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感覚的経験の世界が[[欲界]]であり、禅定の実践によって色界の初禅定に到達する{{sfn|ダライ・ラマ14世|2001|p=120}}。

===色界の段階===
===色界の段階===
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# 初禅 - 諸欲・諸不善(すなわち欲界)を離れ、{{linktext|尋}}・{{linktext|伺}}を伴いながらも、離による喜・[[楽 (仏教)|楽]]と共にある状態。『[[中部 (パーリ)|中部]]』が伝えるところによれば、釈迦は、自身がまだ在家の王子であった頃、すでにこの境地を楽しんでいたという<ref>『[[中部 (パーリ)|中部]]』36, 85, 100</ref>{{Sfn|藤本|2005|p=880}}
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# 第三禅 - 喜を捨し、正念・正見を得ながら、楽と共にある状態。
# 第三禅 - 喜を捨し、正念・正見を得ながら、楽と共にある状態。
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===無色界の段階===
===無色界の段階===
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:漢訳で想が非ず非想にも非ずの領域の意味。旧訳では非有想非無想処ともされ、この完成が[[有頂天]]である{{sfn|ダライ・ラマ14世|2001|pp=127-128}}。
:漢訳で想が非ず非想にも非ずの領域の意味。旧訳では非有想非無想処ともされ、この完成が[[有頂天]]である{{sfn|ダライ・ラマ14世|2001|pp=127-128}}。
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==参考文献==
==参考文献==
*{{Cite journal|author=[[藤本晃]]|year=2005|title=パーリ経典に説かれる「九次第定」の成立と構造|url=https://doi.org/10.4259/ibk.53.891|journal=印度學佛教學研究|volume=53|issue=2|pages=891-888|ref={{Sfn|藤本|2005}}|issn=0019-4344}}
*{{Cite book|和書|author=ダライ・ラマ14世テンジン・ギャツォ |authorlink=ダライ・ラマ |translator=[[菅沼晃]]|title=ダライ・ラマ 智慧の眼をひらく|publisher=春秋社|date=2001|isbn=978-4-393-13335-4|ref={{SfnRef|ダライ・ラマ14世|2001}} }}
*{{Cite book|和書|author=ダライ・ラマ14世テンジン・ギャツォ |authorlink=ダライ・ラマ |translator=[[菅沼晃]]|title=ダライ・ラマ 智慧の眼をひらく|publisher=春秋社|date=2001|isbn=978-4-393-13335-4|ref={{SfnRef|ダライ・ラマ14世|2001}} }}
*『[[大般涅槃経]]』
*『[[大般涅槃経]]』
** {{Citebook|和書|title=ブッダ最後の旅―大パリニッバーナ経|date=2019-05-07|year=2019|publisher=[[岩波書店]]|author=|isbn=4003332512|edition=55|translator=[[中村元]]}}
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*『[[中部 (パーリ)|中部]]』


== 関連項目 ==
== 関連項目 ==

2021年12月3日 (金) 11:07時点における版

仏教用語
禅定
パーリ語 jhāna
サンスクリット語 ध्यान dhyāna
チベット語 བསམ་གཏན་ bsam gtan
中国語 禪定
日本語 禅定
英語 concentration of mind
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仏教
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布施
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精進
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布施
持戒
忍辱
精進
禅定
 
同色は両者に存在する項目

禅定(ぜんじょう、: dhyāna, ディヤーナ: jhāna, ジャーナ禅那:ぜんな)とは、仏教で心が動揺することがなくなった一定の状態を指す[1]サンスクリット語dhyāna の音写であると、訳したの複合語で[2]静慮とも訳される[3]

位置づけ

仏教の三学の戒・定・慧と言われるように、仏教においては戒律を守ることと禅定と智慧とは一体になっている。

禅定の実践とは、通常時にひとつの対象に定まっていない心をひとつの対象に完全に集中することで[4]、そうして1つの対象に定まったときや心が対象に集中し乱されないときを三昧(サマーディ)と呼ぶ[4]

禅定と智慧との関係については、止観を参照。

禅定の段階

個々の禅定は、仏教が興る以前の古代インドで知られていたものを仏陀が体系化し[5]、取り入れたものであった[6]。ただし、以下に列挙する「九次第定」(くしだいじょう)のうち、悟りの境地である想受滅こそが、仏陀によってこそ初めて到達し得た境地だったのである[7]上座部研究の仏教学者藤本晃によれば、この「九次第定」の体系は、パーリ仏典の成立以前には確立されていたようである[8]

感覚的経験の世界が欲界であり、禅定の実践によって色界の初禅定に到達する[9]

色界の段階

色界の禅定(Rūpajjhāna, 四禅)は以下の4段階がある。

  1. 初禅 - 諸欲・諸不善(すなわち欲界)を離れ、を伴いながらも、離による喜・と共にある状態。『中部』が伝えるところによれば、釈迦は、自身がまだ在家の王子であった頃、すでにこの境地を楽しんでいたという[10][11]
  2. 第二禅 - が止み、内清浄による喜・楽と共にある状態。
  3. 第三禅 - 喜を捨し、正念・正見を得ながら、楽と共にある状態。
  4. 第四禅 - 楽が止み、一切のが捨てられた不苦不楽の状態。

無色界の段階

無色界の禅定(Arūpajjhāna, Āruppajjhāna)は4段階がある[9]。これが、四無色定(四空定とも)で、さらに想受滅に至ることで「九次第定」(くしだいじょう)となる[12]。まだ物質的な領域にある色界の禅定とは異なり、無色界では色蘊(しきうん)がなく、この段階に至った修行者は触覚、視覚、物質的な構成要素において微細なものからも完全に離れる修行をするといわれている[13]。無色界の定は以下の順に深まる[9]

5. 空無辺処(くうむへんしょ[14]
漢訳で無限の空の領域の意味。
6. 識無辺処(しきむへんしょ)
漢訳で無限のの領域の意味。とらえられるべき対象はないことを修行するといわれている[13]
7. 無所有処(むしょうしょ)
漢訳で有る所が無い領域の意味。微細な対象がいまだあるといわれている[13]
8. 非想非非想処(ひそうひひそうしょ)
漢訳で想が非ず非想にも非ずの領域の意味。旧訳では非有想非無想処ともされ、この完成が有頂天である[13]

大般涅槃経』によれば、ブッダは弟子アーナンダに、禅定の段階について以下のように説いたとされる[15][注釈 1]

アーナンダよ。これらの八つの解脱がある。その八つとは、どれどれであるか?……(中略)……

〈物質的なもの〉という想いを全く超越して、抵抗感[注釈 2]を消滅し、〈別のもの〉という想いを起こさないことによって〈(すべては)無辺なる虚空である〉と観じて、〈空無辺処〉に達して住する。これが第四の解脱である。

〈空無辺処〉を全く超越して、〈(すべては)無辺なる識である〉と観じて、〈識無辺処〉に達して住する。これが第五の解脱である。

〈識無辺処〉を全く超越して、〈何ものも存在しない〉と観じて、〈無所有処〉(=何も無いという境地)に達して住する。これが第五の解脱である。

〈無所有処〉を全く超越して、〈非想非非想処〉(想いがあるのでもなく、想いが無いのでもないという境地)に達して住する。これが第七の境地である。

〈非想非非想処〉を全く超越して、〈想受滅〉(表象も感受も消滅する境地)に達して住する。これが第八の解脱である。

アーナンダよ。これらが八つの解脱である。

日本仏教と禅定

日本仏教の密教や禅宗においても禅定を得るための様々な方法論が派生し、曹洞宗臨済宗における坐禅や、天台宗での法華禅とも呼ばれる止観真言宗の印相を結ぶ陀羅尼真言を唱える身体性を重視している。

脚注

注釈

  1. ^ なお『大般涅槃経』によればブッダは、第一の解脱について説いている。すなわち、第一の解脱は、という想いをいだく者が、外部において形あるものを見ること。第二の解脱は、無色という想いをいだく者が、外部において形あるものを見ること。第三の解脱は、すべてのものが浄らかであると認めていることである。
  2. ^ : paṭhiga sañña「抵抗、対抗、の思い」。中村元は、漢訳仏典においてこの語は「瞋恚想」と訳される、としている。[16]
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出典

  1. ^ 「禅定」 - ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典、2014 Britannica Japan
  2. ^ 総合仏教大辞典編集委員会『総合仏教大辞典 全一巻』法蔵館、2005年、620頁。ISBN 978-4831870704 
  3. ^ 「禅那」 - デジタル大辞泉、小学館。
  4. ^ a b ダライ・ラマ14世 2001, p. 104.
  5. ^ 藤本 2005, pp. 890–889.
  6. ^ 藤本 2005, pp. 890–891.
  7. ^ 藤本 2005, p. 890.
  8. ^ 藤本 2005, p. 888.
  9. ^ a b c ダライ・ラマ14世 2001, p. 120.
  10. ^ 中部』36, 85, 100
  11. ^ 藤本 2005, p. 880.
  12. ^ 中村 334.
  13. ^ a b c d ダライ・ラマ14世 2001, pp. 127–128.
  14. ^ 「空無辺処」 - 精選版 日本国語大辞典、小学館。
  15. ^ 中村 2019, pp. 84–85.
  16. ^ 2019 272.

参考文献

関連項目

  1. ^ 藤本 2005.