メソポタミア

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メソポタミアギリシャ語: Μεσοποταμίαラテン文字転写: Mesopotamia、ギリシャ語で「複数の河の間」)は、ティグリス川ユーフラテス川の間の沖積平野である。現在のイラクの一部にあたる。

古代メソポタミア文明は、メソポタミアに生まれた複数の文明を総称する呼び名で、世界最古の文明であるとされてきた。文明初期の中心となったのは民族系統が不明のシュメール人である。

地域的に、北部がアッシリア、南部がバビロニアで、バビロニアのうち北部バビロニアがアッカド、下流地域の南部バビロニアがシュメールとさらに分けられる。南部の下流域であるシュメールから、上流の北部に向かって文明が広がっていった。土地が非常に肥沃で、数々の勢力の基盤となったが、長年の灌漑によって徐々に土地の塩害が深刻となり、収量は低下していった。

古代メソポタミアは、多くの民族の興亡の歴史である。 例えば、シュメールバビロニア(首都バビロン)、アッシリアアッカド(ムロデ王国の四つの都市のひとつ)、ヒッタイトミタンニエラム、古代ペルシャ人の国々があった。古代メソポタミア文明は、紀元前4世紀アレクサンドロス3世(大王)の遠征によってその終息をむかえヘレニズムの世界の一部となる。

特徴

チグリス・ユーフラテス両河は水源地帯の雪解けにより定期的に増水するため、運河を整備することで豊かな農業収穫が得られた。初期の開拓地や文化から始まり、エジプトなどよりも早く農業が行われた地域として知られている。紀元前3500年前ごろにメソポタミア文明がつくられた。

ジッグラトと呼ばれる階段型ピラミッド(聖塔といわれているが詳細は不明)を中心に、巨大な都市国家を展開した。また、農耕の面でも肥沃な大地・整備された灌漑施設・高度な農耕器具により単位面積当たりの収穫量は現代と比較しても見劣りしなかったという。さらに、旧約聖書との関連も指摘されており、始祖アブラハムはメソポタミアの都市ウルの出自とされている。エデンの園はメソポタミアの都市を、バベルの塔ジッグラトを、ノアの洪水は当地で突発的に起こる洪水を元にした逸話との説がある。

太陰太陽暦を用いたが、太陰太陽暦では1年が約11日短くなることが紀元前3000年紀にはすでに知られていたため、調整のため適宜閏月が挿入されていた[1]。シュメール時代の暦は各都市によって異なっており、新年のはじまりも春分が多かったものの、夏至秋分を起点とする都市も存在した[2]。その後、バビロン第一王朝時代にはバビロニアで暦が統一され、のちに周辺地域にも広まった[3]六十進法もメソポタミアで生まれたものであり、現在の時間の単位に用いられている[4]。一間を日(七曜)にしたのもシュメール時代である[5]。暦と共に占星術天文学の雛形)も発達し、「カルデア人の智恵」と呼ばれた。

言語

文字は象形文字を発展させた楔形文字を創始し、後世の西アジア諸国のさまざまな言語を表すのに利用され、記録媒体は粘土板が用いられた。楔形文字によって書かれたものとしてはハンムラビ法典がよく知られている。

初期メソポタミアでは、南部のシュメール人たちは言語系統不明のシュメール語を、北部のアッカド人たちはセム語族のアッカド語を使用していた。シュメール語はウル第三王朝期までは日常語として使用されていたものの、アッカド語や新たに侵入したアモリ人の言語の中に埋没し、イシン・ラルサ時代には口語としては死語となっていた。ただし法律言語や典礼言語としてはその後もシュメール語は使用され続け、新バビロニア時代まではその使用が確認されている[6]アッカド語はその後も広く使用され、さらにオリエント諸国における外交用語として用いられ、エジプト第18王朝の外交文書(アマルナ文書)に、その言葉で書き記されたものが残っている。各都市には学校が設立され、文書を扱うための書記が養成されたが、識字能力は彼らの特殊技能であり、一般市民のほとんどは文字の読み書きができなかった。これは王侯貴族においても同様であり、稀に識字能力を持った王が現れた場合、その王の記録にはそのことが高らかに謳われることがあった[7]

経済

メソポタミアの土地は肥沃であり、経済の基盤は農業に置かれていた。降水量が少ないため天水農耕は不可能であり、このためメソポタミアへの入植は灌漑技術の獲得後のこととなったが、その豊かな収穫は多くの人口の扶養を可能とし、文明を成立させる基礎となった。灌漑用水の確保のために運河やため池が整備され、家畜による犂耕や条播器による播種が行われた[8]。主穀は大麦で、その反収は高く、紀元前24世紀頃の大麦の収量倍率は約76倍と推定されている[9]。ただし農地に多量の塩分が含まれていたため塩に弱い小麦の栽培はできず、さらに時代を下るにつれて土地の塩化が進行したため大麦の反収も減少していった[10]。大麦は主食となるほか、この地域で大変好まれたビールの原料ともなった[11]。農作物としてはナツメヤシも重要で、食糧・甘味料・酒造原料・救荒作物・保存食など食用としての用途の他[12]樹木の少ないメソポタミアにおいて建材などにも使用された[13]。菜園ではタマネギなどの野菜が栽培されたほか[14]家畜としてはヤギブタなどが飼育され、またも広く食用とされた[15]

メソポタミアには資源が非常に少なく、金属資源や木材石材といった基本的な資源さえ不足していたため、周辺地域との交易によって資源を確保することは不可欠であった。貿易の交易範囲は広大で、エジプト文明インダス文明とも交易を行っている。交通の大動脈はチグリス・ユーフラテスの両河であり[16]、また河口からペルシャ湾を通ってディルムン(現在のバーレーン)などにも交易船を送り込んでいる[17]。シュメールやバビロニアでは食物を始めとする必需品を貯蔵して宮殿や都市の門において分配し、バザールで手工業品の販売を行なった[18]タムカルムと呼ばれる身分型の交易者が存在し、仲買人、代理人、競売人、保管人、銀行家、仲裁人、旅商人、奴隷取締官、徴税吏などを担当した。バビロニアにおいては対外市場は存在しなかったため、キュロス2世は、ギリシア人の市場制度を理解せず、非難した。また、ハンムラビ法典には、損害賠償、負債取り消し、報酬、等価概念についての記述がある。

メソポタミアの歴史

先史時代

北部メソポタミアでは、後期新石器時代に入ると紀元前6000年から紀元前5500年ごろのハッスーナ期、紀元前5600年ごろから紀元前5000年ごろにかけてのサーマッラー期、そして紀元前5500年ごろから紀元前4300年ごろにかけてのハラフ期の、3つの文化が栄えていた[19]

シュメール文明

ウルジッグラトウル第三王朝

天水農業が可能な周辺地域と異なり、乾燥した南部メソポタミアへの人類の定着は遅れ、紀元前5500年頃に始まるウバイド期に入って始めて農耕が開始された[20]。この時期にはエリドゥをはじめとしていくつかの大規模な定住地が誕生し、やがて町となっていった。

バビロニア

ヒッタイト

  • 紀元前1595年頃、現在のトルコにあったヒッタイトにより古バビロニア帝国は滅ばされる。
  • 紀元前14世紀中頃、アッシリアが独立する。アッシリアは、メソポタミアのバビロニアより上流の地方で、バビロニアとは異なった民族で、セム人系の民族である。
  • 紀元前1200年頃、突然ヒッタイト帝国は滅亡。ヒッタイトの滅亡の原因については、「海の民」によって滅ぼされたとする説と、国内の内紛が深刻な食糧難などを招き滅亡に繋がったとする説があるが、記録が乏しいため決定的な原因は明かされていない。

アッシリア

アッシリアの勢力範囲

4帝国時代

  • 紀元前593年、ユダヤ人のユダ王国(南王国)の侵略に対し新バビロニアは反撃する。王族は捕えられてバビロンに送られる。
  • 紀元前586年、ユダ王国が再び反乱を起こしたがバビロニアに鎮圧され、捕囚の身となって新バビロニアのニップール付近に強制移住させられた「バビロン捕囚」(紀元前538年まで)。

ペルシャ

紀元前539年アケメネス朝ペルシアのキュロス2世が新バビロニアを滅ぼし、メソポタミアを含むオリエント全域を領土とする大帝国を築き上げた。アケメネス朝の支配は200年ほど続いたが、紀元前331年マケドニア王国アレクサンドロス3世がバビロンに入城し、ペルシアの支配は終わった。

アレクサンドロスの征服以降

メソポタミア属州

紀元前323年にアレクサンドロス3世が死去すると彼の帝国はほどなくして瓦解し、メソポタミアはディアドコイ国家のひとつであるセレウコス朝によって支配されることとなった。紀元前141年にはペルシア高原から侵攻してきたパルティアがこの地を占領した。116年トラヤヌスが率いるローマ帝国軍は、パルティアを破ってメソポタミアを占領するが、翌年トラヤヌスが死去(117年)すると、後継皇帝ハドリアヌスは翌118年にメソポタミアから撤退し、再びパルティア領となった。しかしその後もローマはしばしばパルティアへと侵攻を続け、メソポタミアは基本的にはパルティアに属しながらもたびたび支配勢力が変化した。パルティアが滅亡し、230年にメソポタミアがサーサーン朝の領土となると、メソポタミア中部に首都クテシフォンを置いて繁栄した。

636年イスラム帝国がクテシフォンに入城し、以後ウマイヤ朝アッバース朝モンゴル帝国イルハン朝オスマン帝国などの諸帝国の支配を受け、1920年にはイギリス委任統治領メソポタミアが成立し、1932年イラクが独立するとその領土となった。

メソポタミアの神々

多神教であったが、時代の支配民族によって、最高神は変わっていった。

メソポタミア神話の神々の系図」も参照。

脚注

注釈

  1. ^ 楔形文字紀元前2500年頃に成立した。

出典

  1. ^ 「文明の誕生」p63-64 小林登志子 中公新書 2015年6月25日発行
  2. ^ 「文明の誕生」p66-67 小林登志子 中公新書 2015年6月25日発行
  3. ^ 「文明の誕生」p71-72 小林登志子 中公新書 2015年6月25日発行
  4. ^ 「宇宙観5000年史 人類は宇宙をどうみてきたか」p8 中村士・岡村定矩 東京大学出版会 2011年12月26日初版
  5. ^ 「文明の誕生」p67 小林登志子 中公新書 2015年6月25日発行
  6. ^ 『シュメル 人類最古の文明』, p. 274-275.
  7. ^ 『シュメル 人類最古の文明』, p. 200-203.
  8. ^ 『シュメル 人類最古の文明』, p. 59-63.
  9. ^ 『シュメル 人類最古の文明』, p. 59.
  10. ^ 『シュメル 人類最古の文明』, p. 59-60.
  11. ^ 『シュメル 人類最古の文明』, p. 56-57.
  12. ^ 『シュメル 人類最古の文明』, p. 64.
  13. ^ 「都市国家の誕生」(世界史リブレット1)p69 前田徹 山川出版社 1996年6月25日1版1刷発行
  14. ^ 「都市国家の誕生」(世界史リブレット1)p68-69 前田徹 山川出版社 1996年6月25日1版1刷発行
  15. ^ 「都市国家の誕生」(世界史リブレット1)p70-72 前田徹 山川出版社 1996年6月25日1版1刷発行
  16. ^ 「文明の誕生」p83-86 小林登志子 中公新書 2015年6月25日発行
  17. ^ 「海を渡った人類の遙かな歴史 古代海洋民の航海」p225 ブライアン・フェイガン著 東郷えりか訳 河出書房新社 2018年2月20日初版発行
  18. ^ 『人間の経済 II』, 第10章.
  19. ^ 『石器時代の人々(上)』, p. 19-20.
  20. ^ 『石器時代の人々(上)』, p. 21.

参考文献

  • 『石器時代の人々(上)』大貫良夫監訳、朝倉書店〈図説 人類の歴史3〉、2004年4月。ISBN 978-4254535433 
  • カール・ポランニー 著、玉野井芳郎栗本慎一郎 訳『人間の経済 I 市場社会の虚構性』岩波書店〈岩波モダンクラシックス〉、2005年7月。ISBN 978-4000271363 
  • カール・ポランニー 著、玉野井芳郎中野忠 訳『人間の経済 II 交易・貨幣および市場の出現』岩波書店〈岩波モダンクラシックス〉、2005年7月。ISBN 978-4000271370 
  • 小林登志子『シュメル 人類最古の文明』中央公論新社中公新書〉、2005年10月。ISBN 978-4121018182 

関連項目

外部リンク