同年12月、酒井公平はかねて計画のあったマックスビューティの渡欧を実行に移す。日本の在来血統馬が欧米の牝馬に劣らないことを示したい、また牧場の長期的見地から、欧米の最高級種牡馬の血を持つ牝馬を残しておきたいという考えによるものであった[20]

1994年にはカーリアン、1995年には前年不受胎だったサドラーズウェルズとの交配に成功したが、いずれも誕生したのは牡馬であった。マックスビューティはさらにアメリカへ移される計画があったが、このころ日本ではサンデーサイレンストニービンブライアンズタイムという欧米からの輸入種牡馬3頭の産駒が高いレベルで競馬界を席巻しており、もはやアメリカに移す意味がなくなったとして予定を変更し日本に戻された[20]

帰国後のマックスビューティは受胎率が低下し、1996年度はサンデーサイレンスと交配され不受胎、1998年には同馬との間に牡馬(プラチナサンデー)を産んだが、その後は2年連続で不受胎となり、2001年にコマンダーインチーフとの牡馬を出産したのち蹄葉炎を発症する[20]。獣医学部出身の酒井は予後が悪いことを予見しつつ、一縷の望みを託して国内最高の設備とスタッフをもつ社台ホースクリニックにマックスビューティを預託したが、そこでも病状の進行は止められず、2002年2月27日に安楽死の措置が取られた[20]。18歳没。マックスジョリー以外には、第3仔マックスウィンザー(父ノーザンテースト)が5勝、1994年に史上6番目の高額(当時)となる1億100万円で取引された[21]第4仔チョウカイライジン(父ダンシングブレーヴ)が8勝を挙げ、いずれも重賞勝利はなかったが、中央競馬のオープンクラスまで昇った。

酒井牧場に残った唯一の後継牝馬・マックスジョリーは初産駒出産の際に子宮大動脈破裂で死亡[20]。遺された父デインヒルの牝駒・ビューティソングは大事をとって競走馬としては使われず[20]、同馬が第8仔として産んだココロノアイがマックスビューティの子孫から初の重賞勝利馬となっている。

競走成績

年月日 競馬場 レース名 頭数 人気 着順 距離(状態 タイム 3F 着差 騎手 斤量 勝ち馬/(2着馬)
1986. 7. 13 札幌 3歳新馬 6 1000m(不) 出走取消 柴田政人 53 キョウエイミカサ
8. 3 函館 3歳新馬 6 1 1着 芝1200m(良) 1:10.4 (36.4) 4身 柴田政人 53 (サンレオーネ)
9. 21 函館 函館3歳S GIII 10 1 4着 芝1200m(不) 1:15.4 (40.7) 0.9秒 柴田政人 53 ホクトヘリオス
12. 7 阪神 ラジオたんぱ杯3歳牝馬S GIII 12 2 2着 芝1600m(良) 1:35.8 (49.2) 0.3秒 南井克巳 53 ドウカンジョー
1987. 1. 6 京都 紅梅賞 16 1 1着 芝1200m(重) 1:11.4 (46.7) 2身 南井克巳 53 (ナムラマイヒメ)
2. 21 京都 バイオレットS 8 1 1着 芝1400m(稍) 1:23.1 (46.6) 5身 田原成貴 54 (ウオーターパワー)
3. 15 阪神 チューリップ賞 10 1 1着 芝1600m(重) 1:38.2 (49.5) 2身 田原成貴 54 (ヤマトムラサキ)
4. 12 阪神 桜花賞 GI 18 1 1着 芝1600m(良) 1:35.1 (47.2) 8身 田原成貴 54 コーセイ
5. 3 東京 4歳牝馬特別(東) GII 17 1 1着 芝2000m(良) 2:01.6 (48.5) 1 1/2身 柴田政人 54 (クリロータリー)
5. 24 東京 優駿牝馬 GI 24 1 1着 芝2400m(重) 2:30.9 (49.0) 2 1/2身 田原成貴 55 (クリロータリー)
9. 27 阪神 神戸新聞杯 GII 8 1 1着 芝2000m(良) 2:02.4 (46.6) 1 1/4身 田原成貴 54 (ヒデリュウオー)
10. 25 阪神 ローズS GII 14 1 1着 芝2000m(重) 2:04.0 (48.3) 1/2身 田原成貴 55 (ハッピーサンライズ)
11. 15 京都 エリザベス女王杯 GI 20 1 2着 芝2400m(良) 2:29.6 (47.9) 0.3秒 田原成貴 55 タレンティドガール
12. 27 中山 有馬記念 GI 16 4 10着 芝2500m(良) 2:35.0 (36.2) 1.1秒 田原成貴 53 メジロデュレン
1988. 2. 28 阪神 マイラーズC GII 12 1 3着 芝1600m(良) 1:35.0 (48.3) 0.4秒 田原成貴 58 ミスターボーイ
4. 3 阪神 大阪杯 GII 12 1 8着 芝2000m(良) 2:03.0 (49.2) 1.3秒 田原成貴 56 フレッシュボイス
8. 21 函館 函館記念 GIII 14 7 6着 芝2000m(良) 1:59.3 (36.8) 1.5秒 田島良保 57 サッカーボーイ
9. 18 新潟 オールカマー GIII 15 2 7着 芝2200m(良) 2:13.5 (49.8) 1.2秒 岡部幸雄 55 スズパレード
10. 8 京都 オパールS 10 1 1着 芝1200m(良) 1:09.9 (46.1) 1 1/2身 武豊 57 (エイシンハピネス)
10. 30 京都 スワンS GII 16 4 9着 芝1400m(良) 1:24.7 (48.7) 1.7秒 田島良保 57 シンウインド

繁殖成績

生年 馬名 毛色 厩舎 馬主 戦績・用途
1990 マックスジョリー 鹿毛 リアルシャダイ 栗東・伊藤雄二 田所祐 6戦2勝
優駿牝馬-GI 3着、桜花賞-GI 3着、アネモネステークス2着
繁殖牝馬(1997年死亡)
1991 マックスワイザー 鹿毛 ベリファ 栗東・伊藤雄二
0000
旭川・楠克美
中央7戦2勝
地方1戦0勝
乗馬
1992 マックスウィンザー 鹿毛 ノーザンテースト 栗東・伊藤雄二 22戦5勝
種牡馬(実働なし、1998年用途変更)
1993 チョウカイライジン 鹿毛 ダンシングブレーヴ 美浦・中野隆良 新田嘉一 36戦8勝
神無月ステークス、オアシスステークス
種牡馬(2007年用途変更)
1995 アーサーズフェイム 鹿毛 Caerleon ターフ・スポート イギリス産
35戦5勝
種牡馬(実働なし、2007年用途変更)
1996 グッドタイミング 鹿毛 Sadler's Wells 美浦・中野隆良
00000
門別・桑原義光
ターフ・スポート
000
北嶋裕三
持込馬
中央2戦0勝
地方4戦0勝
種牡馬(2007年用途変更)
1998 プラチナサンデー 鹿毛 サンデーサイレンス 美浦・中野隆良 ターフ・スポート 不出走
(死亡)
2001 ネヴァーフォゲット 鹿毛 コマンダーインチーフ 4戦1勝
種牡馬(2008年用途変更)

血統表

マックスビューティ血統(ネヴァーベンド系(ナスルーラ系) / Nasrullah3×4=18.75%) (血統表の出典)

*ブレイヴェストローマン
Bravest Roman
1972 鹿毛
父の父
Never Bend
1960 鹿毛
Nasrullah Nearco
Mumtaz Begum
Lalun Djaddah
Be Faithful
父の母
Roman Song
1955 鹿毛
Roman Sir Gallahad
Buckup
Quiz Song Sun Again
Clever Song

フジタカレディ
1978 芦毛
*バーバー
Berber
1965 鹿毛
Princely Gift Nasrullah
Blue Gem
Desert Girl Straight Deal
Yashmak
母の母
フジタカジヨウ
1969 芦毛
*パーソロン
Partholon
Milesian
Paleo
オートトツプ *ガルカドール
フジリユウF-No.14-f

父ブレイヴェストローマンはダートでの活躍馬も数多く輩出するパワー型の種牡馬としても知られていたが、田原成貴はマックスビューティの優れた瞬発力について祖母の父パーソロンからの影響を指摘している[10]。既述の通り母系の日本における祖はタイランツクヰーンであるが、この血統は10戦無敗のまま死亡し「幻の馬」と称されたトキノミノルを生んだ血統として知られる。マックスビューティはその姉・イヅタダの6代孫である[22]

主な近親※直系子孫は省く。

脚注

注釈

  1. ^ 掛かる=抑えようとする騎手の手綱に反し、ペース配分ができないこと。

出典

  1. ^ 『優駿』1987年8月号、p.7
  2. ^ a b c d e f g h i j k 『優駿』1992年12月号、pp.62-64
  3. ^ 『優駿』2000年11月号、p.26
  4. ^ 『優駿』1994年3月号、p.57
  5. ^ a b c d 『優駿』(日本中央競馬会)2008年5月号
  6. ^ a b 『優駿』1987年4月号、p.69
  7. ^ a b 『忘れられない名馬100』pp.198-199
  8. ^ 『優駿』1987年4月号、p.12
  9. ^ a b 『優駿』1992年12月号、pp.65-67
  10. ^ a b c 『優駿』1987年6月号、pp.136-137
  11. ^ a b 『優駿』1987年7月号、p.144
  12. ^ a b c d 『優駿』1987年7月号、pp.134-135
  13. ^ 『優駿』1987年7月号、p.129
  14. ^ 『優駿』1987年11月号、p.146
  15. ^ 『優駿』1987年11月号
  16. ^ a b c d 『優駿』1993年12月号、pp.65-67
  17. ^ 『優駿』1987年12月号、p.12
  18. ^ a b c 田原(1998)pp.132-133
  19. ^ 『優駿』1988年2月号、p.137
  20. ^ a b c d e f 『優駿』2002年6月号、pp.99-104
  21. ^ 『優駿』1994年9月号、p.76
  22. ^ 『書斎の競馬(6)』p.111

参考文献

  • 『忘れられない名馬100 - 関係者の証言で綴る、ターフを去った100頭の名馬』(学研、1997年)ISBN 978-4056013924
  • 田原成貴『いつも土壇場だった覚悟』(講談社、1998年)ISBN 978-4063300581
  • 優駿』(日本中央競馬会)各号

外部リンク